美津島明様 (発信日 7月24日)
今回の貴兄の返信で特にそそられた点は、次の諸点です。そのまま引用します。
① 法然と親鸞の思想が日本においていかにユニークであるか、驚きをもって、再認識する思いです。そのユニークさを、ちょっと刺激的言葉を使えば、扼殺することで、真宗は後に世に流布したのではないかと思うのですが、ここは小浜さんのご意見を伺いたいところです。
貴兄の言いたいことを私なりに想像すると、日本思想史のなかで、ある時代の局面において突然変異のように一神教的な考え方が出てきたが、結局はそれも世俗化の過程で、じつは神道に代表されるような日本古来の思考様式に吸い取られていったのだ、ということでしょうか。仮にそうだとして、この点については、とても難しくて、正直なところ、いまの私にはきちんとお答えするだけの教養の持ち合わせがありません。
ただ、例の「人類の普遍性」の観点からすれば、非常に雑な言い方ですが、「乱世」のような時代的条件(私はこの言葉を平安末期から室町全期までの四百年にわたる長い期間として捉えています)が揃うと、法然・親鸞のような(むしろそのあとの唯円において顕著な)ラディカルな平等思想が生れてくる、といった「唯物論」的な考え方を提示するのにも意味があるのではないかと思っています。
とはいえ、もちろん鎌倉時代は、日本に根づいた仏教が多様に枝分かれした独自な時代ですから、浄土宗、浄土真宗だけをもって、当時の思想状況を代表させることはできないという但し書きが必要だとも思います。
② 冷徹な合理主義の経済的表現であるグローバリズムに対して、日本人がいわば本能的に身構えてしまうのは、いままで述べてきたことから、不可避であると言えるのではないでしょうか。変に無理をして、それをためらいもなく受け入れられない日本人はダメだのだといわんばかりに推進された1997年から2007年ころまでのラディカルな行政改革・構造改革は、日本人の自然体の感性を押しつぶそうとする野蛮な運動だったのではないかとあらためて思われます。変に真面目になったりせずに、適当におつきあいすればいいのです、あんなものとは。
この指摘は、じぶんではうまく言えなかったことを、スパッと、とても見事に言ってもらったような快適な気分にさせてくれました。要するに国民性の根深さに対する自覚と反省がなさすぎたのですよね。それも、遠因をたどれば敗戦体験による誇りの喪失に由来するのではないでしょうか。
しかし問題は、いまだに権力を握る連中がそのことに気づかずに、国民感情を無視して「国際基準」なる浅薄な規範に追従しようとしていることですね。ところが厄介なのは、戦争直後に国民の大多数が「権威」として仰ぐ対象を天皇からマッカーサーにひょいと移し変えたように、日本人にはどうもそういう「百姓性」があって、それを権力者たちが、無意識の鋭敏さでわきまえているのではないか、という点です。
苛酷な国際社会に伍して近代国家のよい点を、伝統的な国民性のよい点と背馳しない形でうまく鍛えなおしてゆくにはどうすればよいのか、というのが、単に政治的問題にとどまらず、大きく文化的な課題でもあると思います。
しかし、TPP参加がどうやら座礁しそうな形勢などを見ていると、貴兄の言う「適当におつきあいする」というやり方が実現するかもしれませんね。そこは日本人の「いい加減さ」がよい意味で通っていくのかな、と、私はかすかな希望をもっています。
③「言」はあくまでも「事」を伝えるための道具であるのに過ぎないという当世流行りの言語観は、生命力の減退・衰退をもたらす危険な思想である、とも言えそうです。私が申し上げているのは、当世ではほぼ無自覚な形で展開されている言語観のことで、情報社会が高度化すればするほど、不可避的に跋扈せざるをえないものです。つまり、情報をやり取りするためだけの便利なツールとし言葉をとらえる風潮のことを、私は、言っているのです。
これは、まさに私がいま書いていることとぴったり重なります。以前、情報学の専門家である西垣通氏を「人間学アカデミー」で呼んだときに、彼自身も、情報学という最先端にいながら(だからこそ?)、学生たちに教えていると、言葉を小包を送る手段・道具のように考えていて困ったものだと話していました。私も及ばずながら、「言葉は思想そのものである」ということを、ない力を尽して説こうと思っています。
私は、時枝誠記の自前の言語思想に畏敬の念を持っていますが、困ったことに、あの主体表出としての言語を強調した時枝でさえ、「言語は水を送る水道管のようなものだ」とか「言語は金を送る為替手続きのようなものだ」といった譬えを用いて、言語と思想を素朴に分離してしまう言語道具観に堕してしまいかねないことを言っているのですね。まして現代の言語観は、貴兄の指摘するとおり、軽薄そのものです。これに対抗するには、「言霊」思想を現代の言葉でどう編みなおすかが問われるのだと思います。
④ここで、ただひとつ「うしろ」には、そのような時間をめぐる両義性がないことが気にかかります。なぜでしょうか。というか、「うしろ」という言葉に関して、時間性の含意のある用例は、「うしろ向き」ぐらいしか思いつきません。これは、過去にこだわることを否定的に言い表す場合に使われます。ほかは、
・うしろ髪を引かれる思い
・うしろ暗い
・うしろ傷
・うしろめたい
・うしろ指
などのように、身体性における死角がもたらす不安の念を織り込んだ、どちらかといえばマイナスの情緒を表す用法が多いような気がします。
この指摘はそのとおりだと思いますし、「無意識」という言葉と身体性のあり方との関係についても、言われることに同意します。この概念にこだわったフロイトの苦闘はそれはそれで評価すべきでしょうが、逆に「意識」って何か、と問われたら、結局は簡単なことで「気づいている(awareness)」ということでしょう。とすれば、はじめから身体的な限界をもっているのは当たり前なのですね。ところで、私も、この前の書簡で「あと、さき」「まえ」とだけ書いて「うしろ」についてあえて書かなかったのは、貴兄と同じように、「うしろ」だけは時間的な過去と未来の両義性がないなあ、と思ったからなのです。
ところがです。念のため「うしろ」について辞書を引いてみたら、なんと次のような語義と用例が出てきたのですよ(『大辞林』三省堂)。
【うしろ】⑥物事の起こったあと。将来。行く末。「なき御うしろに、口さがなくやは(源氏・夕顔)
【うしろめたい】②あとのことが気懸かりだ。将来が心配だ。なりゆきが不安だ。「をみなへしうしろめたくも見ゆる哉 あれたるやどにひとりたてれば」(古今・秋上)
これについては、お互いによく考え直していくことにしましょう。
ちょっと私のほうから、あらたに問題を投げかけたく思います。
空間と時間という分節に関することなのですが、これもまた近代の産物なのか(それだけ底が浅いかもしれない)と思った経験があります。ハイデガーが『存在と時間』のなかで、現存在(=にんげん)を「Sein in derWelt」と捉えていることは有名ですが、これは戦後の哲学界では「世界内存在」と訳されるのがふつうです。ところが、和辻哲郎が『倫理学』のなかでこの用語を「世間内存在」と訳しているのですね。
私はハイデガーの哲学を全面的に肯定するわけではありませんが、彼がつねにドイツ語の土着性、生活感覚から自分の哲学用語を立ち上げたその独創性を高く評価するものです。で、Weltというドイツ語のニュアンスを調べてみると、和辻が訳しているように、ちゃんと「世間」という概念があるのです。「世界」というと、私たちはどうしても「いま、自分を取り巻いている空間」という物理的ニュアンスが支配的になります。
しかし、「世間」という概念はそうではありませんね。とても人間くさいし、はじめから時間と空間とを融合したものとして捉えた言葉だと思います。これは「世(よ)」と言ってしまったほうがわかりやすいと思うのですが、時間と空間というように二分できない、私たちの実存感覚にそのまま寄り添う感じを包括的に表現しています。「世の中」「世の移り変わり」「歌は世につれ」「世代」「世間虚仮」・・・・
私は思うのですが、Sein in der Weltは、関係存在としての人間を把握するなら、単に「よのなかにある者」とすればいちばん的確なのではないかと思っています。このように、きちんと考えれば、後発近代国であったドイツと日本との間には、土着的な生活感覚が保存された言語の共通性のようなものがちゃんとあったのですね(もちろん、政治的・軍事的な同盟としての「枢軸国」を評価するわけではまったくありませんが)。world(英)、monde(仏)にも「世間」「人の世」というニュアンスはあるようですが、問題は、ハイデガーが言わんとしていたWeltを「世界」と訳してしまった日本の哲学研究者の西欧追随的な感覚にあると思います。
私たちは何をやっているのでしょうか。言語や日本語について細かい詮索をしながら、一種の専門的な隘路にはまっているのでしょうか。何となく読む人から見ればそう思えるかもしれませんが、けっしてそうではないと思います。
このやり取りを共通に支えているのは、あえて大風呂敷を広げるなら、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観を見直さなくてはならない、その限界を見極めて新しい世界像を提出して見せなくてはならないという根底的な問題意識だと思います。この種の試みは、これまで、特に戦前において真剣に試みられてきた経緯があります。その試みは少数の思想家によっていい線まで行ったのですが、敗戦とそれに続く戦後史によってその意義が無視あるいは軽視されてしまったという悔しい事態になったような気がします。
少々気負いすぎかもしれませんが、この課題は誰かがやらなくてはなりません。
そしてやるならば徹底的にやる必要があります。私たちも、少しはこの課題克服に貢献できるように、微力を注ぎ続けることにしましょう。
*****
小浜逸郎様 (発信日 7月25日)
早速のご返事、ありがとうございます。
〉私たちは何をやっているのでしょうか。(中略)このやり取りを共通に支えているのは、あえて大風呂敷を広げるなら、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観を見直さなくてはならない、その限界を見極めて新しい世界像を提出して見せなくてはならないという根底的な問題意識だと思います。この種の試みは、これまで、特に戦前において真剣に試みられてきた経緯があります。その試みは少数の思想家によっていい線まで行ったのですが、敗戦とそれに続く戦後史によってその意義が無視あるいは軽視されてしまったという悔しい事態になったような気がします。少々気負いすぎかもしれませんが、この課題は誰かがやらなくてはなりません。そしてやるならば徹底的にやる必要があります。私たちも、少しはこの課題克服に貢献できるように、微力を注ぎ続けることにしましょう。
ここを目にして、久々に、心が熱くなる思いを噛みしめました。内輪ぼめのような形になってしまいますが、小浜さんが「少々気負いすぎ」る姿は、思想家としてとても魅力があります。と同時に、ここで小浜さんは、少々気負っても仕方がないほどに、戦後日本思想の欠落点であると同時に日本思想の大きな可能性でもある、とても重要な論点に触れているという手応えを感じます。
文中の「少数の思想家」というのは、『人間の学としての倫理学』と『倫理学』の和辻であり、『国語学原論』の時枝誠記であり、戦時中の小林秀雄である、と言ってしまっても、おそらくそれほど的をはずしていないものと思われます。
そうして、彼らの思想的な営みが「いい線まで行った」ことと、当時の日本が置かれた情況とは深い関連があることにも、小浜さんは同意なさるものと思われます。当時の日本は、世界の覇権をその掌中におさめているイギリスとアメリカというアングロ・サクソン民族国家と決定的な対立関係にありました。世界を敵に回して孤立を深めている情況にあった、と言っていいでしょう。そのことが、当時の知識人たちにも深く影響しなかったはずがありません。
私は、手元にさっとお目当ての本が取り出せないくらいに、どこにどの本があるのか分かり兼ねる書架情況を常に抱えていますので、うろ覚えで引用することをお許しください。太宰治に『一二月八日』という短編があります。日米開戦当日の世情と作中の「私」の心持ちを、ユーモアを交えつつも真剣に描いた作品です。この作品で太宰は、世情と「私」に共通するものとして、日米大戦という最大級の国難を、心静かにしかも強い決意を秘めて受けとめる凛とした姿を描き出しています。真珠湾奇襲成功の報を受けて、世間が沸き立つのではなくて、緊張感を孕んだ沈黙の様相を呈しているのが印象に残る佳編です。また、当時の日本社会の一瞬の姿をとどめた記録としても貴重であると考えます。
その「緊張感を孕んだ沈黙」を、戦時中の和辻や時枝や小林は、思想的な営為を展開するうえでの精神的な構えの根底に保ち続けたのではないでしょうか。それをあえて言葉に置き換えれば、「世界の主流を敵に回したいま、敵の言葉ではなく自前の言葉で、自前の世界像を描くほかはない。それをやり切ることができなければ、自分は思想家として大東亜戦争を闘い切っていることにはならない」という思想家としての全重量のかかった背水の陣の思いだったのではないかと想像します。それだけの緊迫感が、彼らの諸作品を心でじかに読むと自ずと伝わってくるのです。
(残念なことですが、彼らの魅力的な文体におのずと織り込まれた緊迫感は、戦後の文体から長らく失われてきたものであると、私には感じられます。戦後の思想家の文体には、どういうわけか、本居宣長から「さかしら」として一蹴されてしまいかねないような、緊迫感の弛緩が避けようもなく織り込まれてしまっているように見受けられるのです。管見の限りでは、そのことに例外はありません。むろん、それが他人事でありえないことはもちろんです)
「自前の言葉で、自前の世界像を描く」うえで、三人はともに日本思想の豊かな流れとの出会いを果たしています。それを「伝統との邂逅」と言いかえてもいいのではないかと思われます。時枝は、江戸時代の契沖・本居宣長・鈴木朗(あきら・左右逆)・本居春庭の諸研究から、その言語観の核心を編み出しました。小林の「伝統との邂逅」については申し上げるまでもないでしょう。
和辻もまた、その著書で明記してはいないのですが、ほかの二人と同様に日本思想の豊かな流れとの出会いを果たしているのではないか。そこから、自分の思想の核心を成すものを汲み取っているのではないか。中野剛志氏の『日本思想史新論』を読んで、その思いを強くしています。
中野氏は、当著で、日本の江戸期の思想の中核として、主に民間思想家によって担われた「実学」=日本流プラグマティズムの伝統を取り出します。この流れは、中国から輸入した朱子学の、「理」をめぐっての合理主義との格闘とそれを通じての日本人としての思想的自立の模索のプロセスとによってもたらされたものです。
そのパイオニアとして、中野氏は、伊藤仁斎を取り上げます。いくつか引用しましょうか。
「仁斎が創始した古義学とは、学問の方法からして朱子学とは根本的に異なる思想である。それは、朱子学の合理主義を拒否し、徹底的に日常経験を重視した実践的な学問であった。仁斎は、そのプラグマティズムによって、人間が社会的存在であり、そして社会は動的な「活物」であるという認識に達した。」
「仁斎は、聖人の「道」とは、「人倫日用当(まさ)に行くべきの路」(語孟字義巻の上-二七)であり、「日用彝(い)倫の間」(童子問序-九)に行なわれるものだと言う。この日常の生活世界における実践を最も尊重するプラグマティズムこそ、仁斎の思想の到達点である。「最上至極宇宙第一」である孔子の思想とは、人倫日用、つまり日常生活の世界の中にあるというのである」
「『道』は、もっぱら人道、つまり社会世界に関するものであるなら、それは、人と物、あるいは人と人との相互交流・コミュニケーションであるということになる。『道』とは、人と人とがお互いに向かって行為を行うことで連関する社会世界のことである。」
「人間とは、いかなる存在か。仁斎は、ずばり人間とは、人と人との間柄のことであるという。「人とは何ぞ。君臣なり。父子なり。夫婦なり。崑(こん)弟なり。朋友なり」(童子問巻の上-二七)。仁斎は、「人が存在するということは相互に関係を結ぶことにおいてである。それぞれ相互に行為的に連関することにおいて人は存在する」(子安一九八二-一八〇)のだととらえた。」
「仁斎は、「内」と「外」、「個人」と「その環境」、「主観」と「客観」の二項対立を排した存在論哲学を提示し、それこそが本来の聖人の教えだと主張したのである。人間の生の観点から見れば、本来、密接不可分なはずの「主観」と「客観」を切り離してしまったのは、後世の儒者たちなのだ。(童子問巻の上-四四)」
長々と引用してしまった私の思い、それでも足りない気分、これらの文言を目の当たりにしたときの私の興奮と喜び。小浜さんなら、それらの一切をお分かりいただけるものと確信しています。
そうです。私は、和辻哲学の源流を目の当たりにした思いに襲われて、とても興奮しましたし、子どものように喜んでしまったのです。
また、本居宣長の国学が、伊藤仁斎の古義学と荻生徂徠の古文辞学の流れを深く汲んでいることは、小林秀雄が『本居宣長』ではっきりと述べています。
つまり、和辻のみならず、時枝や小林の思想的な営為も、日本思想における実学の滔々とした流れのなかのひとつの個性的なあり方としてそのどこかに位置づけることができるのではないかと思われるのです。私は、夏目漱石が構築した文学理論もそのなかにおそらくすっぽりと入るのではないか、とも思っています。漱石の、例の有名な「F+f」という文学の定義について一言だけ触れると、Fはfocusで、認識の主体的側面を強調した言い方です。fはfeelingで、小浜さんの言葉使いをお借りすれば情緒を指しています。つまり、漱石はこの定義によって「認識という主体的な営みは、不可避的に情緒を伴う」と主張していることになります。これは、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観に対する透徹した批判を自ずと含んでいる考え方なのではないでしょうか。
私はそういう系譜的なことを言い募り、分かったような気分になって悦に入りたいのではありません。そういう見方をすることによって、戦後の波の動きに浮き沈みしながら、流れ着いた故知らぬ岸辺に立って、私たちが、彼らが中途でバトン・タッチし損なった「自前の言葉で、自前の世界像を描く」という営みのバトンを握りなおそうとする場合、なすべきことの示唆が少なからず得られるものと思われるのです。だから、そういう見方にいささか固執したいところがあります。
と同時に、中野氏の営みに一種のシンクロ二シティを感じます。物事を真面目に考え詰めれば、人間、似たような地点にたどり着くということでしょうか。
今回は、「鳥の目」になって、全体を見渡すような話に終始しました。いつでも「虫の目」に戻る準備がありますので、今回はこんなところでご容赦ください。
*****
美津島明様 (発信日 8月3日)
気迫と志に溢れたお返事、ありがとうございます。いま少しずつ書き進めている言語論で、解決困難な問題にぶつかって悩んでいるうちに、いたずらに日数が過ぎ、お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。くだんの問題については、スッキリ解決がついたわけではないのですが、「下手の考え休むに似たり」で、もう少し時間をおこうかと思っています。
アングロ・サクソンとの対立による日本の孤立化が、かえって西欧近代との格闘のモチベーションを高め、自前で独自の思想を生み出さざるをえない状況を生んだ、そしてそのことが図らずも日本の思想詩的伝統のよきものを創造的に引き継ぐ形となった、戦後の思想家の文体からはそれが感じ取れないというご指摘、まさにそのとおりと思います。おっしゃるとおり、私が「少数の思想家」ということで想定しているのは、和辻、時枝、小林の三人です。
無責任な連想ですが、以前、グローバリズムに対する懐疑を一貫して展開されている佐伯啓思さんに、「部分的な鎖国もありということでしょうか」と尋ねたとき、「それもありではないかと思います」と答えていたのが印象的です。
下品なたとえで恐縮ですが、やっぱり大股開きは興ざめですね。チラリズムが色気の本質であるように、日本人は国際社会に向けて、政治的・文化的にはそういう姿勢で臨むのがどうも向いているのではないかと思います(もっとも、経済競争の現場だけはそんなことは言っていられないでしょうが)。
貴兄に促されて、忘れていた太宰の「十二月八日」を読み直しました。ただこの作品は、「作家の奥さんの日記」という女性の立場から、当日の当たり前な日常時間が流れる中での静かな興奮を綴ったもので、おそらく太宰は、例の得意技で、美知子夫人のじっさいの日記を素材にしてこれを仕上げたものと思われます。初出『婦人公論』昭和十七年二月号となっていますから、書かれたのはあの運命的な日から年末にかけてと推定されます。旦那を見る「女房的まなざし」が、厳しくも優しく、そしてユーモラスに描かれていて、さすが太宰と感じ入らせる佳品です。
このことに関連してご指摘したいのは(うかつなことに私も今回初めて気づいたのですが)、その直前に彼は『新郎』という短編を書いており、末尾に「昭和十六年十二月八日之を脱稿す」という但し書きがあることです。こちらのほうは、太宰自身と思しき「私」の立場から書かれたものです。これは、文体には相変わらずユーモアが漂っているものの、やや厳粛なトーンで、彼お得意の「ほら話芸」は低く抑えられており、名作『富岳百景』の系譜に連なるものという感じです。
貴兄の言われる「心静かにしかも強い決意を秘めて受けとめる凛とした姿」というのは、あるいはこちらの作品のほうでは?
ところで、昭和十六年十二月という緊迫の一ヶ月間に、彼がこの二作品を書いたということに、今回私はとても興味を惹かれました。太宰が戦中にいわゆる時局迎合作品を一篇も書かなかったことはよく知られていますが、もちろんそれは彼が「反戦意識」などをもっていたからではなく、あくまでも日常生活目線、ややカッコつけて言えば実存者目線を貫いていることの証左であると考えられます。これは小林秀雄のそれにも通ずるものです。
で、『新郎』と『十二月八日』とは、当時の生活者の、男目線と女目線とを代表するような出来栄えになっており、このふたつは「対」として読んでこそその文学的値打ちがいっそう光彩を増してくると感じました。『新郎』のやや硬い感じを相対化するものとして、すかさず女目線の側から『十二月八日』を書いてみせる、この文学的複眼のあり方こそ、太宰の芸の本領と愚考いたします。ぜひあわせてお読みください。貴兄がブログで紹介していた木下恵介監督の『陸軍』のラストシーンに込められている、あの深い文学的な意味(mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2751026/)に共通するものを感じ取っていただけるものと確信しております。
中野剛志氏の『日本思想史新論』、私も読みました。仁斎、徂徠、正志斎、諭吉と系譜づけるその力技には、従来の「サヨク」的思想史観を相対化するだけの十分な力量が感じられます。若手でこういう人々が輩出しつつあることは頼もしいかぎりです。
貴兄の引用・指摘のとおり、ここで紹介されている仁斎の、「日用」を尊重し、実践的な連関として人間を把握する思想は、まさに宣長の「さかしら」排除、諭吉の実学思想を経て、和辻、時枝、小林に連なるものですね。しかも漱石の言語思想もその系譜のなかに入るとは、今回教えていただき、新鮮な驚きを噛みしめています。私も自分の考え方との共通点を見出すことができ、嬉しくなりました。
江戸期及びそれ以前の日本思想をきちんと検討してこなかったこれまでの私にとっていまの段階で言えることは、それぞれの思想家の生きた時代背景もさることながら、仁斎は商家の出(プラグマティスト)、徂徠は医者の息子(リベラルな実践的教養人)、正志斎は武家(軍人)の出(トータルな戦略家)、というように、出自がその思想的特徴に反映しているのではないのかな、という点です。私は貴兄のご想像どおり、この三人のなかでは仁斎(ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E)に最も共感を抱きましたが、与太話をつけ加えれば、私の親爺は商社マン、祖父はそば屋でした。
ところで、西洋近代に跪拝してしまった戦後日本の難点の克服という思想課題に関連して、最近、ある会で四十代の「俊英」の短い講演を聞いたのですが、それについてちょっとびっくりしたことがあります。彼の話の要点そのものは、角栄の列島改造論を見直し、公共事業アレルギーから脱してインフラ拡充・景気刺激のための公共投資を一刻も早く行なうべきだという、しごくまともなプラグマティズムを説いたもので、まったく問題なく受け入れることができたのですが、話の枕にヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を持ち出して、彼を無批判に受け入れているのですね。
びっくりしたというより、ははあ、やっぱり、という感じなのですが、私はたまたま、その前日くらいに、『論理哲学論考』を徹底的に批判してやろうと考えて、草稿を書き上げたばかりだったのです。簡単に言うと、あの論考ほど、西洋のユダヤ=キリスト教的な考え方を無批判に継承して、現代哲学ヴァージョンに仕立てあげた作品は他に例を見ないといっても過言ではありません。「論理的構造が世界である」「語りえぬことがら(倫理学的問題)については沈黙しなければならぬ」という彼のテーゼは、疑いを抱くことを許さない絶対神の存在を前提としなければけっして出てこない発想に基づいているからです。これでは、私たちが感じ取っている情緒的連続体、混沌としての世界、といったものはまったく出番を封じられてしまうわけですね。彼はこの作で、過去の哲学の難解な記述をぶった切るような威勢のよいポーズをとりながら、カントの認識論上の苦闘や、マルクスのドイツ観念論批判の苦闘を前提にした痕跡もまったく見当たりません。
私は当日の講演者の話のどこに違和感を感じたか。同時代か、近い過去の時代の西欧の哲学者に対する批判的検討もせずに、見かけのかっこよさにいかれて平気で紹介する日本人の態度。しかもそれが、そのあとに続いたW・ジェイムズやパースのプラグマティズムの話と何の必然的な関連もないのです。これって、カントがはやればカント、マルクスがはやればマルクス、サルトルがはやればサルトル、という従来の近代日本インテリの習性をそのままなぞっているではありませんか。
若手インテリにとっては、ヴィトゲンシュタインがそんな存在なのだなあ、とため息が出る思いでした。
ちなみに、ヴィトゲンシュタインは、生の長い彷徨を経た後、『哲学探究』を著して、自分の『論哲』を徹底的に自己批判しているのです。この自己批判はきわめて妥当なものです。というのは、これは彼の言語哲学の主軸を、「論理命題としての言語」から「日常的使用としての言語」へと、百八十度転換したものだからです。
にもかかわらず、なぜか日本では、『論哲』がポスト・モダン以降の若手に妙に受けてしまう。日本インテリの「百姓性」って、相変わらず克服されていないのですね。
社会学者・H氏のあの非人情で人間音痴の記述は、まさに『論哲』の衣鉢を継ぐものです。彼にはヴィトゲンシュタインについての著作があるので、いまの若手インテリは、彼の悪影響もどこかで受けているのではないか、と邪推したくなりました。
いずれにせよ、私は今後、H氏を信用しません。
猛暑のなか、この返信が貴兄の頭をいたずらに悩ませないよう祈ります。
今回の貴兄の返信で特にそそられた点は、次の諸点です。そのまま引用します。
① 法然と親鸞の思想が日本においていかにユニークであるか、驚きをもって、再認識する思いです。そのユニークさを、ちょっと刺激的言葉を使えば、扼殺することで、真宗は後に世に流布したのではないかと思うのですが、ここは小浜さんのご意見を伺いたいところです。
貴兄の言いたいことを私なりに想像すると、日本思想史のなかで、ある時代の局面において突然変異のように一神教的な考え方が出てきたが、結局はそれも世俗化の過程で、じつは神道に代表されるような日本古来の思考様式に吸い取られていったのだ、ということでしょうか。仮にそうだとして、この点については、とても難しくて、正直なところ、いまの私にはきちんとお答えするだけの教養の持ち合わせがありません。
ただ、例の「人類の普遍性」の観点からすれば、非常に雑な言い方ですが、「乱世」のような時代的条件(私はこの言葉を平安末期から室町全期までの四百年にわたる長い期間として捉えています)が揃うと、法然・親鸞のような(むしろそのあとの唯円において顕著な)ラディカルな平等思想が生れてくる、といった「唯物論」的な考え方を提示するのにも意味があるのではないかと思っています。
とはいえ、もちろん鎌倉時代は、日本に根づいた仏教が多様に枝分かれした独自な時代ですから、浄土宗、浄土真宗だけをもって、当時の思想状況を代表させることはできないという但し書きが必要だとも思います。
② 冷徹な合理主義の経済的表現であるグローバリズムに対して、日本人がいわば本能的に身構えてしまうのは、いままで述べてきたことから、不可避であると言えるのではないでしょうか。変に無理をして、それをためらいもなく受け入れられない日本人はダメだのだといわんばかりに推進された1997年から2007年ころまでのラディカルな行政改革・構造改革は、日本人の自然体の感性を押しつぶそうとする野蛮な運動だったのではないかとあらためて思われます。変に真面目になったりせずに、適当におつきあいすればいいのです、あんなものとは。
この指摘は、じぶんではうまく言えなかったことを、スパッと、とても見事に言ってもらったような快適な気分にさせてくれました。要するに国民性の根深さに対する自覚と反省がなさすぎたのですよね。それも、遠因をたどれば敗戦体験による誇りの喪失に由来するのではないでしょうか。
しかし問題は、いまだに権力を握る連中がそのことに気づかずに、国民感情を無視して「国際基準」なる浅薄な規範に追従しようとしていることですね。ところが厄介なのは、戦争直後に国民の大多数が「権威」として仰ぐ対象を天皇からマッカーサーにひょいと移し変えたように、日本人にはどうもそういう「百姓性」があって、それを権力者たちが、無意識の鋭敏さでわきまえているのではないか、という点です。
苛酷な国際社会に伍して近代国家のよい点を、伝統的な国民性のよい点と背馳しない形でうまく鍛えなおしてゆくにはどうすればよいのか、というのが、単に政治的問題にとどまらず、大きく文化的な課題でもあると思います。
しかし、TPP参加がどうやら座礁しそうな形勢などを見ていると、貴兄の言う「適当におつきあいする」というやり方が実現するかもしれませんね。そこは日本人の「いい加減さ」がよい意味で通っていくのかな、と、私はかすかな希望をもっています。
③「言」はあくまでも「事」を伝えるための道具であるのに過ぎないという当世流行りの言語観は、生命力の減退・衰退をもたらす危険な思想である、とも言えそうです。私が申し上げているのは、当世ではほぼ無自覚な形で展開されている言語観のことで、情報社会が高度化すればするほど、不可避的に跋扈せざるをえないものです。つまり、情報をやり取りするためだけの便利なツールとし言葉をとらえる風潮のことを、私は、言っているのです。
これは、まさに私がいま書いていることとぴったり重なります。以前、情報学の専門家である西垣通氏を「人間学アカデミー」で呼んだときに、彼自身も、情報学という最先端にいながら(だからこそ?)、学生たちに教えていると、言葉を小包を送る手段・道具のように考えていて困ったものだと話していました。私も及ばずながら、「言葉は思想そのものである」ということを、ない力を尽して説こうと思っています。
私は、時枝誠記の自前の言語思想に畏敬の念を持っていますが、困ったことに、あの主体表出としての言語を強調した時枝でさえ、「言語は水を送る水道管のようなものだ」とか「言語は金を送る為替手続きのようなものだ」といった譬えを用いて、言語と思想を素朴に分離してしまう言語道具観に堕してしまいかねないことを言っているのですね。まして現代の言語観は、貴兄の指摘するとおり、軽薄そのものです。これに対抗するには、「言霊」思想を現代の言葉でどう編みなおすかが問われるのだと思います。
④ここで、ただひとつ「うしろ」には、そのような時間をめぐる両義性がないことが気にかかります。なぜでしょうか。というか、「うしろ」という言葉に関して、時間性の含意のある用例は、「うしろ向き」ぐらいしか思いつきません。これは、過去にこだわることを否定的に言い表す場合に使われます。ほかは、
・うしろ髪を引かれる思い
・うしろ暗い
・うしろ傷
・うしろめたい
・うしろ指
などのように、身体性における死角がもたらす不安の念を織り込んだ、どちらかといえばマイナスの情緒を表す用法が多いような気がします。
この指摘はそのとおりだと思いますし、「無意識」という言葉と身体性のあり方との関係についても、言われることに同意します。この概念にこだわったフロイトの苦闘はそれはそれで評価すべきでしょうが、逆に「意識」って何か、と問われたら、結局は簡単なことで「気づいている(awareness)」ということでしょう。とすれば、はじめから身体的な限界をもっているのは当たり前なのですね。ところで、私も、この前の書簡で「あと、さき」「まえ」とだけ書いて「うしろ」についてあえて書かなかったのは、貴兄と同じように、「うしろ」だけは時間的な過去と未来の両義性がないなあ、と思ったからなのです。
ところがです。念のため「うしろ」について辞書を引いてみたら、なんと次のような語義と用例が出てきたのですよ(『大辞林』三省堂)。
【うしろ】⑥物事の起こったあと。将来。行く末。「なき御うしろに、口さがなくやは(源氏・夕顔)
【うしろめたい】②あとのことが気懸かりだ。将来が心配だ。なりゆきが不安だ。「をみなへしうしろめたくも見ゆる哉 あれたるやどにひとりたてれば」(古今・秋上)
これについては、お互いによく考え直していくことにしましょう。
ちょっと私のほうから、あらたに問題を投げかけたく思います。
空間と時間という分節に関することなのですが、これもまた近代の産物なのか(それだけ底が浅いかもしれない)と思った経験があります。ハイデガーが『存在と時間』のなかで、現存在(=にんげん)を「Sein in derWelt」と捉えていることは有名ですが、これは戦後の哲学界では「世界内存在」と訳されるのがふつうです。ところが、和辻哲郎が『倫理学』のなかでこの用語を「世間内存在」と訳しているのですね。
私はハイデガーの哲学を全面的に肯定するわけではありませんが、彼がつねにドイツ語の土着性、生活感覚から自分の哲学用語を立ち上げたその独創性を高く評価するものです。で、Weltというドイツ語のニュアンスを調べてみると、和辻が訳しているように、ちゃんと「世間」という概念があるのです。「世界」というと、私たちはどうしても「いま、自分を取り巻いている空間」という物理的ニュアンスが支配的になります。
しかし、「世間」という概念はそうではありませんね。とても人間くさいし、はじめから時間と空間とを融合したものとして捉えた言葉だと思います。これは「世(よ)」と言ってしまったほうがわかりやすいと思うのですが、時間と空間というように二分できない、私たちの実存感覚にそのまま寄り添う感じを包括的に表現しています。「世の中」「世の移り変わり」「歌は世につれ」「世代」「世間虚仮」・・・・
私は思うのですが、Sein in der Weltは、関係存在としての人間を把握するなら、単に「よのなかにある者」とすればいちばん的確なのではないかと思っています。このように、きちんと考えれば、後発近代国であったドイツと日本との間には、土着的な生活感覚が保存された言語の共通性のようなものがちゃんとあったのですね(もちろん、政治的・軍事的な同盟としての「枢軸国」を評価するわけではまったくありませんが)。world(英)、monde(仏)にも「世間」「人の世」というニュアンスはあるようですが、問題は、ハイデガーが言わんとしていたWeltを「世界」と訳してしまった日本の哲学研究者の西欧追随的な感覚にあると思います。
私たちは何をやっているのでしょうか。言語や日本語について細かい詮索をしながら、一種の専門的な隘路にはまっているのでしょうか。何となく読む人から見ればそう思えるかもしれませんが、けっしてそうではないと思います。
このやり取りを共通に支えているのは、あえて大風呂敷を広げるなら、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観を見直さなくてはならない、その限界を見極めて新しい世界像を提出して見せなくてはならないという根底的な問題意識だと思います。この種の試みは、これまで、特に戦前において真剣に試みられてきた経緯があります。その試みは少数の思想家によっていい線まで行ったのですが、敗戦とそれに続く戦後史によってその意義が無視あるいは軽視されてしまったという悔しい事態になったような気がします。
少々気負いすぎかもしれませんが、この課題は誰かがやらなくてはなりません。
そしてやるならば徹底的にやる必要があります。私たちも、少しはこの課題克服に貢献できるように、微力を注ぎ続けることにしましょう。
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小浜逸郎様 (発信日 7月25日)
早速のご返事、ありがとうございます。
〉私たちは何をやっているのでしょうか。(中略)このやり取りを共通に支えているのは、あえて大風呂敷を広げるなら、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観を見直さなくてはならない、その限界を見極めて新しい世界像を提出して見せなくてはならないという根底的な問題意識だと思います。この種の試みは、これまで、特に戦前において真剣に試みられてきた経緯があります。その試みは少数の思想家によっていい線まで行ったのですが、敗戦とそれに続く戦後史によってその意義が無視あるいは軽視されてしまったという悔しい事態になったような気がします。少々気負いすぎかもしれませんが、この課題は誰かがやらなくてはなりません。そしてやるならば徹底的にやる必要があります。私たちも、少しはこの課題克服に貢献できるように、微力を注ぎ続けることにしましょう。
ここを目にして、久々に、心が熱くなる思いを噛みしめました。内輪ぼめのような形になってしまいますが、小浜さんが「少々気負いすぎ」る姿は、思想家としてとても魅力があります。と同時に、ここで小浜さんは、少々気負っても仕方がないほどに、戦後日本思想の欠落点であると同時に日本思想の大きな可能性でもある、とても重要な論点に触れているという手応えを感じます。
文中の「少数の思想家」というのは、『人間の学としての倫理学』と『倫理学』の和辻であり、『国語学原論』の時枝誠記であり、戦時中の小林秀雄である、と言ってしまっても、おそらくそれほど的をはずしていないものと思われます。
そうして、彼らの思想的な営みが「いい線まで行った」ことと、当時の日本が置かれた情況とは深い関連があることにも、小浜さんは同意なさるものと思われます。当時の日本は、世界の覇権をその掌中におさめているイギリスとアメリカというアングロ・サクソン民族国家と決定的な対立関係にありました。世界を敵に回して孤立を深めている情況にあった、と言っていいでしょう。そのことが、当時の知識人たちにも深く影響しなかったはずがありません。
私は、手元にさっとお目当ての本が取り出せないくらいに、どこにどの本があるのか分かり兼ねる書架情況を常に抱えていますので、うろ覚えで引用することをお許しください。太宰治に『一二月八日』という短編があります。日米開戦当日の世情と作中の「私」の心持ちを、ユーモアを交えつつも真剣に描いた作品です。この作品で太宰は、世情と「私」に共通するものとして、日米大戦という最大級の国難を、心静かにしかも強い決意を秘めて受けとめる凛とした姿を描き出しています。真珠湾奇襲成功の報を受けて、世間が沸き立つのではなくて、緊張感を孕んだ沈黙の様相を呈しているのが印象に残る佳編です。また、当時の日本社会の一瞬の姿をとどめた記録としても貴重であると考えます。
その「緊張感を孕んだ沈黙」を、戦時中の和辻や時枝や小林は、思想的な営為を展開するうえでの精神的な構えの根底に保ち続けたのではないでしょうか。それをあえて言葉に置き換えれば、「世界の主流を敵に回したいま、敵の言葉ではなく自前の言葉で、自前の世界像を描くほかはない。それをやり切ることができなければ、自分は思想家として大東亜戦争を闘い切っていることにはならない」という思想家としての全重量のかかった背水の陣の思いだったのではないかと想像します。それだけの緊迫感が、彼らの諸作品を心でじかに読むと自ずと伝わってくるのです。
(残念なことですが、彼らの魅力的な文体におのずと織り込まれた緊迫感は、戦後の文体から長らく失われてきたものであると、私には感じられます。戦後の思想家の文体には、どういうわけか、本居宣長から「さかしら」として一蹴されてしまいかねないような、緊迫感の弛緩が避けようもなく織り込まれてしまっているように見受けられるのです。管見の限りでは、そのことに例外はありません。むろん、それが他人事でありえないことはもちろんです)
「自前の言葉で、自前の世界像を描く」うえで、三人はともに日本思想の豊かな流れとの出会いを果たしています。それを「伝統との邂逅」と言いかえてもいいのではないかと思われます。時枝は、江戸時代の契沖・本居宣長・鈴木朗(あきら・左右逆)・本居春庭の諸研究から、その言語観の核心を編み出しました。小林の「伝統との邂逅」については申し上げるまでもないでしょう。
和辻もまた、その著書で明記してはいないのですが、ほかの二人と同様に日本思想の豊かな流れとの出会いを果たしているのではないか。そこから、自分の思想の核心を成すものを汲み取っているのではないか。中野剛志氏の『日本思想史新論』を読んで、その思いを強くしています。
中野氏は、当著で、日本の江戸期の思想の中核として、主に民間思想家によって担われた「実学」=日本流プラグマティズムの伝統を取り出します。この流れは、中国から輸入した朱子学の、「理」をめぐっての合理主義との格闘とそれを通じての日本人としての思想的自立の模索のプロセスとによってもたらされたものです。
そのパイオニアとして、中野氏は、伊藤仁斎を取り上げます。いくつか引用しましょうか。
「仁斎が創始した古義学とは、学問の方法からして朱子学とは根本的に異なる思想である。それは、朱子学の合理主義を拒否し、徹底的に日常経験を重視した実践的な学問であった。仁斎は、そのプラグマティズムによって、人間が社会的存在であり、そして社会は動的な「活物」であるという認識に達した。」
「仁斎は、聖人の「道」とは、「人倫日用当(まさ)に行くべきの路」(語孟字義巻の上-二七)であり、「日用彝(い)倫の間」(童子問序-九)に行なわれるものだと言う。この日常の生活世界における実践を最も尊重するプラグマティズムこそ、仁斎の思想の到達点である。「最上至極宇宙第一」である孔子の思想とは、人倫日用、つまり日常生活の世界の中にあるというのである」
「『道』は、もっぱら人道、つまり社会世界に関するものであるなら、それは、人と物、あるいは人と人との相互交流・コミュニケーションであるということになる。『道』とは、人と人とがお互いに向かって行為を行うことで連関する社会世界のことである。」
「人間とは、いかなる存在か。仁斎は、ずばり人間とは、人と人との間柄のことであるという。「人とは何ぞ。君臣なり。父子なり。夫婦なり。崑(こん)弟なり。朋友なり」(童子問巻の上-二七)。仁斎は、「人が存在するということは相互に関係を結ぶことにおいてである。それぞれ相互に行為的に連関することにおいて人は存在する」(子安一九八二-一八〇)のだととらえた。」
「仁斎は、「内」と「外」、「個人」と「その環境」、「主観」と「客観」の二項対立を排した存在論哲学を提示し、それこそが本来の聖人の教えだと主張したのである。人間の生の観点から見れば、本来、密接不可分なはずの「主観」と「客観」を切り離してしまったのは、後世の儒者たちなのだ。(童子問巻の上-四四)」
長々と引用してしまった私の思い、それでも足りない気分、これらの文言を目の当たりにしたときの私の興奮と喜び。小浜さんなら、それらの一切をお分かりいただけるものと確信しています。
そうです。私は、和辻哲学の源流を目の当たりにした思いに襲われて、とても興奮しましたし、子どものように喜んでしまったのです。
また、本居宣長の国学が、伊藤仁斎の古義学と荻生徂徠の古文辞学の流れを深く汲んでいることは、小林秀雄が『本居宣長』ではっきりと述べています。
つまり、和辻のみならず、時枝や小林の思想的な営為も、日本思想における実学の滔々とした流れのなかのひとつの個性的なあり方としてそのどこかに位置づけることができるのではないかと思われるのです。私は、夏目漱石が構築した文学理論もそのなかにおそらくすっぽりと入るのではないか、とも思っています。漱石の、例の有名な「F+f」という文学の定義について一言だけ触れると、Fはfocusで、認識の主体的側面を強調した言い方です。fはfeelingで、小浜さんの言葉使いをお借りすれば情緒を指しています。つまり、漱石はこの定義によって「認識という主体的な営みは、不可避的に情緒を伴う」と主張していることになります。これは、西洋の近代合理的、客観主義的な世界観に対する透徹した批判を自ずと含んでいる考え方なのではないでしょうか。
私はそういう系譜的なことを言い募り、分かったような気分になって悦に入りたいのではありません。そういう見方をすることによって、戦後の波の動きに浮き沈みしながら、流れ着いた故知らぬ岸辺に立って、私たちが、彼らが中途でバトン・タッチし損なった「自前の言葉で、自前の世界像を描く」という営みのバトンを握りなおそうとする場合、なすべきことの示唆が少なからず得られるものと思われるのです。だから、そういう見方にいささか固執したいところがあります。
と同時に、中野氏の営みに一種のシンクロ二シティを感じます。物事を真面目に考え詰めれば、人間、似たような地点にたどり着くということでしょうか。
今回は、「鳥の目」になって、全体を見渡すような話に終始しました。いつでも「虫の目」に戻る準備がありますので、今回はこんなところでご容赦ください。
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美津島明様 (発信日 8月3日)
気迫と志に溢れたお返事、ありがとうございます。いま少しずつ書き進めている言語論で、解決困難な問題にぶつかって悩んでいるうちに、いたずらに日数が過ぎ、お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。くだんの問題については、スッキリ解決がついたわけではないのですが、「下手の考え休むに似たり」で、もう少し時間をおこうかと思っています。
アングロ・サクソンとの対立による日本の孤立化が、かえって西欧近代との格闘のモチベーションを高め、自前で独自の思想を生み出さざるをえない状況を生んだ、そしてそのことが図らずも日本の思想詩的伝統のよきものを創造的に引き継ぐ形となった、戦後の思想家の文体からはそれが感じ取れないというご指摘、まさにそのとおりと思います。おっしゃるとおり、私が「少数の思想家」ということで想定しているのは、和辻、時枝、小林の三人です。
無責任な連想ですが、以前、グローバリズムに対する懐疑を一貫して展開されている佐伯啓思さんに、「部分的な鎖国もありということでしょうか」と尋ねたとき、「それもありではないかと思います」と答えていたのが印象的です。
下品なたとえで恐縮ですが、やっぱり大股開きは興ざめですね。チラリズムが色気の本質であるように、日本人は国際社会に向けて、政治的・文化的にはそういう姿勢で臨むのがどうも向いているのではないかと思います(もっとも、経済競争の現場だけはそんなことは言っていられないでしょうが)。
貴兄に促されて、忘れていた太宰の「十二月八日」を読み直しました。ただこの作品は、「作家の奥さんの日記」という女性の立場から、当日の当たり前な日常時間が流れる中での静かな興奮を綴ったもので、おそらく太宰は、例の得意技で、美知子夫人のじっさいの日記を素材にしてこれを仕上げたものと思われます。初出『婦人公論』昭和十七年二月号となっていますから、書かれたのはあの運命的な日から年末にかけてと推定されます。旦那を見る「女房的まなざし」が、厳しくも優しく、そしてユーモラスに描かれていて、さすが太宰と感じ入らせる佳品です。
このことに関連してご指摘したいのは(うかつなことに私も今回初めて気づいたのですが)、その直前に彼は『新郎』という短編を書いており、末尾に「昭和十六年十二月八日之を脱稿す」という但し書きがあることです。こちらのほうは、太宰自身と思しき「私」の立場から書かれたものです。これは、文体には相変わらずユーモアが漂っているものの、やや厳粛なトーンで、彼お得意の「ほら話芸」は低く抑えられており、名作『富岳百景』の系譜に連なるものという感じです。
貴兄の言われる「心静かにしかも強い決意を秘めて受けとめる凛とした姿」というのは、あるいはこちらの作品のほうでは?
ところで、昭和十六年十二月という緊迫の一ヶ月間に、彼がこの二作品を書いたということに、今回私はとても興味を惹かれました。太宰が戦中にいわゆる時局迎合作品を一篇も書かなかったことはよく知られていますが、もちろんそれは彼が「反戦意識」などをもっていたからではなく、あくまでも日常生活目線、ややカッコつけて言えば実存者目線を貫いていることの証左であると考えられます。これは小林秀雄のそれにも通ずるものです。
で、『新郎』と『十二月八日』とは、当時の生活者の、男目線と女目線とを代表するような出来栄えになっており、このふたつは「対」として読んでこそその文学的値打ちがいっそう光彩を増してくると感じました。『新郎』のやや硬い感じを相対化するものとして、すかさず女目線の側から『十二月八日』を書いてみせる、この文学的複眼のあり方こそ、太宰の芸の本領と愚考いたします。ぜひあわせてお読みください。貴兄がブログで紹介していた木下恵介監督の『陸軍』のラストシーンに込められている、あの深い文学的な意味(mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2751026/)に共通するものを感じ取っていただけるものと確信しております。
中野剛志氏の『日本思想史新論』、私も読みました。仁斎、徂徠、正志斎、諭吉と系譜づけるその力技には、従来の「サヨク」的思想史観を相対化するだけの十分な力量が感じられます。若手でこういう人々が輩出しつつあることは頼もしいかぎりです。
貴兄の引用・指摘のとおり、ここで紹介されている仁斎の、「日用」を尊重し、実践的な連関として人間を把握する思想は、まさに宣長の「さかしら」排除、諭吉の実学思想を経て、和辻、時枝、小林に連なるものですね。しかも漱石の言語思想もその系譜のなかに入るとは、今回教えていただき、新鮮な驚きを噛みしめています。私も自分の考え方との共通点を見出すことができ、嬉しくなりました。
江戸期及びそれ以前の日本思想をきちんと検討してこなかったこれまでの私にとっていまの段階で言えることは、それぞれの思想家の生きた時代背景もさることながら、仁斎は商家の出(プラグマティスト)、徂徠は医者の息子(リベラルな実践的教養人)、正志斎は武家(軍人)の出(トータルな戦略家)、というように、出自がその思想的特徴に反映しているのではないのかな、という点です。私は貴兄のご想像どおり、この三人のなかでは仁斎(ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E)に最も共感を抱きましたが、与太話をつけ加えれば、私の親爺は商社マン、祖父はそば屋でした。
ところで、西洋近代に跪拝してしまった戦後日本の難点の克服という思想課題に関連して、最近、ある会で四十代の「俊英」の短い講演を聞いたのですが、それについてちょっとびっくりしたことがあります。彼の話の要点そのものは、角栄の列島改造論を見直し、公共事業アレルギーから脱してインフラ拡充・景気刺激のための公共投資を一刻も早く行なうべきだという、しごくまともなプラグマティズムを説いたもので、まったく問題なく受け入れることができたのですが、話の枕にヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を持ち出して、彼を無批判に受け入れているのですね。
びっくりしたというより、ははあ、やっぱり、という感じなのですが、私はたまたま、その前日くらいに、『論理哲学論考』を徹底的に批判してやろうと考えて、草稿を書き上げたばかりだったのです。簡単に言うと、あの論考ほど、西洋のユダヤ=キリスト教的な考え方を無批判に継承して、現代哲学ヴァージョンに仕立てあげた作品は他に例を見ないといっても過言ではありません。「論理的構造が世界である」「語りえぬことがら(倫理学的問題)については沈黙しなければならぬ」という彼のテーゼは、疑いを抱くことを許さない絶対神の存在を前提としなければけっして出てこない発想に基づいているからです。これでは、私たちが感じ取っている情緒的連続体、混沌としての世界、といったものはまったく出番を封じられてしまうわけですね。彼はこの作で、過去の哲学の難解な記述をぶった切るような威勢のよいポーズをとりながら、カントの認識論上の苦闘や、マルクスのドイツ観念論批判の苦闘を前提にした痕跡もまったく見当たりません。
私は当日の講演者の話のどこに違和感を感じたか。同時代か、近い過去の時代の西欧の哲学者に対する批判的検討もせずに、見かけのかっこよさにいかれて平気で紹介する日本人の態度。しかもそれが、そのあとに続いたW・ジェイムズやパースのプラグマティズムの話と何の必然的な関連もないのです。これって、カントがはやればカント、マルクスがはやればマルクス、サルトルがはやればサルトル、という従来の近代日本インテリの習性をそのままなぞっているではありませんか。
若手インテリにとっては、ヴィトゲンシュタインがそんな存在なのだなあ、とため息が出る思いでした。
ちなみに、ヴィトゲンシュタインは、生の長い彷徨を経た後、『哲学探究』を著して、自分の『論哲』を徹底的に自己批判しているのです。この自己批判はきわめて妥当なものです。というのは、これは彼の言語哲学の主軸を、「論理命題としての言語」から「日常的使用としての言語」へと、百八十度転換したものだからです。
にもかかわらず、なぜか日本では、『論哲』がポスト・モダン以降の若手に妙に受けてしまう。日本インテリの「百姓性」って、相変わらず克服されていないのですね。
社会学者・H氏のあの非人情で人間音痴の記述は、まさに『論哲』の衣鉢を継ぐものです。彼にはヴィトゲンシュタインについての著作があるので、いまの若手インテリは、彼の悪影響もどこかで受けているのではないか、と邪推したくなりました。
いずれにせよ、私は今後、H氏を信用しません。
猛暑のなか、この返信が貴兄の頭をいたずらに悩ませないよう祈ります。