宮城県の村井知事が、先月の二七日に「九月入学・始業」の私案を提示したのをきっかけに、大阪の吉村知事や東京の小池知事が賛意を表明し、それに便乗して萩生田文科大臣が「それも選択肢のひとつ」と発言し、さらに、安倍晋三首相が二九日の衆院予算委員会で「九月入学・始業」の可能性を探る考えを示しました。あっという間の出来事でした。
当方、この動きに少なからず違和感を覚え、《「九月入学・始業」は、新自由主義お得意のショック・ドクトリンである》という考えを抱くに至りました。
以下、その筋道を説明いたします。
まずは、例によって、言葉の定義から。ショック・ドクトリンとは何でしょうか。
「ショック・ドクトリン」は、ジャーナリストのナオミ・クラインが二〇〇七年に著した『ショック・ドクトリン』から生まれた、新自由主義を批判するキー・ワードです。その意味内容は「一言でいえば、惨事便乗型資本主義である。すなわち、大惨事につけこんで実施される過激で大胆な市場原理主義改革のこと」となるでしょう。
言いかえると、ショック・ドクトリンは、わたしたち一般国民がへこたれそうなときをねらって襲ってくる。そう言えるのではないでしょうか。
今回は、コロナ禍をきっかけに、九月入学・始業という「ショック・ドクトリン」が作動した。それが、当方の見立てです。
当議論が巻き起こる前に当方が考えていたのは、いま、公立学校の休校が長期化するなかで、子ども総体の学力がドラスティックに低下し、また、通塾している子どもとしていない子どもの間や、私学に通っている子どもと公立学校に通っている子どもの間での学力格差の拡大が加速度的に進んでいるのではなかろうか、ということでした。
それを改善するには、教育行政当局が、とにもかくにも学校に通学しなくても受けられるオンライン授業の可及的速やかなる実施を具体的目標にしてその実現を図ることが肝要であると考えていました。実技科目はどうするのか、とか、評価方法は、とか、問題はいろいろあるでしょうが、とりあえずは生徒たち全員が主要五教科のオンライン授業が受けられるようにすることに目標を絞り込むことが大事なのではなかろうかと。これらは、コロナ禍の長期化という厳しい条件下でも進捗可能なことがらですから。
で、目耳に水といおうか、なんといおうか、突然の「九月入学・始業」騒ぎが降って湧いてきて、当方、面喰うやら、違和感半端ないやらで、一瞬頭の中が真っ白になってしまったのでした。
そうして、この感触には既視感があることに思い至りました。郵政民営化問題やTPP参加問題に直面したときの感触に似ている、と。一言でいえば、唐突感、です。
冷静に考えれば、子ども総体の学力低下や子ども間の学力格差の加速度的拡大の改善と「九月入学・始業」とはまったく結びつきません。すぐにでも、具体的措置を大胆に講じなければ、生徒の学力状況は大変なことになっているのです。悠長に九月まで待っているわけにはいかないのです。
また、コロナ禍の長期化が九月には収まっているはず、というのは現状では希望的観測に過ぎません。そういう希望的観測もあって、文科省は安易に当案に飛びついた、という側面もあるのではないでしょうか。
こんなふうにいろいろ考えると、九月案は下策と断じざるをえないのです。喫緊の課題に直面した人間がマトモな頭で思いつくアイデアではないのです。
しかしながら翻って考えるに、新自由主義の旗印は、規制緩和であり、国境のボーダーレス化であり、ワンワールドです。そのことと、当案賛成派が賛成の理由として判で押したように「九月入学・始業はグローバルスタンダードである」ことを挙げていることとは、附合します。すなわち賛成論者は、TPPにおける「非関税障壁の撤廃」を主張していることになります。「非関税障壁の撤廃」とは、要するに、各国の商習慣や慣習を廃止して、主にアメリカのそれに右習えすることなのですから。
恐ろしいのは、地方自治体や文科省や安倍内閣の当案賛成は、別にアメリカの圧力に屈した結果ではなくて、まったく自主的なものである点です。つまり、権力中枢に新自由主義のDNAが深く埋め込まれていて、今回のコロナ禍などのような社会的激震が走ると、そのDNAが自動的に作動してしまう点です。そう考えると、末法の世を眺めているようで、恐ろしくなってきます。
しかし、それに屈するわけにはいきません。社会的激震による国柄の安易な変更・破壊を許すわけにはいかないからです。ブログで発信するよりほかにすべはないので、当方、できうるかぎりそうし続けます。