美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その3)南京事件Ⅱ (美津島明)

2015年10月29日 03時55分12秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その3)南京事件Ⅱ (美津島明)



前回は、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)を取り上げていろいろと論じました。お断りしたとおり、その段階では当著未読の状態でした。お断りしたとはいえ、読んだことのない本についてあれこれと論じるのは、正直に言って、あまり気持ちの良いものではありませんでした。

で、その後本書を読んでみました。以下、感想を述べることにしますが、その前に、「虐殺」という言葉の定義についていささか触れておきたいと思います。

「虐殺」は、南京事件を論じるうえで最も重要な言葉です。だから、その言葉をどういう意味合いで使うのかを前もってなるべくはっきりさせておくことは、かなり重要な手続きであると思われます。「虐殺」という言葉を恣意的に使うことは、当テーマについての言説を読み手が誤解したり、無用の反発を招いたりする主たる原因になる。そう思うのです。

広辞苑には、「【虐殺】むごたらしい手段で殺すこと。『捕虜を――する』」とあります。これでは漠然とし過ぎていますね。新明解国語辞典には「〔人や動物を〕一度に大量に(残酷な方法で)殺すこと」とあります。こちらのほうが、広辞苑よりもましかとは思われます。

しかし、南京事件は、東京裁判において、犯罪国家の所業として裁かれたという経緯があります(そう考えなければ、上海派遣軍司令官・松井岩根に対する絞首刑という判決は説明しがたい。松井司令官は、「虐殺せよ」などという命令をしたことなどまったくなかったのです)。そのことを踏まえるならば、新明解国語辞典の意味も物足りないものがあります。

そのような観点からすれば、歴史学者・秦郁彦氏が、『南京事件』(中公新書)で、「″虐殺″は、殺された人数の、事件全体の性格、とくに組織性・計画性に関わる概念らしいと見当がつく」と述べているのが、大いに参考になります。

ということで、私は「虐殺」を、「一度に大量に残酷な方法で殺人を犯す行為のうち、組織性・計画性が認められるもの」という意味で使います。また、そう定義してはじめて、南京事件を犯罪国家の許しがたい所業として裁くことが可能になるものと思われます。松井司令官が、非組織的で無計画で場当たり的な偶発的殺人の責任を取って死刑に処されるのはどう考えても道理に合いませんからね。ちなみに、南京や東京における戦犯裁判の判決文では、まさにその定義にかなった形で「虐殺」という言葉が使われています。そのことについては、後ほどまた。

では、本書の内容に入りましょう。

北村氏が本書で目論んだのは、〈予断や希望的観測はなるべく慎み、歴史学の正当な手続きを踏むことによって、南京事件で何が起こり、それがどう語られてきたのかをあぶりだす〉ことであったと、とりあえずまとめることができるでしょう。氏が示した見解・所見に対して反対する立場の人々でも、氏が、学者の良心にもとるようなふるまいを自らに対して禁じようとしていることは、感じるのではなかろうかと思われます。

氏によれば、南京事件をめぐるこれまでの論争は、「虐殺派」と「まぼろし派」の対立軸を中心に展開されてきました。「虐殺派」にとって南京事件の実在ははじめから疑いの容れようのない自明の命題です。また、「まぼろし派」にとって南京事件は始めから否定すべきことが自明である命題です。それぞれ強い予断をもって当事件に臨んでいる点では共通していることになります。

これらを踏まえたうえで、氏は、「歴史研究の基本に立ち戻る研究」を提唱します。それは、「南京での大虐殺」が〈在った〉か〈無かった〉かを性急に議論することを自らに対して禁じ、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したのかを順序立てて確認しようとする姿勢です。もう少し具体的に言えば、次のようになります。

「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判であった。したがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が確認されたのかを跡付けるのである。すなわち、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の提出書類(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討するのである。

それで、どのような結果が得られたのか。主なポイントは、次の10項目です。それらについての私見は、折に触れ述べましょう。

(1)南京と東京の戦犯裁判の判決を確定するために採用された証拠資料の基礎にあたる『WHAT WAR MEANS』の著者ティンパーリーと、『スマイス報告』の著者・スマイスの背後には、国民党の宣伝戦略が存在した。つまり彼らは、国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持って、これらの著作を書いた。のみならずティンパーリーは、国民党の立場からの外交工作を裏面から積極的に行った(この点については、ここで指摘するだけにとどめたい)。

(2)ティンパーリ―の『WHAT WAR MEANS』と国民政府による『南京安全区档案』の告発や報告を検討すれば、南京と東京の判決書が描き出すような、組織的計画的かつ六、七週間という長期間の「大虐殺」状況は見出しえない。

(3)事件当時の欧米人観察者・告発者たちは、兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ民間に紛れ込むなどという戦史に例がない事態に直面し、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難・告発しようとしていたのではない。

(4)軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実である。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した約二万人の戦争捕虜の処刑が当問題の焦点になる。そこに組織性・計画性が認められるとは、到底言い難い。

(5)「虐殺派」の日本人資料編纂者による英語原文への脚色や改変には目に余るものがある。

(6)当時の欧米人や中国は盛んに日本兵による南京占領後の放火を非難・告発した。だが、放火は占領政策の妨げになるだけなので、その動機が希薄であるといえる。だから、そういう非難や告発は再検討を要する。

(7)「大虐殺」が敢行されているはずの占領下の南京市が意外に平穏であったことを示す有力な資料がある。凄惨な状況とのつじつまがあわない。

(8)事件当時において犠牲者の人数を検討した『スマイス報告』を徹底検証すると、市内の民間人殺害者数・約2400人という推計はおおむね妥当であるが、市外近郊六県における民間人殺害者数・約30000人という推計には合理的根拠が見出しがたい。

(9)当事件関連の遺体埋葬数について。紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は11万体を報告した。紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である。

(10)「南京大虐殺30万人」説のルーツを探し求めると、ティンパーリーの脚色という線が浮かんでくる。


これらについての話が詳細に及ぶと、読み手にとってつらいものがあると思われるので、要点をかいつまんで述べるにとどめましょう。

まず(1)について。ティンパーリーやスマイスが、当時の国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持っていたことは、次の資料から明らかです。

ティンパーリーについては、『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版・1981)に、
「Timperley,Hrold John1898-田伯烈、オーストラリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。一九三七年蘆溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任」とあります。ティンパーリーが、国民党の事実上の諜報員であると、ご丁寧に中共が太鼓判を押してくれているのですね。むろん北村氏は、その裏付けとなる資料も提示しているのですが、煩雑になることを避けるためにそれは省略します。が、裏付けとなる資料に行きつくまでの経緯は、まるで推理小説を読んでいるかのような面白さです。ぜひご自身でお確かめください。

また、スマイスについては、当時の国民党国際宣伝処長・曾虚白の『自伝』(1988)に、次のような記述があります。

我々は(漢口でティンパーリーと――引用者補)秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。

そのようないきさつを経て出版されたのが、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』とスマイスの『スマイス報告』です。

以上を踏まえて、大高美貴さんは「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」と発言したのでしょう。これが、国民党(と南京・東京の戦犯裁判)の歴史ねつ造の尻馬に乗った中共の歴史ねつ造に対抗するうえで有効な切り口であることは間違いありません。

次に(2)について。ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』に登場する告発者たちによって告発された事例が示しているのは、略奪や強姦は四、五人の日本軍兵士による偶発的に発生したものであって、計画的組織的に行われたとは見なしえない、ということです。日本軍の士官や憲兵がこれらの行為を見咎め、逮捕している事例も告発者の報告に散見されます(煩雑になるので、個々の事例は取り上げません)。告発者たちは憲兵の数が不足し取り締まりが手ぬるいと批判しますが、略奪や強姦が軍当局により「計画的」に助長したものだという判断は示していないのです。ティンパーリー自身、日本軍の無秩序やそれ以上の酷さ(disorder, or worse)を告発していますが、決して計画的組織的massacre(大虐殺)を告発しているのではありません。ティンパーリーは、当著作中でmassacreという言葉は使っていない、と北村氏は指摘しています。

また、三八年二月一日付の『南京安全区档案』第五七号に収録されている報告からは、南京・東京の各裁判の判決文が告発するような「計画的で六、七週間も続く」大虐殺をうかがわせるような事例は見受けられません。報告は、一月下旬から実施された難民の原住所への復帰に関するものです(念のために申し上げますが、日本軍の南京入城は、三七年十二月十三日です)。帰宅した難民への強姦事件が報告されていますが、大虐殺の進行を彷彿させる報告とは到底言えません。九年後の戦犯裁判で、偶発的に起こった略奪・強姦・殺人を「計画的であり」「六、七週間も続いた」大虐殺に擬するのは、ねつ造というよりほかはないでしょう。

次に(3)について。いわゆる便衣兵の集団処刑が大量虐殺か否かの問題は、投降した戦争捕虜の集団処刑が大量虐殺であるか否かの問題とともに、日本における南京事件論争のハイライトです。ここでその論争の詳細にまで立ち入ることはしません。

便衣兵問題にまつわって、北村氏が指摘したことのなかで特筆したいのは、つぎの一点です。すなわち、当時の欧米人観察者・告発者たちにとって、「兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ捨て、民間に紛れ込むなどという事態は戦史に例がなく、積極的な『判断』を示しようが無かった」というくだりです。それゆえ、「欧米人の告発者たちが、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難しようとしたのではない」と氏は言います。彼らの告発は、一定の慎重な手続きを経ることなく大量の処刑が性急に敢行されたことに対してなされたのであって、その点を「人道にもとる」と非難したのです。すなわち、便衣兵の扱い方における手続き上の難点を非人道的と非難したのであって、それを大虐殺(massacre)であると非難したのではないのです。

次に(4)について。軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実です。「虐殺派」は、これをとらえて、日本軍が大虐殺を実行したまぎれもない証拠である、と主張します。ということは、そこに組織性・計画性があったことになります(「虐殺」の定義を思い出していただきたい)。では、本当にそういうものがあったのでしょうか。北村氏は、次のよう言います。なお、引用中に「二万人近い捕虜」とあるのは、十二月十五日に南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した戦争捕虜を指しています。多数が処刑されたのは、その二日後のことのようです(幕府山事件)。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html

ここで、中国軍捕虜と日本軍のおかれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食糧を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた舞台であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での釈放は捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を締めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして抜き差しならぬ絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。

ここには、物資の補給体制をおろそかにして戦線を延ばそうとしてきた日本陸軍の無謀かつ脆弱な体質が、無残なまでに露呈しています。それは、現場の小さな一部隊にどこうできる類のことではありません。であればこそ、ここに組織性や計画性を読み取ろうとするのは、日本陸軍に対してほめ過ぎというものでしょう。残念ながら、というべきか、そこに見られるのは、場当たり的な無計画性だけである、とするのが妥当ではないでしょうか。

次に(5)について。「虐殺派」の代表的な論客の洞(ほら)富雄編『英文資料編』の訳語について、北村氏は、次のような指摘をしています。

最も気になったのは、WHAT WAR MEANS の文書解題で使用されている″observe″を全て「目撃」と訳す点である。「目撃」に相当するのは″witness″や″eyewitness″であり、″observe″の訳語は「観察」あるいは「監視」が適切である。これを「目撃」と訳すと、欧米人告発者が告発する日本兵による事件はすべて「自分の目で見たものだ」と誤解させてしまう。『南京安全区档案』中の相当数の報告はその「文書解題」にあきらかなとおり、欧米人告発者たちが目撃したものではなく、匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したものである。

もうひとつ。

「過度の意訳」と誤訳がミックスした例がある。WHAT WAR MEANS が付録として収録する『南京安全档案』からの文書群には「解題」が付され、その冒頭の原文は、″The following cases of disorder, or worse, were recorded by foreign observers″(以下に掲げる、無秩序の或いはそれにまさる酷い事例は、外国人により記録されたー筆者)である。ところが日本語訳では″worse″が敷衍され、「もっと悪質な暴行事件の事例」と翻訳される(洞富雄編『英文資料集編』、一〇三頁)。更にobserversが目撃者と翻訳された結果、訳文全体では「以下に掲げる、無秩序、というよりはもっと悪質な暴行事件の事例は、外国人の目撃者によって記録された」となる。提示された全ての事例は、欧米人第三者により目撃された疑う余地のない出来事なのだという決定がくだされている。

実例はこれだけにとどめておきます。この二例からだけでも、洞氏が〈「南京大虐殺」の実在を主張することは正義である。だから、それを日本人に定着させるためだったら、英文の原文の故意の誤訳さえ辞さない〉というかなり特異な信条の持ち主であることが見て取れます。学者としての良心もなにもあったものではありません。こういうのを曲学阿世というのじゃありませんか。だからといって「虐殺派」がみんなそうだと断言をしたいわけではありませんよ。

「要点をかいつまんで」と申し上げましたが、結局、(1)から(5)までの説明のためだけにでも、かなりの字数を費やしてしまいました。みなさま、さぞお疲れでしょう。このあたりで、コーヒー・ブレイクといたしましょう。 (この稿、つづく)
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最近印象に残った楽曲四つ (美津島明)

2015年10月21日 02時55分29秒 | 音楽
最近印象に残った楽曲四つ (美津島明)

私は、ケーブルテレビが配信する音楽番組をぼおっとしながら観ているのが好きです。二四時間音楽を流している番組が六つか七つくらいあります。そのなかからその日の気分で邦楽や洋楽の番組を選び、聞き流していて特に気に入ったのは、楽曲名と歌手やグループ名のメモをとったりしています。どんな歌が流行っているのかには、あまり関心がないのですが、優れた音楽に出会うことにはけっこう興味があります。

そうしたなかで、最近印象に残った楽曲を四曲紹介します。

まずは、2 CELLOSの「The Trooper Overture」(2014)です。2CELLOSは、ルカ・スーリッチとステファン・ハウザーのチェロによるデュオです。スーリッチは、スロベニア(旧ユーゴスラビア・スロベニア社会主義共和国)のマリボル出身(父親はドゥブロヴニク出身のクロアチア人チェリスト)で、ハウザーは、クロアチア(旧ユーゴスラビア・クロアチア社会主義共和国)のプーラ出身です。当楽曲は、ヘヴィ・メタルのアイアン・メイデンのメガヒット曲のカヴァーです。圧倒的な演奏力で、聴く者を唸らせます。

2CELLOS - The Trooper Overture [OFFICIAL VIDEO]


つぎは、Galantis(ギャランティス)の「YOU」(2014)です。ギャランティスは、スウェーデンのインディー・ポップバンドMiike Snow のクリスチャン・カールソンと、Style Of Eyeというアーティスト名で活動しているDJ兼プロデューサーのリーナス・エクロウの二人組です。登場して間もないグループですが、音楽業界ではそれぞれ実績のある人たちのようです。分類するならば、いわゆるEDM(Electronic Dance Music)ということになるようです。〈I remember you 〉の繰り返しと、同グループのイメージキャラクターであるネコクラゲ(?)が、印象に残りますね。独特の哀調によって、楽曲に豊かな味わいが生じています。

Galantis - You [Official Video]


つぎは、Nothing But Thievesの「Wake Up Call」(2015)です。以下は、ロックイベントのサマーソニック大阪2015の口上からの引用です。

英エセックス出身、学校の同級生だったコナー・メイソン、ジョー・ブラウン、ジェームス・プライスによって2011年に結成されたナッシング・バット・シーヴス。その後ドム・クラークとフィリップ・ブレイクを加えた現在の5人編成となり、2014年にはデビューEP『GraveyardWhistling』を配信限定リリースしている。彼らの魅力はその新人離れした楽曲の構成力。レディオヘッドやミューズとも比較されるドラマティックかつ緊張感溢れるギター・サウンドに加えて、ジェフ・バックリィに影響されたというコナーの美しくも憂いを帯びたファルセット・ヴォーカルも際立っている。デビュー・アルバムのリリースも控えた今年、飛躍を約束されたニューカマーだ。

「新人離れした楽曲の構成力」「ドラマティックかつ緊張感溢れるギター・サウンド」「コナーの美しくも憂いを帯びたファルセット・ヴォーカル」。当グループの魅力のツボをきっちりと押さえたコメントであると思います。こういう才能のあるグループが登場すると、なんともいえないわくわく感があって、たまりませんね。

Nothing But Thieves - Wake Up Call (Official Video)


最後にご紹介するのは、Sam Smith の「Writing`s on the wall」(2015)です。彼は、ロンドン生まれのシンガーソングライターです。歌声やその雰囲気からそれとなく察した方がいらっしゃるのではないかと思いますが、彼はゲイであることをカミング・アウトしています。彼の音楽の魅力がどういうものであるのかは、私が説明するまでもないでしょう。聴けばだれにでもそれは伝わります。壮大なドラマを表現し切ることのできる大変な歌唱力の持ち主です。


Sam Smith - Writing's On The Wall (from Spectre)
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吉原の秘密(その3) (一年前にアップした論考の再アップ・美津島明)

2015年10月17日 22時13分06秒 | 歴史
吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ
吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ「その2」の終わりのところで、私は「どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はな...


文学についての、私の考え方を披露しました。一年後のいまも、それは変わっていません。

ところで、吉原をテーマにしたポップ・ミュージックを見つけました。『吉原ラメント』といいます。なかなかよくできた楽曲です。いろいろなミュージシャンが手掛けているようですが、私には、「赤飯」という方のテイクがいちばんハートに来ました。よろしかったら、ごらんください。

赤飯 が 吉原ラメント を 歌いま した mp3
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中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その2)南京事件 (美津島明)

2015年10月14日 16時52分56秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その2)南京事件 (美津島明)



当シリーズ「その1」では、中共による歴史問題に関するねつ造ついて、石平氏の『中国「歴史認識」の正体』をタネ本にして、いくつか実例を挙げました。そうして今回は、タイトルにあるとおり、「中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか」について述べようと思っていました。

ところがそこへ、中共が申請していた「南京大虐殺」の世界記憶遺産文書が、ユネスコによって登録された、という記事が飛び込んできました。むろんこれは、到底容認しがたい措置です。私のよちよち歩きをよそに、中共は、日本に対して歴史戦を積極的に大胆に挑んできているのです。現実の目まぐるしい変化は、個人的な思惑を待ってはくれません。

そこで予定を変更して、今回はいわゆる「南京大虐殺」問題について、触れてみようと思います。前回、確かに「まだまだ、自分なりの『南京事件』観を確立したとは言い難い段階であり、それは私なりのささやかなライフワークのひとつであったりもする」と小声で申し上げました。だから、当事件について発言することには、少なからずためらいがあるのですが、どうしても指摘しておきたいことが生じてきたので、思い切って、予定を変更することにしました。

まずは、読売新聞の社説をごらんください。

世界記憶遺産 容認できない南京事件の登録
(2015年10月11日 03時05分)

 歴史問題を巡る中国の一方的な主張に、国際機関が「お墨付き」を与えたと誤解されないか。憂慮すべき事態である。

 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺の文書」が登録された。

 ユネスコの国際諮問委員会の選考作業を踏まえ、イリナ・ボコバ事務局長が最終決定した。中国が同時に申請した「慰安婦に関する資料」は登録されなかった。

 世界記憶遺産は本来、歴史的に重要な文書などの保存や活用を目的にしたものだ。

 文化財保護の制度を「反日宣伝」に政治利用し、独善的な歴史認識を国際社会に定着させようとする中国の姿勢は容認できない。

 「南京大虐殺の文書」には、南京軍事法廷が戦後、日本人の戦犯を裁いた判決書などが含まれる。判決書は、南京事件の犠牲者を「30万人以上」としている。

 だが、日本では、当時の人口動態などから、実態とかけ離れているとの見方が支配的だ。日中歴史共同研究でも、日本は「20万人を上限に、4万人、2万人など様々な推計がある」と指摘した。

 登録について、外務省が文書の「完全性や真正性」に疑問を呈し、「中立・公平であるべき国際機関として問題」とユネスコを批判したのは、当然である。

 (中略)

 ユネスコの諮問委員会は14人の専門家で構成されている。図書館学の研究者や公文書館関係者が中心で、選考過程は公開されていない。余りにも不透明だ。

 日本はユネスコ予算の約1割にあたる年間37億円の分担金を支払い、その活動を実質的に支えている。記憶遺産の登録制度の改善を働きかけることが欠かせない。

(後略)


私たち心ある日本人が、この件に処するうえで必要なのは、あくまでも冷静な態度を失わずに、必要なことを着々と進めてゆくクールさである、と私は考えています(実はかなり頭にきているので、半ば以上、自分に言い聞かせているのです)。昨日(10月12日)の日本ラグビーチーム・ワールドカップ最終戦の対米戦を終えてのインタヴューで、五郎丸が堪え切れずに男泣きをした場面がありました。私たち日本人は、ここでもらい泣きをして満足するのですが、イギリスのインタヴュアーは、なおも「いまの感情を言葉にしてください」と催促しました。自分の感情の起伏はとりあえず措いておき、自分に対して感情移入をしてくれない相手でも分かるように理性的なコメントを発信することが肝要なのだと再認識した次第です。

で、私が問題にしたいのは、社説が、もっぱら虐殺された人数を問題にしている点です。外務省や菅官房長官のコメントも同じようなスタンスですね。彼らが言っているのは要するに「当時の日本軍が、南京で虐殺事件を起こしたのは確かだ。しかしその人数に関して、中国共産党政府の発表には誇張がある。いくらなんでも30万人は言い過ぎだ。実際は、それよりもかなり少ない。だから断固抗議する」ということです。

どうでしょうか。これを聞いて耳を傾けてくれる部外者がどれほどいるでしょうか。ざっくりと言ってしまえば、ほとんどいないと思います。あまりインパクトのある魅力的な抗議の仕方であるとは思えないからです。残念なことに、いじめられっ子が、泣きべそをかきながら被害を訴えているような印象を受けます。さらに分が悪いことには、この言い方に対して、

「人数が少なければ、許されるとでも思っているのか。お前たち日本人は、つねづね『人の命は地球よりも重い』と言ってきたではないか。とすれば、30万人であろうが300人であろうが虐殺したことに変わりはない、と言うのが筋ではないか」

という倫理的問い詰めがなされた場合、答えに窮してしまうという致命的な弱点を有しています。だから、部外者がほとんど耳を傾けてくれない、とも言えましょう。抗議としてどうも筋が悪いのです。

では、どうしたらいいのか。

ここで、次の動画を観ていただきたいと思います。

【魔都見聞録】南京大虐殺検証の絶好のチャンス![桜H27/10/21]


コメンテーター・大高未貴さんの、「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」という発言に注目したいと思います。彼女は、「南京事件は、虐殺した人数が何人なのかが問題なのではなくて、中国お得意の歴史のねつ造であることが最大の問題なのだ」と言っているのですね。

この発言の元ネタをインターネットで探していたら、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文藝春秋2001)に行きつきました。残念ながら、現在のところ未読なので、Wikipediaから、そのあらましについての記述を引きましょう。

『「南京事件」の探究』

本書では、南京裁判および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析、従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘してきた資料で確認する一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとした。

南京および中国各地において日本軍が暴虐を行っていると告発した在中国ジャーナリストハロルド・J・ティンパーリは、日中戦争開始直後から中国国民党中央宣伝部の対外宣伝に従事、資金提供を受けて編著『戦争とは何か』(What War Means)を出版したと主張している。また、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したかという、歴史研究の基本に立ち戻った立場から、研究をはじめている。

北村は、中国社会科学院近代史研究所翻訳室編『近代来華外国人名辞典』(1981年)に、ティンパーリが「1937年盧溝橋事件後、中国国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記述されていることや、王凌霄による研究『中国国民党新聞政策之研究』(1996 年)および国際宣伝処処長曽虚白の回想記に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している。

『「南京事件」の探究』 をはじめとする研究を経た、2007年4月2日の外国特派員協会での講演では「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」と発表している。


(本書については、「毎日のできごとの反省」というタイトルのブログ主人が、秀逸な書評を書いていらっしゃいます。http://blog.goo.ne.jp/goozmakoto/e/c1ee404bfa548421da76c5e36d032825 

*上記のURLをクリックしても、なぜか当該ブログにたどりつけません。その論考のなかで、特に重要と思われる指摘を以下に引いておきます。

中国政府は、南京大虐殺を政治的に利用するために活動しているのであって、自国民が大量虐殺の犠牲にされたという、人道的観点から様々な研究資料を作成しているのではない。彼らの主張する南京大虐殺より、はるかに大量の殺人と身の毛もよだつ残虐行為を自国民にしているのは、彼ら指導者自身である。それを隠蔽して日本の戦争を批判しているのである。その嘘に引っかかった欧米人、自国によるホロコーストから眼を日本にそらしたい米国人やドイツ人が利用していて、いかに理性的に論じても欧米人にも通じがたい状況にある。

最悪なのは、その洗脳に引っかかった日本人が大量発生し、嘘までついて日本の戦争犯罪を告発することが正義だと確信していることである。日本は四面楚歌にある。このような状況で、一面では著者のような冷徹な議論が必要である。しかし、そればかりではなく、何としても日本の名誉を守るという信念から、国際法などは有利に解釈できるものは、利用する、などの手法も絶対に必要である。

著者は便衣兵の処刑に際して、後日非難されようが形式的にでも簡易な裁判をしておくべきだったと書いた。しかし、日本人の裏切り者は、そのようなものは裁判ではない、と否定するに違いない。本質的には彼らの狂った頭を正常にするしかないのである。日本は大陸での戦争を望んだのではなかった。それにも拘わらず、多くの兵士が非道なやり方で支那人に殺された。その無念を思うことも必要だと思うのである。頑健だった小生の叔父も満洲に派兵されて1カ月も経たずにコレラで戦病死した。だから大陸では七三一部隊のような防疫部隊が必要だったのに、今では人体実験をするための部隊だと宣伝されている。

そして空襲で計画的に何十万の民間人の大量殺戮をした米国が何も非難されず、南京大虐殺などという法螺話が世界に通用するのは、日本が軍事的に徹底的に負けたからに過ぎないことを脳裏に刻んでおく必要があると思うのである。また、筆者の冷徹な観察は、一方で大切であるが、維新以来戦前の日本人が、いかに支那人に悩まされていたかという事実をも没却したものである。支那大陸という場所は、平均的国民に平等な幸せをもたらす日本と異なり、常に一握りの支配者に恐ろしいまでの富裕をもたらす場所であることも忘れてはならない。


北村稔氏自身の、南京事件についての発言からも引きましょう。
http://www.history.gr.jp/nanking/books_sapio02227.html (「『南京大虐殺』という名の虚構は国民党による『対外情報戦』の産物だ」・「SAPIO」平成14(2002)年2月27日号より)

私には、「虐殺派」の人々は始めから「南京事件」の存在を疑うべきでないものとして捉え、虐殺を否定する「まぼろし派」の人々は逆に否定すべきものとして捉えているように思われる。

これは既に「神学論争」に近く、歴史事実を探求する歴史学の論争から外れているのではないだろうか。

そこで私は歴史研究の基本に立ち返り、「南京事件」を確定するに至った各種資料を検証することにした。


北村氏の、南京事件に関する問題意識がどういうものであるのかが、よく分かる一節です。氏は、「歴史事実を探求する歴史学」の基本に立ち返って、「南京事件」という歴史的テーマの基礎固めをしようとしたのです。

「南京事件」を確定したのは南京と東京の戦犯裁判の判決書である。それゆえ、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の書証や証言を検証し、判決書が「南京事件」として断罪した論理に整合性があるかを検討することで「大虐殺があった」とする認識がどのような経緯から出現したかを確認することにした。

歴史的主題を扱ううえでの、まっとうな方法論であると評するよりほかはありません。

氏によれば、そういう基礎的手続きを踏む過程で浮かび上がってきたのが、以下の事実です。

ひとつめ。南京と東京の軍事法廷において「南京事件」を「大虐殺」として断罪するうえで大きな役割を果たしたのが、日本軍の残虐行為を記録した「WHAT WAR MEANS」(1938)という書物である。

ふたつめ。「WHAT WAR MEANS」を書いたのは、日本軍の南京占領当時に中国に駐在していた「マンチェスター・ガーディアン」紙の特派員、H・J・ティンパーリーである。彼は、ティンパーリーは国民党の宣伝活動に従事する「広報活動員」だった。

みっつめ。結論。東京裁判において虐殺が行われた証拠とされた「WHAT WAR MEANS」は(そうして大量の死体が存在した証拠とされた「スマイス報告」も)、国民党の外交戦略に基づいて故意に歪められた情報であり、裁判において「大虐殺」行為を立証するに足るものではない。

これらを踏まえたうえで、端的に言うならば、大高美貴さんの「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」という発言になります。

むろん、学問上の見解は、どれほど説得力のあるものであっても、仮説という性格を脱することはかないません。しかし、だからといって、政府として何も言えない、さらには、言わないというのは、妥当ではありません。なぜなら相手は、歴史戦・情報戦を仕掛けてきているからです。虚言を吐くことでも歴史のねつ造でも、相手に打撃を与えることができそうなことはなんでもしてきているのです。南京「大虐殺」の登録申請はその一環なのです。つまり、ケンカなのです。むろん、売られたケンカは買わねばなりません。そうして、買ったかぎりは勝たねばなりません。勝つには、一定の良心的な手続きを踏んだうえでの有効な見解を使わない手はないのです。

日本政府は、人数のことばかりぐちゃぐちゃ言ってないで、 「南京事件」を「南京大虐殺」と呼ぶことには根拠がない、とはっきり主張すべき です。そうして、同事件には、国家が計画的に関与する、ナチスのホロコーストのような「大虐殺」などなくて、戦闘員のやむをえざる処刑と、心得違いの日本兵による個別的偶発的な略奪・強姦・殺人だけがあった、と主張しなければなりません。それくらいに端的なことを言わなければ、部外者の耳には入りません。つまり、国際世論を動かす力を持つことにはなりません。そう私は考えます。政府には、腹を据えて臨んでいただきたい。 (この稿、つづく)
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吉原の秘密(その1) (一年前のものを再アップします・美津島明)

2015年10月13日 01時30分48秒 | 歴史
吉原の秘密(その1)
吉原の秘密(その1)平成十年に店をたたんだ吉原の引手茶屋・松葉屋について、猿若流八世家元・猿若清三郎氏が、あるところで次のように言っています。「松葉屋がなくなるということは...



思い入れひとしおの論考なので、再アップさせていただきます。「その3」まであります。

実は、今年の五月、私は友人Iと吉原めぐりをしてきました。見返り柳に出迎えられ、江戸時代の吉原の地図を片手に、真昼の吉原をあちらこちらと散策し、Iと「ああ、やはり松葉屋がなくなっている」と嘆き合ってみたり、「おいらんたちの面倒をみてきた吉原病院が、あんなに立派な建物になってるぞ」と驚いてみたりしました。そこから歩いて数分の樋口一葉記念館にも行きました。女史の、半井桃水宛の長文の恋文の、源氏物語のような情念のうねりに圧倒されてしまいました。夜は、地下鉄浅草駅の、日本で一番古い地下街のタイ料理屋で、店の人たちから呆れられるほどアルコールをしこたま呑みました。そうして、そのまま安宿に泊まり、翌日は、玉ノ井に行こうとしたのですが、人身事故のせいでダイヤが乱れていたので、それじゃあということで、近場の鳩ノ街にタクシーで行きました。

そういうことをしたせいでしょうか、いにしえの淪落の淵に沈んだ女性たちのどうしようもない切なさのようなものが、身体にこびりついて離れないのです。もっと切なくなるのかもしれませんが、今度は、玉ノ井に行ってみようかと思っています。
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