美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三河島~南千住ぶらぶら紀行(その3)芭蕉・小塚原

2014年09月04日 00時03分34秒 | 報告
円通寺を後にした私たちが次に訪れたのは、荒川ふるさと文化館でした。そこで私たちは、千住と松尾芭蕉とのつながりを知ることになりました。芭蕉のパネル展が開かれていたからです。



上に掲げたのは、同館の隣にある素盞雄神社(すさのおじんじゃ)にある句碑の拓影です。『奥の細道』には、上記のように「千寿といふ所より船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ  行春や鳥啼き魚の目は泪」という記載があります。そのなかの「千寿」が実は「千住」だったとは、いまのいままで気づきませんでした(高校時代、そう教えられたのかもしれませんが)。

芭蕉は、元禄二年(一六八九)の旧暦三月二七日、慣れ親しんだ深川を後にして舟に乗りこみ、隅田川をさかのぼり、千住で舟を降りて、見送りの友人や弟子たちに別れを告げます。取り巻きの人々はおそらくそこまで一緒に舟に乗ってきたのでしょうね。これが奥の細道の旅のはじまりです。「千寿より舟をあがれば」ではなくて「千寿というふ所より舟をあがれば」という言い方をしているところに、大江戸の真っ只中に住んでいた都会人・芭蕉からすれば、当時の千住がいかに辺鄙な場所としてイメージされていたのかがうかがえます。高校時代は、教師から上記の「行春や鳥啼き魚の目は泪」が名句なのだと教えられても、どこかピンとこなかったのですが、当時の千住のイメージや、芭蕉の友人や弟子たちの名残惜しさの尽きない様子や、これからの旅の困難さを思い浮かべれば、とても良い句であることが納得できます。旅先で病気をしても医者などいないのが当たり前なのですから、野垂れ死に覚悟の旅と言っても大袈裟でもなんでもないのですよね。

「千寿」=「千住」といえば、いまの足立区北千住駅一帯を指します。荒川区の南千住は、「南」を略して呼ばれることはまずないと言われています。そうすると、芭蕉はおそらく、南千住からすれば、千住大橋を渡った向こう側で下船したのでしょう。だから、「千寿といふ所」という言い方になるのではないかとも思われます。当時、南千住までは大江戸と認識されていたようですからね。となると、川向こうの足立区を歴史的にどうとらえたらよいのか、俄然興味が湧いてきます。東京二三区の中で公立小中の学力がいつも最低であることと何か関係があるのでしょうか。これは、足立区を馬鹿にしているのではなくて、純粋に歴史的知的興味です。

しばし、芭蕉の旅に思いを馳せ、美しい素盞雄神社を参拝した後、私たちはコツ通り商店会を五〇〇メートルあまり南下して、小塚原(こずかっぱら)刑場跡に向かいました。「コツ通り」の「コツ」は、小塚原の「コズ」とも、あるいは、「骨(コツ)」とも言われています。どこを掘っても人骨だらけだから、というわけです。

小塚原は、品川・南大井の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸のかつての刑場でした。鈴ヶ森刑場が、江戸の南の入口(東海道)に設置されていたのに対して、小塚原は、北の入口(日光街道)に設置されていました。広さは、間口六十間(一〇八m)、奥行三〇間(五四m)、創設は一六五一(慶安四)年との由。明治初めに廃止されるまで磔(はりつけ)・斬首などが執行されました。

ちょっと調べてみて分かったのですが、江戸の刑場は、もともと「北の浅草」「南の芝」の二ヶ所に設けられていました。幕府成立から半世紀近く経って江戸の人口も増え人家も建ち並ぶようになったので、郊外に移されることになったのです。浅草から千住へ移されたのが「小塚原刑場跡」、芝から南大井に移されたのが「鈴ヶ森刑場跡」です。

小塚原刑場の刑死者を供養するために、一六六七(寛文七)年、刑場に隣接して創建された回向院は、常磐線敷設の際に分断されました。そのうち南側が独立して延命寺となりました。

私たちはまず、北側の回向院に行きました。薄暗い建物のなかをくぐり抜けると、突き当たりに橋本左内や吉田松蔭の墓がありました。むろん彼らは、小塚原で処刑されました。普段は世間をすねた目で見たようなことばかりを嘯いている私たちですが、吉田松蔭の墓の前では、なぜかすんなりと合掌してしまいました。二人の墓はほかのよりひときわ大きく造られています。吉田松蔭などは、おそらくそのことをいぶかしがっているのではないでしょうか。「なぜ拙者の墓は、ほかの者たちと同じ大きさではないのか」と。二・二六事件の首謀者のひとりである磯部浅一の小さな墓も妻の墓と一緒にひっそりと出口付近にありました。『解体新書』を書いた杉田玄白らが、死体の腑分けに立ち会ったのもこの場所です。

次に、常磐線の線路を挟んで南側の延命寺・小塚原刑場跡に行きました。曇り空を背景にした「首切り地蔵」の大きな姿が目に飛び込んでくるやいなや、私は思いました、「ここには、強烈な怨念がゆらいでいるような気がする」と。その思いはいまでも変わりありません。なんともいえない雰囲気なのです。「首切り地蔵」などというと、なにやらおどろおどろしい感じですが、刑死した人々の怨念を宥める慈悲深いお地蔵さんなのですよ。江戸時代の旅人たちは、この地蔵さんに両手を合わせてここを通り過ぎたそうです。


首切り地蔵

こういう場所を分断したのは、あまりいいことではない、と思いました。また、いまでもそう思います。しかし、刑場跡をもっとひどい扱い方をしているケースがあるのですね。

江戸時代の西の刑場だった八王子の大和田刑場は、マンション建設等によってどうやら破壊されてしまって、跡形もなくなってしまっているとの由。お金儲けのために、都合の悪い歴史はないことにしてしまおうというわけでしょう。そういう、歴史をまったく尊重しない野蛮なゼニかねモダニズムは、結局のところなんかしらの形でしっぺ返しを喰らうにちがいない。そう思います。いまからでも、悪いことはいわないから、ちゃんと慰霊塔を建てるべきでしょう。それがマトモな人間のすることです。
(この稿、つづく)
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その2)円通寺

2014年09月02日 22時43分24秒 | 報告
JR常磐線と五〇〇メートルほど隔たった並行な通りを歩いているうちに、南千住警察署を通りかかりました。すると、柄シャツを着たあんちゃん風な人物と数名の若い警察署員との間で、いささか剣呑なやりとりをしています。どうやら、あんちゃん風が警察署の前の歩道に自転車をとめているのをおまわりさんから咎められているようです。あんちゃん風のセリフがふるっています。「オレが子どもンころは、別にとめてもよかったんだけどよぉ」。お前たちより顔が古いんだぞと言いたいのでしょう。おまわりさんも苦笑するほかありません。なんとなく、このあたりの土地柄がにじみでているような珍事でした。少なくとも高級住宅街では決して見られない光景です。

そのあたりを歩いていると、ちょっと風変わりなお寺が後ろ向きに見えてきました。タイの寺院風な尖塔が空高く突き出ているのです。タイ・フリークのIが興味を示したので、日光街道に出て表に回ってみることにしました。すると私たちの目に、墨で書かれた大きな「円通寺」の文字が飛び込んできました。Iはおもわず「ここだったのか」とつぶやきました。彼にとって円通寺は、今回の散策のお目当てのひとつだったのです。

Wikipediaによれば円通寺は、寺伝によれば、七九一年(延暦十年)坂上田村麻呂によって開かれた由緒あるお寺です。明治維新のとき、一八六八年(慶応四年)の上野戦争で亡くなった彰義隊(幕府側)の隊員を、このお寺の住職が弔ったのが縁で、弔った場所の近くにあった上野寛永寺の黒門(総門)を円通寺に移築し、彰義隊員の墓もそこにあります。私たちはその門に入り、榎本武揚の名が刻印された墓碑を確認しました。そのまわりには、私たちが耳にしたことのない隊員たちの名が刻まれた墓が少なくとも三〇くらいはありました。またそこは、一九六三年に起こった吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体が発見された場所でもあります。敷地内に、同事件にちなんだ立派な慰霊地蔵がありました。いまでは交通量の多い通りに面していますが、当時は閑散とした場所だったのでしょう。吉展ちゃん事件については、私が幼少のころ親たちが話題にしていたのを覚えています。私の本名の「ヨシ」と同音だということを、母は何度も私に言った記憶があります。

円通寺から歩いて五〇〇メートルもないところに浄閑寺があるのですが、今回は行きませんでした。このお寺は、安政二年(一八五五年)の大地震で犠牲となった、新吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれたとの伝承から「投込寺」とも呼ばれています。そのお寺から目と鼻の先にかつての吉原があったのです。Iと私は、大江戸が果てる北東あたりをさまよっていることになります。そこに漂っている歴史の濃密な空気にあてられながら、私たちはぶらぶら紀行を続けましょう。(この稿、つづく)
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その1)三河島界隈

2014年09月01日 11時31分09秒 | 報告
八月二七日に、私は、JR常磐線の三河島から南千住まで五時間ほどぶらぶらと散策をしました。Iという、歴史を愛好する同好の士といっしょだったので、とても楽しいひと時となりました。

そのときのことを、少しずつ書き進めていこうと思います。

三河島駅界隈は、新大久保と並ぶ東京有数のコリアタウンです。新大久保が一九八〇年代以降のいわゆるニューカマーの街なのに対して、こちらは大正年代以降に移住したオールドカマー系在日が多く、古い下町の商店街にハングルで書かれた小さな看板の店が散見されます。赤文字の鄙びた看板の喫茶店。職人芸がご自慢の時計修理店。小ぶりな一般住宅と同じく小ぶりな商店が道の両側にさりげなく混在して並んでいるひっそりとした街。韓流グッズ店が乱立し、観光地化がはなはだしい新大久保とはうって変わった、貧しい昭和の面影を残した街。行政の「愛」が行き届いているとは言い難い街。それが、三河島に対して抱いた私の印象です。これは、私なりの精一杯のほめ言葉なのですが、お分かりいただけるでしょうか。私たちが歩いたのは、荒川仲町通り商店街でした。

地図上で「三河島」という地名がなくなったのは、一九六二年(昭和三七年)に起こった三河島事故によって、同地名のマイナス・イメージが全国レベルで広まってしまったためと言われています。同事故は、常磐線三河島駅構内での列車多重追突によって、一六〇名の死者と二九六名の負傷者を出した大惨事です。そのマイナス・イメージを払拭するために、一九六八年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅しました。私見によれば、町名を消すことで都合の悪い歴史をもみ消してしまおうとする役人的発想は、とてもつまらないと思います。良いことも悪いこともふくめての「歴史」なのですから。地名は、そのすべてを貪欲に吸い込んで、生き延びていくものなのではないでしょうか。

荒川仲町通り商店街を通り抜けた後、私たちは、明治通りや都電荒川線荒川区役所前駅の踏切を渡って、荒川一丁目を過ぎ南千住一丁目に入っていきます。西から東へ、地図上を左から右に、常磐線とおおむね平行に移動していることになります。
(この稿、つづく)
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BBC ワールド・ニュース キャスター・コムラ氏(Komla Dumor)急死

2014年01月19日 10時58分50秒 | 報告
BBC ワールド・ニュース キャスター・コムラ氏(Komla Dumor)急死



BBCワールド・ニュース「FOCUS ON AFRICA」のキャスター・コラム・デュモール氏が、一八日自宅で急死しました。享年四一歳。あまりにも早すぎた死です。

その迫力のある身体像と深みのある知的陽性ヴォイスは、いちど見聞きしたら、強烈に印象づけられます。さきほどその死を知って、思わず落涙してしまいました。さぞかし無念だったことでしょう。「FOCUS ON AFRICA」で、彼は、ポジティヴなアフリカの今を伝え続けました。クリントン元大統領と接する場合も、アフリカのスラム街の住民と接する場合も、彼の態度はいつも同じでした。相手に対する敬意をつねに失わない態度をキープしたのです。真のジェントルマンであったと言えましょう。または、マンデラ・スピリットのマスメディアにおける実践者とも申せましょう。

アフリカのガーナで生まれ、ガーナ大学で社会学と心理学を専攻し、ハーバード大学の修士課程を卒業しています。地元ガーナでは有名なキャスターで、二〇〇七年にBBCに入社しています。

Rest in peace,Komla.


KOMLA DUMOR SKILLS BBC FOCUS ON AFRICA
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昨日、「江戸東京たてもの園」に行ってきました  (イザ!ブログ 2013・4・17 掲載)

2013年12月14日 02時50分11秒 | 報告
昨日私は、「江戸東京たてもの園」に行ってきました。知人たちが「あそこはいい」と異口同音に勧めてくれたからです。私の場合、当地への最寄り駅が西武新宿線の花小金井駅だったので、そこから武蔵小金井行きのバスに乗って約10分、小金井公園西口で降りました。「江戸東京たてもの園」は、当公園の広大な敷地の一角にあるのでした。

私のお目当ては、高橋是清邸です。入口のビジターセンターをくぐり抜けてすぐ右手に、是清邸があります。ためらうことなく、まずはそこへ行きました。思えば、是清はこの邸で二・二六事件で決起した青年将校たちによって惨殺されたのでした。にわかにそのことを思い出して、ちょっと興奮気味に一目散に二階に登って行きました。二階にいた係りの女性に確認してみたところ、彼女は「ええ、そういうことになっています」と面白い返事の仕方をしました。まあ、正確といえば正確な返事とは言えるでしょう。



是清が寝ていた部屋。明け方5時5分に襲撃された。 *写真にカーソルを当ててクリックすれば、写真は拡大されます(ダブル・クリックをすると原寸大になって見にくいので、おすすめできません)。以下、同様


是清が寝ていた部屋から外を臨む。


是清が寝ていた部屋から隣の部屋を臨む。掛け軸の文言は、「不忘無」と読める。「金も地位もなかったときのことを忘れるな」という自戒をこめているものと思われる。


二・二六事件を伝える当時の新聞(朝日新聞)。


青年将校たちは、この階段を土足で駆け登ってきた。なお、手すりは当時なかった。彼らが是清宅にとどまったのはほんの10分程度だった。


外から、是清の寝室を見上げる。

私は、若い頃から数年前まで、二・二六事件を起こした青年将校たちにどこか惹かれるものを感じていました。少なからず読んだ三島由紀夫の影響もあったのかもしれません。また、父がかつて海上自衛官だったこともどこかで作用していたのかもしれません。ところがその後、当時の高橋是清が日本の経済危機を幾度も救った国の宝のような存在であったことを知り、そのことが腹の底にずしんと来るにおよんで、青年将校たちに対する年来の評価がほとんど180度変わってしまいました。当時の是清が日本にとってどれほどに貴重な存在であるのかを一向に解せず、「君側の奸」と目して彼を問答無用とばかりに惨殺した青年将校たちの思慮の浅さや夜郎自大ぶりやどうしようもない愚かしさがどうにも許せなくなってきたのです。いまでは、彼らを単なるボンクラとしか思っていません。いまの私には、すべてを知りつつなおも彼らに心を寄せる人たちの気がしれません。子供じゃあるまいし、動機が純粋だったら何でも許されるわけではありません。そういう議論には、嫌悪の念すら湧いてきます。その住まいから、是清の閑寂な暮らしぶりを偲ぶにつけ、その思いを新たにしました。

是清邸を後にして、「下町中通り」という映画『Always 三丁目の夕陽』のセットのような一角に行ってみました。そういうところに身を置くと、身体がゆるゆるとほぐれてくる自分を感じます。これは、理屈ではありません。私は、どうやら頭のてっぺんからつま先まで貧しい昭和の人間のようです。感傷的な言い方になってしまいますが、「下町中通り」がどこまでも続いていて、そこに迷い込んでしまい、もう二度とその外へ出ることが叶わない状態に陥ったとしても、私はおそらく後悔せずに、けっこう楽しい思いを抱いたまま昭和の色濃い界隈をさまよい続けることでしょう。はい、これはもちろん単なる妄想です。何かを主張しようというわけではありません。もしも、この思いを共有できる方がいらっしゃったら、とても嬉しいと思います。

次の写真は、小寺醤油店という、大正期から現在の港区白金で営業していた店の店内です。



これを見てピンと来る人は、昭和の空気をふんだんに吸い込んだ人ではないかと思います。私は、缶詰をアップする誘惑に勝つことがかないませんでした。下の写真なんて、あなたの記憶のどこかにひっそりと息づいていたりしませんか。



次の写真や、その次の写真はどうですか。




こんなレジスターもありましたね。



私の母方の実家は片田舎で萬屋(よろずや)を営んでいました。小学校にあがるかどうかというころに、お店に陳列されているこれらの缶詰をじっとながめては、これらをこころゆくまで食べられたらどんなに幸せなことだろうと、幼い脳みそを食い意地の張った妄想で悩ましくふくらませていたものでした。

次は、台東区下谷の言問(こととい)通りにあった「鍵屋」という居酒屋の内部です。良心的な値段でおいしいおつまみをお客に提供することで有名な居酒屋だったらしくて、作家の内田百なんかも通っていたそうです。



五,六人座れば、満員御礼という狭さ。


この安さが、昭和の雰囲気を伝えている。それにしても、安い。


醤油樽を椅子にするとは、なかなかのグッド・アイデア。

次は、大正時代の仕立て屋を再現したものです。当時の人びとの慎ましい暮らしぶりが偲ばれます。



昭和の家並みや街角をごらんください。


人が出てくるお店は、荒物屋。




台東区池之端の不忍通りに面して建っていた村上精華堂。戦前の化粧品屋さん。その質素さに意表を突かれる。

昭和の世界にトリップした後、ちょっと疲れたので、武蔵野の自然のやわらかい色彩で眼を喜ばせながら、ひっそりとした緑のなかをしばし散歩しました。



最後に、ちょっと気になったので、前川國男という建築家の邸に入ってみました。私は、建築についてはまったくの門外漢ですが、彼はきっとすごい建築家であるにちがいないと思いました。なんというか、人がもっともクリエイティヴになりうる環境はどういうものなのかということについての感覚が研ぎ澄まされているような気がしたのですね。室内空間のつかみ方が天才的なのです。私はプロのカメラマンではないので、それをどこまでつかまえることができたのかはなはだおぼつかないのではありますが、次の二枚の写真から、その雰囲気の一端でも感じ取っていただければ幸いです。


ここは、休憩室。ここでくつろいでスタッフと語らいながら、アイデアが浮かぶのを待ったりしたのでしょうかね。


仕事場のピンと張り詰めた空気をいまだにとどめています。

なにがどうということもないといえばないのですが、「江戸東京たてもの園」、結構楽しめました。気楽に一人でぶらっといらっしゃることをお勧めいたします。詳細については、こちらをご覧ください。www.tatemonoen.jp/index.html

あ、そうそう。花小金井駅からだったら、南口を出てグリーン・ロードをまっすぐ行けば、緑の中を散歩しているうちに三〇分くらいで小金井公園に入れます。これ、とても気持ちいいですよ。わたし、帰りはそうしました。行き方は、駅員に「小金井公園の小平口まで、グリーンロードを歩いて行きたいのですが、案内をお願いします」といえば、教えてくれるでしょう。

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