天皇陛下が「生前退位」のご意向を示されている、というニュースを聞いて、一週間が経とうとしている。私は最初にその報らせ聞いたとき、驚きのあまり、自失し、世界が終わった、という不可思議な喪失感に満たされた。
陛下の叡慮について、ここでとやかく言うつもりはない。近々、陛下が直接、我ら国民に叡慮をお示しになられると聞いている。その後から皇室典範の改正の議論を始めても遅くはないだろう。我ら国民はただじっと叡慮に従うまでである。
されど、ただ一つ、私がここで述べたいのは、国民のその有り様についてである。
私は数ヶ月ほど前に、「『象徴天皇』と奪われた天皇」という題で、この「直言の宴」に小文を投稿した。
その小文で私は、只今の天皇、国体の有り様に、疑問を呈したつもりである。我ら国民は陛下を「象徴」という存在に縛ってきたのではないか、天皇を日常の雑な情報として消費しているのではないか、我らは国体について考えるべきではないか、と。
私の小文は幸いなことに、少なくない反響を頂いた。具体的な名はここでは控えるが、読者の方々の反響を興奮して読んだ。
そして、そういった反響の数々を何度も読んでいるうちに、あの報らせが届いた。
陛下の叡慮を伝えるマスメディアは陛下の御公務が多い、と言い、削減するべきだ、と言っていた。あるいは教養があるとされる知識人は、天皇という存在は一種の差別であるという意見を述べていた。
これらの意見はどれも正論と手放しで言えなくとも、間違ったおかしな意見という訳ではない。私とて賛同しない訳ではない。
されど、私はこれらの意見に名状し難い嫌悪の念を抱いた。それはひとえに彼らマスメディアや知識人は、我らが抱える原罪に目を逸らしているからだ。
我らは日本人として生を受けた時、罪を背負う定めにある。天皇が祭祀王として、政治紛争を調停する最高権威として、その存在が日本史において顕現した頃より、我らは天皇を一つの依り代として、自らの生存基盤を成り立たせた。
アメリカの小説家アーシュラ・K・ル=グウィンの短編「オメラスを去る人々」にオメラスという都市が登場する。オメラスは美しい理想郷で、人々が幸福に生活していた。しかし、そのオメラスの地下深くでは一人の少年が閉じ込められ、辛い生活を強いられていた。その少年のことをオメラスの人々は全員知っており、その上で少年を人々はオメラスの幸福を維持するために、閉じ込め続けたていたのだ。
絶望や怒りや憎悪は全て彼一人に押し付け、それを取り繕うかのように幸福を維持するオメラスの人々。
誤解を恐れずに言えば、天皇とはオメラスの地下の少年であるように私は思ってしまうのだ。
日本人は天皇に憎悪や憎しみや悲しみを押し付けて来た。災害が起きれば、天皇に希望を見出し。国家が乱れようとすれば、人々は政治における正義を天皇と同一化させた。そして、現代では天皇を一種の娯楽として消費してきた。
戦後の時流に怒りの声を上げた三島由紀夫でさえ、結局は天皇と自己を同一化させただけに過ぎないと、切り捨てることすら不可能ではない。
我らが平和と繁栄を享受する裏で常に天皇は孤独であったのだ。
そして、その孤独を押し付けている我らは等しく罪を背負った、罪人ではないか。
罪は罪として認識した時、初めて人は自らの行いについて反省し、改めようとする。聖書におけるアダムとイブの有名な話は、神がアダムとイブに失望した場面とも読み取れるが、一方でアダムとイブに自らの存在を罪という手段を用い、認識させようとした愛の場面とも読み取れる。
今、冒頭で私が感じた、と述べた喪失感は大手を振って、陛下の真意はこれだ、とする言説の氾濫を目撃して、静かな怒りに変化している。
これ以上、政治的な言説の補強材料として利用されるのを見るのは忍びない。
我々日本人は自らの行動を回顧するためにその原罪に目を向けるべきである。そして、ただ陛下を待つのみである。真意を探らず、政治に用いず、ただ待つ。それが我々国民が、民が行える数少ない罪の背負い方ではないだろうか。