美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)

2014年10月30日 07時50分07秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)

当ブログで、ちょっと前に大江健三郎氏の『沖縄ノート』を取り上げ批判しました。今回は、『ヒロシマ・ノート』を取り上げようと思います。

率直に言えば、大江氏の政治評論に接するとまずは理屈抜きに「虫が好かない」という思いが湧いてきます。読み手を自分のフィールドに引き込もうとする氏の手つきに、人間の弱点につけこんで読み手を黙らせようとする不健全なものを感じるからです。その場合の「人間の弱点」とは、痛めつけられた悲惨な弱者の存在を執拗に振りかざして、それに寄り添おうとする、書き手である自分の良心的であるかのような身振りを独特の粘着質の文体で見せつけられ続けると、不愉快ながらもなにやら文句が言いにくくなり陰にこもってしまうという人間の不可避的な心の傾きのことです。大江氏の政治評論は、それにつけ込むことで成り立っているように感じられるのです。だから、読後にとても嫌な気分になります。そこには、ニーチェが鋭く見抜いたような、弱者のルサンチマンが隠し持つ青白い不健全な権力欲が感じられるのです。

彼の『ヒロシマ・ノート』一冊を読み通すのにどれほどの時間を費やしてしまったことでしょうか。なかなか先に進まない読書を自分に強いている間、気持ちが乗らない読書は苦行のようなものである、という感慨が幾度も湧いてきました。本書を放り投げてしまったらどれほどスッキリするか、と思ったのも一度や二度ではありません。

″だったら、読まなきゃいいじゃないか″という声が聴こえてきます。むろん、その通りなのです。が、他方で″自分の目が黒いうちに、大江健三郎的な政治思想はすべて埋葬してしまいたい″という止み難い欲求があることもまた確かなのです(朝日新聞に対しても同じ思いを抱いています)。大江健三郎の政治言説には、戦後思想のダメなものが集約されている、というのが私なりの見立てなのです。悪口を言うには、一応彼が書いたものを読まなければなりませんものね。で、しぶしぶ読み始めてみたら、なかなか先に進まなくて難渋した、というわけなのです。あの独特の、悪文としか言いようのない癖のある文体にも閉口しましたけれど。小説で成功した文体を政治評論や社会評論にそのまま持ち込むことには大きな問題があると私は考えています。それについてもいずれ触れようと思います。

若くてナイーヴで心優しき読み手は、本書が内包する陰湿な猛毒にあてられたならひとたまりもないのではないかと思われます。そうなると、いわれのない罪悪感と過剰な放射能コンプレクスを抱え込まされて、物事をバランスよく考えることができなくなってしまうのですね。それは、実のところ倫理なるものとまったく関係のない、時間を空費し頭が悪くなるだけの馬鹿げた経験にしかなりません。そういう犠牲者をひとりでも少なくすることに、当論考がいささかながらでも貢献できたら、などと柄にもないことも考えております。一応馬齢を重ねていますから、若い人たちのことがそれなりに気にかかるのです。若者たちよ、大江氏がノーベル章を獲ったからって、変に信用しちゃだめですよ、彼は一種のカルトなんですよ。

いささか前置きが長くなったようです。では、始めます。

大江氏の、ルメイへの叙勲に対する憤りは分かるが、その理由づけには賛成できない
不満なところだらけの本書のなかで、一点だけ、素直に首肯できる箇所があります。まずは、それについて触れておきましょう。次が、その箇所です。

東京ではひとつの叙勲が行われていた。勲一等旭日大綬章をうけた米空軍参謀総長カーチス・E・ルメー大将は広島、長崎への原爆投下作戦に、現地で参画した人物である。この叙勲について政府の責任者はこう語ったとつたえられる。《私も空襲で家を焼かれたが、それはもう二〇年も前のこと。戦争中、日本の各都市を爆撃した軍人に、恩讐をこえて勲章を授与したって、大国の国民らしく、おおらかでいいじゃありませんか》
この鈍感さは、すでに道徳的荒廃である。


このように大江氏は、当時の日本政府が、カーチス・ルメイに叙勲したことに強く憤っています。私も大江氏とともに大いに憤りたいと思います。しかし憤る根拠について、私は、大江氏と大きく意見を異にします。大江氏は、いま引いた文章に続けて、次のように言っています。

広島の人間の目でそれを見れば、これはもっとも厚顔無恥な裏切りであろう。

要するに、″ルメイには、広島・長崎に原爆を投下したことに対する当事者責任があるので、叙勲などとんでもない″と大江氏は言っているのです。空爆の司令官だったルメイが、組織上の原爆投下の責任者だったことは確かです。しかし彼は、原爆の投下に一貫して反対の立場だったのです(以下の展開は、日高義樹氏『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』(PHP文庫)を踏まえたうえでのものです)。DVDにもなっている、NHKの『東京大空襲』という番組のために日高氏が彼にインタヴューしたとき、ルメイははっきりと次のように述べています。すなわち、「原爆を使わなくても、我々が日本に圧力を加えつづけていたので、無条件降伏させられることは確実だった。日本本土への上陸作戦も必要ではないと思っていた」と。ルメイは、事あるごとにそういう発言をしています。ちなみに、アイゼンハワーやマッカーサーやニミッツなどの軍の首脳も、原爆投下には反対していました。一般市民の瞬時の大量殺戮を惹起するような原爆投下を敢行しなくても、戦争は事実上ほぼ終わっていたし、日本を降伏させるのは時間の問題だと判断していたからです。戦争の現場を知る者のまっとうな認識が感じられますね。その意味で、彼らはクレイジーではなかったようです。

″だからルメイには、原爆投下の責任などまったくない″と言いたいわけではありませんよ。組織上の立場からすれば、当然ある、とすべきでしょう。しかし、それを根拠に叙勲をとんでもないこととするのはちょっと無理があると言いたいのです。当時のトルーマン大統領が、自分の権限において、自分の政治的な立場を強化するためにだけ、身を乗り出して小躍りしながら原爆投下の意思決定をしたことと比べると、ルメイの責任など消し飛んでしまうほどなのです(その詳細については、いずれ触れます)。もしも当時の日本政府が、トルーマン元大統領への叙勲をしようとしたならば、原爆の投下責任を根拠に憤るのはまったくもって正しいとしか言いようがありません(想像するだけで気分が悪くなってきますが)。

ルメイへの叙勲がとんでもないことである理由は、別にあるのです。

それをはっきりさせるために、ルメイの前任者であったヘイワード・ハンセル司令官に触れておきましょう。ハンセルは、ルメイが超低空から東京全体を焼き尽くし、数十万の市民を殺戮するという非情な爆撃を指揮したのとは対照的な指揮ぶりでした。彼は、B29で超高空から爆撃するとき、雲がかかっている場合は、市民への爆撃を避けるために、爆弾を落とさないまま爆撃機をグアム島に戻しました。爆撃部隊の首脳は爆撃の効果が上がらないことに業を煮やしてハンセルをファイヤーし、ルメイを東京爆撃の責任者にしたのです。

日本の諸都市への、ルメイの爆撃は徹底していました。原爆投下までに、日本の人口五万以上の二六都市がすべて爆撃され、一〇万トン近い爆弾や焼夷弾が落とされ、五〇万人の市民が命を落としていました。それは、広島・長崎の犠牲者の約五倍に当たります。そのなかでも特筆すべきは、一九四五年三月一〇日の東京大空襲です。同空襲において、焼夷弾をごく短い間隔で投下し、その上からガソリンを撒くという殺戮のための爆撃が敢行されました。このとき、三三四機のB29がナパーム弾を七〇〇メートルという低空から投下しました。爆撃は夜の一〇時から午前五時まで続き、東京の東半分の四一平方キロが焼け野原となり一夜で約十万人が死にました。これは、どう言い逃れをしようとも、無差別爆撃であることは間違いありませんし、正真正銘のホロコーストであるというよりほかはありません。ルメイは、この大爆撃を揺るぎない確信をもって敢行したのです。ルメイへの叙勲がとんでもないのは、不本意な原爆投下をしたからというよりも、軍事的に正当な行為であるという確信をもって東京大空襲という大量無差別殺戮を敢行したからなのです

大江氏は、どうしてそのことが視野に入らなかったのでしょうか。同書を刊行した一九六五年当時には、そういう情報が不足していたのでしょうか。ならば、その後そういうふうに訂正すればいいいだけのことですが、そういうことをしている事実は、寡聞にして知りません。

『沖縄ノート』で沖縄県民をそうしたように、同書で、原爆の悲劇的な犠牲者を祭り上げ聖別しようとする大江氏の志向性やモチベーションがあまりにも強すぎて、東京大空襲という惨事がその視野に明瞭には入らなかったのではないかと、私は考えます。

では、なぜ大江氏は、原爆の被害者を特別視し聖別し祭り上げようとするのでしょうか。それは、そうすることで、読み手を黙らせて異議申し立てを封じ込み、自己卑下教という幻想共同体への強制参入を図り、自分はその陰の司祭に成り上がろうとしているように私には感じられます。氏の、晦渋な、もって回ったような奇妙な言い回しの行間から、そういう腐臭がしてくるのです。それは、半分以上、潜在意識のなせる業ではないかとも思われます。氏の体質それ自体に、そういうひねこびた陰湿な権力志向がこびりついているということであります。

それにしても、ルメイに勲章をくれてやろうとする神経はまともではありませんね。精神病理的なものをすら感じます。つまり、こうです。耐えがたいほどの屈辱を受けた者は、屈辱を与えた当の相手に対して大げさな許しのポーズを示すことで、相手に対して精神的に優位に立ったと思いたがりますが、実は、その行為全体で、屈辱を与えた相手にその後もなお精神的に屈服していることを示しています。なぜなら、彼はほかのあらゆる振る舞いはしますが、相手に歯向かうという振る舞いだけは決してしようとしないからです。むろん、日本国民に対して確信を持って無差別大量殺戮を敢行したルメイに勲章を授けようとする日本政府の振る舞いが、「大げさな許しのポーズ」に当たります。そういう汚辱に満ちた倒錯を、日本政府はいつまで続けるつもりなのでしょうか。この倒錯心理と、大江氏の原爆観とは、実は無縁ではありません。 (つづく)
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桶谷秀昭『昭和精神史』に対して異論あり

2014年07月22日 05時40分51秒 | 戦後思想


桶谷秀昭氏の『昭和精神史』は、戦後編を含めると、文庫版で一三〇〇ページほどの大著です。そうして、その多岐にわたる叙述は、大東亜戦争の敗戦までにいたる精神史の流れとその敗戦を背負っての戦後の精神史の流れをめぐるものである、とまとめることが許されるでしょう。だからこそ、長谷川三千子氏が『神やぶれたまはず』で鋭く指摘しているように、桶谷氏は、昭和二十年八月十五日に、心ある日本国民が、玉音放送を聴きながら、呆然自失の状態で聴き取った「天籟」(てんらい)に執拗にこだわるのです。言いかえれば桶谷氏は、大東亜戦争という完膚なきまでの敗北に終わった「いくさ」が民族精神の流れに刻み込んだものを何とか言い当てようとして筆を進めているうちに、いつの間にか一三〇〇ページの書物が出来上がってしまったのです。本書が生まれるまでの経緯は、おそらくそういうことなのではないかと思われます。

フロイトが言うように、自覚することは超えることです。つまり桶谷氏は、敗戦コンプレクスを乗り超えるために、本書を書いたのです。そうして、それを乗り超える主体が、桶谷氏個人であるのみならず、心ある日本国民でもあることにおいて、本書は、民族精神史上の「事件」である、と言いうるのではないかと思われます。本書は、心ある日本国民が戦後レジームからの脱却を果たすうえでの精神的な意味における出発点である、というのが、私の本書に対する評価の核心です。

以上を踏まえたうえで、『昭和精神史』に対して異論がある、というお話しをこれからしようと思います。まずは結論を先に申し上げます。私たち日本人が敗戦コンプレクスを内在的に乗り超えるうえで、沖縄戦における県民の戦いぶりをどう認識するかは、決定的な意味を有します。しかるに本書において、沖縄戦における県民の戦いぶりについての精神史的な考察はたったの一行もなされていません。私見によれば、そうである以上、敗戦コンプレクスの乗り超えは、はじめから不可能の刻印を押されているというよりほかはない、という結論に至ります。

本書が沖縄戦について触れているのは、次の箇所だけです。文庫本で、わずか七行の分量です。

沖縄守備軍約九万名が、八十三日にわたる死闘ののちに玉砕したのは六月二十一日であつた。このなかには沖縄一中をはじめ中学一、二年生までを動員した鉄血勤皇隊やひめゆり隊の女学生も含まれる。
 さらに非戦闘員の島民十万人が犠牲になつた。
 米軍は上陸総兵力十八万三千名のうち、約五万名の戦死傷者を出した。
 「秋をまたで枯れていく島の青草は皇国(みくに)の春に蘇へらなむ」といふ辞世をのこして、牛島軍司令官は切腹して果てた。


以上です。読み手からすれば、さらっと読み流して、はい次、という扱いになってしまいますね。その後、「戦われざる本土決戦」についての精神史的考察が五ページほど続いているのと比べるとき、沖縄戦についての淡々とした事実の叙述の素っ気なさには異様なほどのアンバランスを感じてしまいます。私はなにかむずかしいことを言おうとしているわけではありません。大田実海・軍司令隊隊長が「沖縄県民かく戦えり」で訴えたように、沖縄県民は、人口の三分の一を失うほどの本土決戦をあの狭い島で戦い抜いたのです。彼らは、単なる戦争の犠牲者ではないのです。繰り返します。彼らの心根に即するならば、彼らは間違いなく本土決戦を最終過程まで戦ったのです。そのことが、「昭和精神史」の名を冠する本のなかで、まったく精神史的考察の対象となされていないのは、異様と形容するよりほかはありません。

私は、最近アップした文章のなかで、次のように申し上げました。

本土の人々は、精神的な空白状態と戦後のどさくさによって我を忘れ、沖縄の存在をすっかり忘れてしまったのです。それと同時に、沖縄県民が、あの小さな島で民族精神としての本土決戦を戦い抜くことによって、図らずも思想戦としての大東亜戦争の義を命がけで守り抜くことになったこともすっかり忘れてしまったのです。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/4d30316038c1eaa14c211029694604f5

私見によれば、これは、昭和精神史上における重大な事実です。端的に言えば、この事実が、われわれをして敗戦コンプレクスからの脱却を不可能ならしめているのです。そうして、いま私が申し上げた一切が、本書にはっきりと刻印されているという不幸な事実そのものが、逆に、敗戦コンプレクスからの脱却という課題の大きさを証明していると私は考えます。
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雪かきと近所付き合いと人倫感覚

2014年02月26日 02時56分48秒 | 戦後思想
*ちょっと前の文章ですが、そのまま掲載します。日にちの計算が合っていないところはご容赦願います。

雪かきと近所付き合いと人倫感覚

先週末に続き、一昨日から昨日にかけて、関東地方はまたもや記録的な大雪が降りました。紙面には「気象庁も読み間違えた『ドカ雪』」なんて文字が踊っていましたね。むろん、わが家の前にも大量の雪が降り積もりました。

わが家は、県道沿いに建っていて、家の前には2m弱の幅の歩道があります。そこに降り積もった雪が凍って固まってしまうと、道行くひとびとが滑って転ぶ危険があります。それで、家の前だけですが、人ひとりが通れる幅だけ、先ほどシャベルで除雪しました。先週も同じことをしました。

そういうことをしていて、ひとつ、どうにも腑に落ちない思いが湧いてきました。わが家のまわりには、歩道沿いに五、六軒家が並んでいます。そのなかで、歩道の雪かきをしているのは、先週も今週もわが家だけなのです。別に威張っているわけではありません。お互いほんのちょっとだけ雪かきをすれば、道行くひとびとが安心して気持ちよく歩くことができるのに、その「ほんのちょっと」をどうしてもしようとしないのです。私には、その気持ちがいささか分かり兼ねるところがあります。

「関係ない」?あるでしょう。自分たちもその歩道を利用するでしょうに。「面倒くさい」?安全に歩けるようにするのが、そんなに面倒なことでしょうかねぇ。

「近所の人たちとなるべく顔を合わせたくない」。なるほど、それなら話が分かりやすい。要するに、そういうことなのでしょう。私だって、別に顔を合わせたくなるような隣人がいるわけではありません。にしても、合わせたら合わせたで、申し訳程度にぺこりとお辞儀をすればいいだけのことではないですか。「それもイヤ」?これもおそらく図星でしょう。なんともチンマイ世の中になってしまったものです。そういう殺風景な情況を「個人主義の流布」などというもっともらしい言葉で飾り立てることに、私はあまり賛成できません。

単刀直入に言ってしまいますが、近所づきあいにおける人倫とは、おそらく「向こう三軒両隣」の精神なのではないでしょうか。「たとえば玄関の前を掃除するとして、自分の家の前だけを掃除するのではなくて、隣との境をちょっとだけはみ出して掃除するんです。お互いそうすれば、気持ちいいし、和気藹々とした雰囲気がかもしだされるし、街全体がキレイになるし、いいことだらけになるでしょ?」。これは昔永六輔さんが言っていたことです。ここに「向こう三軒両隣」の精神の真髄が語られていると言っていいでしょう。(昔は、永六輔さんのような隣近所の物知りじいさん的なテレビタレントがけっこういましたね)。

そういう心構えのひとびとが少しずつでも増えれば、世の中は、余計なお金をかけずとも随分暮らしやすくなるような気がします。昔の人もおそらくそんなふうに考えたので、「向こう三軒両隣」という言い方が知恵ある言葉として流布し定着したのでしょう。

私は、藤井聡さんが唱導している「国土強靭化」にもろ手を挙げて賛成している者です。これって、国民経済を充実させるマトモな公共事業を積極的に推進するのにモッテコイのグッド・アイデアですね。というのは、人間は何よりも自分の命が大切なので、「あんたね、いい気になって公共事業を悪者扱いしてるけど、そんなに死にたいのかい。大地震が起ころうと、トンネルがどんどん崩落しようと、橋が次から次に落ちようと、道路がガタガタになろうと、水道管が破裂しようと、とにかくかまわないから公共事業を削れって、いつまで言い続けるんだい?」と詰め寄られると、たいがいの人はさすがに黙ってしまうでしょうからね。

思うに、国土強靭化のココロというのは、実は「向こう三軒両隣」の精神の復権なのではないでしょうか。「情けは人のためならず」の復権といっても、「袖触れ合うも他生の縁」の復権であるといっても、それは同じことです。つまり、日本人としての世間道徳の復権ということです。これまで日本人が当たり前のことを当たり前のようにして行うことで世の中を住みやすくしてきたごくふつうの振る舞いがなるべくふつうにできる物質的な条件を整えることが、実は国土強靭化の趣旨なのではないでしょうか。

「情けは人のためならず」と思うからこそ、何を措いても、いま苦しんでいる東北の被災者を無条件に救おうとするのでしょうし、それを少し広げて考えれば、「地震大国・日本」において、未来の被災者の苦しみを少しでも減らし和らげるために、日本列島の耐震構造・防災システムを高度なものにするよう手を尽くことにもなるのでしょう。

その意味で、国土強靭化の精神と真っ向から対立するのが、竹中平蔵流の構造改革の精神です。構造改革の根にあるのは、「われわれは、これまでの旧態依然とした日本人のままではダメだ。根本的に日本を改造してアメリカのような自己責任社会にしなければ日本はとんでもないことになる」という考え方です。竹中平蔵の言い草を聞いていると、なんとも落ち着かなくなってきたり、息苦しくなってきたりするのは、彼が、日本人としての自然体の世間道徳を否定し破壊する衝動をむき出しにするからです。素手の状態にある人々に理不尽なストレスをかけてくるのですね。彼がなぜかくも日本を敵視するのか、よく分からないところがありますが、それはとりあえず措きます。そういうことに興味はありませんからね。

この十数年間、構造改革の断行に次ぐ断行は、日本人としての自然体の人倫感覚をすっかり荒廃させてしまったかのようです。その点景として、我が家の周りの雪かきの惨状がある、と言えそうな気がしなくもありません。

私たち日本人は、「自由」とか「平等」とか「人権」などという言葉を振りかざされることに非常に弱い一面があるような気がします。〈岩盤突破で、企業間の「自由な」競争を実現するべき〉と言われると、あまり強く反対できなくてついつい規制緩和や構造改革を甘受してしまってわざわざ自分たちが住みにくい世の中を作ってしまうし、〈男女「平等」は大切だ。女性の社会進出は素晴らしいことだ〉と言われると、そうかなぁと怯み、ラディカル・フェミニズムの文化破壊工作にまんまと引っかかってしまうし、TPP問題で〈「自由」貿易はすばらしい。国家の垣根を超えて企業が「対等」に競争できるルール作りは推進されなければならない〉と推進派から強く出られると、ヘタをすれば、国家主権をグローバル企業に献上する振る舞いさえもしかねないのです。まったくもって馬鹿げています。

どうしてそういうことになってしまうのか。その歴史的淵源を探し求めれば、大東亜戦争でアメリカにボロ負けしたことによる敗戦コンプレックスに行き当たるのではないかと思われます。つまり、アメリカにボロ負けしてしまったのは、日本人が、人間的にも道徳的にもアメリカ人に劣るからである、といういわれのない劣等感の呪縛からいまだに解き放たれていないのではないか、ということです。

だから、自分たちの身体に宿る自然体の人倫感覚が、なんとなく「自由」や「平等」や「人権」といった舶来製の理念よりも劣っているような気分に陥るのではないでしょうか。そうであるがゆえに、そういう言葉を振りかざされると、そこはかとなく違和感は覚えるものの、なんとなく押し切られてしまうのではないかと思われます。端的に言えば、米食よりもパン食の方が高級な気がする、という漠然とした感覚が払拭できないのですね。

そういう心性が根付いてしまっているからこそ、戦前の日本近代史を真っ黒に塗りつぶしてしまう、いわゆる「自虐史観」が、たびたび問題視され痛烈に批判されながらも、なおも優勢を占めてしまっているのではないでしょうか。また、いわゆる「根本病」的な考え方が受け入れられやすいのも、自分たちの身体に宿る自然体の人倫感覚を物事を考える拠点にできない心性があるからなのではないかと思われます。「根本病」とは、あの石橋湛山によって、日本人の欠点を指摘した言葉として提示されたものです。

日本人の一つの欠点は、余りに根本問題にのみ執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われる。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考うる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。

(昭和11年「改革いじりに空費する勿れ」石橋湛山全集10巻から)

この言葉に触れると、私は、口を開けば二言目には「構造改革」と言いたがるいまどきの経済学者やエコノミストの誰それが浮かんできます。彼らは、「根本病」の使徒であり、百害あって一利なしの空疎なデマ・ゴークなのですね。私は、「構造改革」という言葉を口走る連中を絶対に信じません。彼らは、日本人の弱点を悪用する不逞の輩です。私は、『新約聖書』の口ぶりを真似て、命の続く限り「蝮のすえたち、構造改革びとよ。汝らに災いあれ!」と呪いの言葉を吐き出し続けたいものだと思っております。構造改革論者の最も許しがたい点は、意味もなく、日本人が長い歴史の中で育んできた人倫感覚を目の敵にして、それを木っ端微塵にしようとするニヒリズムを内に秘めているところです。それゆえ実は、構造改革論とフェミニズムとは、きわめて相性がいいのです。

翻って考えてみるに、石橋湛山が「根本病」を指摘したのは戦前です。とするならば、「根本病」は、近代日本の宿痾である、とどうやら言えそうです。その近代的宿痾が、敗戦コンプレクスによって補強されてしまったのが戦後なのだとすれば、それは相当に根深い社会病理であるということになりそうです。

スローガン的に言挙げすれば、「常識感覚に帰れ」ということになりましょうか。それを信じて悪い理由はどこにもないのではありますが、崩壊の瀬戸際にあるものに帰るのは、言うは易く行うは難き典型例ではあります。しかし、その難事をあえて実行することがかなわないとなると、めぐりめぐって結局のところ、対米ボロ負け状態が続くことだけは確かです。であるがゆえに、その難事を実行するための現実的条件を少しでも充実させるために、国土強靭化は、なんとしても実地に移されなければならないのです。安倍内閣がもっと大胆にやりたくてうずうずしている「第3の矢」など犬に喰われてしまえ、なのです。また、なんとなく実施されてしまいそうな形勢の法人税減税路線なんていうものは、国民経済を弱体化させるだけの下策にほかなりません。この路線の存在それ自体が、消費増税の必要性の根拠など実はなにもなかったことを雄弁に物語っています。

念のために言っておくと、対米ボロ負け状態が続いているのは、100パーセント日本人のせいであって、アメリカにはまったく責任がありません。アメリカは、ごく普通に国益を追求しているだけのことなのですから、文句を言われる筋合いはないのです(逆に言えば、アメリカ政府がグローバル企業やウォール街に乗っ取られようとどうなろうとこちらは知ったことではありません)。だから、日本側がいくら反米意識を強化しても、ボロ負け状態からの脱却にはまったくつながりません。むしろ、ボロ負け状態をこじらせるだけでしょう。そういう愚か者の道を、私たちは、間違っても選ばないようにしたいものです。

単なる雪かきの話をしようと思っていたら、あちらこちらと道草を食ったような、とりとめのない文章になってしまいました。でも、まあ、ちかごろ私が考えていることがけっこう素直に出ているような気もしますので、そのままアップしておきますね。
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長谷川三千子氏、自著『神やぶれたまはず』を語る

2014年01月17日 13時46分28秒 | 戦後思想
長谷川三千子氏、自著『神やぶれたまはず』を語る

来月の二日(日)に、新宿のジャズバー「サムライ」で「小浜逸郎×長谷川三千子×西村幸裕」の鼎談イベントが開催されることは、すでに申し上げました。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/cf3e8ab2631348075fc606b85133f3ff

「サムライ」では、実は、西村幸祐氏主催の思想系のイベントがすでに二回開催されています。

その第一回目は、昨年の八月二十日に開催された〈「戦争」を描けなくなった日本人、『風立ちぬ』と『終戦のエンペラー』と『終戦の昭和天皇』〉です。出演者は、西村氏のほかに三浦小太郎氏(評論家)、山野車輪氏(漫画家)、古谷経衡(評論家)でした。私自身、当イベントに参加しました。三時間あまりのイベントがあっという間に過ぎるほどに面白かったことを覚えています。

第2回目は、同じく昨年の十一月二四日(日)に開催された〈西村幸祐トークライブwith長谷川三千子"戦後体制は、どう克服されるのか"~長谷川三千子著『神やぶれたまはず』を巡って~〉です。ゲストに長谷川三千子(哲学者・埼玉大学名誉教授)を迎えて、話題の書『神やぶれたまはず』をふたりでじっくりと語るという趣旨のイベントです。

『神やぶれたまはず』は、著者ご本人をお招きしての読書会で取り上げたこともあり、また、私自身としても、この十年間ほど課題にしてき続けた「戦前と戦後をつなぐ」という問題意識に深く関わる内容を当著が含んでもいたので、当イベントにも参加する気でいたのですが、当日は読書会の実施日で、残念ながら出席できませんでした。ちなみに当日の読書会で取り上げた書物は、百田尚樹『永遠の0』でした。店主の二健さんからFBを通じて当イベントに招待されていたので、「読書会とぶつかってしまったので、残念ながら出席できません。取り上げるテキストは『永遠の0』。だから、場所の違いを超えて、「サムライ」と心はひとつに結ばれています」と返信しました(ちょっとキザですが)。

その内容を知りたいものだと思っていたところ、先週友人から当日の模様がまるまるyou tube にアップされていると教わりました。さきほど観終わったのですが、とても興味深い内容になっています。長谷川氏が、一昨日亡くなった小野田寛郎氏のことに触れて、「先日の八月一五日、靖国神社で小野田さんとお会いしたとき、彼は『私は、八月一五日が嫌いだ』と文字通り苦々しい表情で言っていた。彼は、『あくまでも生き残れ。そして、ひとりでもふたりでも殺せ』と命じられて昭和二十年八月一五日後も、たったひとりで三〇年間闘い抜いた。そういう小野田さんと、敗戦直後に集団自決した大東塾のひとびととを両極におかなければ、敗戦がほんとうにどういうものだったのかが浮びあがってこないような気がする。その視点がすっかり抜け落ちていた」と語っているのが、いちばん印象に残りました。よろしかったらご覧ください。画質・音響ともに鮮明です。


西村幸祐トークライブwith長谷川三千子
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三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

2014年01月16日 20時26分41秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

『葉隠』は人間通の書である
ここまで、三島が『葉隠』をどう読んだのかについて話してきました。ここからは、やや肩の力を抜いて、私が『葉隠』をどう読んだのかについて話してみたいと思います。

そのまえに、『葉隠』の話者としての山本常朝について、その人生のあらましを述べておきましょう。

前回にちょっとふれたことですが、山本常朝は、主君の死に殉じる覚悟を決めていたのにもかかわらず、それを実現することが叶わなかった人物です。その詳細について、三島由紀夫が要領よくまとめていますので、それを引くことにしましょう。

常朝は、佐賀藩主鍋島家第二代光茂という殿様に仕えた人で、幼少より四十二歳まで側近に奉仕した。先祖代々鍋島藩に功績があり、常朝自身も主君の厚い信任を受けていた。当然五十歳にもなれば家老にもなり、国政の重鎮になるべき人であったが、(一七〇〇年定朝が――引用者補)四十二歳の時に主君が亡くなられたので、志を達することができなかった。常朝自身は主君に殉死する覚悟を決めていた。しかし鍋島茂光は天下に先んじて殉死をかたく禁止し、もし殉死をあえてするものがあれば、家名を断絶するという厳命をくだしたのである。わが身一身よりも家名を重しとする当時の風潮によって、常朝もついに殉死ができず、出家して隠遁生活にはいり、それから二十年後享保四年(一七一九年)十月十日に、六十一歳で世を去った。

三十代前半の田代又左衛門陣基(つらもと)が、隠遁生活をしていた常朝を訪ね、『葉隠』のもとになる聞き書きをしはじめたのが、常朝五十二歳のとき。それから七年の歳月を経て終了したとのことです。

常朝が、心の底から主君の死に殉じようとしていたことを疑うものは、私を含めてだれもいないでしょう。それが果たされなかったことを、常朝はどれほど無念に思ったことでしょうか。近代的な言葉使いをすれば、人知れず深い絶望と闘った煩悶の時期が長く続いたものと思われます。その過程で、定朝はおそらく自分の宿命を心静かに受け入れる諦念の心境に達したものと思われます。そうして、この世の「計りごと」や「さかしら」の虚しさが透けて見える、ニヒリズムすれすれの透明な視線を手中にしたような気がするのです。肯定的な言い方をすれば、人のこころがまるで手に取るごとくによく分かるようになった、ということです。だから、人の心を扱うことをめぐる常朝のアドバイスは、ことごとく的確なものとなります。そのことがよく分かる文章を引きましょう。少々長くなります。

人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切なる事にして、然(しか)も大慈悲にして、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。およそ人の上の善悪を見出すは易き事なり。それを意見するも易き事なり。大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益(やく)にも立たず。ただ徒(いたづ)らに、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。そもそも意見と云ふは、先ずその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂(じっこん)になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考え、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、云はずして思ひ当る様にか、又は、先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。されば殊の外仕にくきものなり。年来の曲(くせ)なれば、大体にて直らず。我が身にも覚えあり。諸朋輩(ほうばい)兼々入魂をし、曲を直し、一味同心に主君の御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに、恥をあたへては何しに直り申すべきや。

(訳)意見してその人の欠点を直す、ということはたいせつなことであり、慈悲心ともいいかえられる。それは、ご奉公の第一の要件である。ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやっていることに対して善悪をさがし出すということはやさしいことで、また、それについて批判することもたやすい。おおかたの人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それがうけいれられなければ、力が足りなかったとしているようだ。こうしたやり方はなんら役立たずで、ただいたずらに人に恥をかかせ、悪口をいうだけのことと同じ結果になってしまう。いってみれば、気晴らしのたぐいだ。意見というのは、まず、その人がそれをうけいれるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらのいうことを、いつも信用するような状態にしむけるところからはじめなければならない。そのうえで趣味の方面などからはいって、言い方なども工夫し、時節を考え、あるいは手紙などで、あるいは帰りがけなどに、自分の失敗を話しだしたりして、よけいなことを言わなくても思い当たるようにしむけるのがよい。まずは、よいところをほめたて、気分を引き立てるように心をくだいて、のどが渇いたときに水を飲みたくなるように考えさせ、そうしたうえで欠点を直していく、というのが意見というものである。意見というものは、ことのほかしにくいものといえる。だれにでも年来の悪癖みたいなものが身に沁みこんでいるので、そうすぐには直らないということは、私自身にもおぼえのあることだ。友だち一同、つね日ごろ親しくして、悪癖を直し合い、ひとつの心になってご奉公につとめるようになることこそが、ほんとうの慈悲心といえるだろう。それなのに、恥をかかせては、直るべきものも直らないことになってしまう。直るはずもないではないか。

いかがでしょうか。私は、常朝のアドバイスの言葉が、生きる環境の違いや時代の違いを超えて、わが心にじかに沁み通ってくる思いを禁じえません。ここには、教師が生徒と関わるときの、親がわが子と接するときの、職場の同僚と関わるときの、そのほか、現代におけるもろもろの人間関係における構え方の基本が語られているように、私には感じられるのですね。現実にはなかなかこんなふうにうまくいかないのでしょうが、こういうふうに人々と接することができたらそれに越したことはない、とは言えるのではないでしょうか。

常朝は、恋のあるべき形についても触れています。

(前略)この前、寄り合ひ申す衆に咄(はな)し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に
   恋死なん 後(のち)の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。


これは、現代語訳を付けるまでもないでしょう。恋の究極の形は、忍ぶ恋である、と言っているわけですね。この構えが、命懸けで主君に仕える恋闕(れんけつ)の情に通じることになるのでしょうが、ここで申し上げたいのはそういうことではありません。

私は木や石ではないので、五〇半ばになるも、いまだに素敵な女性と接すると、心ときめくものがあります。しかし、若いころのようにそれをすぐに表に出して、相手との距離を縮める作業にいそしむ、という恋し方と一定の心理的へだたりを感じるようになりました。べつに格好をつけているわけではありません。そういうときめきをだいじに心のなかに慎ましく保っているほうが、なんとなく人間関係一般が良好に保たれ、日々を楽しく過ごすことがかなうという功利主義的な気づきが生じてきたのです。そういう心持ちに傾いてきた自分としては、常朝の「忍ぶ恋」が実にフィットするところがあるのです。

とはいうものの、私もひとりの荒凡夫にすぎません。どこでどう心のバランスが崩れるのかは保証の限りではないので、これ以上、たいそうな口は叩かないでおきましょう。そうそう。「煙仲間」とは、なかなかのユーモアのセンスですね。

常朝が、人情の機微を解する人間通、あるいは心の達人であることを示す文章を最後にもうひとつだけ引いておきましょう。

何がし立身御僉議(せんぎ)の時、この前酒狂(さけぐるい)仕り候事これあり、立身無用の由衆議一決の時、何某(なにがし)申され候は、「一度誤(あやまり)これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出来申すまじく候。一度誤りたる者はその誤を後悔いたす故、随分嗜(たしな)み候て御用に立ち申し候。立身仰せ付けられ然るべき。」由申され候。何がし申され候は、「その方御請合ひ候や。」と申され候。「成程某(それがし)受(うけ)に立ち申し候。」と申され候。その時何れも、「何を以て受に御立ち候や。」と申され候。「一度誤りたる者に候故請(うけ)に立ち申し候。誤一度もなきものはあぶなく候。」と申され候に付て。立身仰せ付けられ候由。

(訳)ある人物の栄転に関して審議しているとき、その人物が以前酒におぼれていたことがわかったので、栄転はさせないということが、みんなの意見で決まりそうになったさい、ある人がいうには、「一度あやまちを犯した者を、まったくみとめず捨ててしまわれては、すぐれた人物は出てこないものである。一度まちがった者は、そのまちがいを後悔するものだから、なにかとつつしんで、あんがいお役に立つようになるものだ。栄転をおおせつけられてよい。」ということを述べた。それに対してある人のいうには、「あなたが請け合うのか。」とのことであった。その人は、「もちろん私がりっぱに請け合いましょう。」といわれたそうだ。そのとき、だれもが、「どのような理由でもって請け合いなされるのか。」といったところ、その人は、「一度間違った者だからひきうけたのだ。あやまちのひとつもない者は、かえってあぶなくてしょうがない。」といわれたので、栄転のことをお命じになったということである。

またもや私事にわたって恐縮です。私は以前自塾を畳んで、知り合いの学習塾の専任講師として再スタートをした経験があります。その知り合いの塾長から「美津島くんは、一度失敗しているからなぁ」と否定的に感慨を漏らされたとき、私は、とても切ない思いをしました。お店を畳んだ経験は、だれに言われるまでもなく挫折あるいは失敗の経験として、わが胸に深く刻み込まれていました。そこを言われると、こちらは何も抗弁できずに、ひたすら押し黙って頭を垂れるよりほかは術がありませんでした。結局そこは、一年足らずで辞めました。もしも塾長から、『葉隠』のなかの「何某」のように「私は、美津島くんが一度失敗したからこそ雇ったのだ。その経験を生かして、頑張ってくれ」と言われたら、私は一念発起してその塾で頑張り抜いたことと思われます。心に疵を持つ者は、それを理解してくれ、それを肯定的に包み込んでくれるリーダーのために身命を惜しまず頑張り抜くものなのではないかと思われます。それを踏まえたうえで、文中の「何某」は、酒乱の前歴を持つ彼を登用することにしたのでしょう。そこが、人間通・常朝の琴線に触れることになり、書き留められることになったのではないかと思われます。

このように『葉隠』は、粗暴に死ぬことを推奨しているだけの単調な内容の書物ではありません。人生指南の書として、思いのほか懐が深くて興味深い内容満載の書物なのです。さすがに、三島が「最後のよりどころ」と絶賛しただけのことはあります。だからこそ、古典になりえたのでしょう。よろしかったら、あなたも紐解いてみてください。 (終わり) 
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