美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

先崎彰容・NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座 ――第二回 「つながり」方のゆくえ――

2014年01月10日 08時47分17秒 | 先崎彰容
NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座
       ――第二回 「つながり」方のゆくえ――
先崎彰容


前回の復習からはじめよう。私はこの場所で、現代は急速に「つながり」を求めている、そう結論づけた。理由はそれ以前にさかのぼる。現在の状況になる以前、私たちは「砂粒化」していた。

私たち一人ひとりは、自分を特別な存在だと思っている。他人に認めてほしいとも、考えている。だが特別な存在が「全員」いるとしたら、「特別」は消滅するではないか――こんな不思議な状況を、私たちは生きているのだ。そこに大災害と経済問題による不安が襲ってきた。すると今度は、私たちは急激に不安に身を寄せ合い「つながろう」としている、これが前回までの復習である。

ではこの「つながり」をどう評価したらいいのだろう。私なりの考えを言えば、次のようになる。まず「つながり」方にはおよそ三つのパターンがある。一つ目が国家。二つ目にデモ、そして最後がツイッターなどのパソコン上のメディアである。

私が第一を重視し、第二第三の「つながり」方に懐疑的なのは次のような理由からだ。まずデモとツイッターには二つの共通した特徴がある。それは集団化している時間が短いこと、そして興味関心が「そのまま」表現されてしまうことだ。より詳しく言いなおすと、ツイッターの特徴は、その場その場での即興的な興味関心をつぶやくことにある。つまり「時間」を置かず、その場の自分の湧き起こる興味を語る即興性にその特徴があるわけだ。だから次の関心に飛び移るまでが異常に「はやい」。

そしてこの特徴、同じ話題を短時間だけ共有することが、デモと同じだということに、気づくべきではないか。

さらに第二の特徴、即興的に、あるいは過激な行動で自分の興味関心を示すその示し方に、私はきわめて否定的なのだ。なぜと言って、その場で感じる自らの「感覚」は、そのままではどう考えても「意見」ではないからだ。一例を挙げよう。もし君が、有名な歌手になりたいと思い、そのための恋愛の歌詞を書いたとしよう。その歌詞がただただ「好きだ、好きだ」と連呼しただけだとして、果たして売れるだろうか?「作品」として成り立っているだろうか。

当たり前のことだ、若者の歌の大半は色恋沙汰か、あるいは自分がどれだけ悲しいかを歌おうとしている。ただそれが売れるか、売れないかはその言葉と音楽のもつ「作品性」、すなわち自分の思いを「工夫」して相手に伝える技術の有無にかかっているのだ。

そう思ってデモと、ツイッターを見てみる。この二つに共通するのは、上記の例でいうところの「作品性」の決定的な欠如だ。自分の思いを相手に伝える際の「工夫」がない。自分のことをダダ漏れで言って、相手は分かってくれると考えているのだ。

この刹那性と、ダダ漏れ性(?)――これほど怖ろしいものがあるだろうか。これほど、自己中心的なものがあるだろうか。自分の感情の好悪をいっぱしの意見(つまり善悪や真偽)であると取り違える醜悪さ。

今回の「ニッポンのジレンマ」において、もし仮に学者の意見に意味があるとすれば、それはこの「作品性」にあるのだ。自分をダダ漏れにしない、という気品と矜持、これが学者なのだ。

こうして考えてみてみると、「国家のカタチ」という抜き差しならない問題を、刹那的に考え、あるいは工夫を凝らさず自分の不平不満を大声で叫ぶことの恐ろしさが、見えてくるというものだろう。

第一の「つながり」方に私が期待を示し、拙著『ナショナリズムの復権』で「時間の積み重なり」の大事さを強調したのも、そういう意味からであった。

国家を考えるには、工夫と技術そして何よりも「時間」がかかるのだ――これが、今、忙しい現代社会を生きる私たちが、あえて古いことを学び、「遅く」行動することの意味なのである。(この項目、終了)

※以上の見解は、個人的なものであり、所属する団体等とは一切関係ありません。
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先崎彰容・NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座 ――第一回 今、私たちの「つながり」方――

2014年01月03日 15時29分33秒 | 先崎彰容
NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座
     ――第一回 今、私たちの「つながり」方――
                          先崎彰容


……反響はすごかった。
今年1日、NHKの若手討論番組「ニッポンのジレンマ」元旦スペシャルに出演した。考えるべきお題は「僕らが描くこの国のカタチ2014」。六時間半にも及ぶ収録を、二時間半に編集して満を持しての元旦放送。
同時刻におこなわれるツイッターでの反響は凄まじく、これまで三冊出している拙著は全てネット上では購入不可能に。新書はまだ書店にあるとして、その他の二冊はなかなか書店でも買えないらしく、問い合わせが複数あったので、まずは以下に、買える場所=出版社を書いておきます。問い合わせてみてください。

番組HP http://dilemmaplus.nhk-book.co.jp/tv_140101

東北大学出版会 http://www.tups.jp/book/book.php?id=215

論創社 http://www.ronso.co.jp/index.html

ちくま新書
http://www.chikumashobo.co.jp/search/result?p=&k=401&s=&t=&a=&g=&isbn=&order=1&v=20&page=2&desc=true

閑話休題。
述べたように、六時間にも及ぶ討論は、三分の一にまで圧縮されている。確かにテレビ収録という緊張も、今思えば、あった。質問も意見も仰山来たし、今どこで何をやっているのか、もっと発信せよとまで言われた。

ツイッターを一貫してやらない私は、勢い、自分の言い残したこと、より分かりやすく説明すべきことを、どこかで言う必要に迫られた。あくまでも、私の本業は「言葉」を残す事、すなわち本を書く事にある。それまでの間、この場をブログ主催者の許可を得て拝借し、番組では言えなかった頃、補足すべきことを数回に分けて、補足していくことにしよう。

あらかじめ言っておくが、私は狭義の意味での「保守主義者」では全くない。いわんや右翼をや。政治的発言はもとより、苦手である。あくまでも知的好奇心をもつ人びとに資する事が、以下の文章の目的となる。

                ※

第一回目の補足。それは「つながり」に関する問題だ。番組でも編集者がうまく解説していたが、私なりに補足してみると次のようになる。

ここ数年の私たちは、一言で言えば「つながり」を求めてやまない状態にある。そうなるまでの軌跡、すなわち「戦後」を総復習することが重要だ。1990年代くらいまで思想界を席巻していたのは、ポストモダン思想であった。この思想事態を詳しく解説する気は、ここではない。ただ一つだけ言えるのは、この時代の雰囲気が、あらゆる事柄を「細分化」することにあったことだけは指摘しておこう。

国家としての目標はもちろん、私たちが共通して抱く趣味や嗜好などがどんどん個別化していくこと、これが「細分化」ということの意味である。共通したルールや目標を唾棄する雰囲気、これがこの時代の流れだった。簡単な例を挙げてみよう。75年生まれの私の時代、中学校受験の塾と言えば集団授業が当たり前、高学歴=将来の保証というイメージが席巻していたのだった。

だがそれは急速に崩れてゆく。時代は急速に、集団授業から「個別指導」の隆盛の時代になるのだ。そこに典型的なのは、はやり「細分化」の意識であった。

これが結果した思想的意味とは、何か。たとえばそれを宇野重規は「砂粒化」と言っている(『民主主義のつくり方』ちくま叢書)。一人一人はバラバラな趣味や嗜好をもっていて、共同しなくなったのだ。

では、なぜこれが問題なのか?個別指導の塾がはやっても構わないではないか。問題は、こうだ。「砂粒化」が進むことを、思想的に見てみる。すると、一人一人を特別視することが「当たり前」という、意味不明な状況が生まれるのだ。本来、特別な人間は特殊な人のことをさす。だが「全員が自分は特別」という「平等」!が生まれるのだ。これほど意味不明なことがあるだろうか。

すると、どうなるか。「砂粒化」したバラバラの個人は、自分を特別な者だと思って、自閉的になってしまう。しかも誰かに自分の自分らしさを保証してほしくて、不安を感じてもいる。孤独で不安な「自分」――こういう人びとが増えてきていることが分かるだろう。

こうした状況がある中で、急激な不況と震災が襲ってくるとどうなるか。

人びとは、今、急速に「つながろう」とし始めるのだ。これまでのバラバラな状況、「細分化」と「砂粒化」は、今度は一気に収縮し、集まり始めるのだ。

現在の具体的な状況を見ればよい。

「つながり」を求めて、思想的な左右など存在しないのだ。昔風の「サヨク」は、デモであれ、デモクラシーの再構築であれ、急激なつながりを求めている。いっぽう「右翼」は、憲法を形成し日本人としてつながることで、危機を打破せよと言っている。どちらにもシラケると、今度はネット上で、ツイッターで「つながろう」というわけだ。

こうして、現在、日本社会は急激に収縮し、身を寄せ合い、人と手を取ろうとしている。それを私は、「全てはつながろうとしている」と言った訳だ。

この帰結についての評価を、次回では説明していこう。

さらに今後は、筆を進めて、「シニカル」について、「宿命」について、「言葉」について、テレビでは言えなかったことを書いていく事にしようと思う。


*先崎氏の当投稿に対するご意見がおありの方は、下記コメント欄にご投稿ください。必ず、先崎氏ご本人に、お伝えいたします。(ブログ主人より)
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先崎彰容氏・「戦後」思想のかんたんな復習 ~網野善彦編~(イザ!ブログ 2013・6・12,16 掲載)

2013年12月16日 07時13分54秒 | 先崎彰容
ブログ編集者より

最近先崎氏は、ちくま新書から『ナショナリズムの復権』を上梓しました。これからの世界史の流れにかかわるものと思われる米中会談がつい先日終わり、心ある人々はなにやら胸騒ぎがしているものと思われます。アメリカは日本を見放すのか、と。その世情を察したのか、当著は、書店で平積みになっています。タイトルひとつとってみても、タイムリーな出版と言えましょう。

******

「ナショナリズム」について考えた本で、網野善彦(1928-2004)を取りあつかうなんて不思議ですね。しかも吉本隆明と絡めるなんて――こんな感想を、さいきん複数の人から受けた。たしかに、そうかもしれない。網野と言えば、誰でも知っている「網野史観」を確立した有名な日本史家だ。いっぽう吉本と言えば、戦後を代表する在野の知識人で一生をつらぬいた人だ。

彼らに共通する問題意識など、あるのだろうか。立場も考えも、さっぱりつながるようには思えない。それをどうして、「国家について考える」ときに使ったの?? というわけである。

なるほど、その通りだ。「直言の宴」の主催者は寛大な人である。こうした時代から少し離れた問題でも、掲載を許してくれるからだ。だとすれば、ここで少し、網野善彦とは誰なのかを説明してみよう。『ナショナリズムの復権』の書き洩らしを、ここで補足しようという魂胆なわけだ。

                 *

網野の専門は、時代で言えば「中世」だった。高校の先生をしていた時に、生徒から「なぜ、鎌倉時代に多くの仏教者が一気に登場してきたんですか?」という質問を受け、網野はがく然とした。こんなに一生懸命、勉強してきたのに、答えられなかったからだ。よく学者のあいだで使う言葉がある、それは「教科書に載るような学問をせよ」というものだ。

学者の言う事は、専門的でむずかしいことばかり…これは、ほんとうは嘘である。学者は教科書に載るような、もっとも骨太で素朴な問題に勇敢に取りくむべきなのだ。

網野はそれができた学者だった。では彼はどのような経緯で、大日本史家になっていたのだろうか。

網野の本を、「中世の専門家の本」だと思って読んでいては、駄目なのである。私は、網野は、1968年の全共闘革命運動後に登場した「戦後の知識人」として評価すべきだと思った。そして、民俗学者の赤坂憲雄氏とおこなったシンポジウムで、そのことをしゃべってみた。赤坂氏は、非常にそれを高く評価してくれたし、東北大の日本史の専門家も、私の説をきわめて妥当だと言ってくれた。だから、次に書くことにおそらく間違いはないだろう。

網野が登場するまで、日本史を席巻していたのは、あの「マルクス主義歴史観」なるものであった。その特徴を一言で言おう。それは徹頭徹尾「土地」に関心を持っているという事である。

だが網野は違った。日本史を生き生きと描くためには、「土地」にしばられてはいけない。「土地」から自由な人たち、つまり漁民とか、商人とか、そういう人の生活を描けなければ駄目なのだ、網野はこう思った。

つまり網野の歴史観は、60年代まで席巻していた「講座派」などと呼ばれるマルクス主義歴史観のその先をゆく、最先端の歴史観だったのだ。

さらに、網野はもっともっと最先端の思想家だった。彼の考えた歴史の見方は、80年代に日本を席巻する思想、そう、かのポスト・モダンの先駆けでもあったからである。

網野史観と、ポスト・モダン。いったい何が同じなのか。

それは「土地」にへばりつくことを嫌ったという点にあるのだ。自由と移動を肯定する思想。自在にうごきまわることを肯定する思想が、網野の描きだす商人たち、漁民たちの生き方そのものだった。その軽やかな思想は、歴史のお墨付きを得たというわけだ。資本主義の極北=大量消費社会を思いだそう。もっと分かりやすく、ファーストフード店を頭に思い浮かべてみよう。

そこでは、世界中どこでも、誰でも、同じものを食べることができる。世界中を同じ商品が駆け巡り、その土地その土地の特徴ある食べ物を蹴散らしてしまうのだ。この移動性、拡散性こそ、ポスト・モダン思想を、背景で支えている時代の雰囲気である。

だから私は、網野の思想を「戦後」から読むことができると言っているのだ。網野の登場とは、「戦後」の日本の思想家たちの動きにつながっている。網野は中世が専門の日本史家であると同時に、「戦後」思想家なのだ。

今日はここまで。次回は、では吉本隆明との関係は?という問いにお答えしよう。もう、みんなさん薄々、分かって来たのではないでしょうか。(以下、次回)


*****

私はいま、新書『ナショナリズムの復権』で書きもらしたことを、説明している。

ほんとうは、もう少し引用し、丁寧に言いたかったことを補足している。それは「網野善彦と吉本隆明をどうして一緒に取りあつかうのか?」という友人の質問からだった。

ナショナリズムを考える。そのとき、どうして網野善彦なのか、それの吉本との関連とは何か?

もう少し、網野の説明をつづけよう。次の引用を見ていただきたい。

日本における西欧中心主義史観の牙城たる日本共産党=講座派史学から出発した網野のそこからの脱却は、まさしく「リオリエント」的転回にほかならなかった。それは図らずも(?)、定住に対するノマド、農業に対する商業、国家に対抗する戦争機械…といった…「六八年の思想」と呼応することとなったのである…それは即ちマルクス主義的「前衛」からの離脱が民族的下層「民衆」への視座の転換によって保証され癒されるという、日本においても繰り返されてきたパターンを踏襲するものであったのである。周知のように、一九三〇年代のコミュニズムからの「転向」現象の簇生以降、日本の「良心的」マルクス主義者たちの一部は、柳田国男の民俗学へと接近した。これもまた、「リオリエント」的現象の一つとはいえる(絓秀美『革命的な、あまりに革命的な』。作品社、2003年、11頁)

このままでは分かりにくいと思われるので、説明しよう。「講座派」という歴史観から、網野は脱出した思想家だった。その網野史観の特徴は、1968年=全共闘運動以後の日本のモノの考え方、流行を先取りしていると言っているのが前半。

その網野が注目したのは、商業、定住の否定であることもこの引用から分かるだろう。やはり、網野は「戦後」の思想家、とりわけポスト・モダンの思想家といっていいのである。

ところでここで、絓秀美さんがポロリと書いている「柳田国男」に注目してほしい。ここに吉本隆明とのつながりがあるからだ。読者はすでにお分かりのとおり、吉本隆明が『共同幻想論』で、さらに『柳田国男論』で柳田に注目していたことを、ここで思い出してみたいのである。

すると、吉本が、柳田国男の『遠野物語』を引用し、一生懸命分析していることに気がつくのだ。その詳細については、私の新書を読んでほしい。でも、ここで結論だけ言うと、結局、網野善彦も吉本隆明も、「土地」をめぐって商人/農民、漂泊/定住、つまり動きまわる生き方を良しとするか、しっかりと土地に根づいて生きていくことを理想的だと考えるのか、この二つの人間像のまわりをグルグル回っていることが分かるのだ。

もう一度、言おう。ポスト・モダンの思想家・網野善彦は、動きまわること、資本主義の商品のように、世界中を移動するのがいいと思った。

だが吉本は違った。柳田国男を参照している時点での吉本は、土地に根づいて生きていることへの共感をもっていたのだ。少なくとも、この問題の重要性にだけは、気がついていたのである。網野と吉本は、おなじ問題の周辺をめぐり歩いていた「戦後」思想家だったのだ。

結論を言おう。網野善彦と吉本隆明を「ナショナリズム」を考えるために、なぜ、並べたのか?

それは、今、私たちがナショナリズム=外交問題・政治問題だと思い込んでいる、その「常識」を叩き壊すためだ。国家についておしゃべりする、するとすぐに外交と政治ばかり取りあげる「強がり」に疑問を投げつけるためだ。

そうではない、私たちにとって国家は、そして国家について考えることは、網野や吉本のように、自らの生き方について、生のスタイルについて考えることなのだ。

ナショナリズム――それは、落ち着きなくウロチョロするのがいいのか、歴史に抱かれた土地で、静かに生を営み、生を終える方がいいのか、そういう、もっともっと倫理的で奥深い問いなのだと言いたかったのである。(おわり)



ブログ編集者より

先崎氏の『ナショナリズムの復権』は、売れ行き順調のようです。ブログ仲間として、とても嬉しいことです。文芸批評を核とする日本近代の知的遺産に深い敬意を払いつつも、その湿気の多い呪縛から解放されている者のさわやかさが、書き手としての先崎氏にはあります。近代日本思想のユニークな得難い継承者のひとりであることは間違いないでしょう。当新書のアマゾンURLを掲げておきます。
www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%A8%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-1017-%E5%85%88%E5%B4%8E-%E5%BD%B0%E5%AE%B9/dp/4480067221
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先崎彰容氏  くり返される「イジメと体罰」論議   (イザ!ブログ 2013・2・7、13、20、23、24、26 掲載)

2013年12月09日 06時23分30秒 | 先崎彰容
最近、しきりに騒がれているイジメと体罰の問題は、学校を脱けだし、いまや柔道の世界にまでおよんでしまった。

だからここで少し立ち止まり、数回にわたってこの問題を論じてみたい。学校に勤務するものとして、長年若者とかかわってきた市井のひとりとして、この問題への「違和感」を語ってみたいと思うのです。

                 ※

二〇一三年の年明け早々、またいやなニュースが紙面を賑わせました。

大阪市の高校二年生が、所属するバスケットボール部の顧問から事実上の体罰をうけ、翌日に自殺しました。おなじ高校の、他の部活担当の教員も、やはり暴力を行っていたようです。

教育委員会の隠蔽体質、顧問教員への批判と攻撃、そして体罰批判などが連日、マスコミを賑わせました。したり顔に、教育評論家が、テレビで私たちに耳触りのいい正論を垂れ流しました。

たしかに連日、報道はされていたのです。しかし私には、何か決定的なことが抜け落ちているとしか思えませんでした。とても大事なことが書かれず、話されないままに、若者の死がふたたび「いつもの事件」とおなじことばで描かれているとしか思えませんでした。

では、いったい何が違和感をかきたてたのか。何が抜け落ちていると感じたのか。

この事件に先立つ二〇一二年一〇月、隣県滋賀県大津市で、中学二年生がイジメのはてに自殺したことを思い出してください。二つの事件の加害者には、大人と子供という違いがあります。部活の顧問と、生徒がそれぞれの事件の首謀者です。

しかし私たち一般の人間からすれば、二つの事件はともに、教育現場の問題、とりわけ先生の問題にみえます。体罰をあたえた教師と、イジメにたいして有効な手段を打てなかった教員、つまり「学校の先生は何をしていたんだ!」という問題になると思うのです。言うまでもないことですが、教育問題は非常におおくの課題を抱えていますから、ここでは「権威」を考える際に重要な「先生」に問題を限定しておきたいと思います。

そのうえで、生徒の死をめぐる事件は毎回、必ずといっていい程、次のような軌道を描いて論じられ忘れられてゆくと思うです。

対立する意見
たとえば、イジメがはびこるのは、先生が教育を怠っているからであって、体罰を含めた厳正な教育がおこなわねばならない。時に暴力的であろうとも、イジメはしてはならないと、先生は徹底的に「教え込む」べきである――こういった意見が、まずは登場します。

しかしほぼ同時反射的に、今回の部活担当教員の体罰が頭をよぎるのもたしかです。そこから、いかなる暴力も許されない、教師は生徒の自由を尊重するべきであって、どのような威圧的行為も許されないという意見がでてくるのです。

だとすれば、ここには教育のあり方をめぐって、二つの意見の対立が現れています。それこそ毎回くり返される、古くからのお馴染みの対立が現れていると思うのです。

それを簡単にまとめると、「子供に対して、きびしく規律を課すべきか、それとも子供には自由を与えるべきか」という対立になります。子供中心主義を重視し、なんでも自由を認めるか、それとも管理教育にすべきか、という対立図式、これが私のいう「お馴染みの対立」なのです。

テレビなどのマスコミに登場する意見はさまざまありますが、結局はこの対立に落ちつくことが非常におおい。

もちろん私の違和感は、この対立への違和感に由来します。なぜなら、一見して対立する二つの意見は、実はおなじ穴のムジナのように思えてならないからです。

三つの違和感
私たちはいったん、マスコミの刺激的な「ことば」から眼をはなし、冷静さをとり戻さねばなりません。実際の教育現場の感覚をできるだけ意識しながら、それを冷静に理論化する必要があると思います。

たとえば、社会学者の菅野仁氏は、教育の世界における極端な意見の対立はあぶないと指摘しています。菅野氏によれば、戦後日本の自由主義教育は、かんぜんに行き詰っています。氏の言う「戦後日本の自由主義教育」とは、子どもの欲望や思いを、自主性あるいは意見だとして尊重し、全面的に肯定し、開放と自由を重んじる教育という意味です。

一方で、その反動として徹底的な管理教育をすべし!という意見がかならず出てきます。子どもは、大人になる前の成長段階にある。その子どもの欲望を意見と考えるのは間違いだ。まずは先生が徹底的な管理教育をし、子どもに躾けをおこなうことが大事なのだ――こういう反対意見が登場すると菅野氏は言うのです。

菅野氏の指摘は、私が先にまとめた「二つの意見の対立」のことを言っています。ではこの意見の対立が、なぜに違和を感じさせるのか?

それは次の三つの理由からです。

第一に、教育現場が置き去りにされるからです。
第二に、学校という場を重視しすぎていることが問題です。
第三に、この対立からは現代社会全体の問題と、先生の状況がふかい結びつきをもっていることが見えないということです。

それでは、第一の問題から見てみましょう。

教育現場と政治
いま見てきた「二つの意見の対立」は、かならず敵対する側をするどく批判し、自分の意見の正統性を示そうとする傾向があります。自分なりの「像」を創りあげ、それを否定・批判することで自分側の意見を鮮明なものにしようとします。

あまりにエスカレートすると、「管理教育は戦前の体制の復活だ!」といった議論になり、はては「民主主義教育にたいする挑戦だ」とか、「危険思想だ!」などという意見にまで凝り固まっていきます。

しかし少なくとも、私には「管理」「戦前」「民主主義」そして「危険思想」などという概念は、まったく意味がわかりません。「管理」とは何なのか、「戦前」とはどんな時代だったか、「民主主義」をなぜ無条件に正しいと思えるのか、さらにはあなたのいう「危険」とはいったい何をイメージしているのか……。

ほとんど私には理解できないのです。

私がこういった「ことば」の氾濫に、身震いするほどの嫌悪感を禁じられないのは、彼らが自分自身をすこしも疑っていないことです。彼らの眼はキラキラとかがやき、自分の「ことば」=正義をにぎりしめ、他者を批判する。自分の頭のなかでできあがった正義=民主主義と、管理・戦前=悪などの図式を少しも疑っていないのです。

これは本当に、恐ろしいことです。

自分の考えを絶対の正義だとし、それに反する意見には悪のレッテルを張る。そして危険だとか、反動だとか、はては保守的だという意味不明な罵倒のことばで否定する。

これこそ、実はもっとも危険で反動的な行為ではないでしょうか。

もっとも、批判される側の管理教育肯定論者にも、この傾向は少なからずあります。しかし彼らの自由主義教育への批判が、戦後の教育業界を支配してきた過度の自由礼賛にたいする違和感からでてきた以上、彼らには同情の余地があるというのが私の立場です。それについては、追々あきらかにします。

戦後教育のいう自由な教育は、実際には、あまりにも政治的なイデオロギーに満ち溢れた自由であり、生徒の意見の尊重などとはかけ離れていたのです。なんのことはない、自由の押しつけ、自由こそ絶対というイデオロギー教育だったのです。

第一の結論を言います。自由と規律いずれの立場にたつとしても、無意識のうちに政治的になること、これが最も危険なのです。教育改革という国家と政治がかかわる部分と、教師の活動や教育のあり方=日々の行為は別のモノです。当たり前のことですが、政治は大きな制度改革をおこなうことが仕事であり、実際のこまかい教育内容までは目が届かないし、届くべきでもないです。

この制度と日常、この区別をきちんとしなくてはいけない。それがいい加減だと、教育問題はすぐに政治好きの連中が飛びつき現場を忘れることになるか、あるいは「現場がわかっていない」などの政治批判になるかどちらかなのです。

政治が現場をわからないのは当たり前のこと。政治は、10年先20年先の日本の教育をみすえ、大ナタを振るだけでいいのです。

*****

前回、私が言いたかったのは、自由と規律の「二つの意見の対立」が、相手への批判に終始してしまうと、かならず問題が政治的になるということです。いつの間にやら、相手への攻撃が目的になってしまい、最重要問題「イジメを防げず、体罰を行ってしまう先生をどうすればいいか」という教育現場の問題が、消えてしまうということです。

だからくりかえしておきますが、私たちにとって問題なのは、先生をめぐる学校教育が問題なのであって、その問題へのあくまでも「手段」として、管理教育や自由主義教育の是非があることを忘れてはいけません。教育現場と政治は、わけなくてはいけないのです。

学校への過剰な期待は禁物
第二の、学校という場を重視しすぎているという問題に入りましょう。

学校の先生は、あまりにも多くのことを期待されています。「教育」という神聖な行為をおこなっている場所というイメージから、そこに君臨する先生は、子供たちに人間としての生き方を教える必要があると期待されます。

たとえば、自由主義教育を重んじる人であれば、子どもたちに自由の重要性、自主的に意見を発表することの重要性を一生懸命、教えなくてはいけません。

一方で、規律重視型の教育を主張する人からすれば、学校教育こそ人間としての生き方を教える道徳教育の場ということになります。つまり、いずれにせよ、彼らの期待どおりに先生がふるまうとすれば、彼らはかなりの時間を、教育につかう必要がでてくるのです。

イジメを事前に見抜けなかった、生徒の苦しみを放置したといった批判が、学校にはげしくぶつけられるのも、先生たちには、子どもの苦しみをわかっているべき存在、つまりは道徳的な存在であることが強く求められているのです。

ところが、先生の仕事はそれだけに限るわけではありません。

本来であれば、家庭や近隣の人によって担われてきた眼に見えない、膨大な量の業務を、現在の先生たちは引きうけている。自由であれ、規律であれ、こういった人間力の育成の問題は、家庭環境や地域のサポートを抜きしては考えられません。

もっとも簡単な例を挙げれば、仕事をかかえ共働きで都会生活をしている両親には、子どもをおおく生み、育てるだけの余裕がありませんが、田舎で祖父母がいれば、子どもの保護を複数の大人たちが担当できます。その結果、おおくの子どもを育てられるし、教育を複数の大人たちが担当することになるのです。

しかし実際には、都会では家庭や地域のサポートがきわめて限定的です。カネという資本主義の論理がはいりこんで、はじめて子どもへのサービスが提供されるような社会構造である都会では、祖父母や地域といった無償の支えが期待できません。

だからこそ、かえって、子どもの教育をおこなうことをめぐって、学校という場所は、過剰なまでにサービスを期待されるのです。両親だけでなく、マスコミすらもが無意識のうちに学校の先生に、無償の支えを期待している。これを私は「過剰」だと言っているのです。

小学校の先生であれば、算数・国語・社会を教え、休み時間に理科の実験の用意をし、授業が終われば事務仕事があり、また家庭科などの「家庭」や「保健」教育まで担当する……。ほんとうであれば、おおくの大人が支えるはずの教育が、「意識的」に学校の先生が担うことが期待される。本来、引きうける以上の役割を、都会の先生はとくに求められているのではないでしょうか。

こんな状態が、先生を取巻いていると思うのです。

要するに、現在の学校の先生は、きわめて矛盾した期待を背負わされているのです。

まずは神聖な教育をおこなう存在として、尊敬をうけ道徳的に優れた人間であることを期待される。子どもを教導する役割です。

しかし一方では、教育者という立場からは考えられないような、雑務を引きうけ、過剰なサービスを要求され、子どもの世話係を押しつけられているのです。

先生は、尊敬される存在なのでしょうか。あるいはベビーシッターと同じなのか。

自由を教えるのであれ、規律を教え込むのであれ「二つの意見の対立」からは先生たちのおかれている現状が見えてこないのです。学校教育へのいささか過大な期待の反面で、このような現状を見落としている可能性があります。何を教えるかという内容以前の問題として、まずは先生たちが矛盾のあいだに挟まれている、このことが見過ごされがちなのです。


福澤諭吉の教育論
ここで学校の役割について、きわめて興味深い指摘をした人物を見てみましょう。福澤諭吉です。一万円札でおなじみの福澤は、非常に多面的な人で、国家・経済・政治などあらゆる分野で啓蒙的な発言をした人物ですが、その彼が教育について興味深い発言をしているのです。

福澤が明治一五年に書いた著作に『徳育如何』というものがあります。今風に訳せば「道徳とは何か」というタイトルになるでしょう。そこで福澤は次のように言っています。

教育は人間力を育成するために重要な要素であるが、あくまでも発達を助ける二次的な働きをするにすぎない。根本をつかさどっているのは、先祖伝来の能力と、家風と、そして社会全体の輿論によってである。だから昨今の人があまりにも学校教育に期待して、学校にさえ入れれば自由自在に望んだような人間ができあがると思うのは間違いである。

ここでとくに福澤は、「社会はあたかも智徳の大教場と云ふも可なり」と言って、時代の雰囲気こそ最大の影響力を人間育成にもたらすと主張します。

ところが当時、若者たちが政治ばかりを論じ、社会を乱しかねないと警戒する人たちが、教育が不完全だ、道徳教育を奨励しないからこうした困った若者が増えるのだと主張しました。それにたいし、福澤は、自分自身もおなじ危機を感じているが、解決方法が違うのだと主張するのです。

このような福澤の時代評価は、たいへん面白い問題をふくんでいます。

つまり福澤諭吉は、明治一五年当時、社会全体の風俗が乱れていることを認めたうえで、しかしこの乱れを学校教育だけで治そうとするのは不可能だと見ていました。学校教育の現場で生じている事態は、社会全体を分析しないことには解決策が見いだせない、と言っているのです。

これを現代に当てはめれば、当然、先の「二つの意見の対立」の問題にたどり着くはずです。

自由主義教育の行き過ぎを批判する側が、イジメの問題すべてを学校での規律の不在だと考えるのは、福澤からすれば大袈裟だということになるでしょう。

また一方で、自由主義教育を主張する人びとが、往々にして子どもの自由を尊重するというよりも、実際には「自由であるべきだ」式のイデオロギー教育をしている場合も、おなじようにナンセンスということになります。

教室で勝手気まますれすれの行動を許すのが、人間の自由につながっていると考えるのは、どう見ても大袈裟です。そんなことが社会では通用しないことは誰でもしっています。それをしらずに卒業していった子供たちが、後々苦労することを考えれば、彼らほど無責任な教育はないのです。

どちらも共に、学校教育をあまりにも過大に評価していると思うのです。

福澤が主張したかったのは、学校という場で浮上した問題が、実は学校現場を一旦離れて、当時の社会全体の問題としてみる必要があるということでした。積み上げられてきた先祖伝来の習慣、家庭の雰囲気そして時代の気分すべてが、ひとりの人間を育て上げてゆく、だから学校で問題視されていることは、時代状況を考慮に入れないとわからない――これが福澤の論旨だったのです。

*****

前回の福澤の指摘は、第三の問題に直結します。ここで自由主義教育論と規制重視論の対立を見つめてみると、次のように結論できるでしょう。

①私たちは現在、体罰をしてみたり、イジメすら防げない先生をどうするか、というリアルな問題を抱えている。この問題に少しでも解決を与えられるとすれば、極端な自由/規制の二元論に立っていてはダメである。現場の先生の引き裂かれた状態、矛盾した状況にもっと敏感であるべきだ。

②また、いくら現場重視だからと言って、事件事故の症例をいくら集めても、これまたダメである。事例は無限にあって、「解決策」などという一般的なものは、何もでてこないことになる。こうなると、教育問題は先生や生徒の個人的な性格や力量の問題になってしまい、一般を論じることじたいに意味を見いだせなくなる。

③よって大事なのは、いったん事件事故から離れて、時代状況がどうなっているのかを知った上で、もう一度、実際の学校現場に降りてゆく、こういう態度である 。福澤は、道徳教育を主張する人を批判しているわけではなかった。彼らの憂慮する問題=子どもの軽薄化を本気で防ぐとしたら、近視眼では駄目なのだ、こう言っていたことを参考にしよう。

ざっとこんな感じになるでしょう。教育にまつわる入手しやすい新書などの多くが教育制度論か、あるいは身近な事例の追求に終始しがちなのは問題です。国家がつくりあげた制度を論じ他国のそれと比較するだけでも、その反動で一つひとつの事例に密着した現場重視主義でも問題は解決できないのです。

「平等化」の行き着く先は…
では、福澤にならって現代社会をどう見るか。

私は、現代社会の根本問題のひとつに「権威」の喪失があると思います。「権威」が喪失した状態が、学校に入り込むとどうなるか。

まずは先生から、急速に「権威」が失われていきます。先生が生徒と御友だち、あるいは兄弟のようになっているのはそのためです。結果はすでに述べたとおりで、実際の現場では、保護者からもベビーシッター並みのお願いをされることもしばしばとなります。「うちの子どもは虚弱だから、別室で特別に私見を受けさせてほしい。なのになぜ、そうしなかったのだ!」といきなり怒鳴りつけてくる母親は、この手の人だと言っていいよいでしょう。

ある程度、先生に「権威」を感じていれば、自分の子どもの特別な資質をまえもって相談し、そのうえでどう学校という公の場に位置づけていくのか、話しあう時間をつくってもらいたいとお願いするはずです。

しかし問題はこれに尽きません。問題の反面だけしか言っていないのです。

先に「学校への過剰な期待は禁物」の部分で、私は学校の先生がはげしい矛盾に苦しんでいると書きました。先生は、ベビーシッターのように扱われる一方で、道徳あるいは自由を教える神聖な存在であることも求められている、と。

こんにち、先生の「権威」が完全に失われたわけではない、これが問題なのです。 

先生という立場がもつ「権威」の残り香、ほのかに漂ってくる聖職のイメージが、今度は容易にマスコミなどの餌食になっているのです。先生がイジメを見過ごすとはなにごとだ!とか、先生の性犯罪がことさらにマスコミで取り上げられるのも、先生という仕事にはとくべつなオーラがあるからこそです(おなじことが警察にも言えます)。先生には特別な倫理観がもとめられるという考えが前提にあるのです。

また、先生がルールを強制するとは何ごとだ!とか、生徒は自由であるべきで、強制はすべきでない!という自由主義教育論の立場も、この「権威」否定のきぶんを持っています。彼らは自身が先生であるにもかかわらず、ある種の善良なきもちから、いっそう自分じしんの「権威」否定を加速させていくのです。

以上のような、すべての「先生はなにをしているんだ!」式の議論は、先生への聖職イメージを前提にしている発言なのです。

ですから先生は、こんにち実際の「権威」をうしなってきているのに、「権威」の残り香を執拗に責めたてるマスコミや世間によって、「御上たたき」の材料にされているのです。

こうして信じられないような膨大な「雑務」に追われながら、一方でイジメ問題など先生が取り組むべき核心的問題で失敗をすると、今度は「聖職」者として対応を迫られ批判される。

膨大な仕事のうえに、さらに対応のための会議が行われる……そんな事態におちいっているのです。今日も仕事をしようと思っていたのに、生徒が盗みをはたらいたから生徒指導で一日つぶれてしまった…こんな声がいまにも聞こえてきそうです。


*****

子どもたちから見た先生
では生徒のがわは、時代状況からどのような影響をうけているのでしょうか。どんな子どもになっているのか。

先にも言いましたように、先生という立場には「権威」の残り香があります。

この既成の「権威」への抵抗や糾弾、これが子どもの側からみた先生イメージをまずは作るでしょう。「先生なんて、見かけだけ偉そうにしているけど、実際はどうしようもない人間のくせに」こんな感情をもつ子どもも少なくないでしょう。さらにエスカレートすれば、「大人なんてみんな嘘つきだ」という大きなショックを受けることになります。

これまで社会全体でエライとされていたこと、スゴイと思っていたことが実は大したことではないと気がついてしまう……こういった体験は、人間にとって非常に大きな意味をもちます。とくに感受性のつよい思春期の子どもが敏感に感じとることですから、ちょうど学生時代に目につく「権威」=先生がターゲットにされるわけです。

ちょうどマスコミがそうであるように、「権威」=御上たたきの格好の材料に先生は見えるわけです。そこに自由主義教育論者が、自由を吹きこめばさらにいっそう、事態が悪い方向へいくことは一目瞭然ではないでしょうか。

さらに大事なことは、「権威」否定がもっている破壊と暴露の感情です。「平等化」の最終的な帰結が、嫉妬と羨望そして不公平感にあることはすでに見ましたが、結局、学生たちが先生という「権威」をひきずり降ろそうとする感情にも、この嫉妬と羨望、そして過剰な不公平感がでてきてしまうのです。

暴力教師の心のなか
さて、こうして現代社会全体を見わたしたうえで、学校現場にまでもう一度降りて来てみると、先生の「権威」喪失が今回の事件とどう関連するかが見えてくると思います。

もちろん、一つひとつの事件にはその事件特有の事情があり、条件がありますから一般化をおこなうことは慎重であるべきです。しかも、教育問題自体が、おおくの観点から分析可能なものなので、どの観点から光を当てるのかで解決方法の処方箋も、人それぞれに違うこともわかっています。

そうしたことを前提にしたうえで、以下では私なりの「先生」がかかえる問題と、それへの処方箋をしめしたいと思います。

問題をもう一度整理すると、今回、生徒を自殺にまで追いこんだ過激な暴力教師と、イジメを解決できずに放置してしまう先生、この「先生とはなんなのか」ということが関心の中心にあります。では、彼らについてどのようなことが言えるか。

第一に、社会全体が「権威」を否定する風潮のなかで、私たちの心には「ニヒリズム」が蔓延しています。そのニヒリズムの影響を、まともに先生たちも受けている。

京大の先生である佐伯啓思氏は、ニヒリズムの要点を鋭くまとめてくれていますが、そのまとめによれば、ニヒリズムとは単なる虚無主義・頽廃的な気分をさすのではありません。そうではなく、ニヒリズムとはある価値観が否定され、その虚偽を暴くことで、手段が目的になってしまうことを指します。

たとえば、利益を追求していくなかで、はじめは豊かな生活のための手段であった金儲けが、いつもまにか金儲け自体が目的になっている。また権力は、よい政治をおこなうために必要なものであるのに、権力を広げる事自体が目標になってしまう。しゃべって何かを伝えるはずの行為が、しゃべること自体が目的と化し、おしゃべりが止められないなどなど…

このように終わりなき拡張の論理こそ、ニヒリズムなのです。

そしてまさしく暴力をふるう先生も、イジメをおこなう生徒も、このニヒリズムの時代を体現しているのです。

暴力をすると否定の心理、生徒の悪いところがどんどん見えてきてしまう。それを正そうとさらに否定する。否定が否定を生みだし、本来は生徒の技術を向上させるための暴力が、その手段であることを忘れ、暴力それ自体が目的と化してしまう。終わりなき暴力の連鎖になってしまうのです。

「権威」否定の時代風潮は、実はこのように一人の人間の性格にまで食指を伸ばし、具体例として現在の私たちのもとにやってきているのです。いつ終わるともしれない暴力の連鎖の背景には、この荒んだ心、否定の虜になってしまう状態があると思うのです。

このような困難な時代に、私たちは直面しています。「戦後」という言葉を私たちはしばしば使いますが、今こそ、ほんとうに「戦後」的な価値の総決算の時期にきていることが、学校という一例から垣間見えてくると思うのです(了)。

※以上は個人的な見解であり、所属する団体等とは一切関係ありません。

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先崎彰容  「美津島氏の見解に応答する」  (イザ!ブログ 2013・1・9 掲載)

2013年12月06日 11時52分57秒 | 先崎彰容
昨年のことになって恐縮だが、本ブログ主催者・美津島明氏が江藤淳にかんする感想を述べていた。江藤の若き日の評論『作家は行動する』を取りあげた文章の末尾で、美津島氏はわたし先崎の名前を挙げ、江藤淳にたいする意見を求めた。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/f040b1d63deb35e68cedb490a95b044a

そこで二〇一三年、新年第一回となる今回は美津島氏から頂戴した年末の宿題に応えることから始めよう。

私の江藤にかんする評価のもっとも簡潔な作品は、次のものがよいと思う。すなわち二〇一一年一〇月二四日、比較文明史家の平川佑弘東大名誉教授が、産経新聞『正論』欄において、先崎の論文を取りあげてくださった。実は小生自身はこの事実を当初、まったく知らなかった。朝電車のなかで、数人の友人からメールで指摘され、駅で新聞を買ってようやく事実を知った。その直後から、複数のメディアに、「論文の内容をわかりやすく解説してほしい」と要望を受け、以下の文章ができたというわけだ。

この文章は、同年一二月の雑誌『明日への選択』に掲載されたものだ。雑誌の発行元・日本政策研究センターは、伊藤哲夫氏を代表にもつ政策提言集団であり、第一次安倍内閣ではブレーンとして活躍したと仄聞している。本ブログ見学者とはおおむね趣旨を同じくする雑誌かと思うので、そのほかの記事も御覧になることをお勧めしておこう。必要なばあい、次回の特別寄稿において解説をつけ加えることにしよう。(以下の内容は筆者の個人的な見解であり、所属する団体等とは直接の関係はありません)

                ***

江藤淳を想う――現代日本知識人の条件

過日、一〇月二四日版の産経新聞「正論」欄で、平川祐弘先生が、私の書いた論文を取りあげてくださった。戦後に活躍した知識人、江藤淳と丸山眞男について書いた私の論文を、好意的に評価してくださったものだ。誠に光栄なことなのだが、実は当日、複数の知人から連絡をうけるまで、私は掲載の事実をしらなかった。その後、この学術論文の内容をわかりやすく教えてほしい、とこれまた複数の人に請われた。そこで今、この文章を書いている次第だ。

江藤淳と丸山眞男といえば、その名をしらない人はいないだろう。ともに戦後活躍した知識人の代表選手だ。知識人がどんな「言葉」を紡ぐのかに若者たちが固唾をのみ、言葉が直接時代を動かすことができた時代、筆先に時代の肌がふれるのを感じとれた時代――その先頭走者が江藤と丸山だった。

その二人が、江戸時代にかんする著作を残している。比較してみると面白い事実にぶつかる。その面白さを、論文で私は描きたかった。江戸初期の思想家にたいして、二人は鮮やかに真逆の評価をあたえた。

では、この評価の違いはどこから来たのか? よく読んでみると、それは江藤と丸山の「戦後」にたいする評価の違いから来ていたのだ――これが私の言いたかったことの全てである。

もう少し、わかりやすく具体的に見てみる。

江戸時代の初期、朱子学という学問が発達したが、二人の評価は真逆であった。丸山眞男は、朱子学を否定した。なぜか。なぜなら丸山は、朱子学の特徴に戦前の「超国家主義」とおなじ問題を発見したからだ。そして丸山は、朱子学以後の江戸思想のなかに、朱子学=超国家主義を乗りこえるような思想、つまり「近代」的な思想を発見しようと努めた。戦前=超国家主義を批判的に乗りこえることを終生の課題とした丸山は、朱子学に戦前を重ねることで、江戸の思想を描いた。だが一方の江藤はちがった。江藤淳は朱子学に共感した。なぜなら朱子学者が、私たちとおなじ課題を背負っていると思ったからだ。丸山はまちがっている。朱子学こそ「近代」人である私たちとおなじ苦しみを背負っている――これが江藤の朱子学理解なのである。

でもなぜ、私は二人のこの複雑な江戸時代論に惹かれたのか。それは江戸時代論が「戦後」論に直結しているからだ。二人の戦後へのイメージと近代へのイメージが鮮やかに現れているからだ。丸山にとって、朱子学=超国家主義=戦前は否定されるべきであった。戦後はそのためのスタート地点であり、八月一五日は絶好の出発点だった。戦後こそ、戦前を反省した私たちが近代人になるための場所だった。

だが江藤はちがった。江藤にとって八月一五日は挫折そのものであった「戦後は喪失の時代としか思われなかった」(『戦後と私』)。江藤からすれば、丸山の戦後イメージは明るすぎる。そして近代のイメージも。江藤にとって、わが国の近代とは、古くから積みあげてきた価値観・世界観の崩壊と喪失、つまり危機以外の何ものでもなかった。江藤のもっとも有名な著作『夏目漱石』や江戸時代論に脈っているのは、日本の近代=崩壊と喪失という危機意識にほかならない。

私は江藤淳の戦後=近代イメージに深く共感する。とくに東日本大震災を福島県で経験した今、その思いは日々に強くなる一方だ。では、それはなぜか?

三月十一日の大震災を、私は次の理由から、時代を画する事件だと考える。まず大震災が起こる直前の日本に、何がおきていたか? 実は外交問題が噴出していたことを思いだしてほしい。中国船籍の船長釈放問題、ロシアによる唐突な対日戦勝記念式典と、北方領土の視察が行われていた。極東の二大国が、時期をおなじくしてわが近海で起こした騒動は、日本がその皮膚を外国と接しているという事実を教えてくれた。

だがもし、この事件だけで終わっていれば、戦後の健忘症に慣れきった日本国民は、事件を忘れてしまったかもしれない。ところがその直後、未曽有の大震災は起きた。日本の大地は、ゆれ動いたのである。

以後、私は驚くべき光景をテレビで目にすることになる。それは一〇メートルを超える津波の、どす黒さに驚いたのではない。また津波が町全体をのみこんでゆく中で、ビルの屋上で泣き叫ぶ子供に眼を蔽ったのでもない。そうではなく、私を震撼させたのは、あまりにも多くの人びとが、口々に不安をかたり「国家よ、この事態をなんとかせよ」と叫ぶ光景であった。被災者ばかりではない、自称知識人までもが、自分の不安を何とかして欲しいと国家にむかって要求したのだ。

私は国家が、あらゆる要求を求められ、今にも瓦解するのではないかという不安におののいた。これまで歯牙にもかけていなかった国家、否定あるいは無視を決め込んでいた国家に、臆面もなく自分の不安をぶつける国民と、当然のように要求をつきつける知識人の姿に、嘔吐をもよおしすらした。

だがこのとき突然、江藤淳の言葉が私をよぎったのである。書きかけの論文を取りだすと、江藤淳が私の中に蘇ってくるのを感じた。それは国家もまた、私たちとおなじく、諸外国との関係で日々不安定で動揺していて、不断に支えないと崩れ去るかもしれないことを教えてくれた。当たり前の暮らしもまた脅かされるものであり、大地も不安定なものに過ぎない。私たちは自らの力によって不断にその不安に対応し、崩壊の危機を防がねばならない――。江藤淳は、この不安を近代人の宿命とみなし、江戸朱子学にその微かな反響を聞きとったはずなのだ。不安を直視せよ、と戦後に警告を鳴らしつづけたはずなのだ。

だが、震災から半年以上を経過した今、わが国知識人で江藤淳とおなじ水準にまで国家を、大震災を、つまりは時代の課題を深く洞察した文章が一つでもあったか。サブ・タイトルを「現代日本知識人の条件」としたのは、このような自戒の意味を込めているのである。
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