中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その3)南京事件Ⅱ (美津島明)
前回は、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)を取り上げていろいろと論じました。お断りしたとおり、その段階では当著未読の状態でした。お断りしたとはいえ、読んだことのない本についてあれこれと論じるのは、正直に言って、あまり気持ちの良いものではありませんでした。
で、その後本書を読んでみました。以下、感想を述べることにしますが、その前に、「虐殺」という言葉の定義についていささか触れておきたいと思います。
「虐殺」は、南京事件を論じるうえで最も重要な言葉です。だから、その言葉をどういう意味合いで使うのかを前もってなるべくはっきりさせておくことは、かなり重要な手続きであると思われます。「虐殺」という言葉を恣意的に使うことは、当テーマについての言説を読み手が誤解したり、無用の反発を招いたりする主たる原因になる。そう思うのです。
広辞苑には、「【虐殺】むごたらしい手段で殺すこと。『捕虜を――する』」とあります。これでは漠然とし過ぎていますね。新明解国語辞典には「〔人や動物を〕一度に大量に(残酷な方法で)殺すこと」とあります。こちらのほうが、広辞苑よりもましかとは思われます。
しかし、南京事件は、東京裁判において、犯罪国家の所業として裁かれたという経緯があります(そう考えなければ、上海派遣軍司令官・松井岩根に対する絞首刑という判決は説明しがたい。松井司令官は、「虐殺せよ」などという命令をしたことなどまったくなかったのです)。そのことを踏まえるならば、新明解国語辞典の意味も物足りないものがあります。
そのような観点からすれば、歴史学者・秦郁彦氏が、『南京事件』(中公新書)で、「″虐殺″は、殺された人数の、事件全体の性格、とくに組織性・計画性に関わる概念らしいと見当がつく」と述べているのが、大いに参考になります。
ということで、私は「虐殺」を、「一度に大量に残酷な方法で殺人を犯す行為のうち、組織性・計画性が認められるもの」という意味で使います。また、そう定義してはじめて、南京事件を犯罪国家の許しがたい所業として裁くことが可能になるものと思われます。松井司令官が、非組織的で無計画で場当たり的な偶発的殺人の責任を取って死刑に処されるのはどう考えても道理に合いませんからね。ちなみに、南京や東京における戦犯裁判の判決文では、まさにその定義にかなった形で「虐殺」という言葉が使われています。そのことについては、後ほどまた。
では、本書の内容に入りましょう。
北村氏が本書で目論んだのは、〈予断や希望的観測はなるべく慎み、歴史学の正当な手続きを踏むことによって、南京事件で何が起こり、それがどう語られてきたのかをあぶりだす〉ことであったと、とりあえずまとめることができるでしょう。氏が示した見解・所見に対して反対する立場の人々でも、氏が、学者の良心にもとるようなふるまいを自らに対して禁じようとしていることは、感じるのではなかろうかと思われます。
氏によれば、南京事件をめぐるこれまでの論争は、「虐殺派」と「まぼろし派」の対立軸を中心に展開されてきました。「虐殺派」にとって南京事件の実在ははじめから疑いの容れようのない自明の命題です。また、「まぼろし派」にとって南京事件は始めから否定すべきことが自明である命題です。それぞれ強い予断をもって当事件に臨んでいる点では共通していることになります。
これらを踏まえたうえで、氏は、「歴史研究の基本に立ち戻る研究」を提唱します。それは、「南京での大虐殺」が〈在った〉か〈無かった〉かを性急に議論することを自らに対して禁じ、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したのかを順序立てて確認しようとする姿勢です。もう少し具体的に言えば、次のようになります。
「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判であった。したがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が確認されたのかを跡付けるのである。すなわち、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の提出書類(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討するのである。
それで、どのような結果が得られたのか。主なポイントは、次の10項目です。それらについての私見は、折に触れ述べましょう。
(1)南京と東京の戦犯裁判の判決を確定するために採用された証拠資料の基礎にあたる『WHAT WAR MEANS』の著者ティンパーリーと、『スマイス報告』の著者・スマイスの背後には、国民党の宣伝戦略が存在した。つまり彼らは、国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持って、これらの著作を書いた。のみならずティンパーリーは、国民党の立場からの外交工作を裏面から積極的に行った(この点については、ここで指摘するだけにとどめたい)。
(2)ティンパーリ―の『WHAT WAR MEANS』と国民政府による『南京安全区档案』の告発や報告を検討すれば、南京と東京の判決書が描き出すような、組織的計画的かつ六、七週間という長期間の「大虐殺」状況は見出しえない。
(3)事件当時の欧米人観察者・告発者たちは、兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ民間に紛れ込むなどという戦史に例がない事態に直面し、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難・告発しようとしていたのではない。
(4)軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実である。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した約二万人の戦争捕虜の処刑が当問題の焦点になる。そこに組織性・計画性が認められるとは、到底言い難い。
(5)「虐殺派」の日本人資料編纂者による英語原文への脚色や改変には目に余るものがある。
(6)当時の欧米人や中国は盛んに日本兵による南京占領後の放火を非難・告発した。だが、放火は占領政策の妨げになるだけなので、その動機が希薄であるといえる。だから、そういう非難や告発は再検討を要する。
(7)「大虐殺」が敢行されているはずの占領下の南京市が意外に平穏であったことを示す有力な資料がある。凄惨な状況とのつじつまがあわない。
(8)事件当時において犠牲者の人数を検討した『スマイス報告』を徹底検証すると、市内の民間人殺害者数・約2400人という推計はおおむね妥当であるが、市外近郊六県における民間人殺害者数・約30000人という推計には合理的根拠が見出しがたい。
(9)当事件関連の遺体埋葬数について。紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は11万体を報告した。紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である。
(10)「南京大虐殺30万人」説のルーツを探し求めると、ティンパーリーの脚色という線が浮かんでくる。
これらについての話が詳細に及ぶと、読み手にとってつらいものがあると思われるので、要点をかいつまんで述べるにとどめましょう。
まず(1)について。ティンパーリーやスマイスが、当時の国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持っていたことは、次の資料から明らかです。
ティンパーリーについては、『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版・1981)に、
「Timperley,Hrold John1898-田伯烈、オーストラリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。一九三七年蘆溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任」とあります。ティンパーリーが、国民党の事実上の諜報員であると、ご丁寧に中共が太鼓判を押してくれているのですね。むろん北村氏は、その裏付けとなる資料も提示しているのですが、煩雑になることを避けるためにそれは省略します。が、裏付けとなる資料に行きつくまでの経緯は、まるで推理小説を読んでいるかのような面白さです。ぜひご自身でお確かめください。
また、スマイスについては、当時の国民党国際宣伝処長・曾虚白の『自伝』(1988)に、次のような記述があります。
我々は(漢口でティンパーリーと――引用者補)秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。
そのようないきさつを経て出版されたのが、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』とスマイスの『スマイス報告』です。
以上を踏まえて、大高美貴さんは「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」と発言したのでしょう。これが、国民党(と南京・東京の戦犯裁判)の歴史ねつ造の尻馬に乗った中共の歴史ねつ造に対抗するうえで有効な切り口であることは間違いありません。
次に(2)について。ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』に登場する告発者たちによって告発された事例が示しているのは、略奪や強姦は四、五人の日本軍兵士による偶発的に発生したものであって、計画的組織的に行われたとは見なしえない、ということです。日本軍の士官や憲兵がこれらの行為を見咎め、逮捕している事例も告発者の報告に散見されます(煩雑になるので、個々の事例は取り上げません)。告発者たちは憲兵の数が不足し取り締まりが手ぬるいと批判しますが、略奪や強姦が軍当局により「計画的」に助長したものだという判断は示していないのです。ティンパーリー自身、日本軍の無秩序やそれ以上の酷さ(disorder, or worse)を告発していますが、決して計画的組織的massacre(大虐殺)を告発しているのではありません。ティンパーリーは、当著作中でmassacreという言葉は使っていない、と北村氏は指摘しています。
また、三八年二月一日付の『南京安全区档案』第五七号に収録されている報告からは、南京・東京の各裁判の判決文が告発するような「計画的で六、七週間も続く」大虐殺をうかがわせるような事例は見受けられません。報告は、一月下旬から実施された難民の原住所への復帰に関するものです(念のために申し上げますが、日本軍の南京入城は、三七年十二月十三日です)。帰宅した難民への強姦事件が報告されていますが、大虐殺の進行を彷彿させる報告とは到底言えません。九年後の戦犯裁判で、偶発的に起こった略奪・強姦・殺人を「計画的であり」「六、七週間も続いた」大虐殺に擬するのは、ねつ造というよりほかはないでしょう。
次に(3)について。いわゆる便衣兵の集団処刑が大量虐殺か否かの問題は、投降した戦争捕虜の集団処刑が大量虐殺であるか否かの問題とともに、日本における南京事件論争のハイライトです。ここでその論争の詳細にまで立ち入ることはしません。
便衣兵問題にまつわって、北村氏が指摘したことのなかで特筆したいのは、つぎの一点です。すなわち、当時の欧米人観察者・告発者たちにとって、「兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ捨て、民間に紛れ込むなどという事態は戦史に例がなく、積極的な『判断』を示しようが無かった」というくだりです。それゆえ、「欧米人の告発者たちが、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難しようとしたのではない」と氏は言います。彼らの告発は、一定の慎重な手続きを経ることなく大量の処刑が性急に敢行されたことに対してなされたのであって、その点を「人道にもとる」と非難したのです。すなわち、便衣兵の扱い方における手続き上の難点を非人道的と非難したのであって、それを大虐殺(massacre)であると非難したのではないのです。
次に(4)について。軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実です。「虐殺派」は、これをとらえて、日本軍が大虐殺を実行したまぎれもない証拠である、と主張します。ということは、そこに組織性・計画性があったことになります(「虐殺」の定義を思い出していただきたい)。では、本当にそういうものがあったのでしょうか。北村氏は、次のよう言います。なお、引用中に「二万人近い捕虜」とあるのは、十二月十五日に南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した戦争捕虜を指しています。多数が処刑されたのは、その二日後のことのようです(幕府山事件)。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html
ここで、中国軍捕虜と日本軍のおかれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食糧を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた舞台であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での釈放は捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を締めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして抜き差しならぬ絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。
ここには、物資の補給体制をおろそかにして戦線を延ばそうとしてきた日本陸軍の無謀かつ脆弱な体質が、無残なまでに露呈しています。それは、現場の小さな一部隊にどこうできる類のことではありません。であればこそ、ここに組織性や計画性を読み取ろうとするのは、日本陸軍に対してほめ過ぎというものでしょう。残念ながら、というべきか、そこに見られるのは、場当たり的な無計画性だけである、とするのが妥当ではないでしょうか。
次に(5)について。「虐殺派」の代表的な論客の洞(ほら)富雄編『英文資料編』の訳語について、北村氏は、次のような指摘をしています。
最も気になったのは、WHAT WAR MEANS の文書解題で使用されている″observe″を全て「目撃」と訳す点である。「目撃」に相当するのは″witness″や″eyewitness″であり、″observe″の訳語は「観察」あるいは「監視」が適切である。これを「目撃」と訳すと、欧米人告発者が告発する日本兵による事件はすべて「自分の目で見たものだ」と誤解させてしまう。『南京安全区档案』中の相当数の報告はその「文書解題」にあきらかなとおり、欧米人告発者たちが目撃したものではなく、匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したものである。
もうひとつ。
「過度の意訳」と誤訳がミックスした例がある。WHAT WAR MEANS が付録として収録する『南京安全档案』からの文書群には「解題」が付され、その冒頭の原文は、″The following cases of disorder, or worse, were recorded by foreign observers″(以下に掲げる、無秩序の或いはそれにまさる酷い事例は、外国人により記録されたー筆者)である。ところが日本語訳では″worse″が敷衍され、「もっと悪質な暴行事件の事例」と翻訳される(洞富雄編『英文資料集編』、一〇三頁)。更にobserversが目撃者と翻訳された結果、訳文全体では「以下に掲げる、無秩序、というよりはもっと悪質な暴行事件の事例は、外国人の目撃者によって記録された」となる。提示された全ての事例は、欧米人第三者により目撃された疑う余地のない出来事なのだという決定がくだされている。
実例はこれだけにとどめておきます。この二例からだけでも、洞氏が〈「南京大虐殺」の実在を主張することは正義である。だから、それを日本人に定着させるためだったら、英文の原文の故意の誤訳さえ辞さない〉というかなり特異な信条の持ち主であることが見て取れます。学者としての良心もなにもあったものではありません。こういうのを曲学阿世というのじゃありませんか。だからといって「虐殺派」がみんなそうだと断言をしたいわけではありませんよ。
「要点をかいつまんで」と申し上げましたが、結局、(1)から(5)までの説明のためだけにでも、かなりの字数を費やしてしまいました。みなさま、さぞお疲れでしょう。このあたりで、コーヒー・ブレイクといたしましょう。 (この稿、つづく)
前回は、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)を取り上げていろいろと論じました。お断りしたとおり、その段階では当著未読の状態でした。お断りしたとはいえ、読んだことのない本についてあれこれと論じるのは、正直に言って、あまり気持ちの良いものではありませんでした。
で、その後本書を読んでみました。以下、感想を述べることにしますが、その前に、「虐殺」という言葉の定義についていささか触れておきたいと思います。
「虐殺」は、南京事件を論じるうえで最も重要な言葉です。だから、その言葉をどういう意味合いで使うのかを前もってなるべくはっきりさせておくことは、かなり重要な手続きであると思われます。「虐殺」という言葉を恣意的に使うことは、当テーマについての言説を読み手が誤解したり、無用の反発を招いたりする主たる原因になる。そう思うのです。
広辞苑には、「【虐殺】むごたらしい手段で殺すこと。『捕虜を――する』」とあります。これでは漠然とし過ぎていますね。新明解国語辞典には「〔人や動物を〕一度に大量に(残酷な方法で)殺すこと」とあります。こちらのほうが、広辞苑よりもましかとは思われます。
しかし、南京事件は、東京裁判において、犯罪国家の所業として裁かれたという経緯があります(そう考えなければ、上海派遣軍司令官・松井岩根に対する絞首刑という判決は説明しがたい。松井司令官は、「虐殺せよ」などという命令をしたことなどまったくなかったのです)。そのことを踏まえるならば、新明解国語辞典の意味も物足りないものがあります。
そのような観点からすれば、歴史学者・秦郁彦氏が、『南京事件』(中公新書)で、「″虐殺″は、殺された人数の、事件全体の性格、とくに組織性・計画性に関わる概念らしいと見当がつく」と述べているのが、大いに参考になります。
ということで、私は「虐殺」を、「一度に大量に残酷な方法で殺人を犯す行為のうち、組織性・計画性が認められるもの」という意味で使います。また、そう定義してはじめて、南京事件を犯罪国家の許しがたい所業として裁くことが可能になるものと思われます。松井司令官が、非組織的で無計画で場当たり的な偶発的殺人の責任を取って死刑に処されるのはどう考えても道理に合いませんからね。ちなみに、南京や東京における戦犯裁判の判決文では、まさにその定義にかなった形で「虐殺」という言葉が使われています。そのことについては、後ほどまた。
では、本書の内容に入りましょう。
北村氏が本書で目論んだのは、〈予断や希望的観測はなるべく慎み、歴史学の正当な手続きを踏むことによって、南京事件で何が起こり、それがどう語られてきたのかをあぶりだす〉ことであったと、とりあえずまとめることができるでしょう。氏が示した見解・所見に対して反対する立場の人々でも、氏が、学者の良心にもとるようなふるまいを自らに対して禁じようとしていることは、感じるのではなかろうかと思われます。
氏によれば、南京事件をめぐるこれまでの論争は、「虐殺派」と「まぼろし派」の対立軸を中心に展開されてきました。「虐殺派」にとって南京事件の実在ははじめから疑いの容れようのない自明の命題です。また、「まぼろし派」にとって南京事件は始めから否定すべきことが自明である命題です。それぞれ強い予断をもって当事件に臨んでいる点では共通していることになります。
これらを踏まえたうえで、氏は、「歴史研究の基本に立ち戻る研究」を提唱します。それは、「南京での大虐殺」が〈在った〉か〈無かった〉かを性急に議論することを自らに対して禁じ、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したのかを順序立てて確認しようとする姿勢です。もう少し具体的に言えば、次のようになります。
「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判であった。したがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が確認されたのかを跡付けるのである。すなわち、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の提出書類(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討するのである。
それで、どのような結果が得られたのか。主なポイントは、次の10項目です。それらについての私見は、折に触れ述べましょう。
(1)南京と東京の戦犯裁判の判決を確定するために採用された証拠資料の基礎にあたる『WHAT WAR MEANS』の著者ティンパーリーと、『スマイス報告』の著者・スマイスの背後には、国民党の宣伝戦略が存在した。つまり彼らは、国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持って、これらの著作を書いた。のみならずティンパーリーは、国民党の立場からの外交工作を裏面から積極的に行った(この点については、ここで指摘するだけにとどめたい)。
(2)ティンパーリ―の『WHAT WAR MEANS』と国民政府による『南京安全区档案』の告発や報告を検討すれば、南京と東京の判決書が描き出すような、組織的計画的かつ六、七週間という長期間の「大虐殺」状況は見出しえない。
(3)事件当時の欧米人観察者・告発者たちは、兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ民間に紛れ込むなどという戦史に例がない事態に直面し、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難・告発しようとしていたのではない。
(4)軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実である。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した約二万人の戦争捕虜の処刑が当問題の焦点になる。そこに組織性・計画性が認められるとは、到底言い難い。
(5)「虐殺派」の日本人資料編纂者による英語原文への脚色や改変には目に余るものがある。
(6)当時の欧米人や中国は盛んに日本兵による南京占領後の放火を非難・告発した。だが、放火は占領政策の妨げになるだけなので、その動機が希薄であるといえる。だから、そういう非難や告発は再検討を要する。
(7)「大虐殺」が敢行されているはずの占領下の南京市が意外に平穏であったことを示す有力な資料がある。凄惨な状況とのつじつまがあわない。
(8)事件当時において犠牲者の人数を検討した『スマイス報告』を徹底検証すると、市内の民間人殺害者数・約2400人という推計はおおむね妥当であるが、市外近郊六県における民間人殺害者数・約30000人という推計には合理的根拠が見出しがたい。
(9)当事件関連の遺体埋葬数について。紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は11万体を報告した。紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である。
(10)「南京大虐殺30万人」説のルーツを探し求めると、ティンパーリーの脚色という線が浮かんでくる。
これらについての話が詳細に及ぶと、読み手にとってつらいものがあると思われるので、要点をかいつまんで述べるにとどめましょう。
まず(1)について。ティンパーリーやスマイスが、当時の国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持っていたことは、次の資料から明らかです。
ティンパーリーについては、『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版・1981)に、
「Timperley,Hrold John1898-田伯烈、オーストラリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。一九三七年蘆溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任」とあります。ティンパーリーが、国民党の事実上の諜報員であると、ご丁寧に中共が太鼓判を押してくれているのですね。むろん北村氏は、その裏付けとなる資料も提示しているのですが、煩雑になることを避けるためにそれは省略します。が、裏付けとなる資料に行きつくまでの経緯は、まるで推理小説を読んでいるかのような面白さです。ぜひご自身でお確かめください。
また、スマイスについては、当時の国民党国際宣伝処長・曾虚白の『自伝』(1988)に、次のような記述があります。
我々は(漢口でティンパーリーと――引用者補)秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。
そのようないきさつを経て出版されたのが、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』とスマイスの『スマイス報告』です。
以上を踏まえて、大高美貴さんは「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」と発言したのでしょう。これが、国民党(と南京・東京の戦犯裁判)の歴史ねつ造の尻馬に乗った中共の歴史ねつ造に対抗するうえで有効な切り口であることは間違いありません。
次に(2)について。ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』に登場する告発者たちによって告発された事例が示しているのは、略奪や強姦は四、五人の日本軍兵士による偶発的に発生したものであって、計画的組織的に行われたとは見なしえない、ということです。日本軍の士官や憲兵がこれらの行為を見咎め、逮捕している事例も告発者の報告に散見されます(煩雑になるので、個々の事例は取り上げません)。告発者たちは憲兵の数が不足し取り締まりが手ぬるいと批判しますが、略奪や強姦が軍当局により「計画的」に助長したものだという判断は示していないのです。ティンパーリー自身、日本軍の無秩序やそれ以上の酷さ(disorder, or worse)を告発していますが、決して計画的組織的massacre(大虐殺)を告発しているのではありません。ティンパーリーは、当著作中でmassacreという言葉は使っていない、と北村氏は指摘しています。
また、三八年二月一日付の『南京安全区档案』第五七号に収録されている報告からは、南京・東京の各裁判の判決文が告発するような「計画的で六、七週間も続く」大虐殺をうかがわせるような事例は見受けられません。報告は、一月下旬から実施された難民の原住所への復帰に関するものです(念のために申し上げますが、日本軍の南京入城は、三七年十二月十三日です)。帰宅した難民への強姦事件が報告されていますが、大虐殺の進行を彷彿させる報告とは到底言えません。九年後の戦犯裁判で、偶発的に起こった略奪・強姦・殺人を「計画的であり」「六、七週間も続いた」大虐殺に擬するのは、ねつ造というよりほかはないでしょう。
次に(3)について。いわゆる便衣兵の集団処刑が大量虐殺か否かの問題は、投降した戦争捕虜の集団処刑が大量虐殺であるか否かの問題とともに、日本における南京事件論争のハイライトです。ここでその論争の詳細にまで立ち入ることはしません。
便衣兵問題にまつわって、北村氏が指摘したことのなかで特筆したいのは、つぎの一点です。すなわち、当時の欧米人観察者・告発者たちにとって、「兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ捨て、民間に紛れ込むなどという事態は戦史に例がなく、積極的な『判断』を示しようが無かった」というくだりです。それゆえ、「欧米人の告発者たちが、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難しようとしたのではない」と氏は言います。彼らの告発は、一定の慎重な手続きを経ることなく大量の処刑が性急に敢行されたことに対してなされたのであって、その点を「人道にもとる」と非難したのです。すなわち、便衣兵の扱い方における手続き上の難点を非人道的と非難したのであって、それを大虐殺(massacre)であると非難したのではないのです。
次に(4)について。軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実です。「虐殺派」は、これをとらえて、日本軍が大虐殺を実行したまぎれもない証拠である、と主張します。ということは、そこに組織性・計画性があったことになります(「虐殺」の定義を思い出していただきたい)。では、本当にそういうものがあったのでしょうか。北村氏は、次のよう言います。なお、引用中に「二万人近い捕虜」とあるのは、十二月十五日に南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した戦争捕虜を指しています。多数が処刑されたのは、その二日後のことのようです(幕府山事件)。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html
ここで、中国軍捕虜と日本軍のおかれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食糧を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた舞台であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での釈放は捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を締めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして抜き差しならぬ絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。
ここには、物資の補給体制をおろそかにして戦線を延ばそうとしてきた日本陸軍の無謀かつ脆弱な体質が、無残なまでに露呈しています。それは、現場の小さな一部隊にどこうできる類のことではありません。であればこそ、ここに組織性や計画性を読み取ろうとするのは、日本陸軍に対してほめ過ぎというものでしょう。残念ながら、というべきか、そこに見られるのは、場当たり的な無計画性だけである、とするのが妥当ではないでしょうか。
次に(5)について。「虐殺派」の代表的な論客の洞(ほら)富雄編『英文資料編』の訳語について、北村氏は、次のような指摘をしています。
最も気になったのは、WHAT WAR MEANS の文書解題で使用されている″observe″を全て「目撃」と訳す点である。「目撃」に相当するのは″witness″や″eyewitness″であり、″observe″の訳語は「観察」あるいは「監視」が適切である。これを「目撃」と訳すと、欧米人告発者が告発する日本兵による事件はすべて「自分の目で見たものだ」と誤解させてしまう。『南京安全区档案』中の相当数の報告はその「文書解題」にあきらかなとおり、欧米人告発者たちが目撃したものではなく、匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したものである。
もうひとつ。
「過度の意訳」と誤訳がミックスした例がある。WHAT WAR MEANS が付録として収録する『南京安全档案』からの文書群には「解題」が付され、その冒頭の原文は、″The following cases of disorder, or worse, were recorded by foreign observers″(以下に掲げる、無秩序の或いはそれにまさる酷い事例は、外国人により記録されたー筆者)である。ところが日本語訳では″worse″が敷衍され、「もっと悪質な暴行事件の事例」と翻訳される(洞富雄編『英文資料集編』、一〇三頁)。更にobserversが目撃者と翻訳された結果、訳文全体では「以下に掲げる、無秩序、というよりはもっと悪質な暴行事件の事例は、外国人の目撃者によって記録された」となる。提示された全ての事例は、欧米人第三者により目撃された疑う余地のない出来事なのだという決定がくだされている。
実例はこれだけにとどめておきます。この二例からだけでも、洞氏が〈「南京大虐殺」の実在を主張することは正義である。だから、それを日本人に定着させるためだったら、英文の原文の故意の誤訳さえ辞さない〉というかなり特異な信条の持ち主であることが見て取れます。学者としての良心もなにもあったものではありません。こういうのを曲学阿世というのじゃありませんか。だからといって「虐殺派」がみんなそうだと断言をしたいわけではありませんよ。
「要点をかいつまんで」と申し上げましたが、結局、(1)から(5)までの説明のためだけにでも、かなりの字数を費やしてしまいました。みなさま、さぞお疲れでしょう。このあたりで、コーヒー・ブレイクといたしましょう。 (この稿、つづく)