美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

2014年01月16日 20時26分41秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

『葉隠』は人間通の書である
ここまで、三島が『葉隠』をどう読んだのかについて話してきました。ここからは、やや肩の力を抜いて、私が『葉隠』をどう読んだのかについて話してみたいと思います。

そのまえに、『葉隠』の話者としての山本常朝について、その人生のあらましを述べておきましょう。

前回にちょっとふれたことですが、山本常朝は、主君の死に殉じる覚悟を決めていたのにもかかわらず、それを実現することが叶わなかった人物です。その詳細について、三島由紀夫が要領よくまとめていますので、それを引くことにしましょう。

常朝は、佐賀藩主鍋島家第二代光茂という殿様に仕えた人で、幼少より四十二歳まで側近に奉仕した。先祖代々鍋島藩に功績があり、常朝自身も主君の厚い信任を受けていた。当然五十歳にもなれば家老にもなり、国政の重鎮になるべき人であったが、(一七〇〇年定朝が――引用者補)四十二歳の時に主君が亡くなられたので、志を達することができなかった。常朝自身は主君に殉死する覚悟を決めていた。しかし鍋島茂光は天下に先んじて殉死をかたく禁止し、もし殉死をあえてするものがあれば、家名を断絶するという厳命をくだしたのである。わが身一身よりも家名を重しとする当時の風潮によって、常朝もついに殉死ができず、出家して隠遁生活にはいり、それから二十年後享保四年(一七一九年)十月十日に、六十一歳で世を去った。

三十代前半の田代又左衛門陣基(つらもと)が、隠遁生活をしていた常朝を訪ね、『葉隠』のもとになる聞き書きをしはじめたのが、常朝五十二歳のとき。それから七年の歳月を経て終了したとのことです。

常朝が、心の底から主君の死に殉じようとしていたことを疑うものは、私を含めてだれもいないでしょう。それが果たされなかったことを、常朝はどれほど無念に思ったことでしょうか。近代的な言葉使いをすれば、人知れず深い絶望と闘った煩悶の時期が長く続いたものと思われます。その過程で、定朝はおそらく自分の宿命を心静かに受け入れる諦念の心境に達したものと思われます。そうして、この世の「計りごと」や「さかしら」の虚しさが透けて見える、ニヒリズムすれすれの透明な視線を手中にしたような気がするのです。肯定的な言い方をすれば、人のこころがまるで手に取るごとくによく分かるようになった、ということです。だから、人の心を扱うことをめぐる常朝のアドバイスは、ことごとく的確なものとなります。そのことがよく分かる文章を引きましょう。少々長くなります。

人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切なる事にして、然(しか)も大慈悲にして、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。およそ人の上の善悪を見出すは易き事なり。それを意見するも易き事なり。大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益(やく)にも立たず。ただ徒(いたづ)らに、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。そもそも意見と云ふは、先ずその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂(じっこん)になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考え、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、云はずして思ひ当る様にか、又は、先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。されば殊の外仕にくきものなり。年来の曲(くせ)なれば、大体にて直らず。我が身にも覚えあり。諸朋輩(ほうばい)兼々入魂をし、曲を直し、一味同心に主君の御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに、恥をあたへては何しに直り申すべきや。

(訳)意見してその人の欠点を直す、ということはたいせつなことであり、慈悲心ともいいかえられる。それは、ご奉公の第一の要件である。ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやっていることに対して善悪をさがし出すということはやさしいことで、また、それについて批判することもたやすい。おおかたの人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それがうけいれられなければ、力が足りなかったとしているようだ。こうしたやり方はなんら役立たずで、ただいたずらに人に恥をかかせ、悪口をいうだけのことと同じ結果になってしまう。いってみれば、気晴らしのたぐいだ。意見というのは、まず、その人がそれをうけいれるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらのいうことを、いつも信用するような状態にしむけるところからはじめなければならない。そのうえで趣味の方面などからはいって、言い方なども工夫し、時節を考え、あるいは手紙などで、あるいは帰りがけなどに、自分の失敗を話しだしたりして、よけいなことを言わなくても思い当たるようにしむけるのがよい。まずは、よいところをほめたて、気分を引き立てるように心をくだいて、のどが渇いたときに水を飲みたくなるように考えさせ、そうしたうえで欠点を直していく、というのが意見というものである。意見というものは、ことのほかしにくいものといえる。だれにでも年来の悪癖みたいなものが身に沁みこんでいるので、そうすぐには直らないということは、私自身にもおぼえのあることだ。友だち一同、つね日ごろ親しくして、悪癖を直し合い、ひとつの心になってご奉公につとめるようになることこそが、ほんとうの慈悲心といえるだろう。それなのに、恥をかかせては、直るべきものも直らないことになってしまう。直るはずもないではないか。

いかがでしょうか。私は、常朝のアドバイスの言葉が、生きる環境の違いや時代の違いを超えて、わが心にじかに沁み通ってくる思いを禁じえません。ここには、教師が生徒と関わるときの、親がわが子と接するときの、職場の同僚と関わるときの、そのほか、現代におけるもろもろの人間関係における構え方の基本が語られているように、私には感じられるのですね。現実にはなかなかこんなふうにうまくいかないのでしょうが、こういうふうに人々と接することができたらそれに越したことはない、とは言えるのではないでしょうか。

常朝は、恋のあるべき形についても触れています。

(前略)この前、寄り合ひ申す衆に咄(はな)し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に
   恋死なん 後(のち)の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。


これは、現代語訳を付けるまでもないでしょう。恋の究極の形は、忍ぶ恋である、と言っているわけですね。この構えが、命懸けで主君に仕える恋闕(れんけつ)の情に通じることになるのでしょうが、ここで申し上げたいのはそういうことではありません。

私は木や石ではないので、五〇半ばになるも、いまだに素敵な女性と接すると、心ときめくものがあります。しかし、若いころのようにそれをすぐに表に出して、相手との距離を縮める作業にいそしむ、という恋し方と一定の心理的へだたりを感じるようになりました。べつに格好をつけているわけではありません。そういうときめきをだいじに心のなかに慎ましく保っているほうが、なんとなく人間関係一般が良好に保たれ、日々を楽しく過ごすことがかなうという功利主義的な気づきが生じてきたのです。そういう心持ちに傾いてきた自分としては、常朝の「忍ぶ恋」が実にフィットするところがあるのです。

とはいうものの、私もひとりの荒凡夫にすぎません。どこでどう心のバランスが崩れるのかは保証の限りではないので、これ以上、たいそうな口は叩かないでおきましょう。そうそう。「煙仲間」とは、なかなかのユーモアのセンスですね。

常朝が、人情の機微を解する人間通、あるいは心の達人であることを示す文章を最後にもうひとつだけ引いておきましょう。

何がし立身御僉議(せんぎ)の時、この前酒狂(さけぐるい)仕り候事これあり、立身無用の由衆議一決の時、何某(なにがし)申され候は、「一度誤(あやまり)これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出来申すまじく候。一度誤りたる者はその誤を後悔いたす故、随分嗜(たしな)み候て御用に立ち申し候。立身仰せ付けられ然るべき。」由申され候。何がし申され候は、「その方御請合ひ候や。」と申され候。「成程某(それがし)受(うけ)に立ち申し候。」と申され候。その時何れも、「何を以て受に御立ち候や。」と申され候。「一度誤りたる者に候故請(うけ)に立ち申し候。誤一度もなきものはあぶなく候。」と申され候に付て。立身仰せ付けられ候由。

(訳)ある人物の栄転に関して審議しているとき、その人物が以前酒におぼれていたことがわかったので、栄転はさせないということが、みんなの意見で決まりそうになったさい、ある人がいうには、「一度あやまちを犯した者を、まったくみとめず捨ててしまわれては、すぐれた人物は出てこないものである。一度まちがった者は、そのまちがいを後悔するものだから、なにかとつつしんで、あんがいお役に立つようになるものだ。栄転をおおせつけられてよい。」ということを述べた。それに対してある人のいうには、「あなたが請け合うのか。」とのことであった。その人は、「もちろん私がりっぱに請け合いましょう。」といわれたそうだ。そのとき、だれもが、「どのような理由でもって請け合いなされるのか。」といったところ、その人は、「一度間違った者だからひきうけたのだ。あやまちのひとつもない者は、かえってあぶなくてしょうがない。」といわれたので、栄転のことをお命じになったということである。

またもや私事にわたって恐縮です。私は以前自塾を畳んで、知り合いの学習塾の専任講師として再スタートをした経験があります。その知り合いの塾長から「美津島くんは、一度失敗しているからなぁ」と否定的に感慨を漏らされたとき、私は、とても切ない思いをしました。お店を畳んだ経験は、だれに言われるまでもなく挫折あるいは失敗の経験として、わが胸に深く刻み込まれていました。そこを言われると、こちらは何も抗弁できずに、ひたすら押し黙って頭を垂れるよりほかは術がありませんでした。結局そこは、一年足らずで辞めました。もしも塾長から、『葉隠』のなかの「何某」のように「私は、美津島くんが一度失敗したからこそ雇ったのだ。その経験を生かして、頑張ってくれ」と言われたら、私は一念発起してその塾で頑張り抜いたことと思われます。心に疵を持つ者は、それを理解してくれ、それを肯定的に包み込んでくれるリーダーのために身命を惜しまず頑張り抜くものなのではないかと思われます。それを踏まえたうえで、文中の「何某」は、酒乱の前歴を持つ彼を登用することにしたのでしょう。そこが、人間通・常朝の琴線に触れることになり、書き留められることになったのではないかと思われます。

このように『葉隠』は、粗暴に死ぬことを推奨しているだけの単調な内容の書物ではありません。人生指南の書として、思いのほか懐が深くて興味深い内容満載の書物なのです。さすがに、三島が「最後のよりどころ」と絶賛しただけのことはあります。だからこそ、古典になりえたのでしょう。よろしかったら、あなたも紐解いてみてください。 (終わり) 

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