美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏・反原発知識人コミコミ批判(その2)  (イザ!ブログ 2013・2・16 掲載)

2013年12月12日 20時31分15秒 | 小浜逸郎
さていよいよ本命の宮台真司氏と飯田哲也氏です。

先に提示した『原発社会からの離脱』(両氏の共著・講談社現代新書)に入る前に、くだんの本(『脱原発とデモ――そして民主主義』筑摩書房)での宮台氏の発言に少しだけ触れておきましょう。くだらないゴミのような本だと評しましたが、この本の中で、もしみなさんが反原発思想、脱原発思想に共鳴するなら、唯一、耳を傾けるに値する主張です。

まず、国会議員や霞が関官僚、電力経営陣や電力労組などの連中にとって、こういうデモは痛くもかゆくもありません。官僚は政治家に弱く、政治家は有権者に弱く、有権者は官僚に弱い関係にありますが、国民が直接運動で働きかけられるのは、政治家と経営陣です。

政治家にとって一番痛いのは落選運動です。原発や原発住民投票に対してどういうスタンスをとるのかによって有権者が議員に投票するかどうかを決める落選運動が広がったら、彼らにとっては恐いことになります。この恐怖を押し広げていくことが有効です。

東電など地域独占的電力会社に原発を納入している東芝、日立、三菱。これらは昔の軍需産業でもあります。こうした企業の製品の不買運動を展開していくことも大切です。同じクーラーを買うなら、この三社の製品は絶対買わない。これを押し広げるのです。

  (中略)

原発推進政治家には落選運動を、原発納品企業や原発電源販売企業には不買運動を、徹底して展開していく。そのためにも原発電源販売企業から電気を買わないで済む発送電分離を早期に実現させる。こうしたピンポイントの有効性を狙う運動こそが、必要なのです。


反原発デモなんか無効だとはっきり言っているのですね。権力を揺さぶるにはもっと有効な方法がある。政治家と企業家の弱点を突け。なるほど。いかにも宮台氏らしいプラグマティックな方法論で、これは、権力闘争の原理としては、間違っていないでしょう。私の推測によれば、じつは彼の本音は、そういう「有効な」運動のイデオローグになりたくてしょうがないところにあります。本質的に権力志向なのですね。

それはそれで結構ですが、その具体策となると、落選運動と不買運動ですか。うーむ、大言壮語している割には、どうやって広がりをもたせていくのか、その戦術面にいまいち有効性が感じられません。これではデモと五十歩百歩で、「市民運動」なるものの限界内にまるごと収まってしまうのでは。

私なら、まず普通に、地域で地道な足固めをして住民の人気を勝ち取り、選挙運動へと拡大させて、政党を立ち上げ、認知度を上げるためにマスメディアを利用し、さらには組織票を獲得できるような手も使いながら、権力を徐々に奪取していく方法をお勧めします。場合によってはかの橋下徹氏のような大阪ノリのポピュリストキャラも少しは利用価値があるかもしれません(これは冗談です)。もちろん自分にはこんな政治運動などやる気も能力もまったくありませんが。

本題です。

一国のエネルギー問題、特に電力について考えるとき、おおざっぱに言って次の三つの問題をクリアーしなくてはならないと思います。

①将来にわたる安定供給の確保

②発電施設の安全性と環境への影響

③発電コストと電気料金

これらをすべてひっくるめて、エネルギー安全保障問題としてとらえることができます。 原発問題も、当然この三つの点について総合的に考えていかなくてはなりません。京都大学原子炉実験所教授・山名元氏は、昨年の総選挙前、脱原発を訴える各政党の政策が現実性・具体性に乏しいことを説きつつ、次のように述べています。

エネルギー資源をほとんど持たない日本としては、化石燃料、再生可能エネルギー、原子力、省エネルギーなど限られた選択肢を、得意の技術力や外交力を生かしつつ総合的に組み合わせて、「リスクとコスト最小化」と「廃棄物合理化」を探求していくしかないのが現実である。

そのためには、エネルギーに関し①供給事業②資源輸入③廃棄物管理④外交⑤科学技術開発――など全てを包括的に司る行政組織があって然るべきで、そうした組織が機能していれば多くの無駄や問題の発生を避け得たのではないか。

我が国にも、米国のエネルギー省(DOE)のような政府機能が必要なのではないか。このような強力な政府機能なら、一定規模の慎重な原子力利用と、増強する再生可能エネルギーを組み合わせつつ、火力依存度増によるリスクを最小化する戦略を作ることは可能であろうし、それは、国民的議論と称する政策議論よりも、はるかに実効性をもつはずである。(産経新聞2012年12月7日付「正論」)


また山名氏は、政権交代がなされた直後の年頭、脱原子力の実態が政治、外交、経済、国民生活全般に及ぼすリスクについて、次のように指摘しています。

いま、急速な脱原子力によって、我が国は大きな損失をこうむりつつある。膨大な化石燃料購入費用の海外への流出、天然ガス購入価格の上昇、貿易赤字の拡大、電気料金の値上げ、それによる産業への圧迫、停電リスクの常態化、過度な節電要請による負荷、CO₂排出の増加といった損失である。

それらの結果として、産業の空洞化、雇用の喪失、国民負担の増大など国力の低下につながる可能性が大きい。原子力発電とは「海外からの燃料購入にほとんど費用をかけずに安定的に電力を供給する電源」なのであるが、その恩恵すべてが危機にさらされている。そうした経済的余力の喪失は、再生可能エネルギーの拡大や火力発電の強化に必要な投資力までも減少させ、”原子力・再生可能・火力の3者共倒れ”すら起きかねない状況だ。原子力発電の有無は長期的には、貿易立国としての存立、主権国家としての独立性、国家安全保障など国の存立基盤にまで関わる重大事なのである。(産経新聞2013年1月4日付「正論」)


私としては、原発問題にどう対処するかという基本的なスタンスにおいて、この山名氏の指摘に付け加えるべきことはありません。原発が放射能汚染の危険を抱えていることはもとより明らかですが、そのリスクだけに特化して、他のリスクについて考えず、ただ感情的に反応して原発か再生可能エネルギー(自然エネルギー)かの二者択一を迫るような問題提起の仕方はそもそもおかしいのです。全電力エネルギーのうちの再生可能エネルギーのシェア(2011年現在、1.4%。電気事業連合会資料)を適切な割合にまで高めるためにこそ、産業の健全な発展が求められ、そのためにこそ、電力の安定供給が必須の課題となるのですから。

同じことは、評論家の中野剛志氏も指摘していて、日本のような資源に乏しい国は、これからのエネルギー安全保障を考えるにあたって、多様な発電方式を確保しておかなければならないことを強調しています(『日本防衛論』角川SSC新書)。

とりわけ重要なのは、外交問題にまで視野を広げてものを考える必要です。世界経済や国際政治の状況がこれだけ不安定な現在、中東など化石燃料産出国に過度に依存することは避けなくてはなりません。これに対してウラン産出国は世界に広く存在しており、しかも輸入相手国として地政学的に比較的安定した国が含まれます。また原子力発電は単に資源を確保しやすいのみならず、発電システムそのものが安定供給に寄与する長所をきわめて多く持っていることは、これまで実証されてきました。

宮台氏は、「原子力はウランを輸入しているから自給でもなんでもない」などと言っていますが、ごく少量の資源を輸入した上で日本の高度な技術を結集・蓄積して成立している原子力発電は、準自給エネルギーと言ったほうが適切なのです。

あんな大事故があったために、私たちは恐怖心の虜になってしまい、そのメリットを忘れているのです。なお、福島第一原発事故はまさに「想定外」の津波によるものであり、この教訓を生かして予防措置を講ずることは十分に可能です。原子炉そのものの安全性を飛躍的に高める次世代型原子炉の開発も進んでいます。

ちなみに、昨年10月30日、日立製作所が英国ロンドンで英原発事業会社の買収を発表した記者会見で、「福島第一原発に設備を納入したメーカーをなぜ選んだのか」と厳しい質問が飛んだ時、デービー英エネルギー気候変動相は「事故は津波が原因だった。原子炉の安全性に技術的な問題があったとは考えていない」と一蹴したそうです(産経新聞2013年2月7日付)。

高すぎる火力依存度を減らし、再生可能エネルギーの割合を高め(太陽光発電のコスト高や立地の難しさなどを克服し)、しかも国民生活の維持にとって十分な安定供給を確保するためには、豊かな経済力の維持、絶えざる産業発展の努力、安全技術の向上も含めた研究開発努力などが不可欠です。そのためにこそ、既存の原子力発電をなくしてはならないし、より安全な発電施設再構築の方向性を捨ててはならないのです。再生可能エネルギーのシェア拡大と原発の存続とは矛盾しません。矛盾どころか、後者が前者の条件となるのです。「いますぐ原発をやめて再生可能エネルギーへの転換を」などというスローガンが、いかに現実性のない粗雑な感情的発想であるかがわかるでしょう。

さて宮台氏、飯田氏は、次のように言います。まず冒頭の宮台氏の発言。

原子力発電は技術の問題であると同時に、それこそ飯田さんが「原子力ムラ」と名付けられたような社会的な「何か」ですよね。太陽光発電、風力発電、バイオマス、地熱といった自然エネルギーを軸とした社会づくりは、そういう「何か」と訣別しないと、できあがらない。社会の新しいエポックを築かないとダメなこと、そういう話をしていけたらと思います。

ここで言われている「社会的な『何か』」とは、要するに中央官僚体制のことです。宮台氏は、「共同体自治」を理想に掲げる一種の欧米型リベラリスト(と同時にコミュニタリアン的な思想傾向も持つ)ですから、少数の権力者や専門家たちが集まって作っている原発推進・容認勢力を破壊したくてたまらないらしい。

たしかに一般国民に十分に開かれない密室で国策を決めていくような体質、一度決めてしまったことをその弊害が明らかになってもなかなか変えようとしない体質が、中央官僚体制に根強くあることは事実でしょう。しかし、そのことと、原子力発電が現在および未来の国民生活にとって必要か不必要かという問題とは別の次元の話です。原子力発電がなぜ必要かについては、山名氏、中野氏の考えを引きながら、いま述べました。

宮台氏は、別のところで、ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」を肯定的に評価しながら、次のように述べています。

リスク社会論は二項対立の図式を効果的に阻止しているわけです。もともと、予測不能、計測不能、収拾不能の高度リスクの代表例である原子力発電に、われわれはすでに依存しているので、イチかゼロというわけにはいかない。しかし、その危険は市民、市民社会に直接及んでしまうがゆえに、市民の自治によって是々非々で解決するしかないんだ、こういう理屈でした。


宮台氏は、「市民の自治によって」というところがことのほかお気に召すらしく、これを用いて、自治ができるヨーロッパの市民社会は善、日本の中央集権的近代社会は悪、という彼の固定観念を補強したいようです。これについては後にもう一度言及しますが、それはともかく、ここで言われている「イチかゼロというわけにはいかない」というロジックそのものには賛同できます。多様なエネルギー源を確保しておくことがリスク逓減につながるからです。

しかしそれなら、宮台氏は、どうして反原発デモに参加したり、原発から再生可能エネルギーへの転換をラジカルに主張したりするのか。それこそは「イチかゼロ」に走っている姿以外のなにものでもないではありませんか。

意思決定機構としての「市民の自治」が成立しにくい日本のような国民性であっても(これには歴史的・文化的な理由がありますが、ここでは述べません)、民意を十分にくみ取ることのできる良質の中央政権が成立していれば、エネルギーの選択に関して「是々非々」を実現することは可能です。現に安倍政権は、それに近い形を実現しつつある、と私は思います。それなのに、宮台氏は、政治・官僚体制の形式的な面のみを見て、日本は「悪い共同体」であると決めつけています(この表現は本書にたびたび出てきます)。緻密なことを言っているように見えて、ヨーロッパ由来の近代民主主義イデオロギーをそのまま信じ込んでいるのですね。悪しき丸山眞男主義から一歩も脱皮できていません。

飯田氏もこれは同じです。次の発言を見てください。

日本では大規模な水力を除くとわずか四パーセント(電力比)に満たない自然エネルギーですが、世界では自然エネルギーを取り巻く現実が倍々ゲームに加速して、研究者の予測を現実が追い越してしまった。たとえばヨーロッパでは風力・天然ガス・太陽光が一気に増えてきたので、二〇五〇年までには一〇〇パーセント自然エネルギーで賄えるという予測をする研究機関、団体、政府機関などが、昨年(二〇一〇年)に入って次々に出てきています。


とんでもないデマゴギーです。

まず、「ヨーロッパでは風力・天然ガス・太陽光が一気に増えてきた」と言っていますが、飯田さん、天然ガスは化石燃料であって自然エネルギー(再生可能エネルギー)じゃありませんよ。専門家が素人でもわかるこういうデマを言っては困りますね。

次に、100パーセント自然エネルギーで賄えるという予測をする研究機関が出てきたからといって、それがどうしたのですか。こんな予測が当てにならないことは、いまのヨーロッパ諸国の電力事情を見ればすぐにわかります。少し古いですが、以下に2008年における主要国の電源別電力量の構成比を掲げておきます。

主要国の電源別発電電力量の構成比



これで一目瞭然なように、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアのヨーロッパ諸国では、火力と原子力の合計がいずれも8割を超えています。ことにフランスが8割近く原子力に頼っていることは有名です。また、この構成比には現われませんが、ドイツが、原発に大きく依存しているフランスから莫大な電気を買っていることもよく知られています。

では、欧米諸国はそれほど自然エネルギーへ向かっての大転換を図ろうとしているのでしょうか。先に、イギリスが新しく原発建設を日立に発注したことを述べましたが、アメリカでは、強力な原子力規制委員会の監視下に、約9割の原発稼働率を実現しています。一方、太陽光発電のための太陽電池生産量は、たしかにここ数年で幾何級数的に伸びていますが、以下のグラフに明らかなように、これを大きく押し上げているのはほとんど中国と台湾、その他新興国、途上国であって、ヨーロッパも北米もさほどの伸びを見せていません。


世界の太陽電池(セル)生産量(ウィキペディア)

ところで飯田氏は、スウェーデンに長く滞在した経験を持ち、かの国がことのほかお好きなようです。かの国では燃料のバイオマスへの転換計画をきちんと立てているなどとしきりに強調しています。しかし彼は意図的にか無自覚にか、スウェーデンの電力供給が、水力43%、原子力39%と、ほとんどこの二つで賄われていることにまったく言及していません。 風力は4%、太陽光に至っては0%です。また、スウェーデンは、1980年代から90年代にかけて脱原子力を目指しましたが、2010年にはこの政策を根本的に見直しました。現在10基の原子炉が稼働中ですが、新たに原子炉を建て替えることも計画しています。この方針は福島事故後も変更されていません(http://www.jepic.or.jp/data/ele/pdf/ele09.pdf)。この事実を知らないとは言わせません。彼はあきらかにごひいきの国の事実を隠蔽しているわけです。官僚の閉鎖的体質を批判するなら、自分がまずその隠蔽体質から脱却すべきではありませんか。

さらに飯田氏は北欧好きの一部インテリのご多分に漏れず、フィンランドも褒めたたえていますが、そのフィンランドは、二百万キロワット級の原発を1基建設中、2基計画中です(http://www.jaif.or.jp/ja/nuclear_world/overseas/f0103.html)。

いったいに「アメリカでは」「フランスでは」「スイスでは」「スウェーデンでは」「フィンランドでは」と、欧米諸外国から得てきた局部的な知見をもとに日本批判をやるのは、日本の進歩派インテリの昔からの得意技(欧米コンプレックスにもとづく悪癖)ですが、こういうのを「ではのかみ」と言います。それぞれの国情(自然的地理的条件、国家規模、国民性、伝統や慣習、政治イデオロギー、その他)を無視して、モデルをそのままスライドできると考える方がどうかしています。参考程度に見ておけばよいのです。

事実、飯田氏は、本書の中で、ドイツが北欧諸国と比べて、その国家規模が格段に大きいので、「複雑で力のあるポリティクスが機能してきます。国レベル、州レベル、地方自治体レベルの三層構造があって、変化がむずかしい」と正確な把握をしながら、それならドイツに優るとも劣らない大国・日本にだって同じことが言えるはずなのに(しかもその上に、日本の場合には、ヨーロッパとの国民性の違いや、平野が少なく気候が不安定な地理的条件が作用します)、日本だけは「遅れている」という話になるのですね。ここに、宮台氏にも共通する西欧・北欧信仰がはっきりと出ています。

脱原発が間違っている大きな理由の一つに、次の点が挙げられます。

宮台氏も飯田氏も、日本をただ批判するだけのために、先進的な「知識社会」ではいち早く再生可能エネルギーに切り替えて原発を見限りつつあるかのようなデマをまき散らしていますが、これらの国々では、理想を掲げて目標数値を提示しているだけであって、現状はいま見てきたとおりです。果たして目標が達せられるのかどうか、甚だ疑わしい。

現在、中国をはじめとして、ロシア、インド、韓国、中東諸国、東南アジア諸国では、建設中、計画中の原発が目白押しです(http://www.jaif.or.jp/ja/nuclear_world/overseas/f0103.html)。この場合、技術的に一番頼りになるのは、言うまでもなく東芝、日立、三菱重工といった日本の企業です。特にインド、中東、東南アジアが、今後これらの企業に白羽の矢を当ててくる可能性はたいへん大きい。大企業がそれを見逃すはずはありません。いわば技術や投資の矛先が国外に流出していくわけですが、巨大プロジェクトで日本の底力が再認識されて国際競争に勝つという面もあるわけですから、長い目で見れば国益にかなうはずで、それ自体は悪いことではないでしょう。


*****

さて問題は、世界の大きな市場がこんなに原発の建設を求めているのに、もし日本があの平和憲法とやらと同じように、「原発放棄」をしてしまったら、これまで蓄積してきた高度な技術を次世代に継承する道が断たれ、国際競争に敗れる可能性が非常に高くなるということです。最悪の場合には、かつて自前のものとして持っていた技術を、よその国から教えてもらわなくてはならない情けない状態になるかもしれません。ある人から聞きましたが、これはすでに原発ではない他業種(製造業)で起きていることで、日本のその業種が国内で空洞化してしまったので、タイ人にわざわざ来日してもらって技術指導を受けなくてはならなかったそうです。

評判の悪い高速増殖炉の話をしましょう。

高速増殖炉は、原理的には、天然ウラン資源の利用効率を飛躍的に高めることができる(百倍近く)ため、原子力技術者の夢をかきたてました。しかし現段階ではいろいろと克服課題が多く、「もんじゅ」の運転中止に象徴されるように、いま日本では開発が頓挫してしまったように見えます。宮台氏や飯田氏は、本書で、この事態を次のように嘲笑っています。

飯田 そこで高速増殖炉というフィクションが登場するんです。諸外国は諦めているのに、日本だけは目覚めていな               い。
宮台 なるほど。
飯田 高速増殖炉というのは、二〇五〇年に実証炉が一基できるかどうか、という話をしているわけです。いまや自然エネルギーは二〇五     〇年にすべて供給できるというビジョンがあるのに、困ったものです。既存の原子力発電も急速に減っていきます。


ところがこれも途方もないデマなのですね。

まず、高速増殖炉の研究開発は、日本以外の国でやめてしまったわけではありません。フランスも開発を続けていますし、ロシア、中国、インドなど、新興国、発展途上国では旺盛に研究開発に取り組んでいます。飯田氏にとっては、「諸外国」というのは、一部のヨーロッパ諸国を意味するので、それ以外の国々ははじめから目に入らないらしい。死刑反対論者が、一部ヨーロッパの例だけを基準にして、日本はまだこんな残酷な遺制を残しているなどと騒ぎ立てるのと同じですね。

第二に、原発建設ラッシュが新興国、発展途上国でこれから起きてくるにちがいないことはいま述べたとおりです。急速に減っていくなどという見通しは自分の願望を客観的予測めかして自己投影しているだけです。

第三に、「自然エネルギーは二〇五〇年にすべて供給できる」というのは、ごく一部の先進国が打ち立てているただの「ビジョン」にすぎません。本当にそうなることがどうして確信を持って言えるのでしょうか。

高速増殖炉の場合、冷却材にナトリウムを使う方法は確かに難点が多いようですが、鉛・ビスマスを使う方法には、腐食問題を解決すれば、まだ実用化の可能性が大きく残されていると考えられます。

私が言いたいのは、たとえ細々とではあれ、こういう研究開発の道を閉ざしてしまってはいけないということです。予算と優秀な人材とによって研究開発が続けられていれば、ある時、ぱっと解決策が開けることがあり得るからです。世界の偉大な発見・発明の多くが、優れた研究者たちの執念の持続によって、ほんのわずかなきっかけから成し遂げられたことは、人のよく知る事実です。

もっとも、科学上の発見・発明が、人類に幸福をもたらしたかどうかは、別途、哲学的・思想的な問題として真剣に考えてみなくてはならないことですが。しかし、少なくとも、エネルギー安全保障の観点からは、経済的な余裕があるかぎり、さまざまな試行錯誤を続ける必要があるのです。

欧米リベラリズムの信仰者・宮台氏は、再生可能エネルギー普及のために欧米で進められてきた電力自由化、発送電分離、固定価格買い取り制度などを、すばらしい制度として無条件に支持していますが、この支持がそういうイデオロギー信仰以外にさしたる根拠をもたないことは明らかです。これらの方向性がさまざまな問題を含んでいるために、彼の大好きな欧米でさえすでに見直されつつあることを宮台氏はご存知でしょうか。中野剛志氏前掲書の中の次の記述をよくお読みください。

ドイツでは、再生可能エネルギーによる電力の固定価格買い取り制度による負担が大きくなりすぎて問題になっており、家庭用の太陽光発電電力の買い取り価格を日本の買い取り価格の半分以下に引き下げたり、大型の事業用については、買い取りを廃止したりしている。しかも太陽光発電の設備容量が五千二百万KWに達したところで制度は廃止することが決まった。ドイツの脱原発政策や再生可能エネルギー政策は、見習うべきモデルではないのである。

また、スペインでは、巨額の債務を抑制するため、再生可能エネルギーの買い取りを停止しました。

アメリカでは、発送電分離を進めたために、各地で供給の不安定によるトラブルが発生しています。カリフォルニア州では停電の頻度がすさまじいと聞きます。2012年に東海岸を襲ったハリケーン・サンディによる260万戸に及ぶ停電被害の復旧に一週間以上を要したことは記憶に新しいところです。これに対してわが国の電力業界では、独占、独占などと批判されながら、東日本大震災における停電では、あれほどの大災害であったのに、東北電力がわずか三日で回復にこぎつけました。

さらにヨーロッパでは、電力自由化によって価格競争が激化したために、弱小業者が倒産して寡占化が進み、電力料金はかえって高騰したとも報告されています。

ちなみに中央管理体制を維持している現在の日本の電力料金は、先進国中でもけっして高くありません。このリーズナブルな価格の維持には、発電コストの安い原発の存在が陰の力として、安定供給に大きく貢献してきた事実を付け加えておきましょう。翻って、再生可能エネルギーの普及をもくろんで電力自由化と固定価格買い取り制度を取り入れたヨーロッパ諸国では、当初のもくろみほど普及が進んでいないことは、先に見たとおりです。

このように、電力のような公共財の取り扱いをむやみに自由市場にゆだねると、ろくなことにならないのです。電力は、いわば産業界の通貨のようなものです。通貨そのものを自由取引にゆだねてしまった金融市場の成立と過熱が、しばしば世界経済の混乱の元凶になってきたことはよく知られているところです。一国の通貨を適切な中央の管理(金融政策や財政政策)から引き離してしまうと、国民経済が世界経済の混乱に簡単に巻き込まれてしまうのと同じように、電力のような高度な公共財に対しては、強力な中央管理体制がぜひとも必要なのです。

現在、原発事故に伴う東電悪者論に便乗して、宮台氏の唱えるような自由化論が幅を利かせています。そしてついに日本政府は、すでに弊害が多いとして見直されつつある発送電分離や固定価格買い取り制度の導入を決めてしまいました。日本国家のこの鈍感さ、あちらの権威をよく検討もせずに鵜呑みにして取り入れる百姓性は、いまに始まったことではありません。欧米でとっくに反省されていた教育自由化論としての「ゆとり教育」、アメリカの圧力に負けて政界、財界、官界、学界、マスコミが大合唱して取り入れた「構造改革」、すべてが失敗に終わっていることが明らかなのに、いまだにその後遺症に国民は悩まされているのです。

では、電力自由化や発送電分離がなぜよいことであるかのように考えられてきたのでしょうか。これは欧米リベラリズム思想の根本的な脆弱さを象徴しているように思われますので、私が想定できる範囲で2点だけ挙げておきましょう。

①何にせよ、規制を撤廃して個人や企業が商品を自由に取引できることはよいことだ。市場原理が適切にはたらいて経済は活発化し、価格も均 衡する。
②中央官僚体制や独占体制がのさばっているような状態は、個人の欲望を抑圧し、市民の自由な自治を妨げる悪い制度であるから、これをなる べく壊すべきだ。

ここまで読んでいただいた読者のみなさんには、上記2点が、リベラリストのイデオロギー的な思い込みにすぎないことがよくわかっていただけることと思います。

事実、①については、ケインズに反逆を企てたシカゴ派経済学に端を発する新自由主義・市場原理主義にそのまま当てはまる考え方で、これがリーマン・ショックのような世界経済の混乱を惹き起こした大きな原因の一つであることは、心ある人たちの間ですでに常識となりつつあります。優秀な社会学者であるはずの宮台氏には、そういう現実から学び直そうとする姿勢がほとんどまったく見られません。

また②は、まさに宮台氏自身を、①の考え方の誤りを認めることから遠ざけさせている「目の前のうつばり」です。はじめにも述べたように、彼は、市民が連合してつくる比較的小さなスケールの「共同体自治」の提唱者ですが、こんな理想が実現不可能なことは、柄谷行人氏を批判した部分ですでに述べたとおりです。言葉こそ巧妙に駆使していますが、帰するところは柄谷氏の「ぼんぼんの空想」と同じなのです。

宮台氏はスローライフの勧めなども説いています。しかし、個人生活にそれを勧めるならどうぞご勝手にと言いたいところですが、ギラギラしたグローバリゼーションの渦に巻き込まれている日本のような巨大国家の社会構造全体を、どうやってスローライフに転換するのですか。車をなくせとか、「友愛の海」とやらを説くのと変わりないではありませんか。

宮台氏は、なぜ、こんなできもしない理念を掲げるのか。これは私の想像ですが、自分が培ってきた西洋近代的な思想感覚が、日本の中央政治になかなか受け入れられないので、どこかで執念深いルサンチマンを抱えていて、裏返しの「権力への意志」を表明しているのでしょう。そこには日本の一般民衆の「頑固さ」(いわゆる「民度の低さ」)に対するあからさまな軽蔑心もうかがえます。そしてこれは、西洋的自由の理念に対する片思いにいつまでも囚われているという意味で、戦後進歩主義知識人に共通したメンタリティの一典型にほかなりません。新しがっていますが、本質的にはこれまでのパターンをなぞっているだけです。

日本の一般民衆の「頑固さ」「民度の低さ」と言いましたが、それは、宮台氏のような欧米型「自由」原理主義知識人から見るとそう見えるので、ここには、簡単に上から目線で見てはいけない根深い国民性の問題が横たわっています。

話を電力自由化の問題に限るなら、たとえばアメリカ(の特に中間層)には、何よりも個人の自由と自立と自助を重んじる伝統的な気風があるので、こういう政策には喜んで飛びつく心理的な下地があります。「自分で電気を作って売ったり、買いたいところから買いたいぶんだけ電気を買えるんだって? 自分で選択できるなんてすばらしいじゃないか」というわけですね。

サラリーマンでも確定申告を必ずやること、不動産を買うときには徹底的に調べること、家の外壁塗装を自分でやることなどは、アメリカ人のこの気風をよくあらわしています。しかし、この気風がもたらす弊害も明らかで、競争の敗者に対する冷たさ、医療保険制度の不備、なんでも訴える訴訟社会の混乱ぶり、銃社会のもたらす治安の悪さなどは、その典型的な例です。

これに対して、日本は自由・自立・自助を重んじるよりは、伝統的に相互扶助の精神に貫かれた社会です。いま詳しく比較文明論をやっている余裕はありませんが、仮に電力が自由化されたとしても、一部の大企業や富裕層以外の大方の国民は、固定価格買い取り制度などにさほどのインセンティヴを感じないのではないかと予想されます。自主的・自発的なモチベーションの希薄なところに強引に制度化を押しすすめれば、制度の悪い面、つまり中央管理体制の劣化・崩壊による無秩序の跋扈、災害時などにおけるリスクの増大、供給の不安定化などが露出するだけでしょう。

宮台氏は、日本の民衆のメンタリティに対していつも上から目線なので、こういう国民性には長い間の慣習からくる深い理由があるのだという肝心な点を見ようとしません。それが西洋式理念をそのまま持ってきて日本社会に押しかぶせようとするリベラル知識人のダメなところと言えるでしょう。

最後に、原発問題に話を戻しましょう。

もともとこの問題は、福島第一原発事故があってから、にわかに多くの国民の関心を引くようになったいきさつがあります。その関心の根底にあるのは、唯一、放射能という目に見えない不気味な危険物に対する恐怖という単純な感情です。もちろん、広島、長崎の被爆という身の毛もよだつ現実体験を味わわされたただ一つの国民という特殊性がこれに重なっていますから、恐怖感情が他国に比べて一段とリアリティを持っていることは当然です。だからこそ、原発の周辺住民は言うに及ばず、電力供給サイドの関係者のショックもひとしおだったわけです。

私はこの文章で、恐怖に裏付けられただけの脱原発派知識人の視野の狭さを批判してきました。恐怖そのものは当然ですが、さてだからと言って、原発をすべて廃炉にすればエネルギー問題が解決するのかといえば、なかなかそうはいきません。結論として、最大限慎重な安全確認を行った上で徐々に再稼働してゆくほかはないだろうというところに落ち着きます。

この点に関して、二つのことを言っておきたいと思います。

第一。人間の生というのは、今日明日をどうやって生きていくのかという関心と、自分を超越した無限の時空にまで視野を引き延ばすことができる意識との二重性によって構成されています。エネルギー問題に軸足を置いて再稼働に賛成する議論はどちらかと言えば前者を重んじる立場であり、恐怖心をどこまでも拡大して、それを根拠に脱原発の理想を唱える議論はどちらかと言えば後者を重んじる立場と言えるでしょう。両者はそれぞれが立っている生活上のポジションの違いに依拠している部分がありますから、もしかしたら永遠に交わらないのかもしれません。

私は、両者が少しでも交わる可能性を探るために、もし自分が事故のあった原発の至近距離に住んでいたら、果たして再稼働賛成派に回るだろうか、また、福島第一原発の建設や稼働にかかわっていた技術者だったらどうだろうか、などをあれこれ想定してみました。これは安易に答えが出ない問いです。当初は茫然として判断不能に陥るに違いありません。しかし一定の時間を経て、恐怖心や挫折感からある程度自由になり、冷静さを取り戻すことができた段階なら、やはりギリギリのところで再稼働賛成派に回るだろうと思います。理由はこれまで述べてきたとおりです。ただしこれはまったく私の個人的な述懐にすぎませんが。

第二。人類は核エネルギーというとんでもないものを手にしてしまいました。これは、ギリシャ神話に登場するプロメテウスによって、第三の火を与えられてしまったということを意味するでしょう(第一は火。第二は電気)。

核エネルギーがいかにすさまじいものであるかは、たとえば次のような単純比較によってとらえることができます。

1グラムのウランを核分裂させるのと、1グラムの石油を燃焼させるのとでは、発生エネルギーにどれくらいの差があるか。答えは、前者が後者の800万倍です。現時点での原子力発電では、原子炉から蒸気タービン、発電機とプロセスを経ることによってその効率がどんどん下がり、全エネルギーの1%ほどしか電気を取り出すことができません。それでも化石燃料に比べて5万倍から10万倍の威力があることになります。今後、原発技術を発展させれば、この利用効率はもっともっと高めることができます。

よく言われるように、科学というのは人類一般の幸福実現を根拠に成立しているのではなく、物事をどこまでも追求せずにはいられない欲望中毒存在としての人間の本性にもとづいています。ですから、こういうとてつもないものを手中にしてしまったのは、いわば人類の業のようなものです。人類は、今後、たとえば核融合技術の実用化などを実現できない限り、核分裂反応というエネルギー源をけっして手放さないでしょう。

西部邁氏の最近の発言の受け売りになりますが、こういう人間の現実を、オプティミスティックに語るのではなく、私たちの宿命としてペシミスティックに受け入れ、それを前提として物事を決断していくほかはないのです。それが生きるということです。

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