ベビー・フェイス
新宿から小田急線の急行に乗って小一時間、C駅に着く。かつてその界隈に古久屋という中華料理屋があった。メニューはいたってシンプルで、しょう油ラーメン、チャーシューメン、タンメン、餃子、チャーハンほかはなし、といった塩梅で、エビチリソースなんてしゃれたものはなかった。それらが例外なく美味しくて量もたっぷり、ときたものだから、古久屋はいつも千客万来の大賑わいだった。私もまたそんな客のひとりとして、しばしばその店に出入りした。餃子とチャーハン、それが私のお気に入りだった。タンメンも捨てがたい味わい深さであった。
えび茶色ののれんをくぐると、向かって右手に、調理場を囲む紅色のカウンター席が手前から細長い逆L字型に伸びていた。左手から奥にかけては、四人がけの白っぽいテーブル席が三つ四つあっただろうか。また、テーブル席に沿ってガラス窓が続いていたようにも記憶している。だから、昼間なら自然光だけでも十分に店内が明るく感じられるほどだった。三十人の客が収容できるくらいの広さだったのではなかろうか。
調理場にはいつも(そう、私の記憶においては、いつも)ベビー・フェイスに満面の笑顔を浮かべた六十歳手前くらいのころんとした小太りのご主人が、右手に中華鍋を左手にお玉をかちっと握って、こちらが見とれるほどのリズミカルな早業で客の矢継ぎ早の注文に応じ続けていた。調理場にはいつもほかほかの湯煙が立ち昇っていたような印象が残っている。
客のまばらな昼下がりにお店に入ったときのことである。出来上がったチャーハンと餃子を、それらを注文した私の目の前のカウンターに置きながら、ご主人が初めて話しかけてきたのである。
―学生さん?
えびす様のような目を心持ち見開いて、ご主人は少しだけ語尾を上げながら私にそう尋ねた。世慣れぬぎこちなさを多分に抱え、常連としてのそつのない振る舞いをすることなどは考えてみただけで気が遠くなってしまう私は、せめてそっけない返事だけはするまいと心がけて、こっくりとうなずきながら答えたのだった。
―はい、そうです。
ご主人は、さすがにどこの大学だとまでは重ねて尋ねようとせず、会話はそれで終わった。また、私たちが言葉を交わしたのは後にも先にもそのときが最初で最後だった。思えば、そのときまでに、私が注文してカウンターに置かれるチャーハンの量は以前よりもけっこう多くなっていたのだった。つまり、ご主人は私に対してなぜかしら好感のようなものを抱くようになった。そうして、客のまばらなときに、ふと声をかけてみた。そういうことだったのだろうと思う。そんな事情をうすうす察しながら、気の利いた文句のひとつもひねり出せなかった当時のにきび面の自分をいまさらながらにじれったく思う。
妻と二人で江ノ島まで遠出したときの新宿方面への帰りの小田急電車のなかで、そうしたことが、疲れでいささかぼおっとした頭に古びた絵のように浮かんできた。つい昨日のことのようにも感じられるが、思い出すまでに実は三十年あまりの歳月が流れたことになる。《古久屋はいったいどうなっているのだろう》。私は、そういう疑問から逃れられなくなってしまった。いささかうろたえながら、横で船を漕いでいる妻を肘で小突いて起こし、手短に事情を話した。私たちはC駅で途中下車をした。
夕暮れのC駅界隈は、すっかり様変わりしていた。路地のあちらこちらに漂っていた昭和のころのうら悲しさや貧乏臭さを拭い去って、それなりの小ぎれいな小都会に姿を変えていたのである。それは、いまの日本のどこにでもころがっている、ありふれた退屈なドラマである。私は悪い予感を抱いた。そうして、その予感は的中した。古久屋があるはずの場所には、今風の洒落た洋食料理屋があり、瀟洒な作りの窓から若い女性たちの華やいだ顔がいくつか見えたのである。
「まさか」という思いと「やはり」という判断が整理のつかないまま水と油のように混在する。私はどうにもあきらめ切れずに、ぶつぶつとこぼす妻をなだめすかしながら、駅界隈をなおも主人を見失った飼い犬のようにうろついた。目がどうしても「古久屋」の看板を探してしまうのである。むろん、あるはずがないことは頭では分かっているのである、と思いかけたそのとき、「古久屋」の白地に赤文字の看板が目に飛び込んできたのだった。しかも、駅出口正面の、この辺りでは選りすぐりの一等地という立地条件なのであった。私は、《あのじいさんはいないはずなのだから、糠喜びをするには及ばないぞ》と自分に言い聞かせ、それでも足取りだけは(おそらく)軽ろやかに二階に上がっていった。
店内はかなり広かった。五・六十人くらいを余裕で収容できそうだった。洗練されたデザインの室内に老舗を感じさせるものは何もなかった。ベビー・フェイスのご主人はもちろんいなかった。存命ならば九十歳くらいになっているから、楽隠居の身に落ち着いているはずである。エビチリソースなど、品数はいろいろと増えているのだが、私はかつてと同じようにチャーハンと餃子を注文した。食事どきであるのにもかかわらず、店内に客はまばらだった。しばらくして、茶髪のどこかしら不機嫌そうなウェイトレスが注文の品を運んできた。清潔な白いテーブルに置かれた注文の品を目にしただけで、私の期待はなぜか半分しぼんだ。次に、口にしてみて、それはシャボン玉のように消え果てた。かつて私にこの店に通い続けさせた美味さのかけらさえもそこには感じられなかった。チャーハンの、味の沁みこんだ温かいご飯ひと粒ひと粒の、それを含んだ口中に広がるほっこほっこした感じ。餃子の肉汁たっぷりの具を包んだ半透明な薄皮が舌を楽しませてくれるビロビロした感じ。それらの感触がまるで感じられなかったのだ。私の舌は、この新店舗にご主人の味が伝授されなかったことを告げていた。事実かどうかは定かでないけれど、私の脳裏におのずと「冷凍食品」の文字が浮かんだのは確かなことだ。妻が味の感想を言うように私に催促するのだけれど、私はあいまいに押し黙るよりほかはなかった。先代はどうしているのかと店に尋ねる気など、当然のことながら失せてしまった。悪い予感はやはり当たったのだ。
ここからは私の妄想である。賢明な読者には、苦笑しながら見逃していただきたいと思う。
八〇年代後半のバブル経済の最中に、この繁盛している店をめぐって、大きな金が動いたような気がするのである。古久屋という中華料理屋のなんたるかを本当のところはよく分からないおっちょこちょいな連中が、その中で浮かれ騒ぎ小踊りした。あるいは、金融機関から踊らされた。そんな、足が地につかないような状態で、彼らは入れ知恵されたチェーン店のノウハウを頼りに、駅の真正面に規模を拡大して移転した。
そうやって調子づいているうちに、彼らはかけがえのないものを台無しにしてしまったのである。
先代は無心の人だったのだ。その不思議な笑顔は、中華鍋を回し続けるうちに培われた心根からおのずと浮かんできたものであることを、いまさらながらに理解できるのである。料理に込められた先代の、あえて言葉にすればまごごろとでも称するよりほかにないものが古久屋に私たちを導いていたのだった。
店員たちの、マニュアル臭のする「ありがとうございました」のかけ声を背に受けながら店を出た。晩秋の夜のとばりが降りてからの薄ら寒い外気が身に沁みた。私はジャンパーの襟を立てて、駅のやや急な階段をえいっと腹の底にかすかな怒気を込めながら昇り始めた。妻は、私の歩き方が早すぎると文句を言った。
(『ひつじ通信』掲載 掲載年月未詳)
新宿から小田急線の急行に乗って小一時間、C駅に着く。かつてその界隈に古久屋という中華料理屋があった。メニューはいたってシンプルで、しょう油ラーメン、チャーシューメン、タンメン、餃子、チャーハンほかはなし、といった塩梅で、エビチリソースなんてしゃれたものはなかった。それらが例外なく美味しくて量もたっぷり、ときたものだから、古久屋はいつも千客万来の大賑わいだった。私もまたそんな客のひとりとして、しばしばその店に出入りした。餃子とチャーハン、それが私のお気に入りだった。タンメンも捨てがたい味わい深さであった。
えび茶色ののれんをくぐると、向かって右手に、調理場を囲む紅色のカウンター席が手前から細長い逆L字型に伸びていた。左手から奥にかけては、四人がけの白っぽいテーブル席が三つ四つあっただろうか。また、テーブル席に沿ってガラス窓が続いていたようにも記憶している。だから、昼間なら自然光だけでも十分に店内が明るく感じられるほどだった。三十人の客が収容できるくらいの広さだったのではなかろうか。
調理場にはいつも(そう、私の記憶においては、いつも)ベビー・フェイスに満面の笑顔を浮かべた六十歳手前くらいのころんとした小太りのご主人が、右手に中華鍋を左手にお玉をかちっと握って、こちらが見とれるほどのリズミカルな早業で客の矢継ぎ早の注文に応じ続けていた。調理場にはいつもほかほかの湯煙が立ち昇っていたような印象が残っている。
客のまばらな昼下がりにお店に入ったときのことである。出来上がったチャーハンと餃子を、それらを注文した私の目の前のカウンターに置きながら、ご主人が初めて話しかけてきたのである。
―学生さん?
えびす様のような目を心持ち見開いて、ご主人は少しだけ語尾を上げながら私にそう尋ねた。世慣れぬぎこちなさを多分に抱え、常連としてのそつのない振る舞いをすることなどは考えてみただけで気が遠くなってしまう私は、せめてそっけない返事だけはするまいと心がけて、こっくりとうなずきながら答えたのだった。
―はい、そうです。
ご主人は、さすがにどこの大学だとまでは重ねて尋ねようとせず、会話はそれで終わった。また、私たちが言葉を交わしたのは後にも先にもそのときが最初で最後だった。思えば、そのときまでに、私が注文してカウンターに置かれるチャーハンの量は以前よりもけっこう多くなっていたのだった。つまり、ご主人は私に対してなぜかしら好感のようなものを抱くようになった。そうして、客のまばらなときに、ふと声をかけてみた。そういうことだったのだろうと思う。そんな事情をうすうす察しながら、気の利いた文句のひとつもひねり出せなかった当時のにきび面の自分をいまさらながらにじれったく思う。
妻と二人で江ノ島まで遠出したときの新宿方面への帰りの小田急電車のなかで、そうしたことが、疲れでいささかぼおっとした頭に古びた絵のように浮かんできた。つい昨日のことのようにも感じられるが、思い出すまでに実は三十年あまりの歳月が流れたことになる。《古久屋はいったいどうなっているのだろう》。私は、そういう疑問から逃れられなくなってしまった。いささかうろたえながら、横で船を漕いでいる妻を肘で小突いて起こし、手短に事情を話した。私たちはC駅で途中下車をした。
夕暮れのC駅界隈は、すっかり様変わりしていた。路地のあちらこちらに漂っていた昭和のころのうら悲しさや貧乏臭さを拭い去って、それなりの小ぎれいな小都会に姿を変えていたのである。それは、いまの日本のどこにでもころがっている、ありふれた退屈なドラマである。私は悪い予感を抱いた。そうして、その予感は的中した。古久屋があるはずの場所には、今風の洒落た洋食料理屋があり、瀟洒な作りの窓から若い女性たちの華やいだ顔がいくつか見えたのである。
「まさか」という思いと「やはり」という判断が整理のつかないまま水と油のように混在する。私はどうにもあきらめ切れずに、ぶつぶつとこぼす妻をなだめすかしながら、駅界隈をなおも主人を見失った飼い犬のようにうろついた。目がどうしても「古久屋」の看板を探してしまうのである。むろん、あるはずがないことは頭では分かっているのである、と思いかけたそのとき、「古久屋」の白地に赤文字の看板が目に飛び込んできたのだった。しかも、駅出口正面の、この辺りでは選りすぐりの一等地という立地条件なのであった。私は、《あのじいさんはいないはずなのだから、糠喜びをするには及ばないぞ》と自分に言い聞かせ、それでも足取りだけは(おそらく)軽ろやかに二階に上がっていった。
店内はかなり広かった。五・六十人くらいを余裕で収容できそうだった。洗練されたデザインの室内に老舗を感じさせるものは何もなかった。ベビー・フェイスのご主人はもちろんいなかった。存命ならば九十歳くらいになっているから、楽隠居の身に落ち着いているはずである。エビチリソースなど、品数はいろいろと増えているのだが、私はかつてと同じようにチャーハンと餃子を注文した。食事どきであるのにもかかわらず、店内に客はまばらだった。しばらくして、茶髪のどこかしら不機嫌そうなウェイトレスが注文の品を運んできた。清潔な白いテーブルに置かれた注文の品を目にしただけで、私の期待はなぜか半分しぼんだ。次に、口にしてみて、それはシャボン玉のように消え果てた。かつて私にこの店に通い続けさせた美味さのかけらさえもそこには感じられなかった。チャーハンの、味の沁みこんだ温かいご飯ひと粒ひと粒の、それを含んだ口中に広がるほっこほっこした感じ。餃子の肉汁たっぷりの具を包んだ半透明な薄皮が舌を楽しませてくれるビロビロした感じ。それらの感触がまるで感じられなかったのだ。私の舌は、この新店舗にご主人の味が伝授されなかったことを告げていた。事実かどうかは定かでないけれど、私の脳裏におのずと「冷凍食品」の文字が浮かんだのは確かなことだ。妻が味の感想を言うように私に催促するのだけれど、私はあいまいに押し黙るよりほかはなかった。先代はどうしているのかと店に尋ねる気など、当然のことながら失せてしまった。悪い予感はやはり当たったのだ。
ここからは私の妄想である。賢明な読者には、苦笑しながら見逃していただきたいと思う。
八〇年代後半のバブル経済の最中に、この繁盛している店をめぐって、大きな金が動いたような気がするのである。古久屋という中華料理屋のなんたるかを本当のところはよく分からないおっちょこちょいな連中が、その中で浮かれ騒ぎ小踊りした。あるいは、金融機関から踊らされた。そんな、足が地につかないような状態で、彼らは入れ知恵されたチェーン店のノウハウを頼りに、駅の真正面に規模を拡大して移転した。
そうやって調子づいているうちに、彼らはかけがえのないものを台無しにしてしまったのである。
先代は無心の人だったのだ。その不思議な笑顔は、中華鍋を回し続けるうちに培われた心根からおのずと浮かんできたものであることを、いまさらながらに理解できるのである。料理に込められた先代の、あえて言葉にすればまごごろとでも称するよりほかにないものが古久屋に私たちを導いていたのだった。
店員たちの、マニュアル臭のする「ありがとうございました」のかけ声を背に受けながら店を出た。晩秋の夜のとばりが降りてからの薄ら寒い外気が身に沁みた。私はジャンパーの襟を立てて、駅のやや急な階段をえいっと腹の底にかすかな怒気を込めながら昇り始めた。妻は、私の歩き方が早すぎると文句を言った。
(『ひつじ通信』掲載 掲載年月未詳)