ここのところ、政治家の「失言」が多いですね。
維新の会共同代表・橋下徹氏の「従軍慰安婦」失言、同会の共同代表・石原慎太郎氏の「大迷惑」発言、それを受けた橋下氏の都議選前の「敗れたら辞任」予告。
以上は、このお二人のおっちょこちょいとだらしなさという「心理学」で片づけてもいいかもしれませんが、その合間を縫って、高市早苗・自民党政調会長の「原発事故では死者が出ていない」発言がありました。この人、正直で直情型、私は昔からわりと好きですが(ヘンな意味じゃありません、念のため)、とかく「失言」が多いようで、党内から「参院選前なんだから気をつけてくれよ、お願い」という溜息が聞こえてきそうです。
ところで、「失言」とはすなわち本音です。上の四つの失言は、すべて本当のことを言っていますね。
「従軍慰安婦の強制連行」には証拠がない、当時のどの国にも軍には慰安施設があった、この橋下発言は本当のことです。でもこれを言ってしまっては、改憲で連帯できると考えていた与党自民党との間もしっくりいかなくなるでしょう。自民党の人たち、「またやってくれたか」と苦々しく思ったんじゃないでしょうか。
次の石原発言。せっかく第三極を作ろうというときに、こういう発言をされたのでは、内側から組織をつぶす結果になるので「大迷惑」だ。これも本当ですね。でもこの石原発言で、維新の会は、さらにまとまりの脆弱さを印象づけてしまいました。
橋下氏の事前辞任予告発言は、「たしかに迷惑をかけてしまった。どうも負けそうなので、手っ取り早く責任を表明しておこう」という心理でしょうか。あるいはこの人はもともと典型的な劇場型政治家なので、劣勢に立っている今、起死回生の一発として「ここでもう一度カッコいいとこ見せて」と考えたのかもしれません。いずれにしてもこれもどうやら本心らしい。でも全然カッコよくないですね。維新の会にとっては、このせっかちがまたまた「大迷惑」で、どう見ても逆効果でしょう。
また福島原発事故では、現段階で放射線による死者はおろか、障害さえ生じていません。その後亡くなられた方は、強制避難による心的ストレスが大きな原因と考えられます。高市発言は正しいのです。
しかし発言後、自民党の福島県連幹事長から発言撤回と謝罪を求める抗議文を突きつけられ、福島出身の森雅子少子化担当大臣からも国会内で追及されたために、ついに謝罪することになりました。
たしかに福島県地元の党内幹部から「心ない発言」と言われれば、腫れ物に触るように対応しなくてはならないでしょうね。さすがの高市さんも情緒的な圧力に屈したわけです。でも、理性的に考えれば、高市発言こそは、これからの原子力行政を健全な方向に導くことにとって象徴的な意味を持ちます。私たちは彼女の不本意な屈服の過程に見られる、政治という妖怪の「ねじれ」と「ゆがみ」をよくとらえておかなくてはなりません。
政治の世界では、ホントのことを言うと政治生命が奪われる、というジンクスがまかり通っていることは、みんながよく知っています。95年、当時の総務庁長官・江藤隆美が「日本は朝鮮の植民地時代に良いこともした」発言(これも認識としては正しい)によって、辞任に追い込まれたのをはじめ、こういう例はたくさんありますね。
言ってしまったあとで弁明したり、一人ぶつぶつつぶやいても、もう遅い。戦後のサヨク的な風潮、メディアや反対政党や党内の思惑など、なにしろ周りの空圧によって押しつぶされるのですから、せめて謝罪して露命をつないでおこう、というのがこういう場合の政治家のぎりぎりの世間知なのでしょう。
さて、ここで考えてみたいのは、こういうことの良し悪しではありません。私は、「なぜホントのことを言っちゃいけないんだ!」と目くじらを立てる気はあまりしないのです。また、こういう「空気」が、日本だけのものとも思いません。私のような評論家ふぜいが、外野席から言いたいことを言っていても別に困りはしませんが(少しは困るかな。最近どうも干されているような…… 笑)、やっぱり政治家のみなさんは、「もの言えば、くちびる寒し秋の空」でしょうな。そのあたり、少々同情したいところもある。
まさかこういう事態を、「ふざけたことを言った政治家なのだから葬られて当然だ」などと心底から考える人はそんなにいますまい(けっこういるか)。そういう人は、世間を知らないよほどのおバカさんか、権力者倒し、国家破壊に快楽を感じているサヨク・サディスト・グループ(略称SSG)でしょうね。
いっぽう、「失言」の烙印を押すことが単純に悪いこと、すぐにも糺すべきことなのか、と言えば、どうもそう言い切れない部分もある。例えば、鳩山元首相の「最低でも県外」発言が、国益を著しく損なったのはたしかですが、まさにそのために民主党政権の命取りのきっかけになったことなどは、結果的に見ればよかったのではないでしょうか。
で、いまの政治の世界では、なぜ本音をちらりとでも言うとタブーに触れて干されてしまう事態があまりに多いのか、その客観的な理由を考えてみようというのが、本稿のテーマであります。
昔、佐藤栄作という人が、首相時代に記者会見場で、「新聞記者諸君は出てってくれ」(ラジオ、テレビはOK)と発言したことがあります。そうしたら、新聞記者諸君は、一瞬憮然としながらも、「じゃあ、出ましょう」と言ってぞろぞろ出てっちゃったんですね。それから、みんなで思い直したのか、ほどなく戻ってきて、記者代表とおぼしき人が、「総理、先ほどのご発言はたいへん心外であります」とかなんとか詰め寄って少しばかり揉めました。たしか、記者会見をやりなおすというところに落ち着いたのだったと記憶します。
私はこれを見ていて、青臭い身ながら、佐藤の横暴さにも腹が立ちましたが、それ以上に、「なに、これ。新聞記者、なんで政治家の言うなりになって出て行っちゃうの。あとから抗議したって遅いだろ、自分たちのほうがよっぽどみっともないじゃん」と思いました。
彼らにしてみれば、出ていくという行為が抗議の意思表示のつもりだったらしい。全党そろって国会審議拒否、なんてよくありますからね。しかし、それとこれとはケースが全然違います。審議拒否は計画的な戦術ですが、この記者たちは、その場の気分に流されただけです。
「どうして出て行かなきゃならないんですか」とがんばる記者が一人もいなかったという事実。これはふがいないことこの上ない。ふだん紙面では体制批判を得手勝手に書き散らしているくせに、いざというとき腹が据わっていない。ちなみに当時の政治記者というのは、左寄りが主流でした。
もちろん、佐藤のこの発言によって彼が退陣に追い込まれたかというと、まったくそんなことはありませんでした。いまだったら確実に不信任決議可決ものでしょうね。
佐藤の前に首相だった池田勇人は、高度成長の立役者ですが、彼は「貧乏人は麦を食え」と発言したことで有名です。この言葉の真意はニュアンスが全然違うのですが、当時の野党やマスコミがこれさいわいとばかりに攻撃の材料に仕立て上げました。しかし池田もこの発言で地位を危うくされてはいません。
「あーうー」とあだ名をつけられた大平正芳という総理大臣もいました。佐藤みたいに悪玉っぽくなく、とても優しい人なんですが、なんせ答弁も演説も下手で、鈍牛みたいな顔を上に持ち上げながら、口元でぼそぼそと呟く。「あーうー」としか言ってない感じなんです。この場合も発言のなんやかやによって激しく糾弾されたり、退陣に追い込まれるなんてことはありませんでした。「あーうー」と言ってりゃ無難、ということでしょうか。
これらを要するに、良い意味でも悪い意味でも、政治権力者って、昔はメディアや世論を向こうに回して強かったんですね。というか、政治権力の座にいるということに自信を持っていて、メディアや世論を過剰に気にしなくても済んでいた、ということでしょうか。かの吉田茂の「不逞のやから」「曲学阿世の徒」「バカヤロー解散」はあまりにも有名です。
ところで、ある時期から感じ始めたのですが、近頃の政治家は、話がうまくなり、饒舌になり、雄弁になりました。たいへん論理的な人もいますし、四方八方に気を配っている人もいます。ある領域のことなら、そこらの知識人顔負けなほどよく勉強し考えている人もいる。
このようになったのには、いろいろな要因が考えられます。
一つは、国際社会、特に欧米から、「日本人は何を考えているのかよくわからない」と批判されて、たしかにこれでは通用しないという反省がはたらき、弁論術を磨く人が増えたこと。
もう一つは、国内においても社会の仕組みがますます複雑化し、互いに矛盾するさまざまな要求が立ち上がってくるため、それらにきちんと対応するには、「殿様」然としていては、もはや政治家としてのビジネスが成り立たなくなったこと。
さらに、おそらくこれがいちばん大きな要因でしょうが、民主主義社会が成熟し、情報社会化が進んで、各層、各分野の多くの人が、その値打ちはともかく、強い発言力、発信力、他人の発言の検索力を持つようになったこと。いまメディア環境は、テレビ、新聞だけではなく、SNSに代表されるように、あらゆる場所、あらゆる時間帯で、多方向に錯綜した状況となっています。まさに「壁に耳あり、障子に目あり」ですね。
多少とも公式的に何か言えば、すばやく誰かが嗅ぎつけてあっという間に拡散し、しばしば炎上する。いい加減なことをひょいと洩らしただけですぐに叩かれる。では黙っていればいいかというと、情報公開や説明責任を課せられている政治家としてはそういうわけにもいかない。「あーうー」的な人はもう政治家にはなれませんね。
私は、政治家が雄弁になったこと、きちんと勉強してしゃべらざるを得なくなったことそれ自体は、昔に比べればよい変化だと思います。アメリカの公開討論などを見ますと、昔からすごく雄弁ですね。もっとも雄弁は銀とも言います。みんなディベート訓練やローヤーとしての活動で鍛えているだけで、三百代言にすぎないとも考えられますから、一概に全肯定はしません。でも、さすが覇権を握るだけのロゴスの国、「あーうー」で通ってしまう日本に比べて、なんて正々堂々とやりあうんだろうと、若いころは、その言論文化のあり方を羨ましく思ったものでした。
日本もかなりそうなってきたんですね。いまの若手論客とときどき接する機会がありますが、みんな頭の回転がすごく早くて、理路整然、主張もはっきりしていて、私などただただ舌を巻きます。ちょっとこのスピードにはついていけないな、と感じることもたまにあるのですが、彼らにとっては、幼いころからの文明社会の進展に適応したごく自然な構えなのでしょう。
さて、このことは、反面、時代が厳しくなってきたことをも意味します。単位時間当たりの情報量(受信量、発信量)がものすごく多くなっている。昔、♪「の~んびりいこーぜ、おーれぇたちは。あーせえってみたと~て、おなじこ~と」♪というCMソングが流行りましたが、今はそうも言えなくなってきたんですね。高速鉄道の発達と同じようなものです。
そうすると、「失言」の可能性もそれだけ高くなります。何しろ、政治家たる者、黙ってちゃいけなくて、何かしゃべらなければダメなんですから。そしてまた、「これだけの量をしゃべらなければいけない」というプレッシャーに、「ホントのことを言ってはダメ」というタブーが重なります。有力政治家は一種の強迫観念に駆られていて、すごいストレスを感じているのではないでしょうか。
そこで時には本音をつぶやき(ツィート!)たくなる。しかしそのツィートもたちまちやり玉に挙げられる。安倍総理と小泉進次郎議員とが、拉致問題に絡んで田中元外交官を批判した安倍発言をめぐってやりあったそうですね。
アメリカなんか、おそらくずっと昔から、こういう状況におかれていたんだと思いますよ。ブッシュ前大統領の「失言」語録は有名ですね。ブッシュ氏、それを自覚していてジョークに使ってもいます。オバマさんは二期務めていて、そういう話、ほとんど聞きません。おそらく周囲への配慮にたけたすごい実務能力なんでしょうね。それだけ逆に、政治家としての情熱をあまり感じませんが。
閑話休題。
「失言」の可能性が不可避的に増大している時代である。ではどうすればよいか。高市さんへの安倍総理の忠告通り、「発言には気をつけるように」というしかありません。
ただし、まったくタブーをタブーどおりに通していたのでは、いつまでたってもよい政治ができないことも明らかです。「福島事故の放射線拡散による死者はひとりも出ていない」と言っただけで袋叩きに会うような情緒的な風潮。これこそが「戦後レジーム」でしょう。ここから、何とか「脱却」しなければ。
そしてこれは、私たち日本国民みんなに課されたとても難しい課題です。というのは、現代政治は大衆を前にした弁論術以外のなにものでもないので、それはもともと次のディレンマを抱え込んでいるからです。
一つは、一般大衆の情緒に訴えかけなければ、簡単な政策実現の足掛かりすらつかめないこと。もう一つは、にもかかわらず、真の公共精神とは何かをたえず理性的に自問自答している必要があること。この情緒と理性の永遠の相克のはざまで、政治家は自己実現していかなくてはなりません。
私たち一般国民は、現代政治家が抱えているこのディレンマを、少なくともよく理解する必要があります。「失言」を許してやれというのではありません。寛大になれと言っているのでもありません。それはものによります。また人によります。ある政治家のある「失言」があった時に、その是非を一般的コード(イデオロギー)のようなものに照らし合わせて安直に判断するのではなく、その人のどういう状況下におけるどういう文脈での「失言」であるかを、私たちはきちんと把握すべきだと言いたいのです。
これからも政治家の「失言」はどんどん出てくると思いますが、それは、その政治家を、逃れられない厳しい現代状況の中で鍛えさせる一種のよい機会だと考えられます。あんまりおっかなびっくりでは何もできません。
また、私たち国民も、ある人のある「失言」があった時に、ただの野次馬を決め込んで「バカな奴だ」と言って済ませるのではなく、なぜそういうことを言わずにはおれなかったのかを、注意して見守ることにしましょう。そうすれば、私たちも、政治の世界を少しでも親しい、意義あるものとして感じることができるようになるのではありませんか。
何だかいやに啓蒙的な文章になってしまいましたが、一人の国民としての私自身の自戒の弁と受け取っていただければさいわいです。
維新の会共同代表・橋下徹氏の「従軍慰安婦」失言、同会の共同代表・石原慎太郎氏の「大迷惑」発言、それを受けた橋下氏の都議選前の「敗れたら辞任」予告。
以上は、このお二人のおっちょこちょいとだらしなさという「心理学」で片づけてもいいかもしれませんが、その合間を縫って、高市早苗・自民党政調会長の「原発事故では死者が出ていない」発言がありました。この人、正直で直情型、私は昔からわりと好きですが(ヘンな意味じゃありません、念のため)、とかく「失言」が多いようで、党内から「参院選前なんだから気をつけてくれよ、お願い」という溜息が聞こえてきそうです。
ところで、「失言」とはすなわち本音です。上の四つの失言は、すべて本当のことを言っていますね。
「従軍慰安婦の強制連行」には証拠がない、当時のどの国にも軍には慰安施設があった、この橋下発言は本当のことです。でもこれを言ってしまっては、改憲で連帯できると考えていた与党自民党との間もしっくりいかなくなるでしょう。自民党の人たち、「またやってくれたか」と苦々しく思ったんじゃないでしょうか。
次の石原発言。せっかく第三極を作ろうというときに、こういう発言をされたのでは、内側から組織をつぶす結果になるので「大迷惑」だ。これも本当ですね。でもこの石原発言で、維新の会は、さらにまとまりの脆弱さを印象づけてしまいました。
橋下氏の事前辞任予告発言は、「たしかに迷惑をかけてしまった。どうも負けそうなので、手っ取り早く責任を表明しておこう」という心理でしょうか。あるいはこの人はもともと典型的な劇場型政治家なので、劣勢に立っている今、起死回生の一発として「ここでもう一度カッコいいとこ見せて」と考えたのかもしれません。いずれにしてもこれもどうやら本心らしい。でも全然カッコよくないですね。維新の会にとっては、このせっかちがまたまた「大迷惑」で、どう見ても逆効果でしょう。
また福島原発事故では、現段階で放射線による死者はおろか、障害さえ生じていません。その後亡くなられた方は、強制避難による心的ストレスが大きな原因と考えられます。高市発言は正しいのです。
しかし発言後、自民党の福島県連幹事長から発言撤回と謝罪を求める抗議文を突きつけられ、福島出身の森雅子少子化担当大臣からも国会内で追及されたために、ついに謝罪することになりました。
たしかに福島県地元の党内幹部から「心ない発言」と言われれば、腫れ物に触るように対応しなくてはならないでしょうね。さすがの高市さんも情緒的な圧力に屈したわけです。でも、理性的に考えれば、高市発言こそは、これからの原子力行政を健全な方向に導くことにとって象徴的な意味を持ちます。私たちは彼女の不本意な屈服の過程に見られる、政治という妖怪の「ねじれ」と「ゆがみ」をよくとらえておかなくてはなりません。
政治の世界では、ホントのことを言うと政治生命が奪われる、というジンクスがまかり通っていることは、みんながよく知っています。95年、当時の総務庁長官・江藤隆美が「日本は朝鮮の植民地時代に良いこともした」発言(これも認識としては正しい)によって、辞任に追い込まれたのをはじめ、こういう例はたくさんありますね。
言ってしまったあとで弁明したり、一人ぶつぶつつぶやいても、もう遅い。戦後のサヨク的な風潮、メディアや反対政党や党内の思惑など、なにしろ周りの空圧によって押しつぶされるのですから、せめて謝罪して露命をつないでおこう、というのがこういう場合の政治家のぎりぎりの世間知なのでしょう。
さて、ここで考えてみたいのは、こういうことの良し悪しではありません。私は、「なぜホントのことを言っちゃいけないんだ!」と目くじらを立てる気はあまりしないのです。また、こういう「空気」が、日本だけのものとも思いません。私のような評論家ふぜいが、外野席から言いたいことを言っていても別に困りはしませんが(少しは困るかな。最近どうも干されているような…… 笑)、やっぱり政治家のみなさんは、「もの言えば、くちびる寒し秋の空」でしょうな。そのあたり、少々同情したいところもある。
まさかこういう事態を、「ふざけたことを言った政治家なのだから葬られて当然だ」などと心底から考える人はそんなにいますまい(けっこういるか)。そういう人は、世間を知らないよほどのおバカさんか、権力者倒し、国家破壊に快楽を感じているサヨク・サディスト・グループ(略称SSG)でしょうね。
いっぽう、「失言」の烙印を押すことが単純に悪いこと、すぐにも糺すべきことなのか、と言えば、どうもそう言い切れない部分もある。例えば、鳩山元首相の「最低でも県外」発言が、国益を著しく損なったのはたしかですが、まさにそのために民主党政権の命取りのきっかけになったことなどは、結果的に見ればよかったのではないでしょうか。
で、いまの政治の世界では、なぜ本音をちらりとでも言うとタブーに触れて干されてしまう事態があまりに多いのか、その客観的な理由を考えてみようというのが、本稿のテーマであります。
昔、佐藤栄作という人が、首相時代に記者会見場で、「新聞記者諸君は出てってくれ」(ラジオ、テレビはOK)と発言したことがあります。そうしたら、新聞記者諸君は、一瞬憮然としながらも、「じゃあ、出ましょう」と言ってぞろぞろ出てっちゃったんですね。それから、みんなで思い直したのか、ほどなく戻ってきて、記者代表とおぼしき人が、「総理、先ほどのご発言はたいへん心外であります」とかなんとか詰め寄って少しばかり揉めました。たしか、記者会見をやりなおすというところに落ち着いたのだったと記憶します。
私はこれを見ていて、青臭い身ながら、佐藤の横暴さにも腹が立ちましたが、それ以上に、「なに、これ。新聞記者、なんで政治家の言うなりになって出て行っちゃうの。あとから抗議したって遅いだろ、自分たちのほうがよっぽどみっともないじゃん」と思いました。
彼らにしてみれば、出ていくという行為が抗議の意思表示のつもりだったらしい。全党そろって国会審議拒否、なんてよくありますからね。しかし、それとこれとはケースが全然違います。審議拒否は計画的な戦術ですが、この記者たちは、その場の気分に流されただけです。
「どうして出て行かなきゃならないんですか」とがんばる記者が一人もいなかったという事実。これはふがいないことこの上ない。ふだん紙面では体制批判を得手勝手に書き散らしているくせに、いざというとき腹が据わっていない。ちなみに当時の政治記者というのは、左寄りが主流でした。
もちろん、佐藤のこの発言によって彼が退陣に追い込まれたかというと、まったくそんなことはありませんでした。いまだったら確実に不信任決議可決ものでしょうね。
佐藤の前に首相だった池田勇人は、高度成長の立役者ですが、彼は「貧乏人は麦を食え」と発言したことで有名です。この言葉の真意はニュアンスが全然違うのですが、当時の野党やマスコミがこれさいわいとばかりに攻撃の材料に仕立て上げました。しかし池田もこの発言で地位を危うくされてはいません。
「あーうー」とあだ名をつけられた大平正芳という総理大臣もいました。佐藤みたいに悪玉っぽくなく、とても優しい人なんですが、なんせ答弁も演説も下手で、鈍牛みたいな顔を上に持ち上げながら、口元でぼそぼそと呟く。「あーうー」としか言ってない感じなんです。この場合も発言のなんやかやによって激しく糾弾されたり、退陣に追い込まれるなんてことはありませんでした。「あーうー」と言ってりゃ無難、ということでしょうか。
これらを要するに、良い意味でも悪い意味でも、政治権力者って、昔はメディアや世論を向こうに回して強かったんですね。というか、政治権力の座にいるということに自信を持っていて、メディアや世論を過剰に気にしなくても済んでいた、ということでしょうか。かの吉田茂の「不逞のやから」「曲学阿世の徒」「バカヤロー解散」はあまりにも有名です。
ところで、ある時期から感じ始めたのですが、近頃の政治家は、話がうまくなり、饒舌になり、雄弁になりました。たいへん論理的な人もいますし、四方八方に気を配っている人もいます。ある領域のことなら、そこらの知識人顔負けなほどよく勉強し考えている人もいる。
このようになったのには、いろいろな要因が考えられます。
一つは、国際社会、特に欧米から、「日本人は何を考えているのかよくわからない」と批判されて、たしかにこれでは通用しないという反省がはたらき、弁論術を磨く人が増えたこと。
もう一つは、国内においても社会の仕組みがますます複雑化し、互いに矛盾するさまざまな要求が立ち上がってくるため、それらにきちんと対応するには、「殿様」然としていては、もはや政治家としてのビジネスが成り立たなくなったこと。
さらに、おそらくこれがいちばん大きな要因でしょうが、民主主義社会が成熟し、情報社会化が進んで、各層、各分野の多くの人が、その値打ちはともかく、強い発言力、発信力、他人の発言の検索力を持つようになったこと。いまメディア環境は、テレビ、新聞だけではなく、SNSに代表されるように、あらゆる場所、あらゆる時間帯で、多方向に錯綜した状況となっています。まさに「壁に耳あり、障子に目あり」ですね。
多少とも公式的に何か言えば、すばやく誰かが嗅ぎつけてあっという間に拡散し、しばしば炎上する。いい加減なことをひょいと洩らしただけですぐに叩かれる。では黙っていればいいかというと、情報公開や説明責任を課せられている政治家としてはそういうわけにもいかない。「あーうー」的な人はもう政治家にはなれませんね。
私は、政治家が雄弁になったこと、きちんと勉強してしゃべらざるを得なくなったことそれ自体は、昔に比べればよい変化だと思います。アメリカの公開討論などを見ますと、昔からすごく雄弁ですね。もっとも雄弁は銀とも言います。みんなディベート訓練やローヤーとしての活動で鍛えているだけで、三百代言にすぎないとも考えられますから、一概に全肯定はしません。でも、さすが覇権を握るだけのロゴスの国、「あーうー」で通ってしまう日本に比べて、なんて正々堂々とやりあうんだろうと、若いころは、その言論文化のあり方を羨ましく思ったものでした。
日本もかなりそうなってきたんですね。いまの若手論客とときどき接する機会がありますが、みんな頭の回転がすごく早くて、理路整然、主張もはっきりしていて、私などただただ舌を巻きます。ちょっとこのスピードにはついていけないな、と感じることもたまにあるのですが、彼らにとっては、幼いころからの文明社会の進展に適応したごく自然な構えなのでしょう。
さて、このことは、反面、時代が厳しくなってきたことをも意味します。単位時間当たりの情報量(受信量、発信量)がものすごく多くなっている。昔、♪「の~んびりいこーぜ、おーれぇたちは。あーせえってみたと~て、おなじこ~と」♪というCMソングが流行りましたが、今はそうも言えなくなってきたんですね。高速鉄道の発達と同じようなものです。
そうすると、「失言」の可能性もそれだけ高くなります。何しろ、政治家たる者、黙ってちゃいけなくて、何かしゃべらなければダメなんですから。そしてまた、「これだけの量をしゃべらなければいけない」というプレッシャーに、「ホントのことを言ってはダメ」というタブーが重なります。有力政治家は一種の強迫観念に駆られていて、すごいストレスを感じているのではないでしょうか。
そこで時には本音をつぶやき(ツィート!)たくなる。しかしそのツィートもたちまちやり玉に挙げられる。安倍総理と小泉進次郎議員とが、拉致問題に絡んで田中元外交官を批判した安倍発言をめぐってやりあったそうですね。
アメリカなんか、おそらくずっと昔から、こういう状況におかれていたんだと思いますよ。ブッシュ前大統領の「失言」語録は有名ですね。ブッシュ氏、それを自覚していてジョークに使ってもいます。オバマさんは二期務めていて、そういう話、ほとんど聞きません。おそらく周囲への配慮にたけたすごい実務能力なんでしょうね。それだけ逆に、政治家としての情熱をあまり感じませんが。
閑話休題。
「失言」の可能性が不可避的に増大している時代である。ではどうすればよいか。高市さんへの安倍総理の忠告通り、「発言には気をつけるように」というしかありません。
ただし、まったくタブーをタブーどおりに通していたのでは、いつまでたってもよい政治ができないことも明らかです。「福島事故の放射線拡散による死者はひとりも出ていない」と言っただけで袋叩きに会うような情緒的な風潮。これこそが「戦後レジーム」でしょう。ここから、何とか「脱却」しなければ。
そしてこれは、私たち日本国民みんなに課されたとても難しい課題です。というのは、現代政治は大衆を前にした弁論術以外のなにものでもないので、それはもともと次のディレンマを抱え込んでいるからです。
一つは、一般大衆の情緒に訴えかけなければ、簡単な政策実現の足掛かりすらつかめないこと。もう一つは、にもかかわらず、真の公共精神とは何かをたえず理性的に自問自答している必要があること。この情緒と理性の永遠の相克のはざまで、政治家は自己実現していかなくてはなりません。
私たち一般国民は、現代政治家が抱えているこのディレンマを、少なくともよく理解する必要があります。「失言」を許してやれというのではありません。寛大になれと言っているのでもありません。それはものによります。また人によります。ある政治家のある「失言」があった時に、その是非を一般的コード(イデオロギー)のようなものに照らし合わせて安直に判断するのではなく、その人のどういう状況下におけるどういう文脈での「失言」であるかを、私たちはきちんと把握すべきだと言いたいのです。
これからも政治家の「失言」はどんどん出てくると思いますが、それは、その政治家を、逃れられない厳しい現代状況の中で鍛えさせる一種のよい機会だと考えられます。あんまりおっかなびっくりでは何もできません。
また、私たち国民も、ある人のある「失言」があった時に、ただの野次馬を決め込んで「バカな奴だ」と言って済ませるのではなく、なぜそういうことを言わずにはおれなかったのかを、注意して見守ることにしましょう。そうすれば、私たちも、政治の世界を少しでも親しい、意義あるものとして感じることができるようになるのではありませんか。
何だかいやに啓蒙的な文章になってしまいましたが、一人の国民としての私自身の自戒の弁と受け取っていただければさいわいです。
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