美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「ボクと契約して、フェミニストになってよ!」 (兵頭新児)

2014年03月21日 01時30分06秒 | 兵頭新児
「ボクと契約して、フェミニストになってよ!」

兵頭新児



『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえ

――前回、ぼくは「ホモ雑誌の編集長が小児愛者と子供とのセックスを称揚している」こと、「フェミニストがそれを指摘されても目を背けるどころか、編集長を擁護し、指摘した側を攻撃してきた」ことについて述べました。そんなフェミニストたちが揃いも揃って腐女子(BLを愛好するオタク女子)であったことから、論調は「オタク批判」とも言えるものになっていったかと思います。

*Wikipedia によれば、″BLは「ボーイズ・ラヴ」の略で、ボーイズラブ(和製英語)とは、日本における男性(少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。書き手も読み手も主として異性愛女性によって担われている″とあります。(編集者注)

が、正直ちょっと駆け足で説明不足だったかなとの反省もあります。恐らくお読みくださっている方々にしてみれば、オタク文化などなじみのない方がほとんどでしょうし。

そんなことから今回、それらの事情についての補足説明をすると共に、もうちょっと話を広げてみたいと思います。

その前に本件のタイトルですが、これは『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するキャラクター、キュゥべえの「ぼくと契約して、魔法少女になってよ!」という名セリフのもじりです。

『魔法少女まどか☆マギカ』(以降、『まどマギ』)とは2011年にテレビ放映を開始し、オタクの間で大ヒットしたアニメです。

『新世紀エヴァンゲリオン』は従来のスーパーロボットアニメのパロディのような世界観の中、主人公が最後まで戦うことを拒否し、現代社会でぼくたちが抱えている虚無感を描き出しました。

一方『まどマギ』は、言わば従来の魔女っ子アニメのパロディです。妖精のような不思議な生物・キュゥべえと「契約」し、魔法少女となった少女たちが、悪い魔女を相手に戦うお話なのですが、これもまた、『エヴァ』的な仕掛けが施されていました。キュゥべえは善意からヒロインたちを魔法少女にしたわけではなく、少女たちが魔力を使い続けるうち、次第に魔女(つまり、悪役ですね)と化していくことを見越して、それこそを目的としていた存在だったのです。

この「魔法少女」が「魔女」と化していくことが必然だとの設定は、成長することそのものが汚れること、悪くなること、というぼくたちの成長忌避的な心理を表現しているとも言えますし、またこの少女たちを勧誘し、魔法少女にしていくキュゥべえはまさに「ブラック企業」のメタファーだ、といった批評もさかんになされました。

今回は現実世界でもこのキュゥべえが暗躍しているのではないか……というお話です。

ぼくは前回、「オタク界には左派の勢力が強い」「しかしオタクのマジョリティは必ずしも左派とは言いにくい」と書きました。この辺りをもう少し詳しくお話ししたいと思います。

 オタク文化の発祥が何かとなると議論は百出するでしょうが、80年代の初期、70年代的な「エロ劇画」が廃れ、今で言う「萌え」的な美少女のエロ漫画、いわゆる「美少女コミック」というものが流行し、「ロリコンブーム」などと言われていたことは事実です。つまり、オタク文化の源流の一つには、明らかにこの種のエロ漫画があったわけです。

さて、その「エロ劇画」ですが、ウィキペディアの「エロ劇画誌」の項を見てみると、「三流劇画ムーブメント」という小見出しが作られ、

>これは、当時の三大エロ劇画誌と言われた『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』の編集者(亀和田武、高取英ら)によって打ち上げられたもので、言わば学生運動のような革命思想をマンガ雑誌の世界に持ち込んだもので「劇画全共闘」とも呼ばれた。

などと描かれています。

つまり、元からエロ漫画界は左派的な勢力が支配的だったわけです。

が、「美少女コミック」はそうした「エロ劇画」の影響があるとは言い難く、全く別な場所、つまりアニメなどを源流に発生してきた表現としか言いようがありませんでした。

この時期の美少女コミック界を戯画的に表現するならば、

ぼくたちがコミケで美少女コミックの同人誌を売っていたら、雑誌の編集者がスカウトに現れた。喜んでほいほいついていったら「体制と戦え!」みたいなウザいお説教をされてウンザリ……。

といった事態がそこかしこで起きていたと、そんなわけです。

もっとも、とは言え、オタク文化の歴史は性描写規制、児童ポルノ法との戦いの歴史といった側面もあります。古株のオタクであればあるほど、こうした左派の影響を色濃く受けざるを得なかった状況があったわけです。今では「萌え」一辺倒のエロ漫画業界ですが、それでも「登場人物がアンドレア・ドゥオーキンの主張をそらんじながらセックスする」といったモノスゴい漫画を描く、「東大法学部出身」を売りにした「砂」という漫画家さんなんかがいらっしゃったりもします。

*故アンドレア・ドゥオーキンは、ラディカル・フェミニズムの象徴的な人物。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3 をご覧ください。(編集者注)

前回のフェミニストたちがぼくのことを「漫画の敵」と短絡的に勘違いしてしまったのも、そうした歴史故のことだったのですね。

そしてまた、90年代にもオタク界は大きなターニングポイントを迎えました。そう、先にも挙げた『エヴァ』が注目され、ある種、オタク文化が市場と市民権を得たのです。この頃、東浩紀氏に代表されるようなオタク系文化人の姿も目立って来ました。

が、こうした(揃いも揃って左寄りの)文化人たちは今でこそオタクの味方のようなポーズをしきりに取っていますが、この当時、彼らは『エヴァ』に飛びつくのとは裏腹に、オタクそのものは見下して批判しておりました。

1998年に出された雑誌『Quick Japan vol.21』を見ると*1、東氏は

> たとえばコアな男性オタクには、妙な硬派意識があるでしょう。現実の女とチャラチャラ飲みにいったり、イタリア料理食いに行ったりはバカにして、むしろプレステで格ゲーやってるほうが「かっこいい」、みたいなね。エロ同人誌を描いていて硬派とはどういうわけか、僕は長いあいだ謎だった。ホモソシアル、がその答えではないか。

などと語っています。ぼくは何十年とオタクをやってきて、そんなふうに感じたことは一度もないのですが。しかし彼の妄想はそれでも止まらず、オタクはナショナリストだとも(無根拠に)言い出します。

「オタクはマッチョである」
「オタクはホモソーシャルである」
「オタクはミソジニーである」
「オタクはネトウヨである」

左派寄りの人々はオタクにいろいろなレッテルを貼りつけることが実に大好きですが、その元祖は東氏にあったわけです(そのくせ、BLは「男たちのホモソーシャル性をからかった高度な批評である」と強弁し、称揚しています。もう見ている方が赤面してしまうような腰巾着ぶりですね)。

極端に言えば、彼らは『エヴァ』をきっかけにオタクたちの上に君臨したかったわけです。東氏以外にも、今はオタクの味方であるかのように振る舞っている文化人が、やはり当時『エヴァ』に飛びつきつつもオタクのことは見下し、古株のオタク系の評論家が『エヴァ』を語るのを悪し様に罵っているのを見たこともあります。

彼の『動物化するポストモダン』など初期の著作についても、既にオワコン(流行遅れ)である「ポストモダン」を「オタク文化」に絡めて語ることで読者を幻惑し、延命させようとしたもの、という以上の印象を持つことができません。論壇の人たちにしてみればいまだ暗黒大陸である「オタク文化」をネタにすれば反論しにくかろう、といった計算があったのでは……といった勘繰りもつい、してしまいたくなります。

むろん、これは一種の極論です。東氏は「利益のためにオタクを装っている」わけでは別になく、ご本人もコアなオタクであることは事実です。

ただ、ぼくとしては、

ぼくたちが『エヴァ』について熱く語っていたら、文化人たちがまるでアメリカ大陸を「発見」した欧米人のようにずかずか上がり込んできて「俺たちの方が『エヴァ』をよくわかっている!」と我が物顔で暴れ出した。ぼくたちは食うためにやむを得ず、彼らにインチキインディアンダンスを踊ってみせるハメに……。

といった感想をつい、抱いてしまうのです。

さて、ここでちょっとしたねじれが生じました。

左派寄りである彼らオタク系文化人は、ことに性的な事柄についてはリベラル寄りの考えが強い。同時にまた彼らはフェミニストと非常に親和的で、フェミニストたちも前回挙げた人々が代表するように、腐女子率が大変に高い。

しかしフェミニストたちはポルノや「萌え」的な表現を嫌っているのではないか……といった疑問が、当然湧きますよね。

むろん、フェミニストといっても一枚岩ではなく、むしろ最近のフェミニストは性的なものに対してオープンな姿勢をアピールする人々が主流になっているように思います。上野千鶴子氏からして「うぐいすリボン」という「表現の自由を守る」ことを目的とするオタク寄りのNPOの講演会で、

>「フェミニズムは敵ではありません」と、ジェンダーの話題を怖がるオタクたちへのメッセージを、印象的な言葉で語っていました。

>上野は一貫して「表現の自由」擁護の立場。「想像力は取り締まれない」と壇上で発言したら拍手を受けた。


といったスタンスを表明していました*2。

近著である『女ぎらい』を見ても、妙にオタクに対して親和的なスタンスをアピールしている様子が見て取れます。

が、しかしながら、彼女は同時に、

> 対価を払って同意を得ているから買春してもいいという人がよくいるが、カネを払えば女性の身体を自由にしていいのか。資本主義だって何でも商品にしていいわけではない。

>やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。


とも言っているのです*3。先の『女ぎらい』を見てもやはり、

> 売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。

とまで断言しています。

おかしな話です。そんなことを言い出したらAVだって「売買春記録物」に他ならず、「強姦」であり、「完全になくすべきだという結論以外にない」はずです。

むろん、彼女がオタクに親和的なのは「エロ漫画など、架空の美少女を性の対象にしている」との理由があり、彼女の中では矛盾はないのかも知れませんが、非オタクにしてみればやはり、納得のできる論理ではないでしょう。

正直、彼女らのホンネがいかなるものか理解に苦しむのですが、彼女の弟子筋である千田有紀氏の著作を見ると、「体制側の規制は反対、しかしポルノそのものは女性差別であり、(自分たちの手によって?)改革されていかなければならない(大意)」といったことが書かれていました。彼女らのリクツでは、ポルノは「ヘイトスピーチ」の一種だと言うのですから、恐れ入ります。そうなると、彼女らのお眼鏡に適うポルノはBLのみ、なんてことにもなりかねないような気がしますが……。

しかしそうしたフェミニストたちの欺瞞に対して、オタク系文化人たちは全く頓着する様子がありません。「表現の自由」のためにはどんな犠牲でも払おうという人たちが、自分の仲間の欺瞞には徹底的に甘い。これはとても不思議なことと言わねばなりません。考えてみれば、彼らがあれだけフェミニズムに服従しつつ、一方では幼い子供を拉致監禁し、レイプして精神をずたずたに破壊するような凄惨なポルノを絶賛し続けること自体、ぼくの感覚からは全く理解が及ばないのですが。

ところで前回ぼくは、「オタク界の上層部には小児愛者、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がいるのではないか」との想像を述べました。ネット上では「ホモフォビア」というフレーズをパクって「ペドフォビア」といった言葉を振り回す者も目立ってきた、といったことも指摘しました。

*ペドフォビアという言葉は、社会的な事象に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を「過度に」嫌悪する心理のことを指すようです。小児性愛者に対する過度な差別を批判・告発するための術語のようです。(編集者注)

が、最近、これに関連してちょっと面白い事件が起こりました。

レインボーアイコン(ツイッターではアイコンに虹マークをつけることで、セクシャルマイノリティへの支援の表明となるとされています)をつけた人々が「ロリコン」を口汚く罵り、ロリコン寄りの人々*4にダブルスタンダードではないかと批判される、といったことが起こったのです。

欧米のゲイ団体などが小児愛者に厳しいことは前回にも書きました。が、日本では小児愛者も「子供とのセックスを法で認めよ!」などと表立って運動することもなく、同時に彼らに対する嫌悪も、あまり表明はされない。しかし内部にくすぶった感情が、ネット時代になって表に出てきた……本件をまとめれば、そんなことになろうかと思います。

しかし、(罪を犯してもいないロリコンへの罵倒が正当化されるわけではないものの)ことこれについては、セクシャルマイノリティ、或いはフェミニストたちの言に理があるように、ぼくには感じられました。

彼ら彼女らの主張をまとめると、「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、よってセクシャルマイノリティではない」といったものです。

そう、言葉をそのまま「性的な少数派」と捉えるのであれば、小児愛者は明らかにセクシャルマイノリティです。が、同時に彼ら彼女らの論理は基本的にはフェミニズムをフォーマットにした、「ヘテロセクシャル男性へのカウンター」といった性質を持っています。つまり、ヘテロセクシャル男性への異議申し立てというセクシャルマイノリティの思想、運動のスタンスを鑑みた時、単純に「小児愛者もまたセクシャルマイノリティ」とは言えないわけです(彼ら彼女らがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャルの頭文字を取ってLGBTと名乗っていることは象徴的です)。

これに似た例として、数年前、東浩紀氏が「ろりともだち」という美少女コミックを絶賛したことにフェミニストたちが憤った、といった事件がありました*5。その「ろりともだち」は小児愛者の青年の心理を描いた(インモラルながら、大変優れた)作品だったのですが、フェミニストたちは一つに、「幼い少女を陰惨にレイプする漫画を絶賛したこと」に、二つ目には「小児愛者の青年同士の親友関係を(ホモソーシャル、と称しておけばいいものを)ゲイ的、と表現したこと」に切れていたように思います。小児愛者をゲイに準えて批評するとは何ごとか、というわけですね。

念を押しておきますが、ぼくはフェミニズムの理を一切認めませんし、その意味で残念ながらセクシャルマイノリティたちのロジックも、基本的に受け容れる気にはなりません。

しかし上に挙げたロリコン寄りの人々が「ペドフォビア」などといった言葉をひねり出し、セクシャルマイノリティたちの論理を(まるで『エヴァ』をオタクから横取りした文化人よろしく!)パクっておいて、しかし彼らの「小児愛者はヘテロセクシャル男性である、それ故マイノリティとは認められない」といったロジックにだけは反駁するというのでは、平仄にあいません。

こうしたロリコン寄りの人々は常に自らの立場をゲイに、黒人に準え、敵対者に「レイシスト」との言葉をぶつけるだけでよしとしています。そこにあるのは「自分たちも嫌われることなく市民権を得られるはずだ」との素朴な確信、そして「自分たちが何故嫌われるのか」といったことに対する想像力の欠如――とどのつまり、近代的な「人権」観に対する教科書通りの全幅の信頼でしょうか。

更に言うと彼らの論調からは、「無辜な被差別者」として不遇感をぶちまけ、「愚かな大衆」に対して傲岸不遜に振る舞うことの快楽すらも感じ取れるようです。

これは少し話が飛躍しますが、ネット上で目立つ「男性差別反対派」にも近い心性が感じられます。彼らは「女性専用車両」や「女性優遇サービス」を「男性差別である」として、「差別だ!」「男女平等だ!」と騒げば受け容れられるのだ、との素朴な確信を抱き続けています。そこに欠けているのは男性が強者として、女性が弱者として扱われるこの社会の「お約束」に対する洞察でしょう。

むろん、オタクと小児愛者が全然別物であることは前回にも書いた通りですし、上のような人々の主張は左派寄りのロジックの影響が大とは言えいささか奇矯にすぎ、上野千鶴子氏が、東浩紀氏が同意するかとなると疑問ではあります。

とは言え、東氏は数年前もツイッターで

>オタクをセクシュアルマイノリティと呼ぶのは間違っている、と主張する人々は、単に「マイノリティ」という便利なレッテルを自分たちで占有したいだけだと思いますよ。オタクはそんなのに付き合う必要はさらさらないので、クイア理論とか読むといろいろ学ぶところあると思うな。

*クイア理論については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%90%86%E8%AB%96 をご覧ください。(編集者注)

などと発言していたことがあるのです*6。「マイノリティ」との称号がある種の「利権」であることを認識し、自分もまたご相伴にあずかりたいとの清々しいまでに下世話なホンネが、そこには現れています。何だか彼の師匠である浅田氏の発言を思い出させないでもありません。それはつまり、前回指摘した「ヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」発言ですね。

彼ら彼女らは男性は悪/女性は正義との幼稚極まりない二元論を築き上げ、セクシャルマイノリティや自分たちだけは特例で後者側の人間である、「名誉女性」であると自称してきました。

そしてオタクたちに「今までマッチョであった罪を悔い改め、我々に帰依することでお前たちも名誉女性との、弱者との称号を得て、救われるぞ」と説き、論理破綻も省みずに目玉商品である「弱者認定証」を「免罪符」よろしく大安売りし、気づくとどうしようもないところにまで来てしまったのです(いや、彼ら彼女らの主観では、自宅の庭の柿の木になった「オタク文化」という名の実をもいで食べているだけ、ということになるのでしょうが)。

そう、彼ら彼女らは

ボクと契約して、フェミニストになってよ!

とぼくたちを勧誘し、魔女に仕立て上げようとする「ブラック思想」と化してしまったのです。

小浜逸郎氏の名著『「弱者」とはだれか』の終章は「ボクもワタシも「弱者」」と題されています。ぼくはこれを読んだ時、「まさにその通りだ」「いや、しかし違うぞ」と相反する感想を持ちました。

ぼくがこの時感じたのは弱者の椅子には限りがあり、弱者側についた連中は容易にその席を明け渡さない、「弱者になれるエリートは一握り」ではないか、ということです。

むろん、小浜氏の意図は「弱者/強者」関係の流動性を指摘し、またそれ故に万人が「弱者になりたがる」傾向を指摘する点にあり、このぼくの感想は勇み足ではあります。

近年の傾向を見ていくと、小浜氏の指摘があちこちで現実化しているのを見ることができます。今までやせ我慢を続けていた男性たちも、「弱者になりたい」というホンネを吐露することに逡巡しなくなってきました。弱者の椅子を狙うバトルがいよいよ激化してきた、我も我もと椅子に飛びつこうと必死になってきた、今まで述べてきた事例はその一端ではないでしょうか。

男性が鎧を脱ぎ捨て、自らの欲求を語り出したことについては、好ましい面もあるでしょう。しかし問題はその「弱者の椅子」こそがもう、古びたものである点です。イナバの物置のように頑強かと思われた「弱者の椅子」の上では、もう百人以上の「弱者」がひしめきあっており、ぎしぎし言っているのです。

ぼくとしては椅子の上に乗っかろうとするよりも、その椅子がインチキであることを指摘するとか、或いは新しいもうちょっと丈夫な椅子を作ろうとする方がいいように思うのですが。

そうそう、『まどマギ』ですがこの作品、何を間違ったのか「ジェンダーSF研究会」の主催する「センス・オブ・ジェンダー賞シスターフッド賞」を受賞しています。「男社会で翻弄される女性の姿を活写して云々」みたいなことが受賞理由なのだと多分、思います。

フェミニストたちはキュゥべえを「女を搾取する男」の象徴と考えたいようですが、しかし魔法少女たちを「ブラック企業で使い捨てられる女性のメタファー」とするのであれば、キュゥべえは「フェミニズム」の象徴であると解釈した方が、ぼくにはよほどしっくりくるのですが。

本作は最終回、主人公であるまどかちゃんが時間を巻き戻して魔女を消失させることで終わりを迎えます。

そしてまどかちゃんのママはいつもスーツ姿(で、私服の時はパンツ)のバリキャリ、パパは主夫(!)という設定が与えられ、担任の先生は婚活に失敗しては男の悪口を言っている女性、というキャラクターなのですが、この魔女のいなくなった世界で、ママは(いまだキャリアウーマンなのかどうかは描かれないものの)、主婦っぽいスカート姿になっているのです!

果たしてまどかちゃんがやっつけた魔女の正体は、一体何だったのでしょう?

しかしオタク界ではいまだ魔女の支配が続いているがため、彼女らの耳に快くないこうした評論は、決して表には現れないのです。

それは丁度、『エヴァ』に先んじて登場した、『美少女戦士セーラームーン』の時にも起こった現象です。若い女性を原作者として、強い女の時代を象徴するアニメとして称揚された『セーラームーン』ですが、実質的にこの作品のクオリティを保っていたのは若い男性のアニメスタッフたちのようでした。アニメでは「母性原理で世界を守るセーラームーン」の理想主義が失敗し、男性原理を司るキャラクターがその独善を糾弾する、といったエピソードも描かれましたが、当然、アニメ評論はそんなエピソードを正当に評価することはありません。

オタク文化の歴史は、それがそのままオタク修正主義の歴史でもありました

正当に評価されてこなかったオタク文化の流れを、いつかオタク自虐史観から解き放ち、語り直すことができればいいな――とぼくはそんな風に考えています。

*1当方のブログ「東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_2723.html)」もご参照ください。
*2「うぐいすリボン 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html)」
*3「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」
*4まず、「真性の小児愛者」が自ら名乗りを上げることはネット上でも稀少ですし、こうした論者自身、自らの立場を明言することは稀です。また、こうした議論の場では「現実の子供を性の対象とする真性の小児愛者」と「アニメなどの美少女を好むロリコン」が常に(場合によっては意図的に?)混同して論じられます。ですから今回採り上げた人々も後者の人々である可能性は否定できません。よって本論では敢えて、「ロリコン寄りの人々」という曖昧なフレーズを使うことにしたいと思います。またこの種の議論においては「実際の子供に手を出したら犯罪」という最低ラインは一応、共有されていることが基本ではあることは、ご了解ください。ちなみにこの騒動についてはtogetter「性的マイノリティ差別反対している人間がオタクとかロリコンとかが気持ち悪いと言っちゃう現実。(http://togetter.com/li/636375)」を参照。
*5詳しくは当方のブログ、「ろりともだち(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_744a.html)」「ろりともだち(その2)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_010b.html)」「ろりともだち(その3)(http://shinji-hyodo.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/08/post_1021.html)」を参照。
*6(https://twitter.com/hazuma/status/94230144373370880
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フェミニズムの同性愛聖化は、虚偽と虚妄に満ちている (兵頭新児)

2014年02月20日 02時45分37秒 | 兵頭新児
*新しい執筆者の登場です。オタクの切り口から斬新なフェミニズム批判を展開なさっています。

フェミニズムの同性愛聖化は、虚偽と虚妄に満ちている



「話は聞かせてもらった……人類は滅亡する!」
「な……なんだってーーー!?」
「間もなく地球の地軸が傾き、それに伴う大洪水のため、世界は壊滅状態に陥る! だが清い心を持った者だけは善なる宇宙人のUFOによって救われ、高次元の世界で第二の人生を送ることが許されるのだ!!」


――すみません、根っからオタクなものでついつい『MMR』ネタから始めてみましたが、ご機嫌いかがでしょうか、皆様。

初めまして、兵頭新児と申します。

今月の2日に行われましたトーク・イベント「あらためて、フェミニズムを斬る!」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/cf3e8ab2631348075fc606b85133f3ffに参加しまして、それをきっかけに美津島様とお話しさせていただき、今回こうしてブログにお邪魔させていただくことになりました。

さて、上のネタについてですが、『MMR』というのは90年代、『週刊少年マガジン』で連載されていたオカルト漫画です。何かと言えば『ノストラダムスの大予言』を持ち出しては「人類は滅亡する!」と危機を煽って、読者の少年たちを怯えさせるという内容でした。が、実際に上のような教義を説き、混乱を巻き起こしたCBA(宇宙友好協会)と呼ばれるUFOカルトが、かつての日本にも存在したのです。

いわゆるUFOカルトの人たちは宇宙人を「神様のように我々を導く善導者」と捕らえる傾向にあるようです(逆に、矢追さんのようにワルモノと考える人たちもいますが)。カルトのリーダーは自分がそうした正義の宇宙人とコンタクトし、宇宙人の覚えめでたい存在であることを根拠にカリスマとして振る舞います。そう考えるとオウムなどは「UFO」を「超能力」に置き換えただけのパクリだ、という感じもしないではありません。

単純なヤツらだ、これだからカルトはダメだと言いたいところですが、よく考えてみれば思想界隈の人たちも、似たようなものではないでしょうか(事実、この種のUFO信者には共産主義者崩れが多かったそうです)。

ぼくがちょっと思うのは、同性愛者という存在もまた、そうした「正義の宇宙人」と変わらない受け取り方をされているのではないか……ということです。

実は美津島様の著書で知ったのですが、浅田彰氏は『逃走論』において「ゲイは素晴らしい、そしてまたヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」といったどうにも脳天気なことを書いていたそうです。

そもそも「男性の性役割から逃げる」行為をそこまで無批判に正義だと考えること自体が理解しにくい上に、「ヘテロセクシャル男性でもそうした者はゲイだ」では実際の同性愛者の立場がなくなるような気がします。

ここには「理念」としての「同性愛者」像が「宇宙人」と同じような薄っぺらな「正義の味方」役として捏造されている様子が見て取れます。ただ、その意味で本物の「同性愛者」は被害者とも言えますが、同時にその「理念上の同性愛者」像に乗っかった同性愛者たちも少なくないだろうことは、留意する必要があるでしょう。

とにもかくにもここ二十年間ほど、同性愛者やセクシャルマイノリティたちは左派インテリたちの間で「無辜でキヨラカでその理解者足ることが絶対的価値を持つ究極の弱者」としての地位を誇ってきました。しかし、近年ではネットなどで彼ら自身の生の声が聞かれ、その「聖性」にクエスチョンマークがつけられる事態も多くなっている気がします(ツイッターなどで同性愛者やその共感者は「虹アイコン」をつけていることが多いのですが、弱者という立場に居直った聞くに堪えない罵詈雑言を並べ立てる方も少なくなく、自分たちの首を絞めているように思います)。

さて、今回は浅田氏と同じような「同性愛者=宇宙人説」を唱える御仁たちについて、ご紹介したいと思います。

J氏、N氏、そしてI氏の三人です(さんざん引っ張っておいて何ですが、少々事情があり、名前はイニシャル表記に留めます)。

お三方ともフェミニストであり、腐女子(ボーイズラブを好むオタク女子)であり、J氏が社会学者、N氏、I氏のお二人が小説家と、それなりに知名度を持った方々です。フェミニズムが同性愛者の運動と深く関わってきたこと、フェミニストが同性愛者を持ち上げる傾向があることは周知の通りですが、このお三方はあろうことか、同性愛者の子供への性的虐待を称揚する人物の振る舞いを頑迷に否定して、その人物を擁護し続けたのです。

順を追って説明しましょう。

お三方が擁護したのは、伊藤文学という人物です。

伊藤はホモ雑誌『薔薇族』を、四十年間もの長きに渡って刊行し続けた編集長です。「ゲイの解放に尽力した偉人」というのが一般的な評価でしょうし、それはそれで間違いではありません。

しかし伊藤の著書を見ていくと、彼が小児愛者に異常な肩入れをしている人物でもあることがわかるのです(ちなみに伊藤は子供を好む同性愛者を「少年愛者」と呼称していますが、本項では「小児愛者」で統一したいと思います)。
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』(九天社、2006)では親公認で小学生の少年と性交渉を持つ小児愛者のエピソードを紹介し、

その子は小学校の高学年になってくると、ひとりで彼の住む部屋にも訪ねてくるようになる。そうなれば当然のこと、子供と性交渉を持つようになっていくのは、自然のなりゆきだった。/十歳年上の男(註・この少年の伯父)もゲイだから、二人の関係についてはとやかくは言わない。お母さんも理解してくれている。(p117)

とまで言い、また『薔薇族』読者からの「少年愛者の心得」を説く投書、子供と性交渉を持つことを前提としたノウハウ集を

少年愛の人にとって、バイブルといっていい文章だ。(p256)

と絶賛する始末です。『『薔薇族』の人びと その素顔と舞台裏』(河出書房新社、2006)も見てみましょう。

その中でもうすぐ七〇歳に手が届くという人の話は感動的だった。なんと現在、小学六年生の男の子と付き合っていて、この子とは五年生のときにゲームセンターで知りあった。(P243)

ずばり少年とのセックスのことを聞いてみたが、最初はあったそうだが、今では精神的なもので、本当の息子のようにかわいがっている。(p244)

いかがでしょうか。伊藤の著作を見ていくと、以上のように小学生の子供を手懐け、セックスに誘導する行動を肯定する文章に、度々出くわすのです。

しかし、彼への批判は、どこからも聞こえてはきません。左派寄りのインテリたちが同性愛者に極度の信仰心を抱き、その言動には盲目的に賛同するのは先に書いた通りです。

ぼくは去年の秋、ツイッター上でフェミニストたちがあまりにも邪気なく伊藤を賞賛することに切れ、上の事実を指摘しました。問題のある記述を書名、ページと共に提示し、またその画像をネットにアップして「読んで欲しい」とお願いもしたのですが、彼女らはそれを最後まで認めようとはしませんでした。

J氏は比較的誠実に対話を持ってくださり、またぼくがしつこく食い下がることでとうとう、

伊藤文学さんの児童虐待に甘い側面を知らなかったことは認めますし今後気をつけます。

とおっしゃってくださり、ほっと胸を撫で下ろした――のですが……後ほど、態度をひるがえしてしまいました。

勘繰ることを許されるならば、後に述べるようにN氏がぼくを攻撃し出したのを見て、「戦況有利」と判断して対応を変えたように、ぼくには見えました。

このJ氏の後に話したのがN氏です。N氏は「十数年前から、子供の身を守る運動を展開している団体に所属している」と自称しておいででした。彼女が男児への性的虐待に憤り、「フェミニズムはそうした男性たちにこそ救いになる思想なのではないか」とツイートしているのを拝見して声をかけたところ、「実際にチェックしてみます。」とおっしゃってくださったのですが……一時間後には、J氏たちに対するぼくの態度を「フェアではない」などと難詰して、遁走してしまいました(どこがフェアでないのかはさっぱりわかりませんでしたが……)。

とは言え、J氏、N氏も全く反論をなさらなかったわけではありません。お二人とも伊藤の著作の中に、「少年への性行為、児童ポルノを否定的に書いている箇所がある、伊藤は子供との性行為など正当化してはいない」と反論してきたのです。

実のところ、この主張は間違いではありません。伊藤の著作を見ていくと、確かに小児愛者に「子供とセックスしてはいけない」と自制を呼びかける箇所に、何度も行き当たるのです。しかし子供との性行為を正当化する記述もまた、不思議なことに同じ本に同居しているのです。むろん、彼女らが挙げた著作の中にもそうした記述はありましたし、ぼくもそのことは指摘したのですが、やはり聞く耳は持っていただけませんでした。

伊藤は少年に対する性犯罪が起こるなど、風当たりが悪くなると場当たり的に子供との性行為を否定して見せ、ほとぼりが冷めるとまた肯定する。そして著作をまとめる時には考えなしにその時々に書いたエッセイを一冊に混載し、結果、主張に一貫性がなくなっている――といったところが実情なのです。

もうおわかりでしょう。J氏N氏のお二人は伊藤の著作をそれなりに読み込んでいます。しかしそれにも関わらず、問題発言については丁寧に丁寧にスルーしている。伊藤をカリスマ視するあまり、著作の中の快い部分だけしか目に入らなくなってしまっているのです。

J氏とN氏のぼくに対する反応が似通っているのは、上の点だけではありません。お二人とも、「兵頭は実際に児童や男性の性暴力被害者を救うために動いてる様子はない、伊藤と話をしようとしない(大意)」と、ぼくを腐しました。

しかし(一番悪いのは伊藤とはいえ)問題のある発言をスルーし続けている彼女らが批判されるのは当たり前のことだし、ましてや「実際に児童を性暴力から守る活動」をしていない者は相手を批判する資格がない、というのは全く不可解です。いえ、そもそも彼女らが「兵頭はそのような活動をしていない」「伊藤と話していない」とするのには何ら根拠はなく、単に彼女らが「きっと兵頭はそんなことをしていないに違いない」と思い込んでいるだけ、なのです。

またこちらの批判を曲解し、「漫画表現への攻撃」であると言い募ることも、お二人共通の反応でした。ぼくはあくまで実際の子供への性的虐待について指摘しているのですが、お二人の目には一体全体どうしたことか、「性的な漫画表現を規制しようとするワルモノ」に見えているようなのです。そもそもぼくはオタク向けのアダルト物のゲームシナリオや小説を書くことが本業であり、それらが規制されれば真っ先に首をくくらなければならない立場にあるのですが。

お二人の言は残念ながら、頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、全て思い込みに支配されたものだったのです。

フェミニストにはこうした、「客観的な事実を認めようとはしない」「裏腹に論敵の主張は恣意的にねじ曲げてそれを吹聴するといった方が大変に多いように思います

さて、上に「N氏がぼくを攻撃し出した」と書きましたが、それについても少し書かせていただきましょう。

私事で恐縮ですが、実はぼくはかつて、知らない間に彼女にお世話になっていたことがあったのです。諸事情で宙に浮いてしまった原稿を、知人の編集者さんに他の出版社へとご紹介いただいた折、N氏が仲介してくださっていたらしいのです。議論を続ける内、N氏はそのことをぼくに告げ、「その時の個人情報を知っているぞ」「編集者からあなたのことをいろいろ聞いているぞ」と言い立ててきました。同時に彼女のファン(N氏は有名な作家さんですから、ファンも多いのです)も彼女の言動に、一斉に唱和しました。その中にはI氏など、著名な作家さんもいました。どうやら彼女らの目には、事態が「大作家に粘着しているストーカーが、返り討ちにあった」というストーリーに見えていたようです。

さて、そのI氏もまたマニア間で人気のある小説家であり、「実在児童の人権擁護基金」の理事を務めていらっしゃいます。彼女はぼくの言動に対し、

まず最初に『伊藤文学さんの全著作、全発言を資料として用意して』『それを共有できる場をセッティングして』その上で特定の誰かに『この発言についての意見を聞きたい』という段取りなら『あり』だと思う。
(中略)
それが最低限度の礼儀。

と、おおせになりました。これが非現実的な空論であることは言うまでもありませんが、そもそも彼女自身が伊藤の著作に対して調べた様子がないのにぼくの指摘を否定しているのだから、全くもって奇妙な話です。

しかも上のつぶやきの直後に、彼女はぼくの著作に対して「読む気がしない」とした上で全否定なさったのです。彼女の辞書に「矛盾」の文字はないのでしょうか。むろんないのでしょう。

最後にC氏についても少し触れておきましょう。彼は(恐らく)男性で、左派寄りではあるものの、フェミニストというわけではなさそうです。また、上の方たちとは直接の関係はないようでした。この問題でもめている時に、たまたまC氏が著作で石原慎太郎氏と伊藤を比較し、後者を称揚していたのを見て、ツイッター上でこちらから声をかけてみたのです。

彼はぼくの伊藤文学に関する指摘を、当初はやはり認めようとはしませんでしたが、話す内に「『薔薇族』の編集者と知りあいなので問い質してみる」とおっしゃり、しばらくそのままになっておりました。先日そのことをふと思い出し、DMを送ろうとしたのですが、いつの間にやらブロックされていたのです。そもそも彼とは二、三言交わしただけで、言い争いなどにはならなかったと記憶しているのですが。ちなみに余談ですが、彼は「と学会」のメンバーであったりします。

これまでのぼくのお話しにおつきあいいただいた皆様は、どのようにお感じになったでしょうか。お疑いの向きはどうか調べてみていただきたいのですが、伊藤が子供への性的虐待を称揚してきたことは紛れもない、誰がどう見ても解釈の幅などない明白な事実です。しかしそれを目の前に突きつけられ、少なからぬフェミニストたちが事実を頑迷に否認し続けたのです。

男性の女性に対する振る舞いであれば、いかなる些細な言動もセクハラあるいは性的虐待に結びつけ、大騒ぎするフェミニストが、しかも性暴力から子供を守る運動をしてきたと自称している方が、何故このような態度を取り続けたのでしょうか。

J氏やN氏たちに対し、「児童虐待を擁護する人間の屑ども」と激しく憤る方もいました。N氏のぼくに対する言動についても「相手に知らさずに行ったことを後から恩に着せるのはどうなんだ」「恩を傘に批判を封じている」「まるで漫画に出て来る悪役そのままだ」、また「伊藤の醜聞を握りつぶしたくて、兵頭を黙らせたのだ」と指摘する方もいらっしゃいました。

が、少なくとも彼女らの意識の上では、それは違うのだろうと思います。彼女らにとっては本当に本件が「小児愛者という無辜なマイノリティへの心ない攻撃」、「自分が世話をした人間が恩を仇で返して絡んできた図」に見えてしまっているのだと思います。同様に、恐らくN氏が長年子供を守る運動を真摯になさってきたことにも嘘はないでしょう。

彼女らに悪意は、恐らく一切ありません。彼女らはただ、専ら善意で「同性愛者=無辜の弱者」との図式を鵜呑みにし、「伊藤=同性愛者の味方=正義」と短絡的に考え、そこから一歩も動けなくなっているだけなのです

こうした彼女らの「徹底した思考の停止ぶり」は、先の浅田氏の発言と被っては見えないでしょうか。そこにあるのは「男性同性愛者=善/男性異性愛者=悪」という幼稚な二元論、一度描き上げられた「弱者地図」のアップデートができない動脈硬化ぶり、仲間内の批判が全く不可能な自浄能力のなさです。

ぼくは、左派が「弱者、マイノリティの味方」であろうとすることそれ自体は、大いに意義のあることだと思います。しかし彼ら彼女らは非常にしばしば単調で非現実的な「強者/弱者」「マジョリティ/マイノリティ」といった二元論に陥り、その弱者やマイノリティ側につくことで自らを正義であると規定してしまう傾向にあります。まるで、「宇宙人に認められた我々は選ばれし人間なのだ」との選民意識に陥ってしまった、UFOカルトの人々のように。

さて、冒頭で例に挙げたUFOカルトは、「悔い改めればノアの箱船に乗れる、我々だけは助かるのだ」といった信仰でした。

フェミニズムに理解のある素振りを見せる男性たちを見ていると、こうした「助かりたいがために必死で教祖様にお布施をする」「側近を目指して覚えめでたくなろうとする」的な嫌らしさが感じられます。

が……ここまでお読みになった皆様は、本件のフェミニストたちの伊藤に対する感情にも、ちょっとそうした匂いが感じられるとはお思いにならないでしょうか? 彼女らの振る舞いは、「伊藤という、同性愛者(=宇宙人)の覚えめでたい教祖」を崇拝する、一種のUFOカルトのように見えます。

そもそも今回の伊藤の問題発言は同性愛者ではなく小児愛者についてのものであり、また伊藤自身は同性愛者ですらありません。また、欧米ではNAMBLAなどといった少年を好む小児愛者の組織が「子供とのセックスを合法化せよ」などと運動し、ゲイの団体がそれに嫌悪を表明しているという事実もあります。

彼女らがそれを顧みず、非現実的な対応を繰り返したのは、彼女らにとって同性愛者とは、宇宙人同様の空疎なご神体だったからでした(*)。

また一方、彼女らはぼくが「漫画などの性表現を圧殺している」のだと、あり得ない曲解をした上で難詰してきました。

彼女らは腐女子であり、オタク女子です。先に申し上げた通り、ぼく自身オタクであり、オタクの悪口を書くことはしたくありません。また、ここまでお読みいただいた方は、さすがに彼女らは例外であり、いかにフェミニストも左派もその大多数はそこまで病的ではないだろう、とお思いかも知れません。が、オタク文化というものが漫画などのサブカルチャーに源流を持つことは厳然たる事実であり、その有力者はほとんどが左派寄りの人たちです。正直、この業界の上層部においては彼女らが少数派だというのは楽観的な見方ではないか……と思われるのです。

 ――いや、それはおかしい。ネット上では「オタクはネトウヨだ」といった言説がしょっちゅう聞かれるではないか。

そんな反論が聞こえてきそうです。しかしそうした声こそ、むしろオタク界の上層部の人たちが、(近年、ことに急速に増えた)オタク界のマジョリティたちを自分たちの意のままにできないことに焦れ、逆切れ気味に言い出したことのように思えます(これはまた、オタク界の上層部に君臨する人たちが必ずしも「オタク」のマジョリティと性質を同じくしない、言い換えればオタクの上層部に位置している人たちはオタクではなく、その先代に当たるサブカルチャーの愛好者たちである、ということでもあります)。

上に挙げた腐女子フェミニストたちも、オタク界で一定の地位を持った、言わば上層部のメンバーであると言えます(余談ですが、今のフェミニストたちのなかで腐女子の姿が大いに目立ちます。が、上と同様な理由で、若い腐女子たちの中のフェミニスト率がそれほど高いかは、大いに疑問です)。

そうした図式を念頭に置いた上で、近年のオタク界で妙に小児愛者を擁護する声が大きくなっている点を、ぼくは指摘したく思います。

つまり、彼女らの中には小児愛者の地位の地盤固めをするために、同性愛者を「政治利用」しようという意図があったのではないか。いえ仮にその意図はなくとも、結果的に「同性愛者という名の宇宙人にお布施を捧げることで、小児愛者も箱船に乗れるのだ」との教えを「布教」するような振る舞いをしてしまっているのではないか――との想像です。

一例を挙げると、「ペドフォビア」という言葉。ウィキペディアで「ペドフォビア」の項を見ると、

「小児性愛者嫌悪」。 社会的に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を『過度に』嫌悪する心理。および、これを犯罪的人格とみなして攻撃・差別する事とされる。[要出典]

小児性愛者が、被害者意識や自己の性的嗜好の擁護から、『一般的な』小児性愛に対する反応までもペドフォビアとして主張することもあり、『過度な』嫌悪との線引きは難しい。[要出典]


とあり、[要出典]と繰り返されているように、どうも正当な学術用語ではないようです(「ホモフォビア」も学術的な用語なのかどうか、ぼくにはわかりませんが……)。

想像するに「ホモフォビア」の二番煎じを狙って、小児愛者の「ケンリ」を守るために作られたワードなのでしょう。

しかし「小児愛者は例え子供に手を出していなくても発見され次第、逮捕」といった法律でもあるならともかく、一般的な小児愛者への嫌悪感までをもこの言葉で断罪しようというのはいかにも乱暴であること、上にも指摘されている通りです。事実、ぼくはネット上で成人と子供の性行為を否定するだけで「ペドフォビア」呼ばわりをされるといった類の経験を、幾度かしてきました。

ここで少し補足させていただくと、いわゆる「オタク」に「ロリコン」が多いのは事実です。が、オタクが好むのは「萌えキャラ」に象徴されるように、あくまで架空のキャラクターです。またオタク向けのアダルトゲームや漫画などに小学生めいたキャラが多数登場することは事実であるものの、一般的には高校生クラスのキャラが人気であると言えます(作中では小学生、高校生と明言はされませんが……)。

近年、オタク人口が急増してからはいよいよ、オタクと真性の小児愛者の関係性は薄くなったというのが実情なのですが、オタク界の上層部には小児愛者が、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がおり、敢えてオタクと小児愛者を混同することで後者を肯定するような危険な思想をばらまこうとしているのではないか……あくまで想像ですが、ぼくはそのような疑念を抱かずにはおれないのです。

本件はつまり、「同性愛者」という「宇宙人」を味方に引き入れることで正義を得たフェミニストや左派という「UFOカルト」が、「小児愛者」或いは「オタク」をも信徒にしようと奔走している、それに乗っかってしまうオタクも少なからずいる、そんな状況の一端を垣間見たものであると、そんなふうにまとめてしまえるように思うのです。

 ――最後に今回、ツイッター上でぼくともめたフェミニストの皆さんへ一言。万一、これをご覧になっていたとしたらお怒りのことでしょうが、どうかもう一度、冷静に伊藤の著作を調べてみてはいただけないでしょうか。ことにNさん、非礼は承知しておりますが、ぼくはこれでもかなりセーブして書いたつもりです。またJさん、ぼくがあなたにしつこく話したのは、こと本件については「フェミニストはこんな反社会的なことを言っているぜ、バーカ」で済ませるのではなく、「フェミニストにもわかっていただきたかった」からです。

それは、NさんやIさんが児童を虐待から守る活動をしていることが象徴するように、そうした分野にはフェミニズムの影響が、極めて大だからです。ことこれに限ってはフェミニストと敵対するより、そうした活動に一日の長のある人々に事実を理解してもらい、本当の意味で子供を守るための運動を展開して欲しい、と考えたからです。その意味で、Jさんが理解をひるがえしたのはいかにも残念でした。

同様に読者の方も、ぼくの主張にご納得いただけない向きは是非、伊藤の著作をチェックしてみてはいただけないでしょうか。

また上のフェミニストたちとのやり取りはtogetter、

伊藤文学の「子供とのセックス肯定」について(改訂版)(http://togetter.com/li/550318
伊藤文学の「子供とのセックス肯定」についてⅡ(http://togetter.com/li/564318

にまとめられています。伊藤の問題発言についてはぼくのブログの

伊藤文学の問題発言について(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar341241
に引用しています。

(*)いえ、彼女らに聞けば、「私には大勢同性愛者の友人がいるぞ」とおっしゃるかも知れませんし、それは事実かも知れません。でも、伊藤文学って同性愛者には非常に嫌われている人物であり、仮に同性愛者の友人が多いなら、そういう風評も耳に入ってくるはずなんですけどね。
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