美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

エクスキューズ

2021年08月04日 23時52分07秒 | 報告
気になる動画とそれに対する短文、という投稿パターンが続いております。申し訳なく思っております。しかし当方の個人的事情としての時間の制約という条件からすれば、とりあえずこのやり方を続けるよりほかはございません。日本の属国的報道状況からすれば、発信しないよりはまだマシ、という判断です。ご了承いただければ、さいわいです。

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訪蜀記(その2) 李家のひとびと・前半 (美津島明)

2015年03月29日 22時49分26秒 | 報告
訪蜀記(その2) 李家のひとびと・前半 (美津島明)

妻の旧姓は、李です。今回は、李家のひとびとについて触れようと思います。

とはいうものの、身内のことについて人様にどこからどう語ればいいのやら、正直に言って、少なからず戸惑うところがあります。まあ、変に構えずに、あれを語りたい、そういえばこれも、と湧いてくるがままに語りましょうか。

ではまず、お墓参りのことから話しましょう。成都空港に到着した翌日の午後、私たちは妻の両親が住んでいる資中県の中心地に到着しました。二十年前には乗合バスで向かったのに対して、今回は、妻の妹の旦那さんの車で向かいました。二〇年前の、混雑した乗り合いバスの中では、殴り合いの派手な喧嘩があり、最後は包丁まで飛び出す始末でした。少なからずカルチャー・ショックを受けて、これからの旅がどうなることやらと案じたのを、生々しく覚えています。今回は、旅の始まりから終わりまで、そういう殺伐とした光景に遭遇することはまったくありませんでした。やはり、それなりに豊かになると人情も穏やかになるのでしょうかね。

両親がいま住んでいるのは、市街地のほぼど真ん中と言っていいところで、妻が、確か10万元(約200万円)で買った物件です。妻の妹、つまり義妹の群英が、ディスカウントショップのようなこと(普通の日本人からすれば、ゴミ屋さんとしか見えません。中国では、中古品の幅が恐ろしく広いようです)をやっていて、いろいろな品物を所狭しと積み上げるようにして置いているので、まるでゴミのなかで暮らしているかのような状態です。

話がずれてしまったようです。墓参りの話でした。陽はすでに傾いていたのですが、どうやらいまから墓参りに行こう、ということになったようです。メンバーは、妻の両親、義弟の千とその奥さんと子どもふたり、義妹の群英とその旦那と子どもふたり、妻と私の総勢十二名です。千と群英の旦那の車に分乗して、墓所に向かいます。

二十年前、妻の先祖の墓所のある村へ行くのには、とても苦労をしたものです。当時の私たちは、そこへ向かう小型のダンプカーの荷台に乗せてもらって資中県の中心街から一時間あまりで村に着きました。途中は、曲がりくねった未舗装のガタガタ道がずっと続いていて、嫌になるほど身体が上下左右に振動しました。

今回は、そんなことはありませんでした。近道ができたらしくて、狭いけれど完全に舗装された道路を二十分ほど走ったところで、村に着きました。

実は、墓所のある村というのは、李一家が永らく住んでいた家の在所です。この場合、李一家というのは、妻と妻の両親と義妹と義弟の五人です。妻は、そこで生まれ育ち、高校卒業後、北京に行き、伯父の家に居候しながら働き始めました。二〇年前に妻とそこを訪ねたときは、両親と義弟の千の三人が住んでいました。義妹の群英は、中学卒業後、広東の工場に働きに出た後だったので、いませんでした。そのときも、墓参りをしました。私を含めても四人での墓参りでしたから、そのときと比べれば、今回は人数が三倍に増えたことになります。人数だけで言うのは早計かもしれませんが、いまの李家はなかなか勢いがあるようです。

村に到着して、まずは父方の墓所に行きました。つまり、妻の父方の祖父が眠る墓があるところです。中国は典型的な父系社会ですから、祖父母の墓はそれぞれ別の所に建てられることになっているようです。そこに着いて、まずは、紙銭(しせん)を一枚一枚剥いでばらばらにします。手分けしてそうしながら、別の人が赤いろうそくを墓前に二本立てます。さらに別の人が、墓のそばの木に爆竹を飾りかけます。準備ができたら、墓の周りに置いた大量の紙銭を焼きながら、ひとりひとり墓前で額づきます。子どもたちも神妙な表情で大人がするように額づきます。私は、合掌するにとどめました。

実は、父方の祖父の向かって左隣りにもうひとつ墓があります。それは、妻の姉・彬玉の墓です。その墓前に座り込んだ義父の姿に、私は少なからず衝撃を受けました。というのは、死んだ娘の墓前で、義父が深々と額づいて、慟哭のおらび声をあげたからです。義父のそんな激しい姿を見るのははじめてのことです。妻に義父が何を言っているのか訊いたところ、死んだ長女に対して、「申し訳ない。俺がお前を死なせてしまった」と詫びているとの由。私を含めたほかの十一人は、義父の姿をだまって見守るほかはありません。

ここで私は、およそ四半世紀前に李家を襲った悲劇に触れなければなりません。

話は、四十年ほど昔にさかのぼります。当時の義父は、村の組織の会計係を担当していました。とても真面目な会計係だったようで、よく言えば几帳面な、悪く言えば融通のきかない、そういう仕事ぶりだったそうです。そういう人柄だからこそ、会計係に抜擢されたのでしょう。当時の村は、今で言えば郷鎮企業として組織されていたようで、おそらく当時はいわゆる人民公社だったものと思われます。人民公社が郷鎮企業と呼び変えられるようになったのは一九八〇年代の半ばです。農作業に費やした時間は自己申告制で、義父はそれを集計し、労働の成果としての村の収益は、労働時間の多寡で村のひとびとに配分されたようです。義父は、労働時間の集計や、村の収益の計算やらの経理業務を、きっちりと丁寧に遂行したようです。

その几帳面な仕事ぶりが、図らずもSの不正を暴くことになってしまった。村の寄り合いで、義父は、会計上のつじつまの合わないところを一から十まできちんと説明することによって、集まったひとびとの面前で、Sの公金横領を白日の下に晒したのです。それは、(私も詳しいことはわかりませんが)Sに対する個人攻撃というよりも、帳票類を付き合わせていくうちにそれが自ずと明らかになった、ということだったそうです。まあ、明らかにSが悪いのです。

しかし、Sはそれを逆恨みした。実は、Sが義父を逆恨みした理由はそれだけではありませんでした。義父は身体を惜しまずよく働く人なので、李家は、貧乏な村のなかでそれなりに裕福なのでした。また長女は、村で評判の美人で、頭も良くて将来は小学校の先生になるのが夢、という女性でした。過酷な農作業を難なくこなせる強靭な肉体の持ち主でもあったようです。村のスターですね。ついでながら、次女(つまり妻)も三女(つまり群英)もそれなりに田舎では綺麗だと思われていたようです。美人三姉妹というわけです。で、Sはそれらのことを羨望していた。勝手な話ではありますが、それも、逆恨みの原因になったようなのです。

そのほかにも色々とこまかい事情があるようですが、それは省きます。いずれにしても、義父とSとは、犬猿の仲になってしまった。しばしば小競り合いがあったようですが、そういうことの繰り返しのなかで、Sの李一家に対する憎悪がついに沸点に達するときがやってきました。それが、先ほど触れた、四半世紀前の悲劇をもたらすことになりました。

その日の昼、Sは二人の屈強な息子を含む一家総出で、李家を襲撃したのです。姉の彬玉はSの長男から鋭利な農機具で頭を一撃され、義父は包丁で肩や背中を傷つけられ、義母も同じく肩や背中を傷つけられました。妻が襲われなかったのは、S一家が襲撃してくるという知らせを村人から受けて、恐ろしさのあまり、一目散に逃げられるところまで死力を尽くして逃げたからです。年長の三人は、襲撃の知らせを受けても、おそらく家を守ろうとして踏みとどまったのではないかと思われます。まさかS一家が自分たちを殺そうとしているとは思わなかったのでしょう。また、義弟・千と義妹・群英は学校に行っていたので、襲われませんでした。S一家は、切りつけただけではあきたらず、グロッキー状態の三人を、肥溜めに投げ込んだそうです。

しばらくして気を取り戻した三人は、血みどろになりながら身を寄せ合うようにして、二〇km先にある病院まで歩いて行ったそうです。入院してから四日後、彬玉は、錯乱状態に陥り、それ以降、どこか気が触れたような風情になり、別人のようになってしまった。美しくて強かったかつての面影がまったくなくなってしまったのです。自分を襲ったS一家と妙な具合に親しくなったり、目を剥いて意味もなく父母を罵倒したり、ときおり何かのきかっけで錯乱して家族を困らせたり、とにかく大変だったそうです。

そういう、目を覆いたくなるような状態が三年間続いた果てに、ある朝、彬玉の死体が家の前の沼に浮いていたそうです。入水自殺を敢行したのです。なぜか、彼女の写真がすべて破かれていた。享年二三歳。これは想像でしかないのですが、彼女は、死の直前に突然正気に帰ったのではないでしょうか。我が身を襲っている状況、家族の心痛、これからの自分の人生。そうしたもろもろがはっきりと我が目に映り、自死よりほかに道がないことを悟った。その、自己抹殺という結論に向けて、決然と身を踊らせた。そういう印象が消えないのです。

私は、妻に訊ねました。事件を官憲の手に委ね、法によってS一家を裁くことはできなかったのか、と。彼女の話には、正直に言えば、いささか要領を得ないところがあるのですが、話を総合すると、当時の中国の法制度には、金も権力もない市井人の権利を守る余地はまったくなかった、となります。妻の両親は、Sが法の裁きを受けるよういろいろと方策を立ててはみたのですが、要するに、法権力からまったく相手にされなかったようなのです。警察は動かなかったのか、と訊いたところ、吐き捨てるように、「あいつらは、金でしか動かない」と言うばかりなのです。「中国は、法治国家ではない」とよく言われますが、私は、それが具体的にはどういうことを意味するのか、ようやく分かったのでした。

そこで気になるのが、Sをめぐる村長の言動です。三人に対して、人間の所業とは思えないような非道いことをしてもなお、Sの憎悪はおさまるところを知らず、犯行現場に居合わせなかった義弟の千を殺そうと思いめぐらしたそうです。Sは、義父が家長としてその将来を最も嘱望している長男と長女の命脈を断つことで、義父に致命的なダメージを与えようとしたのでしょう。で、村長がSを掻き口説いて思いとどまらせた、というのです。以下は、私なりの下司のかんぐりです。村長としては、そうなると事態が自分の手にあまるようになり、事件を官憲の手に委ねるよりほかはなくなる。そうなると、彼は、上から見れば、〈村長は不祥事を起こした管理失格者〉という扱いになる。それは困る、得策ではない、と判断したのではないかと思うのです。つまり村長こそが、官憲の介入を排除した張本人なのではないかと思うのです。

話がだいぶ遠くまで行ってしまいました。李家は、四半世紀前にそのような深いダメージを受けたのです。そうして義父は、そのことでずっと自分を責めつづけてきた。墓参りでの彼の姿は、この四半世紀の間彼が何を心のなかで感じ続けてきたのかをはっきりと物語っていました。

「李家のひとびと」の前半を終えるに当たって、生前の写真がないという彬玉によく似た肖像を掲げておきます。それは、韓国映画『風の丘を越えて』のヒロイン、オ・ジョンへのものです。私がレンタルショップで借りてきた同映画を妻と家で観ていたとき、彼女が、「この女優さん、お姉さんによく似ている」と言って、落涙したといういきさつがあります。ささやかながらの鎮魂のふるまいとして掲げておきます。


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訪蜀記(その1)蜀の精華  (美津島明)

2015年03月12日 21時54分06秒 | 報告
訪蜀記(その1)蜀の精華 (美津島明)

今回私は、二〇年ぶりに中国四川省を訪れました。妻がそこの出身で、そこに住んでいる両親が高齢なので不測の事態がいつ生じてもおかしくない。だから、ふたりが元気なうちに彼らに私の顔を見せてあげてほしい、という妻の願いを私が受け入れた、というのがその理由です。そういうふうに切々と訴えられて断るわけにいかなくなってしまったのです。

二〇年前に訪れたのは、妻の両親にふたりの結婚を報告するためでした。私にとっては初めての中国訪問の旅でした。帰路で、北京に立ち寄って、妻の父方の親戚に会ったのを覚えています。旅の途中で、全身に痒みを伴う発疹が生じたり、ホテルで使ったタオルのせいで目が充血し目やにが異常発生して面妖な風貌になったり、ホテルや空港での職員の劣悪なサーヴィスに堪忍袋の緒が切れて英語をしゃべりまくる変な日本人になってしまったり、と心身ともにボロボロになって帰国しました。それで、もともとは熱烈な中国ファンだった私(中国人と結婚するくらいですから)が、中国にすっかり懲りてしまったのです。ひるんでしまったのです。その後、妻は何度か帰国しましたが、私はそれに同伴しませんでした。

「実は両親だけではなくて、弟や妹もあなたに会いたがっている」。その言葉は、妻の幾度かの帰国をなかば見て見ぬふりをしてきた私のやましさを直撃しました。

そんなわけで、私は二月二三日(月)から二八日(土)までの六日間、四川省、すなわち、三国志の魏・呉・蜀のなかの蜀の国に行ってきたのであります。

成都空港に着いたのは夜中の12時前後でした。空港では、妻と彼女の弟の千と妹の群英の三人が待っていました。弟の千とは二〇年前に会ったことがありますが、妹の群英とは今回が初顔合わせです。ふたりについてはいずれ詳しく触れようと思っているので、ここでは略します。弟の車で、ホテルに直行しました。車窓から見える夜中の成都は、なんとなくですが、二〇年前と比べて巨大化しているような印象を抱きました。ビルが大きくなっているからです。ホテルのロビーでは、妻の親戚たちの予期せぬ大歓迎を受けました。弟の千の奥さんやその子どもたち、妹の群英の旦那さんやその子供たちもいました。真夜中であるにもかかわらず、みんなニコニコ顔で、目が野生動物のようにきらきらしています。というのは、ホテルのロビーの照明があまり明るくなかったのです。中国語をほとんどしゃべれない私は、謝謝(シェシェ)を繰り返すよりほかに術はありません。

翌日の昼、みんなで昼食をとった後、妹の群英の旦那さんの車で妻の両親が待っている資中県に向かいました。資中県は、高速道路を時速100kmで突っ走って三時間ほど成都を南下したところにあります。

その次の日、親類縁者が一同に会しての、近所の中華料理屋での昼食会がありました。総勢約三〇人で丸テーブル三卓の大規模な会食でした。妻の両親が住んでいるところを集合場所にしたのですが、そこでとてもなつかしい顔を見かけました。妻の父方の従兄です。

二〇年前に資中県に来たとき、真っ先に立ち寄ったのが、実はこの従兄の家だったのです。八月初旬のことだったので、とても暑かったのを覚えています。成都空港からバスで三時間ほど爆走して資中県に到着し、降り立ったところから徒歩で一〇分程度のところに従兄の家はありました。降り立ったところは、資中県の中心街なのでしょうが、鄙びた埃っぽい小さな田舎町という印象でした。居間に通されて、お湯が出されたのには、内心けっこう驚きました。

当時三三歳の従兄は、生活に疲れた様子ではありましたが、繊細な顔立ちをしたなかなかのイケメンでした。妻が子どものころの憧れの男性だったようです。彼に紹介された奥さんも、所帯やつれをしてはいるもののなかなかの美人です。妻によれば、当時のふたりは近所でも評判の美男美女カップルでした。


しかし、それ以上に驚いたのは、当時八歳の、従兄夫婦の長女の美少女ぶりでした。次の写真の右側が彼女です(ちなみに左側は、当時の妻です)。



当時の写真を被写体としてあらためて撮り直したため、やや不鮮明ではありますが、その愛くるしさはそれなりにうかがわれるのではないでしょうか。見た目だけではなくて、仕草や妻とのやり取りから、性格の素直さや真面目さや優しさもうかがわれて、私はすっかり長女のファンになってしまいました。半ば本気で、養女として日本に連れ帰ることができないものかと妻と話し合ったほどです。まあ、こんな宝物を、従兄夫婦が手放すはずがないので、そのことを彼らに対して口に出すことはなかったのですが。いつまで続くか分からない貧しさに押しつぶされてしまうには、彼女の心身の美質があまりにも勿体ないように思われて、気が気でない気分に襲われた、というのもあったのです。子どもに心を奪われると、私の場合、その子と血のつながりがなくても、過剰なほどの庇護欲求が湧いてくるようなのです。それはそんなにめずらしいことではないだろうとは思いますが、いかがでしょうか。

話を戻します。妻の両親の家の庭先で二〇年ぶりに再会した従兄は、ニコニコしながら奥さんを紹介してくれました。従兄も奥さんもそれなりに年齢を重ねてはいましたが、幸せな暮らしぶりをうかがわせるようなふっくらとした風貌をしています。そうして、奥さんの隣に落ち着いた佇(たたず)まいで椅子に座っている若奥さんが自ずと目に入りました。というのは、その女性が目を射抜くような色白の美形であったからです。結婚しているのがすぐに分かったのは、赤ん坊を抱いていたからです。ほどなく従兄が、「長女です」と紹介してくれて、やっと、その若奥さんと二〇年前の美少女とが頭のなかで結びつきました。私の目の前には、二〇年前の美少女がゆっくりと時間をかけて大輪の花に成長した姿が、そんなことなどごく当たり前で、あらためて感動するほどのことでもないと言っているかのようなおっとりとした風情でたたずんでいるのです。

宴席は、従兄の隣でした。そこで私はあらためて従兄と旧交を温めました。むろん通訳は妻よりほかにいません。ほかには、妻の父親や弟の千や妻の旦那さんのお父さんやらが一〇名ほど丸テーブルを囲んで、ご当地のアルコール45%の焼酎を飲んでいます。酒宴の詳細については「その2」でお伝えしようと思っていますが、私は、中国式の「乾杯」で焼酎の一気呑みをやらかして、結局前後不覚状態になってしまいました。

気がついたのは、翌日の午前中でした。ほぼ、まる一日寝ていたことになります。意識を取り戻した私に、妻が「従兄が自分の家にみんなを招待したいと言っている。昨日のお返しをしたいということだ。起きれるか」と声をかけてきました。私は、こっくりとうなずいて、おもむろにベッドから起き上がりました。私たちの資中県での滞在先は、妻の妹・群英のマンションです。リビングは20畳以上あったでしょうか。

従兄の家は、群英のマンションから、とぼとぼと歩いて三〇分弱ほどのところにありました。従兄の家に向かう道路は一応舗装されてはいるのですが、雨が降ると泥でぐちぐちゃになってしまうという代物です。四川省は一年中、巨大な盆地が巨大な雲で蓋をされているような土地柄なので、夜は毎日のように小雨がぱらつきます。だから、そこいらの道路はいつもぐちゃぐちゃなのです。でも、商店が途切れることはありません。資中県の中心地は、二〇年の間に、都市として信じられないほどに巨大化したのです。だから、道路・ゴミ処理・下水道などのインフラ整備がどうにも追いつかない状態なのでしょう。それで、泥を避けるようにして細い歩道をとぼとぼと歩くよりほかにないわけです。

従兄の家は、マンションの二階にありました。総勢10数名の親戚たちと中に入ってリビングのソファに座ると、小奇麗な暮らしぶりをしていることがすぐに分かりました。おもてなしとしてまず出されたのは、お湯ではなくて、ワンタッチで出るお湯を注がれたお茶でした。トイレも日本人に馴染みのある水洗式で戸惑うことはありません。中国で一般に普及しているのは、用を足した後、柄杓で汲んだ水を排水口に流し込む方式のトイレです。両親の家も群英のマンションもそうです。だから、従兄の暮らしぶりは、中国ではなかなか都会的なもの、例えば、上海あたりの中流家庭のそれに近いものであると言えるのではないかと思われます。

私は従兄に対して、その住居がたいへん素晴らしいものであり、この二〇年間従兄は実によく頑張ったにちがいないと思っていることなどを率直に伝えた。すると従兄は、大きくうなずいて、「全ては妻のおかげだ。この女性を娶った私は、果報者だ」と言います。その率直な物言いに、私はなにやら胸中がスカッとしました。妻によれば、従兄は、親戚が地元の工場を退職したのを引き継いで機械の修理工としてその工場でずっと働いてきました。だから、儲け話に手を出すとかなんとかいった、バブルに踊るようなマネをして豊かになったのではどうやらなくて、地道に真面目に働いて今日の経済的基盤を手に入れたのです。これは、中国社会における豊かさの実現がバブルや汚職によるものだけなのではなくて、真面目に働くことによっても可能であることを雄弁に物語っている、と私は考えます。この視点は、中国経済の本当の姿を察するうえで極めて重要なものなのではないでしょうか。

お酒が進んできたところで、あんな綺麗な娘を持って、結婚するまで父として気が気ではなかっただろうと言ったところ、従兄は、本当にそうだったというふうに無言で深くうなずきました。綺麗で上品で素直な娘さんにちょっかいを出したがる身分不相応でタチの悪い馬鹿男はどの国にもいますからね。長女は君という名で、どうやら成都郊外のけっこう裕福な男のところに嫁いだようです。旧正月で実家に帰ってきた、ということでした。いま二八歳。これから女の盛りを謳歌することになるのでしょう。妹もいるのですが、こちらは、姉よりも早く嫁ぎ、いまは広東に住んでいるとの由。

食事の後に、従兄一家の写真を撮りました。次のがそれです。



向かって左手が従兄の長女、真ん中後ろが従兄、右手がその奥さん、そうして、三人に囲まれている赤ん坊が、まだ生後七ヶ月の、長女の娘です。実は、この赤ん坊、一座の大の人気者で、妻の親族の人々によって代わる代わる抱っこされていました。その気持ち、私はよく分かります。この写真からどの程度伝わるのか、よくは分かりませんが、抱いている人の真正面にその顔を持ってくると、つぶらな瞳で至近距離の相手の顔を正面からじっと不思議そうに見つめ、キャッキャと笑うので、いとおしい感情がおのずと湧いてくるのですから。



上の写真なら、その感じがわりと伝わりやすいかもしれません。お母さん、娘さん、お孫さんと、この一家は、すっきりとした素敵な雰囲気とつぶらな瞳がちゃんと遺伝しているようです。

私が今回の投稿につけたサブタイトルの「蜀の精華」とは、この三人の生命の美しき連続性を形容したものです。従兄の奥さんがお孫さんを抱いているのを私が嬉しそうに眺めていたところ、何をどう思ったのか、私にお孫さんを抱かせようとしました。むろん私がそれを拒むはずもないのですが、なんというか、赤ちゃんを抱くのに慣れていないので、突然壊れやすい宝物を授かったような気持ちになり、実に神妙な心持ちであやすような曖昧な動きをちょっとしただけで、奥さんにお返ししました。でもそれだけでも、ぼおっとのぼせてしまうほどに幸せな瞬間だったのです、私にとっては。

従兄の家での宴の昼の部に続いて夜の部も終わりに近づいたころ(中国四川省では、客人を招いての宴は、通常昼夜2回行われるそうです)、従兄が、私たち夫婦に昔の自分の家を見せたいと申し出ました。中庭からすぐに行けるのですが、いったん表通りに出てそこから路地に入る形で見せたいというのです。彼としては、二〇年前に私が訪問したルートをたどることで、そのときのことを私が思い出すのを期待したようです。彼のその目論見は的中しました。私は二〇年前に従兄の家を訪ねたときのことを細部に至るまではっきりと思い出したのです。妻を通じて、従兄にそのことを告げると、従兄は、何度もうんうんとうなずきました。いまは、ほかの人にそこを貸しているのですが、その人が旧正月で留守にしているから、従兄は家のなかまで私たちを案内してくれました。古びてはいましたが、従兄の家は私たちが訪問したときの原形をしっかりととどめていました。従兄も、奥さんも、長女も、貧しかった当時のことを隠そうとする素振りをまったく示そうとせず、実に自然に私たちが訪れた当時のことを懐かしそうに思い浮かべているようでした。そこに私は、中国人の強靭さの秘密があるように感じました。 (その2につづく) 
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箱根湯本~芦ノ湖ルートは、素晴らしい

2014年09月06日 09時39分15秒 | 報告
八月三〇・三一日、私は妻と箱根に行ってきました。これまで箱根に行ったのは、高校時代に美術部の仲間に彫刻の森に連れられていったのと、大学時代に運転免許取り立ての友人の運転でドライヴしたのの二回だけでした。一度目は、帰りの箱根登山電車が山の中でストップして暗闇のなか数時間立ち往生したので大変辛い思いをしました。また二度目は、箱根の激しく蛇行した道路を青い顔をして運転する友人の余裕のなさそうな様子に肝が縮み上がる思いがしました。いずれも正直にいえば、いい思い出として残っていなかったわけです。そのせいでしょうか、ずいぶん長い間、箱根から足が遠のいていました。今回は、約三五年ぶりの箱根旅行、ということになります。

いやぁ、想定していなかったほどの、とても良い旅となりました。そこで、私のつたない経験から、箱根の素敵なルートをご紹介いたします。みなさまの参考になればと思います。

新宿駅から、小田急のロマンスカーで約一時間半、箱根湯本に着きます。じつに快適な乗り心地です。そこから、箱根登山鉄道で、塔ノ沢、大平台、宮ノ下、小涌谷、彫刻の森を経て強羅(ごうら)に着きます。約四〇分の道のりですが、スイッチバックが二回あったり、車窓からの美しい景色が少しづつ変化したりで、立ったままでも少しもつらくありません。あっという間に強羅に到着する感じです。強羅駅界隈は、落ち着いた上品な雰囲気です。駅から三分のところに函嶺(かんれい)白百合学園中学校・高等学校というカトリック系ミッションスクールがあるので、それも当然といえば当然ですね。



箱根登山鉄道
(http://sl-taki.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301822538-1 から転載させていただきました。ありがとうございます)

強羅からは、箱根登山ケーブルカーで早雲山(そううんざん)まで登りましょう。わずか一〇分ほどで同駅まで着きます。かなりの傾斜があるので、本当にゆっくりと走ります。まさしくケーブルでヨイショと引き上げられる感触です。乗り降りする人々も心なしかみなのんびりとしています。もしも、百年の歴史を誇る強羅公園に立ち寄りたければ、公園上駅で降りましょう。そうして、公園下駅からあらためてケーブルカーに乗りましょう。残念ながら、私たちは今回そこに立ち寄ることができませんでしたが。


箱根登山ケーブルカー
(http://blogs.yahoo.co.jp/takah1ro581/52578419.html から転載させていただきました。ありがとうございます。)

早雲山で、箱根ロープウェイが次から次に来るので、それにヒョイと乗ってしまいましょう。ロープウェイのなかが混み合うことはないので安心ですよ。ここから大涌谷(おおわくだに)までの一〇分間と、そこから乗り換えての一八分間は、文句なしの絶景が続きます。大涌谷の雄大な眺め、大涌谷から姥子(うばこ)までの緑の広々とした絨毯、姥子を過ぎてからの眼下の芦ノ湖の清浄な眺め。それらは、あなたの目を悦ばせることでしょう。高所恐怖症気味の妻は、ちょっとビビリながらも、周りの景色を大いに楽しんでいました(残念ながら、その日は曇りで富士山は見えませんでした。そこが画竜点睛を欠いたところ、とは言えるでしょう)。ひまがあれば、大涌谷で途中下車して、高い山の清涼な空気を肺腑にこころゆくまで行き渡らせ、お土産に黒玉子を買うのもいいでしょう。大涌谷の温泉池で卵を茹でると殻の周りに鉄分が付着してそれが硫化水素と反応して硫化鉄ができるので真っ黒になる、というわけです。理屈はとにかくとして、見ているだけで面白いし、食べてもなかなかのものですよ。


箱根ロープウェイ
(http://camecan.blog.fc2.com/から転載させていただきました。ありがとうございます。)

ロープウェイに乗ってゆられながら雄大な景色で目を喜ばせて空中散歩をしているうちに、ほどなく芦ノ湖のほとりの桃源台港に到着します。そうしてそこで箱根海賊船に乗りかえて港を後にします。船は美しくて穏やかな湖面をゆっくりと静かに進みます。船のなかでくすぶっていないで外に出て、湖の涼やかな風に当たりましょう。湖を囲む一面の緑が心地よいですよ。

おおよそ三〇分ほどで、船は細長い湖を縦断し、箱根町港に接岸します。私たちは、朝の八時半に新宿を出発したのですが、時計を見るともう少しで午後の一時になります。さすがにお腹が空いてきたので、湖畔のレストランで、一一五〇円の、虹鱒をメインディッシュにした芦ノ湖定食なるものを食しました。芦ノ湖にはブラック・バスがたくさんいると聞いたことがあるのですが、虹鱒や姫鱒などの在来種は大丈夫なのでしょうかね。

虹鱒に舌鼓を打った後、私たちは、箱根の関所に行きました。そこで知り得たことは次回に別立てでお伝えすることにして、そこで一時間ほど過ごした後、ちょっと散歩をしようということで、私たちは湖畔沿いの杉並木をぶらぶらしました。「こんな素敵なところを誰も歩いていないなんて、みんなバカだなぁ」などと話し合いながら、三〇分ほど歩きました。そこは、本当にめったにない素敵な散歩道です。プロポーズするならこんなところがいいなぁ、などと何の役にも立たない妄想にふけっているうちに、元箱根港の近くまで来ました。もしも時間が許すならば、箱根町港に引き返して、そこから箱根登山バスに乗り箱根峠を経由して湖畔を走り抜け桃源台港に戻りたかったのですが、時間的にちょっと不安があったので、元箱根港から箱根海賊船で桃源台港に引き返し、やはりロープウェイとケーブルカーを乗り継いで、強羅に戻りました。そこに宿を予約しておいたからです。戻りのルートもやはり楽しかったですよ。飽きる、ということがありません。ちなみに、強羅の「田むら銀かつ亭」で食べた豆腐かつ煮は、絶品でした。強羅にお越しの際はぜひお立ち寄りください。http://ginkatsutei.jp/sp/

″なかなかのルートだというのは分かったが、交通費がけっこうかかるんじゃないか″と思われるかもしれませんが、箱根湯本からの二日間有効のフリーパス券を四〇〇〇円で買ってしまえば、鉄道もケーブルカーもロープウェイも船もバスも乗り放題なのでお得です。

以上のルートは、日帰りでも十分に満喫できます。私たちは、紅葉の季節を迎えたら、日帰りで当地に舞い戻って来ようと思っています。観光客のマナーが良いという印象が残りました。もっとも、あれだけの景色を見せられて、それでも下品なことをしてしまうなら、もはや救いようがないという気はしますけどね。
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その4)『あしたのジョー』のふるさとを訪ねて

2014年09月05日 00時57分43秒 | 報告
Iと私とは、同年代です。私たちが子どものころ、『あしたのジョー』と『巨人の星』に熱中したことは、以前に述べました。私たちが今回南千住を訪れてみようと思い立ったのは、実は、泪橋界隈を散策して『あしたのジョー』に描かれたドヤ街の世界にいささかなりとも触れてみたいと思ったからです。その楽しみを後に取っておいたのですね。

『あしたのジョー』→ドヤ街とくれば、ファンならまっ先に浮かんでくるのは、泪橋です。泪橋はもはや存在しないことはさすがに知っていたので、それを地名にとどめている泪橋交差点を求めて、私たちは、南千住駅を、言いかえれば小塚原刑場を南下したのでした。

五、六分ほど歩くと、「泪橋」の標識が見えてきました。もちろん、泪橋は見当たりません。交差点があるだけです。車の行き交いはなかなか激しいものがあります。Wikipediaによれば、泪橋は、かつて罪人が小塚原刑場に行くときに渡った橋で、思川に架かっていたそうです。その後思川が暗渠化されたときに泪橋も撤去され、地名として残るのみとなりました。この橋を渡りながら、罪人は娑婆世界との別れを惜しみ、罪人の縁者は罪人の無念を思ってその後ろ姿を見送ります。そういう哀しいドラマの無数の重なりが、この橋の名前にはしみ込んでいるとの由。

つまり、『あしたのジョー』が少年マガジンに掲載されはじめた一九六八年当時、すでに泪橋も思川もなかった。だから泪橋は、梶原一騎とちばてつやによるまったくのフィクションであるということになります。むろん、橋のたもとの「丹下拳闘クラブ」も。それを十二分に理解しながら、心はなおも泪橋を、思川を、「丹下拳闘クラブ」の存在を固く信じ、その所在をどこかで探し求めるのです。子どものころ、いかに深く『あしたのジョー』が心に刷り込まれてしまったのか。それを思うと、自分でも呆れ返ってしまうほどです。まあ、そういう中途半端な大人として、これからの人生も送ることになるのでしょう。



幻のドヤ街を求めてさらに南下し、私たちは「いろは会商店街」に迷い込みました。商店街の入口に構えの大きな交番があるのは、治安上の問題があるからでしょう。かつて山谷の人々の暴動があったそうですからね。ホームレスのオヤジさんたちが、廃業してシャッターの降りた店先でまだ明るいのに酒盛りをしています。また、あちらこちらに布団が敷いてあります。お洒落なお店などほとんど見当たりません。まるで、昭和三〇年代で時間が止まってしまったような構えのお店がたくさん見られます。汗と屎尿と煙草のヤニと腐った野菜が混じったような臭いまで昭和のままです。ここはまさしく、ドヤ街の真っ只中の商店街なのです。ちょっと路地に入ると、一泊二〇〇〇円前後の安宿がごろごろあります。映画「三丁目の夕日」のセットのような古い家屋が何軒も続いていたりします。地元の人々がここを「ジョーのふるさと」と自称しても、誰も小首をかしげたりはしないでしょう。そう自称することで、いささかなりとも経済効果が生じれば、もって祝すべし、です。Iは、雑貨屋で一五〇〇円のレトロな扇風機を買いました。むろん、新品です。私は、あしたのジョーにちなんだグローブ・パンを買おうと思いましたが、売り切れてしまっていました。左右のグローブのなかには、それぞれ、ジャブ⇒ジャムと、腰に粘りがある⇒あんとが入っているとの由。

三河島から南千住、そうして台東区の北端まで、歩き通しだった私たちは、そろそろ限界に近づいてきたようです。曇空とはいえ、まだ真夏ですからね。それでちょっと休もうということになり、目に入った喫茶店に入り、迷わずアイスコーヒーを注文しました。なんだかんだとけっこう長い間しゃべっていたのですが、なかなか注文の品が出てきません。お店に確認しようかとも思ったのですが、まあいいか、ということでさらに数分間待ちました。しびれを切らしそうになったところでやっと注文の品が来ました。すると、びっくり。これがじつに美味しいのです。待ちくたびれた時間は、ひたすら美味しいコーヒーを作るために費やされたのでした。私はその美味しさに、冗談抜きで、感動すら覚えました。こんなに美味しい珈琲を飲んだことが、これまであったのかどうか。注文票を確認してみたら、「カフェ バッハ」とありました。

後ほど調べてみたら、「カフェ バッハ」は、都内でも指折りの名店とありました。なにせ、一日に使う分だけを自家焙煎して、客ひとりひとりに心をこめて出しているというのですから、手間ひまがかかるはずですし、どうりでびっくりするほどに美味しいはずです。以下に、お店のHPのURLを掲げておきますから、お近くにお越しの際は、ぜひ当店にお立ち寄りください。そのチャンスを逸することは一生の損、とまで申し上げておきます。当店の珈琲を毎日飲むために、近くに引っ越してきた人までいるほどなのですから。お店に、すらっとした色白で一重瞼の若い美人のウェイトレスがいたことを申し添えておきます。在日朝鮮系の方でしょうか。お店がすっかり気に入ったので、帰り際、彼女に「とてもおいしかったよ」と言い残して店を後にしました。
http://www.bach-kaffee.co.jp/index.html

その後私たちは、南千住駅界隈の「大坪屋」という居酒屋で、ジョーと丹下のオヤジの幻影や小塚原の強烈な印象にたぶらかされながら(その居酒屋の立地が小塚原のど真ん中なのでした)、こころゆくまでお酒を呑みました。牛筋煮込みや冷やしトマトや身欠き鰊の塩焼きなどが二五〇円と格安なのにとても美味しくて、これまたびっくりしました。そうして、二五〇円のホッピーをかぱかぱ飲んで大満足で店を後にしました。老若男女、なんだか面白い客がたくさんいたような気がしますが、こまかいことは忘れてしまったので、それには触れないでおこうと思います。(おわり)
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