*以下の論考は、小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」からの転載です。いわゆる「科学信仰」に振り回されない家族の在り方とはどのようなものなのかについて、和辻哲郎の『倫理学』を援用しながら、考察を深めています。
「本当の父親」って何?
冒頭に掲げたのは、昨年評判になった映画『そして父になる』の一画面です。
ご承知の通り、この映画は、5歳まで愛情を注いで育てた子どもが「実の子」ではなく、病院で取り違えられたことを知らされ、それから夫婦の苦悩が始まるという設定です。
実は私、この映画を見そびれてしまいました。ですので、詳しい展開や結末を知りません。でもテーマにはずっと関心を抱いていたので、DVDが発売されていたら買おうと思って注文したところ、4月発売予定ということです。ずいぶん先の話で残念なのですが、見るのはそれまで我慢することにしました。
本来なら、映画を見てからこの文章を書くべきなのですが、映画の内容いかんにかかわらず、「ほんとうの父親」という問題について現時点での考えを発表することはできますから、それを書いてみます。DVD発売を待ちきれなくなったというのが本音です。
現代の科学技術はたいへん高度な水準に達しています。なかでも、人物特定にかかわるDNA鑑定は近年その精度が飛躍的に高まり、犯罪捜査や拉致問題などにも利用されていることは周知の事実です。遺骨、毛髪、体液などのほんの少しのサンプルがあるだけで、当人をめぐる血縁関係が特定できるわけですね。
この鑑定法は、夫が妻の浮気や不倫を疑って「ほんとうに俺の子なのか」という疑惑が生じた場合や、遺産相続をめぐって兄弟姉妹間で争いが生じた場合などで、一つの決着をもたらすための有力な手段としても活用されているようです(数としてはそれほど多くないでしょうが)。
しかし、この「決着」なるものが、果たして当人たちを心から納得させるものなのかどうか、まして、「決着」があったからと言って、当人たちのどちらかあるいは両方に、これまでよりも将来の幸せを約束してくれるものなのかどうか、ということになれば、これははなはだ疑わしい。新しいトラブルの起爆剤にならないとも限りません。
2014年1月、次のような興味深い(と言ってはご本人たちに失礼ですが)新聞記事が載りました。全文転載します。
DNA鑑定「妻と交際相手との子」、父子関係取り消す判決
(朝日新聞デジタル版 2014年1月19日05時00分)
DNA型鑑定で血縁関係がないと証明されれば、父子関係を取り消せるかが争われた訴訟の判決で、大阪家裁と大阪高裁が、鑑定結果を根拠に父子関係を取り消していたことがわかった。いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例だ。
訴訟は最高裁で審理中。鑑定の精度が急速に向上し、民間機関での鑑定も容易になるなか、高裁判断が維持されれば、父子関係が覆されるケースが相次ぐ可能性がある。最高裁は近く判断を示すとみられ、結果次第では、社会に大きな影響を及ぼしそうだ。
争っているのは、西日本の30代の夫婦。2012年4月の一審・大阪家裁と同年11月の二審・同高裁の判決によると、妻は夫の単身赴任中、別の男性の子を妊娠。夫は月に数回、妻のもとに帰宅しており、実の子だと疑っていなかった。
その後、妻と別の男性の交際が発覚。妻は夫に離婚を求め、子と交際男性との間でDNA型鑑定を実施したところ、生物学上の父子関係は「99・99%」との結果が出た。妻は子を原告として、夫との父子関係がないことの確認を求めて提訴。「科学的根拠に基づいて明確に父子関係が否定されれば、父子関係は取り消せるはずだ」と主張した。
民法772条は「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出〈ちゃくしゅつ〉推定)と定めている。この父子関係を否認する訴えを起こせるのは夫だけで、しかも、子の出生を知ってから1年以内に限られている。
今回のケースはこれにあてはまらないうえ、「夫がずっと遠隔地で暮らしている」など、明らかに夫婦の接触がない場合は772条の推定が及ばないとする、過去の最高裁判例も適用されない事案だった。家裁の家事審判は、あくまで夫と妻が合意した場合に限り父子関係の否定を認めるが、今回はそれもなかった。
夫側は父子の関係を保ちたい考えで「772条が適用されるのは明らか。子への愛情は今後も変わらない」と主張。民法の規定や従来の判例、家裁の実務を踏襲すれば妻の訴えが認められる可能性はないはずだった。ところが一審の家裁は「鑑定結果は親子関係を覆す究極の事実」として妻側の訴えを認めた。二審の高裁は子どもが幼く、妻の交際相手を「お父さん」と呼んで成長していることなども考慮。家裁の結論を維持した。(田村剛)
◆キーワード
<嫡出推定> 民法772条は、妻が身ごもった時、夫の子と推定すると定めている。妻が夫に隠して別の男性の子を身ごもった場合も、この規定により法律上は親子となり得る。父を早く確定することが子の利益になるとの考えからだ。ただ、この規定ができたのは血縁の有無が科学的に証明できなかった明治時代。DNA型鑑定で血縁関係を確認するケースは想定されていなかった。
いかがですか。
この記事には、「いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例」と書かれていますが、さらに「異例」な印象を受けるのは、夫が訴えているのではなく妻のほうが原告代理で、「科学的根拠」を使って夫と離婚し、交際相手とその子どもと共に新しい家族を作ろうとしている動機が見える点です。しかも最高裁で争うということは、夫のほうが妻の不貞を知り、「根拠」を突き付けられてもなお判決を不服とし、控訴、上告していることを意味しますね。
特異といえば特異であり、また当事者間には、外からはうかがい知れない複雑な事情があるので、軽々しく倫理的な判断は下せません。しかし野次馬的に言うなら、時代も変われば変わるもの、離婚への妻の意志の強さ、婚姻関係・家族関係に対する夫の執着の強さだけはうかがえるでしょう。夫側の主張にある「子への愛情」というのがはたして本物なのか、それとも形式にこだわっているだけなのか、あるいは自分を裏切って幸せになろうとしている妻への復讐心が根元のところにあるのか。想像はいくらでもたくましく膨らみます。ただ心配なのは、こんな争いに終始している間にどんどん子どもは成長していくのに、その子の人生を二人がどこまで真剣に配慮しているのかという点です。
さて私がここでひとまず指摘しておきたいのは、現代人の「科学的根拠」なるものについての異様なまでのこだわりについてです。このこだわりは、こうしたプライベートなケースに限らず、今日、他のあらゆる場面で物事の決着のための最終根拠として重宝されています。医療分野、原発問題、環境問題、経済問題、日々の健康美容……。何か問題を感じたり意見が対立したり判断に迷う場合、必ず駆り出されてくるのが、「科学さま」という神様です。あたかも古代中国において亀甲の罅の入り方によって政治的な決断をしたように。いや、この卜占によるほうがまだましかもしれない。人知ではうかがい知れないことを神々の定めにゆだねるという謙虚な自覚があったのですから。
では「科学さま」という神様によって万事が解決するのかといえば、それはとんでもない。ある問題をめぐって、どちらも「専門的」「科学的」という看板を使いながら、まったく反対の主張をして譲らない例は腐るほどありますね。
私は、この科学万能主義にもとづく判断や行動の少なからぬ部分が、良識と寛容とよき慣習によって成り立っている社会関係を破壊する大きな作用を持っているのではないか、と考えています。もちろんこう言ったからといって、万人をよく説得しうる真の科学的精神を否定するものではまったくありません。「科学さま」のお札をかざしさえすれば、それを主体的に疑いもせずに安易に信じ込んでしまう現代の風潮こそが問題なのです。信仰が宗派の数だけ多様であるのと同じように、現代の科学教の乱戦模様もすさまじいものがあります。なおこの問題については、まもなく発売(2月17日)になる雑誌『表現者』53号掲載の拙稿をご参照ください。
話を「ほんとうの父親」問題に適用してみましょう。
DNA鑑定によって法的な判断を下すという場合、その背景にある私たち共通の観念とは何か。それは「血がつながっている」ということですね。では「血のつながり」とは何か。これはふつう、妊娠は男女の性交によるという生物学的な因果関係の知識に基づいています。DNA鑑定がこれほど威力を持つというのも、この知識があればこそです。だれもこの「科学的」知識の力を疑おうとはしていません。それどころか、冒頭に掲げた『そして父になる』においても、次に掲げた新聞記事の中身においても、私たちのいざこざ、煩悩、苦しみが、この「血のつながり」を疑いえない絶対の真実と前提するところから生まれてきていることは明らかです。
「ほんとう」とはこの場合、「性交→妊娠」という生物学的な事実を唯一のよりどころにして成立しています。特に、父親は母親に比べて「ほんとうに私の子か」という疑いを持ちやすい条件の下におかれていますね。いや、大病院で出産することが多くなった現代では、まれとはいえ、母親だってこの疑いを持つ可能性があるわけです。
さて性交→妊娠という生物学的な因果関係を根拠としたこの「ほんとうの子」という観念は、疑うに値しないでしょうか? この「ほんとう」は本当でしょうか?
昔から、お前は私の実の子どもではないと聞かされた人が心理的な動揺をきたして、「ほんとう」の親はどこで何をしているのか探索する気持ちに駆り立てられるという話がよくあります。ずいぶん前に流行った「ルーツ」探しなども、同じですね。当人の気持ちはよくわかりますが、これって科学がもたらした近代人特有の過剰なオブセッション(強迫観念)に思えて仕方がないのです。
私は、生物学的な事実そのものを疑えといっているのではありません。また、文明のある段階からは、どの社会でも、「性交→妊娠」という因果論理が基礎となって家族が営まれてきた歴史を否定するつもりもありません。いわんや、血縁などただの幻想だから捨ててしまえなどと、ひところのフェミニズムみたいなことを言いたいのでもありません。
ただ、この生物学的な事実だけに依拠して婚姻の秩序や家族的な人倫の慣習が成り立っていると限定してしまうと、もし「科学」が、ある婚姻関係や家族関係においてこの事実の存在を否定し、ほとんどの人がそれに納得してしまったら、これまでの夫婦、親子の生活の共同過程そのものはすべて無意味ともなりかねない。それでもいいのですか、と問いたいのです。
何が婚姻や家族にまつわる秩序、人倫意識を成り立たせているのか。それは「血がつながっている」という科学的な「知識」ではありません。
かつて「生みの親より育ての親」とよく言われました。また、江戸期から明治時代までは、養子縁組が当たり前でした。これらの言葉や事実を媒介している根本のところには、もちろん「血のつながり」の観念があります。これらの言葉や事実は、社会の現実が必ずしもその観念どおりには貫かれてはいないので、そうした実態に即したカウンターあるいはサブの役割を担っていたのでしょう。
しかし、実際にそういう言葉や事実が生きていてそれを多くの人が受け入れるということは、人々が生物学的な事実の知識そのものよりも、むしろそれに先立って、「夫婦」や「親子」という社会的な認知の関係を大切にしていることを示しています。この認知の関係が成立するためには、必ずしも生物学的血縁の事実を絶対の必要条件としてはいません。「この子は婚姻関係を結んだ私たちの子ども」という男女相互の「信憑」と、それに対する周囲の社会的「承認」があれば足りるのです。この当事者の「信憑」と周囲の「承認」があるからこそ、物心ついた子どもも、「自分のお父さん、お母さんはあの人」として疑わず、そのいのちの行く末をその人たちにゆだねるのです。少し乱暴かもしれませんが、これは、ペットが家族同然となる例などを見ればわかりやすいでしょう。
この信頼関係が揺らぐような契機さえなければ、鑑定の必要なども生じないわけで、家族を営む以上は、夫婦、親子の信頼関係が揺らがないような努力が必要とされます。そのためには、時には余計なことは言わずに黙っていたり、しらを切りとおしたり、嘘をついたりする必要もあります。私がこれまで見聞してきた中でも、だれかが子どもに「真実」なるものを教えてしまったために、家族関係に深刻な亀裂が入ってしまった例、逆に、黙りとおしていたために何とかうまくやりおおせた例などがあります。
ギリシャ悲劇の最高傑作『オイディプス王』では、主人公は「お前は父を殺し母と交わるであろう」というアポロンの不吉な予言が的中したことを知らされます。それを知ってしまった一番の原因は、他ならぬオイディプス自身の、「真実」追究へのあくなき情熱です。そのことを悟った彼は、「見ようとすること」が呼び込む不幸に打ちひしがれ、われとわが両眼を突き刺すのです。
「知らぬが仏」とはまさにこのことです。
以上述べてきたことは、人間の関係、人間の社会が、もともと、何か絶対の「真実」というようなものによって支えられているのではなく、「そうである」という相互の信憑、あるいは「そういうことにする」という相互の約束によって成り立っていることを示しています。思想家の吉本隆明は、これを「共同幻想」と呼びました。そう、ラディカルな言い方をすれば、人間の社会は「幻想」によって動いているのです。
しかし「幻想」といってしまうと、「幻想というからには、幻想ではない真実なるものの存在があらかじめ想定されていることになるではないか」という反論がただちに返ってくるでしょう。ですからこの言い方は確かに誤解を招きやすい。
幻想といっても、個人の妄想ではなく、ある共同世界に共有されている幻想には、それなりの必然性と根拠があるのです。ですから、共同幻想というよりは、「共同観念」と言い直すべきでしょう。
すべてとは言いませんが、人間がともに生きていくために、「共同観念」のあるものは、なくてはならない価値を持っています。では、親子関係、血縁関係という「共同観念」が性交→妊娠という単なる生物学的な「知識」によって生かされているのではないとすれば、それは何によって維持されているのでしょうか。
答えはすでに述べたとおり、婚姻という約束と承認から生じた「私たち夫婦の子」という信憑であり、また、その信憑に息を吹き込み続けているのは、実際の生活の共同過程なのです。『そして父になる』における、福山雅治演じる野々宮良多は、余計なことを知らされて悩む必要などなかったのです。
この認識は、何ら私のオリジナルではありません。昭和十七年、なんと今から七十年以上も前に、哲学者・和辻哲郎によってほとんど同じことが、しかもはるかに周到に書かれています(『倫理学』第三章・人倫的組織)。一節をひきましょう。
母親はその子が自分の体内の細胞から生育し出でたということを、何らかの仕方で直接に知っているというわけではない。彼女はその産褥の苦しみや哺乳の世話を通じてその子の間に関係を作るのであり、従って血縁の関係は彼女の自覚的な存在に属する。それを証するために我々は次のような極端の場合を考えることができる。もし出産の直後に、偶然の出来事によって、何人もそれに気づくことなく嬰児が取り換えられるとしたならば、そうして母親がそれを己の子と信じて哺乳を続けたならば、その母子の間には血縁関係が体験せられるであろう。(中略)かく見れば、血のつながりと言われるものは、生殖細胞によって基礎づけられるのではなく、逆に主体的な存在の共同にもとづいて成立し、後に生殖細胞によって説明せられるに過ぎぬのである。母親は胎児との間にすでに存在の共同を設定している。従って現前の嬰児が生まれ出たその胎児であると確信している限り、たといそれが他の児であっても、同じき存在の共同を続けうる。
(中略)
父と子との間の血縁に至っては、それが事実上の物質的関係に基いて初めて成立するのでないことは一層明白である。父は夫として妻への信頼を持つ限り、嬰児が彼の子であることを確信する。彼の身体のある細胞が事実上この子の原因となっているかどうかは、父子関係の成立を左右するものではない。もちろん父と子との間には肉体的類似の見いだされるのが通例であるが、しかしこれに基いて初めて父子関係が成立するのではない。逆に父子関係がかかる類似を見いださしめるのである。これに反して、夫が妻への信頼を持たぬ場合には、たとい事実上彼の細胞が生育して嬰児となったのである場合にでも、それを彼の子として確信することはできない。
和辻が言うとおり、「ほんとうの父親」は、「事実上の物質的関係」=遺伝子の同一性を意味するのではなく、妻への信頼にもとづく「自分の子である」という確信の上にこそ成り立つのです。
この記述で何とも鮮やかなのは、「類似」の問題すらも、生物学的父子関係の「証拠」と考えずに、父子関係の承認が逆に「似ている」という把握を導き出すのだと主張している点です、なるほど、生物学的血縁であっても、いっぽうあるいは両方の親にちっとも似ていない子というのはいくらでもあり、そういう場合に人々はふつう、似ていないことを根拠に「あれはほんとうの子ではない」などと騒ぎ立てたりしません。信頼の揺らぎが生じた時に初めてそういうことが問題とされるのです。じっさい、他人の空似ということもよくあることですし、逆に類似の問題をDNAがかなり決定づけると仮定したとしても、夫婦両者のアマルガムによって、両方に似ない顔が出現することは大いに考えられるでしょう。
近代科学・技術の偉大な成果を私は否定しません。特に乳幼児死亡率の激減、貧困からの脱却、資源・食料の確保、災厄に対する防衛、快適で豊かな生活の保障などに近代科学・技術が大いに貢献したことは争うことのできない重要な事実です。
しかし行き過ぎは何ごとも人を仕合せにしません。いったい、「科学さま」の一出先機関に過ぎないDNA鑑定を唯一の頼みとして、「ほんとうの父親」なる観念に金縛りになり、そのことによって、つつがない生活の平穏さを自らかき乱すような振る舞いが良識のあるふるまいと言えるでしょうか。
先の新聞報道の例では、つつがない生活の平穏さが通っていたとはもともと言えないので、当事者の意志についてどうこう言うつもりはありません。また裁判所が、結果的に原告である妻側の離婚要求を認めることになったとしても、それはそれで仕方がないことでしょう。
問題は、よき慣習に見合った普遍的な良識に立脚すべき法曹界の判断が、形式上の生物学主義にひたすら根拠を求めている点です。これはいかにも安直であり、「人間」を考えないわざと言うしかありません。「近代」の諸価値をけっして盲信してはならないという教訓がここからも得られると思うのですが、いかがでしょうか。
「本当の父親」って何?
冒頭に掲げたのは、昨年評判になった映画『そして父になる』の一画面です。
ご承知の通り、この映画は、5歳まで愛情を注いで育てた子どもが「実の子」ではなく、病院で取り違えられたことを知らされ、それから夫婦の苦悩が始まるという設定です。
実は私、この映画を見そびれてしまいました。ですので、詳しい展開や結末を知りません。でもテーマにはずっと関心を抱いていたので、DVDが発売されていたら買おうと思って注文したところ、4月発売予定ということです。ずいぶん先の話で残念なのですが、見るのはそれまで我慢することにしました。
本来なら、映画を見てからこの文章を書くべきなのですが、映画の内容いかんにかかわらず、「ほんとうの父親」という問題について現時点での考えを発表することはできますから、それを書いてみます。DVD発売を待ちきれなくなったというのが本音です。
現代の科学技術はたいへん高度な水準に達しています。なかでも、人物特定にかかわるDNA鑑定は近年その精度が飛躍的に高まり、犯罪捜査や拉致問題などにも利用されていることは周知の事実です。遺骨、毛髪、体液などのほんの少しのサンプルがあるだけで、当人をめぐる血縁関係が特定できるわけですね。
この鑑定法は、夫が妻の浮気や不倫を疑って「ほんとうに俺の子なのか」という疑惑が生じた場合や、遺産相続をめぐって兄弟姉妹間で争いが生じた場合などで、一つの決着をもたらすための有力な手段としても活用されているようです(数としてはそれほど多くないでしょうが)。
しかし、この「決着」なるものが、果たして当人たちを心から納得させるものなのかどうか、まして、「決着」があったからと言って、当人たちのどちらかあるいは両方に、これまでよりも将来の幸せを約束してくれるものなのかどうか、ということになれば、これははなはだ疑わしい。新しいトラブルの起爆剤にならないとも限りません。
2014年1月、次のような興味深い(と言ってはご本人たちに失礼ですが)新聞記事が載りました。全文転載します。
DNA鑑定「妻と交際相手との子」、父子関係取り消す判決
(朝日新聞デジタル版 2014年1月19日05時00分)
DNA型鑑定で血縁関係がないと証明されれば、父子関係を取り消せるかが争われた訴訟の判決で、大阪家裁と大阪高裁が、鑑定結果を根拠に父子関係を取り消していたことがわかった。いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例だ。
訴訟は最高裁で審理中。鑑定の精度が急速に向上し、民間機関での鑑定も容易になるなか、高裁判断が維持されれば、父子関係が覆されるケースが相次ぐ可能性がある。最高裁は近く判断を示すとみられ、結果次第では、社会に大きな影響を及ぼしそうだ。
争っているのは、西日本の30代の夫婦。2012年4月の一審・大阪家裁と同年11月の二審・同高裁の判決によると、妻は夫の単身赴任中、別の男性の子を妊娠。夫は月に数回、妻のもとに帰宅しており、実の子だと疑っていなかった。
その後、妻と別の男性の交際が発覚。妻は夫に離婚を求め、子と交際男性との間でDNA型鑑定を実施したところ、生物学上の父子関係は「99・99%」との結果が出た。妻は子を原告として、夫との父子関係がないことの確認を求めて提訴。「科学的根拠に基づいて明確に父子関係が否定されれば、父子関係は取り消せるはずだ」と主張した。
民法772条は「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出〈ちゃくしゅつ〉推定)と定めている。この父子関係を否認する訴えを起こせるのは夫だけで、しかも、子の出生を知ってから1年以内に限られている。
今回のケースはこれにあてはまらないうえ、「夫がずっと遠隔地で暮らしている」など、明らかに夫婦の接触がない場合は772条の推定が及ばないとする、過去の最高裁判例も適用されない事案だった。家裁の家事審判は、あくまで夫と妻が合意した場合に限り父子関係の否定を認めるが、今回はそれもなかった。
夫側は父子の関係を保ちたい考えで「772条が適用されるのは明らか。子への愛情は今後も変わらない」と主張。民法の規定や従来の判例、家裁の実務を踏襲すれば妻の訴えが認められる可能性はないはずだった。ところが一審の家裁は「鑑定結果は親子関係を覆す究極の事実」として妻側の訴えを認めた。二審の高裁は子どもが幼く、妻の交際相手を「お父さん」と呼んで成長していることなども考慮。家裁の結論を維持した。(田村剛)
◆キーワード
<嫡出推定> 民法772条は、妻が身ごもった時、夫の子と推定すると定めている。妻が夫に隠して別の男性の子を身ごもった場合も、この規定により法律上は親子となり得る。父を早く確定することが子の利益になるとの考えからだ。ただ、この規定ができたのは血縁の有無が科学的に証明できなかった明治時代。DNA型鑑定で血縁関係を確認するケースは想定されていなかった。
いかがですか。
この記事には、「いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例」と書かれていますが、さらに「異例」な印象を受けるのは、夫が訴えているのではなく妻のほうが原告代理で、「科学的根拠」を使って夫と離婚し、交際相手とその子どもと共に新しい家族を作ろうとしている動機が見える点です。しかも最高裁で争うということは、夫のほうが妻の不貞を知り、「根拠」を突き付けられてもなお判決を不服とし、控訴、上告していることを意味しますね。
特異といえば特異であり、また当事者間には、外からはうかがい知れない複雑な事情があるので、軽々しく倫理的な判断は下せません。しかし野次馬的に言うなら、時代も変われば変わるもの、離婚への妻の意志の強さ、婚姻関係・家族関係に対する夫の執着の強さだけはうかがえるでしょう。夫側の主張にある「子への愛情」というのがはたして本物なのか、それとも形式にこだわっているだけなのか、あるいは自分を裏切って幸せになろうとしている妻への復讐心が根元のところにあるのか。想像はいくらでもたくましく膨らみます。ただ心配なのは、こんな争いに終始している間にどんどん子どもは成長していくのに、その子の人生を二人がどこまで真剣に配慮しているのかという点です。
さて私がここでひとまず指摘しておきたいのは、現代人の「科学的根拠」なるものについての異様なまでのこだわりについてです。このこだわりは、こうしたプライベートなケースに限らず、今日、他のあらゆる場面で物事の決着のための最終根拠として重宝されています。医療分野、原発問題、環境問題、経済問題、日々の健康美容……。何か問題を感じたり意見が対立したり判断に迷う場合、必ず駆り出されてくるのが、「科学さま」という神様です。あたかも古代中国において亀甲の罅の入り方によって政治的な決断をしたように。いや、この卜占によるほうがまだましかもしれない。人知ではうかがい知れないことを神々の定めにゆだねるという謙虚な自覚があったのですから。
では「科学さま」という神様によって万事が解決するのかといえば、それはとんでもない。ある問題をめぐって、どちらも「専門的」「科学的」という看板を使いながら、まったく反対の主張をして譲らない例は腐るほどありますね。
私は、この科学万能主義にもとづく判断や行動の少なからぬ部分が、良識と寛容とよき慣習によって成り立っている社会関係を破壊する大きな作用を持っているのではないか、と考えています。もちろんこう言ったからといって、万人をよく説得しうる真の科学的精神を否定するものではまったくありません。「科学さま」のお札をかざしさえすれば、それを主体的に疑いもせずに安易に信じ込んでしまう現代の風潮こそが問題なのです。信仰が宗派の数だけ多様であるのと同じように、現代の科学教の乱戦模様もすさまじいものがあります。なおこの問題については、まもなく発売(2月17日)になる雑誌『表現者』53号掲載の拙稿をご参照ください。
話を「ほんとうの父親」問題に適用してみましょう。
DNA鑑定によって法的な判断を下すという場合、その背景にある私たち共通の観念とは何か。それは「血がつながっている」ということですね。では「血のつながり」とは何か。これはふつう、妊娠は男女の性交によるという生物学的な因果関係の知識に基づいています。DNA鑑定がこれほど威力を持つというのも、この知識があればこそです。だれもこの「科学的」知識の力を疑おうとはしていません。それどころか、冒頭に掲げた『そして父になる』においても、次に掲げた新聞記事の中身においても、私たちのいざこざ、煩悩、苦しみが、この「血のつながり」を疑いえない絶対の真実と前提するところから生まれてきていることは明らかです。
「ほんとう」とはこの場合、「性交→妊娠」という生物学的な事実を唯一のよりどころにして成立しています。特に、父親は母親に比べて「ほんとうに私の子か」という疑いを持ちやすい条件の下におかれていますね。いや、大病院で出産することが多くなった現代では、まれとはいえ、母親だってこの疑いを持つ可能性があるわけです。
さて性交→妊娠という生物学的な因果関係を根拠としたこの「ほんとうの子」という観念は、疑うに値しないでしょうか? この「ほんとう」は本当でしょうか?
昔から、お前は私の実の子どもではないと聞かされた人が心理的な動揺をきたして、「ほんとう」の親はどこで何をしているのか探索する気持ちに駆り立てられるという話がよくあります。ずいぶん前に流行った「ルーツ」探しなども、同じですね。当人の気持ちはよくわかりますが、これって科学がもたらした近代人特有の過剰なオブセッション(強迫観念)に思えて仕方がないのです。
私は、生物学的な事実そのものを疑えといっているのではありません。また、文明のある段階からは、どの社会でも、「性交→妊娠」という因果論理が基礎となって家族が営まれてきた歴史を否定するつもりもありません。いわんや、血縁などただの幻想だから捨ててしまえなどと、ひところのフェミニズムみたいなことを言いたいのでもありません。
ただ、この生物学的な事実だけに依拠して婚姻の秩序や家族的な人倫の慣習が成り立っていると限定してしまうと、もし「科学」が、ある婚姻関係や家族関係においてこの事実の存在を否定し、ほとんどの人がそれに納得してしまったら、これまでの夫婦、親子の生活の共同過程そのものはすべて無意味ともなりかねない。それでもいいのですか、と問いたいのです。
何が婚姻や家族にまつわる秩序、人倫意識を成り立たせているのか。それは「血がつながっている」という科学的な「知識」ではありません。
かつて「生みの親より育ての親」とよく言われました。また、江戸期から明治時代までは、養子縁組が当たり前でした。これらの言葉や事実を媒介している根本のところには、もちろん「血のつながり」の観念があります。これらの言葉や事実は、社会の現実が必ずしもその観念どおりには貫かれてはいないので、そうした実態に即したカウンターあるいはサブの役割を担っていたのでしょう。
しかし、実際にそういう言葉や事実が生きていてそれを多くの人が受け入れるということは、人々が生物学的な事実の知識そのものよりも、むしろそれに先立って、「夫婦」や「親子」という社会的な認知の関係を大切にしていることを示しています。この認知の関係が成立するためには、必ずしも生物学的血縁の事実を絶対の必要条件としてはいません。「この子は婚姻関係を結んだ私たちの子ども」という男女相互の「信憑」と、それに対する周囲の社会的「承認」があれば足りるのです。この当事者の「信憑」と周囲の「承認」があるからこそ、物心ついた子どもも、「自分のお父さん、お母さんはあの人」として疑わず、そのいのちの行く末をその人たちにゆだねるのです。少し乱暴かもしれませんが、これは、ペットが家族同然となる例などを見ればわかりやすいでしょう。
この信頼関係が揺らぐような契機さえなければ、鑑定の必要なども生じないわけで、家族を営む以上は、夫婦、親子の信頼関係が揺らがないような努力が必要とされます。そのためには、時には余計なことは言わずに黙っていたり、しらを切りとおしたり、嘘をついたりする必要もあります。私がこれまで見聞してきた中でも、だれかが子どもに「真実」なるものを教えてしまったために、家族関係に深刻な亀裂が入ってしまった例、逆に、黙りとおしていたために何とかうまくやりおおせた例などがあります。
ギリシャ悲劇の最高傑作『オイディプス王』では、主人公は「お前は父を殺し母と交わるであろう」というアポロンの不吉な予言が的中したことを知らされます。それを知ってしまった一番の原因は、他ならぬオイディプス自身の、「真実」追究へのあくなき情熱です。そのことを悟った彼は、「見ようとすること」が呼び込む不幸に打ちひしがれ、われとわが両眼を突き刺すのです。
「知らぬが仏」とはまさにこのことです。
以上述べてきたことは、人間の関係、人間の社会が、もともと、何か絶対の「真実」というようなものによって支えられているのではなく、「そうである」という相互の信憑、あるいは「そういうことにする」という相互の約束によって成り立っていることを示しています。思想家の吉本隆明は、これを「共同幻想」と呼びました。そう、ラディカルな言い方をすれば、人間の社会は「幻想」によって動いているのです。
しかし「幻想」といってしまうと、「幻想というからには、幻想ではない真実なるものの存在があらかじめ想定されていることになるではないか」という反論がただちに返ってくるでしょう。ですからこの言い方は確かに誤解を招きやすい。
幻想といっても、個人の妄想ではなく、ある共同世界に共有されている幻想には、それなりの必然性と根拠があるのです。ですから、共同幻想というよりは、「共同観念」と言い直すべきでしょう。
すべてとは言いませんが、人間がともに生きていくために、「共同観念」のあるものは、なくてはならない価値を持っています。では、親子関係、血縁関係という「共同観念」が性交→妊娠という単なる生物学的な「知識」によって生かされているのではないとすれば、それは何によって維持されているのでしょうか。
答えはすでに述べたとおり、婚姻という約束と承認から生じた「私たち夫婦の子」という信憑であり、また、その信憑に息を吹き込み続けているのは、実際の生活の共同過程なのです。『そして父になる』における、福山雅治演じる野々宮良多は、余計なことを知らされて悩む必要などなかったのです。
この認識は、何ら私のオリジナルではありません。昭和十七年、なんと今から七十年以上も前に、哲学者・和辻哲郎によってほとんど同じことが、しかもはるかに周到に書かれています(『倫理学』第三章・人倫的組織)。一節をひきましょう。
母親はその子が自分の体内の細胞から生育し出でたということを、何らかの仕方で直接に知っているというわけではない。彼女はその産褥の苦しみや哺乳の世話を通じてその子の間に関係を作るのであり、従って血縁の関係は彼女の自覚的な存在に属する。それを証するために我々は次のような極端の場合を考えることができる。もし出産の直後に、偶然の出来事によって、何人もそれに気づくことなく嬰児が取り換えられるとしたならば、そうして母親がそれを己の子と信じて哺乳を続けたならば、その母子の間には血縁関係が体験せられるであろう。(中略)かく見れば、血のつながりと言われるものは、生殖細胞によって基礎づけられるのではなく、逆に主体的な存在の共同にもとづいて成立し、後に生殖細胞によって説明せられるに過ぎぬのである。母親は胎児との間にすでに存在の共同を設定している。従って現前の嬰児が生まれ出たその胎児であると確信している限り、たといそれが他の児であっても、同じき存在の共同を続けうる。
(中略)
父と子との間の血縁に至っては、それが事実上の物質的関係に基いて初めて成立するのでないことは一層明白である。父は夫として妻への信頼を持つ限り、嬰児が彼の子であることを確信する。彼の身体のある細胞が事実上この子の原因となっているかどうかは、父子関係の成立を左右するものではない。もちろん父と子との間には肉体的類似の見いだされるのが通例であるが、しかしこれに基いて初めて父子関係が成立するのではない。逆に父子関係がかかる類似を見いださしめるのである。これに反して、夫が妻への信頼を持たぬ場合には、たとい事実上彼の細胞が生育して嬰児となったのである場合にでも、それを彼の子として確信することはできない。
和辻が言うとおり、「ほんとうの父親」は、「事実上の物質的関係」=遺伝子の同一性を意味するのではなく、妻への信頼にもとづく「自分の子である」という確信の上にこそ成り立つのです。
この記述で何とも鮮やかなのは、「類似」の問題すらも、生物学的父子関係の「証拠」と考えずに、父子関係の承認が逆に「似ている」という把握を導き出すのだと主張している点です、なるほど、生物学的血縁であっても、いっぽうあるいは両方の親にちっとも似ていない子というのはいくらでもあり、そういう場合に人々はふつう、似ていないことを根拠に「あれはほんとうの子ではない」などと騒ぎ立てたりしません。信頼の揺らぎが生じた時に初めてそういうことが問題とされるのです。じっさい、他人の空似ということもよくあることですし、逆に類似の問題をDNAがかなり決定づけると仮定したとしても、夫婦両者のアマルガムによって、両方に似ない顔が出現することは大いに考えられるでしょう。
近代科学・技術の偉大な成果を私は否定しません。特に乳幼児死亡率の激減、貧困からの脱却、資源・食料の確保、災厄に対する防衛、快適で豊かな生活の保障などに近代科学・技術が大いに貢献したことは争うことのできない重要な事実です。
しかし行き過ぎは何ごとも人を仕合せにしません。いったい、「科学さま」の一出先機関に過ぎないDNA鑑定を唯一の頼みとして、「ほんとうの父親」なる観念に金縛りになり、そのことによって、つつがない生活の平穏さを自らかき乱すような振る舞いが良識のあるふるまいと言えるでしょうか。
先の新聞報道の例では、つつがない生活の平穏さが通っていたとはもともと言えないので、当事者の意志についてどうこう言うつもりはありません。また裁判所が、結果的に原告である妻側の離婚要求を認めることになったとしても、それはそれで仕方がないことでしょう。
問題は、よき慣習に見合った普遍的な良識に立脚すべき法曹界の判断が、形式上の生物学主義にひたすら根拠を求めている点です。これはいかにも安直であり、「人間」を考えないわざと言うしかありません。「近代」の諸価値をけっして盲信してはならないという教訓がここからも得られると思うのですが、いかがでしょうか。
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