美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

2014年01月16日 20時26分41秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その3)

『葉隠』は人間通の書である
ここまで、三島が『葉隠』をどう読んだのかについて話してきました。ここからは、やや肩の力を抜いて、私が『葉隠』をどう読んだのかについて話してみたいと思います。

そのまえに、『葉隠』の話者としての山本常朝について、その人生のあらましを述べておきましょう。

前回にちょっとふれたことですが、山本常朝は、主君の死に殉じる覚悟を決めていたのにもかかわらず、それを実現することが叶わなかった人物です。その詳細について、三島由紀夫が要領よくまとめていますので、それを引くことにしましょう。

常朝は、佐賀藩主鍋島家第二代光茂という殿様に仕えた人で、幼少より四十二歳まで側近に奉仕した。先祖代々鍋島藩に功績があり、常朝自身も主君の厚い信任を受けていた。当然五十歳にもなれば家老にもなり、国政の重鎮になるべき人であったが、(一七〇〇年定朝が――引用者補)四十二歳の時に主君が亡くなられたので、志を達することができなかった。常朝自身は主君に殉死する覚悟を決めていた。しかし鍋島茂光は天下に先んじて殉死をかたく禁止し、もし殉死をあえてするものがあれば、家名を断絶するという厳命をくだしたのである。わが身一身よりも家名を重しとする当時の風潮によって、常朝もついに殉死ができず、出家して隠遁生活にはいり、それから二十年後享保四年(一七一九年)十月十日に、六十一歳で世を去った。

三十代前半の田代又左衛門陣基(つらもと)が、隠遁生活をしていた常朝を訪ね、『葉隠』のもとになる聞き書きをしはじめたのが、常朝五十二歳のとき。それから七年の歳月を経て終了したとのことです。

常朝が、心の底から主君の死に殉じようとしていたことを疑うものは、私を含めてだれもいないでしょう。それが果たされなかったことを、常朝はどれほど無念に思ったことでしょうか。近代的な言葉使いをすれば、人知れず深い絶望と闘った煩悶の時期が長く続いたものと思われます。その過程で、定朝はおそらく自分の宿命を心静かに受け入れる諦念の心境に達したものと思われます。そうして、この世の「計りごと」や「さかしら」の虚しさが透けて見える、ニヒリズムすれすれの透明な視線を手中にしたような気がするのです。肯定的な言い方をすれば、人のこころがまるで手に取るごとくによく分かるようになった、ということです。だから、人の心を扱うことをめぐる常朝のアドバイスは、ことごとく的確なものとなります。そのことがよく分かる文章を引きましょう。少々長くなります。

人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切なる事にして、然(しか)も大慈悲にして、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。およそ人の上の善悪を見出すは易き事なり。それを意見するも易き事なり。大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益(やく)にも立たず。ただ徒(いたづ)らに、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云ふまでなり。そもそも意見と云ふは、先ずその人の請け容るるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂(じっこん)になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考え、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、云はずして思ひ当る様にか、又は、先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。されば殊の外仕にくきものなり。年来の曲(くせ)なれば、大体にて直らず。我が身にも覚えあり。諸朋輩(ほうばい)兼々入魂をし、曲を直し、一味同心に主君の御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに、恥をあたへては何しに直り申すべきや。

(訳)意見してその人の欠点を直す、ということはたいせつなことであり、慈悲心ともいいかえられる。それは、ご奉公の第一の要件である。ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやっていることに対して善悪をさがし出すということはやさしいことで、また、それについて批判することもたやすい。おおかたの人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それがうけいれられなければ、力が足りなかったとしているようだ。こうしたやり方はなんら役立たずで、ただいたずらに人に恥をかかせ、悪口をいうだけのことと同じ結果になってしまう。いってみれば、気晴らしのたぐいだ。意見というのは、まず、その人がそれをうけいれるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらのいうことを、いつも信用するような状態にしむけるところからはじめなければならない。そのうえで趣味の方面などからはいって、言い方なども工夫し、時節を考え、あるいは手紙などで、あるいは帰りがけなどに、自分の失敗を話しだしたりして、よけいなことを言わなくても思い当たるようにしむけるのがよい。まずは、よいところをほめたて、気分を引き立てるように心をくだいて、のどが渇いたときに水を飲みたくなるように考えさせ、そうしたうえで欠点を直していく、というのが意見というものである。意見というものは、ことのほかしにくいものといえる。だれにでも年来の悪癖みたいなものが身に沁みこんでいるので、そうすぐには直らないということは、私自身にもおぼえのあることだ。友だち一同、つね日ごろ親しくして、悪癖を直し合い、ひとつの心になってご奉公につとめるようになることこそが、ほんとうの慈悲心といえるだろう。それなのに、恥をかかせては、直るべきものも直らないことになってしまう。直るはずもないではないか。

いかがでしょうか。私は、常朝のアドバイスの言葉が、生きる環境の違いや時代の違いを超えて、わが心にじかに沁み通ってくる思いを禁じえません。ここには、教師が生徒と関わるときの、親がわが子と接するときの、職場の同僚と関わるときの、そのほか、現代におけるもろもろの人間関係における構え方の基本が語られているように、私には感じられるのですね。現実にはなかなかこんなふうにうまくいかないのでしょうが、こういうふうに人々と接することができたらそれに越したことはない、とは言えるのではないでしょうか。

常朝は、恋のあるべき形についても触れています。

(前略)この前、寄り合ひ申す衆に咄(はな)し申し候は、恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。歌に
   恋死なん 後(のち)の煙にそれと知れ つひにもらさぬ中の思ひは
これこそたけ高き恋なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。


これは、現代語訳を付けるまでもないでしょう。恋の究極の形は、忍ぶ恋である、と言っているわけですね。この構えが、命懸けで主君に仕える恋闕(れんけつ)の情に通じることになるのでしょうが、ここで申し上げたいのはそういうことではありません。

私は木や石ではないので、五〇半ばになるも、いまだに素敵な女性と接すると、心ときめくものがあります。しかし、若いころのようにそれをすぐに表に出して、相手との距離を縮める作業にいそしむ、という恋し方と一定の心理的へだたりを感じるようになりました。べつに格好をつけているわけではありません。そういうときめきをだいじに心のなかに慎ましく保っているほうが、なんとなく人間関係一般が良好に保たれ、日々を楽しく過ごすことがかなうという功利主義的な気づきが生じてきたのです。そういう心持ちに傾いてきた自分としては、常朝の「忍ぶ恋」が実にフィットするところがあるのです。

とはいうものの、私もひとりの荒凡夫にすぎません。どこでどう心のバランスが崩れるのかは保証の限りではないので、これ以上、たいそうな口は叩かないでおきましょう。そうそう。「煙仲間」とは、なかなかのユーモアのセンスですね。

常朝が、人情の機微を解する人間通、あるいは心の達人であることを示す文章を最後にもうひとつだけ引いておきましょう。

何がし立身御僉議(せんぎ)の時、この前酒狂(さけぐるい)仕り候事これあり、立身無用の由衆議一決の時、何某(なにがし)申され候は、「一度誤(あやまり)これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出来申すまじく候。一度誤りたる者はその誤を後悔いたす故、随分嗜(たしな)み候て御用に立ち申し候。立身仰せ付けられ然るべき。」由申され候。何がし申され候は、「その方御請合ひ候や。」と申され候。「成程某(それがし)受(うけ)に立ち申し候。」と申され候。その時何れも、「何を以て受に御立ち候や。」と申され候。「一度誤りたる者に候故請(うけ)に立ち申し候。誤一度もなきものはあぶなく候。」と申され候に付て。立身仰せ付けられ候由。

(訳)ある人物の栄転に関して審議しているとき、その人物が以前酒におぼれていたことがわかったので、栄転はさせないということが、みんなの意見で決まりそうになったさい、ある人がいうには、「一度あやまちを犯した者を、まったくみとめず捨ててしまわれては、すぐれた人物は出てこないものである。一度まちがった者は、そのまちがいを後悔するものだから、なにかとつつしんで、あんがいお役に立つようになるものだ。栄転をおおせつけられてよい。」ということを述べた。それに対してある人のいうには、「あなたが請け合うのか。」とのことであった。その人は、「もちろん私がりっぱに請け合いましょう。」といわれたそうだ。そのとき、だれもが、「どのような理由でもって請け合いなされるのか。」といったところ、その人は、「一度間違った者だからひきうけたのだ。あやまちのひとつもない者は、かえってあぶなくてしょうがない。」といわれたので、栄転のことをお命じになったということである。

またもや私事にわたって恐縮です。私は以前自塾を畳んで、知り合いの学習塾の専任講師として再スタートをした経験があります。その知り合いの塾長から「美津島くんは、一度失敗しているからなぁ」と否定的に感慨を漏らされたとき、私は、とても切ない思いをしました。お店を畳んだ経験は、だれに言われるまでもなく挫折あるいは失敗の経験として、わが胸に深く刻み込まれていました。そこを言われると、こちらは何も抗弁できずに、ひたすら押し黙って頭を垂れるよりほかは術がありませんでした。結局そこは、一年足らずで辞めました。もしも塾長から、『葉隠』のなかの「何某」のように「私は、美津島くんが一度失敗したからこそ雇ったのだ。その経験を生かして、頑張ってくれ」と言われたら、私は一念発起してその塾で頑張り抜いたことと思われます。心に疵を持つ者は、それを理解してくれ、それを肯定的に包み込んでくれるリーダーのために身命を惜しまず頑張り抜くものなのではないかと思われます。それを踏まえたうえで、文中の「何某」は、酒乱の前歴を持つ彼を登用することにしたのでしょう。そこが、人間通・常朝の琴線に触れることになり、書き留められることになったのではないかと思われます。

このように『葉隠』は、粗暴に死ぬことを推奨しているだけの単調な内容の書物ではありません。人生指南の書として、思いのほか懐が深くて興味深い内容満載の書物なのです。さすがに、三島が「最後のよりどころ」と絶賛しただけのことはあります。だからこそ、古典になりえたのでしょう。よろしかったら、あなたも紐解いてみてください。 (終わり) 
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三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その2)

2014年01月16日 12時39分08秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その2)

特攻隊は犬死か
前回、三島由紀夫にとって『葉隠』は、戦中・戦後を通じての「座右の書」であった、というより、戦後においてこそますますその存在は、三島にとって光を放つものとなった、という意味のことを述べました。

三島のそのような言葉は、実のところ極めて反時代的なものであって、戦後社会は『葉隠』をほとんど禁書として扱ってきたのも同然である、と言っても過言ではありません。そのことと平行して、戦後社会は、神風特攻隊を「もっとも非人間的な攻撃方法」とし、それによって命を失った「青年たちは、長らく犬死の汚名をこうむって」きました。最近は、『永遠の0』がベスト・セラーになることで、そういう空気になにがしかの変化が起こっているような気がしますが、ここに至るまでずっとそういう扱いがなされてきたのは歴史的な事実である、と申し上げてよろしいかと思われます。

そのことを踏まえたうえで、三島は、特攻隊がほんとうに犬死なのかどうかを『葉隠』の読み込みを通して突き詰めて考えています。それに触れる前に、『葉隠』のもっとも有名な箇所から引きましょう。その後に、現代語訳も添えておきます(笠原伸夫訳 『葉隠入門』所収)。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。我人(われひと)、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果(しおう)すべきなり。

(訳)武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死二つのうち、いづれを取るかといえば、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。″事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ″などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きるとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときには、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

言い方は表面上ごくあっさりとしているかのようですが、『葉隠』の話者としての山本常朝(じょうちょう)は、ここでとても微妙なこと、いいかえれば、ちょっとでも言い方がずれると受けとめられかたが違ってしまうようなことを、言葉を慎重に選びながらもなるべく率直に語ろうとしています。それを十二分に受けとめたうえで、三島は、こう言います。「人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない」と。いいかえれば、「死の形態には、その人間的選択と超人間的運命の暗々裏の相剋が、永久にまつわりついている」というのです。

この言い方のわかりにくさを踏まえたうえでのことと思われますが、三島は、さまざまな例を挙げて、読み手を説得しようとします。

例のひとつめ、「葉隠」の死。上の引用で暗示されているような死は、一見、強制された死とは無限に遠い、選ばれた死であるかのようです。しかし、三島はそうではないと言います。すなわち、「葉隠」は選びうる行為としての死へ向かって、わたしたちの決断を促そうとしているのではありますが、その促しの裏には、山本常朝という「殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている」というのです。いいかえれば、「選ぶ」という行為の積極的な価値を無に帰しかねないものとの相剋が、常朝の内面にはあったということです。ここで三島は、文学者らしい妄想を膨らまして世迷言を開陳しているわけではありません。次に引くのは、「葉隠」の文章であって、ほかのだれかの文章ではありません。

人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆んどへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり。

定朝はここで、次のように言っています。「人間の一生なんてほんとうに短いものだ。だから、好きなことをしてくらすがよい。夢のようにはかなく過ぎるこの浮世で、好きでもないことをして苦しい思いをして暮らすのは馬鹿げている。これは誤解されるとろくなことがないので、若い人びとへ語らずに終わった秘伝のようなもの。わたしは寝ることが好きだ。いまの自分の境遇にふさわしい形で、なるべく家の中にとじこもって、寝て暮らそうと思っている」

これは、たとえば、俳人・小林一茶が六〇歳のときに阿弥陀様に「これから自分を荒凡夫(あらぼんぷ)として生きさせてほしい」と願い出た心持ちに通じるところがあります。つまり、定朝はここで、ニヒリズムとすれすれのふうわりとした生の肯定感をすんなりと吐露しているのです。この構えがあってこそ、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死への覚悟の決め方が、豊かな身体性を伴った言葉として鮮烈にわたしたちに迫ってくるのではないでしょうか。

例のふたつめ、死刑。死刑は強いられた死としての極端な例であるかのようですが、三島によれば、「精神をもってそれに抵抗しようとするときには、それはたんなる強いられた死ではなくなるのである」。この視点は、三島が良質な文学的感性の持ち主であることを十分に物語っているのではないでしょうか。いいかえれば、三島はここで、文学なるものの存在根拠を、真正面からではなく側面から指し示しているのです。私はここに、福田恆存が「一匹と九九匹」という言葉で文学の本質を表そうとした心持ちに一脈通じるものを感じます。

例のみっつめ、自殺。これは、三島自身の死に方に大いに関わるものなので、私としても少なからず興味関心を喚起されます。三島は、「自由意思の極地のあらわれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、ついに自分で選んで選び得なかった宿命の因子が働いている」という言い方をしています。ここに、後の三島の死に様に関する予言的なものを読み取るのは、私だけではないでしょう。また、太宰治の死に様にも、その言い方が当てはまるように感じるのも、私ひとりではないでしょう。もっと言ってしまえば、すべての自殺に、その死を選び取ったひとびとの「宿命の因子」の所在を感じ取ることができるのではないでしょうか。私には、そのように感じられます。

例のよっつめ、病死。三島は、病死について「またたんなる自然死のように見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みずから選んだ死であるかのように思われる場合が、けっして少なくない」という言い方をしています。これで思い出すのは、私の母方の祖母のケースです。私事にわたって恐縮ですが、述べさせていただきます。祖母は、五〇年ほど前に胃がんで亡くなりました。まわりの人々は、当時その死をめぐって以下のような言い方をしました。

祖母は祖父とともに田舎でいわゆる万事(よろず)屋を営んでいました。だから祖母は、家事や客対応や業者とのやり取りや隣近所からの来客のもてなしで忙しくて、落ち着いてご飯を食べる時間的な余裕がほとんどなかった。で、その食生活のスタイルは、時間がちょっと空いたときにササッと済ますという形になってしまった。そのことが、胃がんにおおいに関係がある。まわりの人々は、そういう言い方をしたのです。そこには、自分の体をそっちのけにして、献身的によそ様のために働き続けた祖母の死を悼むひとびとの思いが込められていました。つまり、胃がんという病死は、いかにも祖母らしい死に方であるとひとびとは受けとめたのです(内輪ぼめのようで、あまり説得力がないのかもしれませんが、祖母は本当にとてもいい人だったのです)。

以上のように、死をめぐる選択性と不可避性・強制性の問題を具体例に即して検討したうえで、三島はこう述べます。

すなわち、「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強いられた死だと、厳密にいう権利はだれにもないわけなのである。問題は一個人が死に直面するときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかという人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかという問題である。

それを私なりに言いかえると、こうなります。すなわち、

ひとりひとりの死は、それがどのような形をとろうとも、100%の選択性や100%の不可避性・強制性として現象することはありえない。すべての死は、その両極の中間領域のどこかしらに位置する。その場合、問題として残るのは、人間としての尊厳を賭けた自由が、どこにどういう形で存する余地があるのか、ということなのである、と。それを三島流に「正しい目的にそうた死というものは、はたしてあるのだろうか」と言い直しても、基本は同じことでしょう。

三島は、『葉隠』の読み解きに即して、この問いに答えることはひとりの人間の判断を超えている、言いかえれば、それに答えようとすることは、「煩瑣な、そしてさかしらな」行為であると言います。その理由は端的に「われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである」と述べられます。これまでの死をめぐる三島の議論を基本的に是とするならば、この理由づけもまた是とされるよりほかはないでしょう。ここで、三島はとても微妙なもの言いをしています。

だからこそ「葉隠」は、生きるか死ぬかというときに、死ぬことをすすめているのである。それは決して死を選ぶことだとは言っていない。なぜなら、われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。われわれが生きているということは、すでに何ものかに選ばれていたことかもしれないし、生がみずから選んだものでない以上、死もみずから最終的に選ぶことができないのかもしれない。

三島は、死をめぐって何かを断言しようとしているわけではありません。むしろ断言しえないことをこそ、読み手に伝えようとしているようです。戦後思想批判の文脈に即するならば、戦後思想がひたすらに生の方向にのみ積極的な意義を見出し、死の問題を本腰を入れて考えようとせず、死の不可避性の問題と全身全霊で取り組んだ末に、決然として死に赴いた特攻隊員たちの秘められた胸の内に本気になって思いを致そうとしない態度の断定性・断言性に対して、三島は、生死観の根本から異議申し立てをしようとしているのです。『葉隠』のなかの「図に当たらぬは犬死などと」したり顔に言いたがる「上方風の打ち上がりたる武士道」とは、戦後思想にこそふさわしい形容である、という三島の声が聴こえてきそうです。「図に当た」る死とは、現代風に言い直せば、「正しい目的のために正しく死ぬ」ということであって、そういう主張は、空疎な不可能事であると、三島は言っているのです。

われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間としての尊厳を持っているということを(常朝は――引用者補)主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

「容赦ない」。この言葉ほど、「死」なるものにふさわしい形容句をほかに探すのはむずかしいような気がします。だからこそ、不可避的に有限性の意識を持った人間存在は、「死」に対して、ある姿勢を取らざるをえなくなる。″そのことの余儀なさにこそ、人間なるものの、言葉では言い表し難い尊厳が存する。そこに着目すれば、特攻隊を犬死であるなどとは、口が腐っても言えなくなる。そういう振る舞いは、死に直面しえない脆弱な思想の愚かしい不遜さにほからないない″と三島が言っているように、私の耳には響きます。これほどにまっとうな言葉を、一九六七年という戦後の真っ只中で表出しえた三島を、私は掛け値なしにたいしたものだと褒め称えたい。 (次回に続く)
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三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その1)

2014年01月12日 18時25分42秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その1)

戦中・戦後を通じての「座右の書」
三島由紀夫の「神学」について、あれこれと考えているうちに、『葉隠入門』を読むことになりました。その感想をお話しすることにいたしましょう。

話は、三島由紀夫が『葉隠』をどう読んだかということと、私自身が『葉隠』そのもののどこに興味を抱いたかということの、ふたつがあるかと思われます。とはいうものの、そのふたつをくっきりと分けるわけにはいかないような気がします。なぜなら、私は三島の導きによって、今回はじめて『葉隠』に接したので、自覚しないまま三島の目で『葉隠』を見ている可能性を否定できないからです。しかし、そのあたりの判断は、読み手のみなさまに委ねることにして、とりあえず話を進めましょう。

まず、三島が『葉隠』をどう読んだのか、について。それは、「三 「葉隠」の読み方」において、三島自身によって端的に語られています。三島は、その冒頭で次のように述べます(引用文中の「戦争」とは、むろん大東亜戦争のことを指しています)。

「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ブールジュの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨されていた。

戦時中に、保田與重郎の諸著作や『古事記』や『万葉集』がそういう扱いを受けたことは知っていましたが、『葉隠』もそういう類の本だったとは、今回はじめて知りました。そうであるのみならず、『葉隠』は、三島自身にとっても、因縁浅からぬ書物であることは、「プロローグ 「葉隠」とわたし」にはっきりと書き記されています。そこで、三島が戦時中に熱心に読んだ本として挙げているのは、レーモン・ラディゲの『ドルチェル伯の舞踏会』と上田秋成全集と『葉隠』です。そうして、ラディゲと秋声とが戦後座右の書ではなくなっていったのに対して、『葉隠』だけはそうではなかったというのです。

三島は、「戦争中から読み出して、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく『葉隠』一冊であろう」とまで言い切るのです。これは、三島「神学」を理解するうえで、聞き捨てならない重大発言です。さらに三島は、「葉隠」を、戦後文学のなかで深い孤独を感じ続けざるをえなかった自分自身の反時代的な立場の「最後のよりどころ」と評してさえもいます。戦後においてのほうが、むしろ「わたしの中で光を放ちだした」とも言っています。ここから私たちは、三島が感じ続けた戦後思想空間の圧力のすさまじさに思いを致したほうがよいかもしれません。それがいかに凡庸な思想に過ぎないものであったとしても、絶対多数を占めてしまった場合、そこにすさまじい力が生まれることになります。それにあえて抗しようとする者は、思想の身体性をできうるかぎり強靭なものにしておかなければ、その圧力に耐え抜くのは不可能です。

戦後思想を振り返りながら、三島は、次のように述懐します。

われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することができなかった。

ここで私たちは、桶谷秀明が『昭和精神史』で述べた、次のような言葉を思い出してよいかもしれない。

この(伊東静雄の日記に記された「昭和二十年八月一五日」の神話的なイメージの原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。                (本書103頁・『昭和精神史』より)

つまり戦後とは、引用文に即して形容すれば「八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人」の世界、いいかえれば、「すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人」の存在を隠蔽し続けてきた世界となりましょう。それゆえ『葉隠」は、戦後において、その存在を忘却してしまうべき忌まわしい呪われた書物という「禁書」の位置づけを得るに至ったという意味のことを、三島は述べています。だから、『葉隠』を語るという振る舞いは、三島にとって、戦後思想の盲点を突くという契機をおのずから含むことになるのです。『葉隠』は、戦後思想の主流がなかば無意識に避けて通ろうとし続けてきた「死」を真正面から論じた書物、ということになりましょう。
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先崎彰容・NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座 ――第二回 「つながり」方のゆくえ――

2014年01月10日 08時47分17秒 | 先崎彰容
NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座
       ――第二回 「つながり」方のゆくえ――
先崎彰容


前回の復習からはじめよう。私はこの場所で、現代は急速に「つながり」を求めている、そう結論づけた。理由はそれ以前にさかのぼる。現在の状況になる以前、私たちは「砂粒化」していた。

私たち一人ひとりは、自分を特別な存在だと思っている。他人に認めてほしいとも、考えている。だが特別な存在が「全員」いるとしたら、「特別」は消滅するではないか――こんな不思議な状況を、私たちは生きているのだ。そこに大災害と経済問題による不安が襲ってきた。すると今度は、私たちは急激に不安に身を寄せ合い「つながろう」としている、これが前回までの復習である。

ではこの「つながり」をどう評価したらいいのだろう。私なりの考えを言えば、次のようになる。まず「つながり」方にはおよそ三つのパターンがある。一つ目が国家。二つ目にデモ、そして最後がツイッターなどのパソコン上のメディアである。

私が第一を重視し、第二第三の「つながり」方に懐疑的なのは次のような理由からだ。まずデモとツイッターには二つの共通した特徴がある。それは集団化している時間が短いこと、そして興味関心が「そのまま」表現されてしまうことだ。より詳しく言いなおすと、ツイッターの特徴は、その場その場での即興的な興味関心をつぶやくことにある。つまり「時間」を置かず、その場の自分の湧き起こる興味を語る即興性にその特徴があるわけだ。だから次の関心に飛び移るまでが異常に「はやい」。

そしてこの特徴、同じ話題を短時間だけ共有することが、デモと同じだということに、気づくべきではないか。

さらに第二の特徴、即興的に、あるいは過激な行動で自分の興味関心を示すその示し方に、私はきわめて否定的なのだ。なぜと言って、その場で感じる自らの「感覚」は、そのままではどう考えても「意見」ではないからだ。一例を挙げよう。もし君が、有名な歌手になりたいと思い、そのための恋愛の歌詞を書いたとしよう。その歌詞がただただ「好きだ、好きだ」と連呼しただけだとして、果たして売れるだろうか?「作品」として成り立っているだろうか。

当たり前のことだ、若者の歌の大半は色恋沙汰か、あるいは自分がどれだけ悲しいかを歌おうとしている。ただそれが売れるか、売れないかはその言葉と音楽のもつ「作品性」、すなわち自分の思いを「工夫」して相手に伝える技術の有無にかかっているのだ。

そう思ってデモと、ツイッターを見てみる。この二つに共通するのは、上記の例でいうところの「作品性」の決定的な欠如だ。自分の思いを相手に伝える際の「工夫」がない。自分のことをダダ漏れで言って、相手は分かってくれると考えているのだ。

この刹那性と、ダダ漏れ性(?)――これほど怖ろしいものがあるだろうか。これほど、自己中心的なものがあるだろうか。自分の感情の好悪をいっぱしの意見(つまり善悪や真偽)であると取り違える醜悪さ。

今回の「ニッポンのジレンマ」において、もし仮に学者の意見に意味があるとすれば、それはこの「作品性」にあるのだ。自分をダダ漏れにしない、という気品と矜持、これが学者なのだ。

こうして考えてみてみると、「国家のカタチ」という抜き差しならない問題を、刹那的に考え、あるいは工夫を凝らさず自分の不平不満を大声で叫ぶことの恐ろしさが、見えてくるというものだろう。

第一の「つながり」方に私が期待を示し、拙著『ナショナリズムの復権』で「時間の積み重なり」の大事さを強調したのも、そういう意味からであった。

国家を考えるには、工夫と技術そして何よりも「時間」がかかるのだ――これが、今、忙しい現代社会を生きる私たちが、あえて古いことを学び、「遅く」行動することの意味なのである。(この項目、終了)

※以上の見解は、個人的なものであり、所属する団体等とは一切関係ありません。
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金子兜太という俳人 ―――荒凡夫(あらぼんぷ)と「生きもの感覚」

2014年01月05日 13時30分03秒 | 文学
金子兜太という俳人 ―――荒凡夫(あらぼんぷ)と「生きもの感覚」

昨年末、新宿のジャズバー・サムライに行ったときのこと。たまたま店主の宮崎二健さんと俳人のY・M女史と私の三人で俳句談義になりました。といっても、こちらは俳句に関してはずぶの素人同然。それに対して、お二人は俳句道に深く入り込んでいらっしゃる方々。で、私としては、俳句に関して自分がかねがね気になっていたことが、専門家から見て変ではないか、的外れではないかを確認するという形になりました。

私は、だいぶ酒量がかさんでいたので、勢いに任せて、おおむね次のようなことを言い放ちました。「芭蕉、蕪村よりも一茶の方が芸術表現としてレベルが低いという一般的なイメージは間違っているんじゃないか。もともと俳句は、和歌に反発して、それが使おうとしなかった漢語や卑俗な言葉をあえて大胆にその表現に取り入れることによって、言語芸術の一ジャンルとして出発したはず。その、雅に対してあえて俗を対置しようとする『俳の精神』を一茶なりに突き詰めたところに、あの一見平明な、ほとんど散文のような俳句があったのではないか。その意味では、一茶の俳業は、もっともっと評価されてしかるべきなのではないか…」。

私の素人くさい話を真摯に聴いてくれていた二人は、異口同音に「金子兜太(かねこ・とうた)」の名を挙げました。お前の言っているようなことをもっとちゃんと筋道立ててきちんと言っているから、彼をちょっと読んでみろ、というわけです。

それでインターネットでいろいろと調べてみたところ、次のような、彼の動画がありました。


総会記念講演 金子兜太さん(俳人) 2010.5.28


この動画は、2010年日本記者クラブ・第76回総会記念講演の模様を記録したものです。そのシャキシャキとした話しっぷりは、とても九〇歳の老人のそれとは思えないもので、それ自体驚異的と申し上げても過言ではありません。しかも、物腰に格式張ったところがまったくなくて、自由闊達で、しかも内容が面白いときています。

氏のスピーチでとくに感心した点をいくつか挙げておきましょう。

一つ目は、一茶の有名な句「やれ打つな蠅が手をすり足をする」についての氏の解釈です。この句は、通常、一茶の小動物に対する優しい心を強調して、「ハエを叩き殺したりしてはいけないよ。ほら、手をすり足をすって命乞いをしているじゃないか」という解釈がなされます。ところが氏の解釈は、それとはまったく異なります。

蠅というやつは、どっちが手で、どっちが足ということもないんでしょうけれども、四本足があるわけですね。この足の先端で全部のものを識別するんだそうでございます。ですから、ブーンと飛んでいって、私の頭にとまると、あ、これはハゲだとわかる。それから、ブーンと行って、あ、これは刺身だ、こういうふうにわかる。ブーンと行って、あ、これはクソだとわかる。そういうふうに四本の足の先端部でいつも識別している。

そのために、彼は暇があれば、ここを磨くのだそうでございます。ですから、一茶はそういう害を加えない男だというふうに蠅にもわかっていたらしいんでございまして、一茶の前でブーンと―――あのころはあたくさんおりますから―――きて止まった。一茶がそれをボーと眺めていると、蠅は安心してここを磨いている。つまり、先端の感度をよくしているわけでございますね。磨いてやってる。それをみて、ああ、やっているな、やっているなと、一句つくっているわけです。


ここで金子氏は、とても重要なことを言っています。氏によれば、人間の心の中には、自分たちがもともと棲んでいた森の中というふるさと、すなわち原郷があって、それを指向する本能の動きがある。それを氏は「生きもの感覚」と形容します。その「生きもの感覚」が、一茶の場合、生きものをそのままにみる視線になります。いいかえれば、一茶にとって、人間としての自分の命とそのほかの生きものの命とはどこかで等価なものであるという感覚がごく自然にある。そのことが、一茶に優れた生物学者の観察眼をおのずから授けることになった、というわけなのでしょう。

私は、自然科学の知見に著しく反するような芸術表現を高く評価しかねるところがあります。もう少し強く言えば、感情過多・感性オンリーの芸術表現を一流とは認めないのです。たとえば、ダリの諸作品を一級品として認めることを、私は躊躇します。あれは、一種のキッチュ感覚の産物にほかならないのではないでしょうか。同じことになりますが、(やや言い過ぎかもしれませんけれど)自然科学の知見をおのずから(無意識のうちに)踏まえていることは、ある芸術作品が一流のものであることの必要条件である、と考えるのですね。その点、金子氏の「蠅」の句についての解釈は、当句が一級品であることをおのずから指し示しています。別言すれば、当句についての先に述べた俗流の解釈は、当句を二級品扱いしてその価値を貶めるものである、とも申せましょう。

感心した点のふたつ目。それは、「娑婆(しゃば)遊び」と「荒凡夫」(あらぼんぷ)という言葉の魅力にまつわることです。一茶は、五〇歳のとき故郷に帰り二七歳のきくという女性と結婚します。そうして彼女との間に四人の子どもをもうけるのですが、四人とも死んでしまいます。そのなかの二番目のさとが疱瘡で死んだことに、一茶は大きなショックを受けて中風(脳出血のようなもの)になってしまい、半身不随となり言語障害を起こします。それで、温泉の主人をしていたお弟子さんが、彼を温泉に連れて行って、いまでいうところの温泉療法をするのです。そのおかげで、それらの症状が一年ほどして治ります。五九歳のときのことです。

その五九になったときに、正月のはじめに書いた句があります。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」という句を書いています。これは『ホトトギス」の俳人にいわせると、季語がないといって怒るでしょうけれども、そんなことは一茶にとっては問題じゃない。季語なんていうものも、生活に役立たない季語はいらないと、彼ははっきり書いています。平気で「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」と。娑婆遊びというのは、この世の中を遊んで暮らしたい、丸儲けだから、そういうことでございますね。

この句を虚心に読んでいると、治らないと思っていた憂うつな症状が嘘のようになくなって、心から素直に喜んでいる一茶の姿が、くっきりと誰の目にも浮びあがってきます。そこにたくまざるユーモアさえも感じられるのは、彼の「生きもの感覚」のなせる技なのでしょう。「娑婆遊び」、この言葉の心底朗らかな表情を、私はとても好ましいものと感じます。

翌年の正月、一茶は六〇歳になりました。心中なにかしら期するところがあったのでしょうか、メモ魔の一茶は、阿弥陀如来に対して「自分は荒凡夫として生きたい、ぜひ生かしてくれ」と祈願し、そういう意味のことを書きつけているそうです。

その荒凡夫とのはどんなことなんだろうと思いましたら、彼はこんなふうなことを言っている。自分は長年、ずうっといままで六〇年の間、煩悩具足、五欲兼備で生きてきた。つまり、欲の塊で生きてきた。こういう生き方をする人間のことを、彼は愚だという。自分は愚の上に愚を重ねてきた。「愚」という言葉を使っています。愚の上に愚を重ねて生きてきた。これ以上の生き方がない。とても心美しくとか、そんなことはとても無理だから、とにかくこの欲のままで生かしてください。それが「荒凡夫として生かしてください」ということだったんですね。

ごく平凡なことを言っているようですが、私は、一茶のこの無類の率直さを美しいと感じます。「荒凡夫」、良い言葉じゃありませんか。できうることならば、私もそうありたいと心底思います。無駄な知識をそれなりに身につけてしまったので、かなわぬ夢なのかもしれませんが。

まだまだ話したいことが出てきそうではありますが、さかしらな説明はいいかげんにして、そろそろここいらでひっこみましょう。よろしかったら、金子氏の小気味の良い話しっぷりに接してみてください。
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