美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

プエルトリコのデフォルト問題の核心とTPP問題の現状 (美津島明)

2015年08月05日 18時07分13秒 | 経済
プエルトリコのデフォルト問題の核心とTPP問題の現状 (美津島明)



まずは、プエルトリコのデフォルト問題についての報道のされ方を見てみよう。

プエルトリコがデフォルト…債務総額8兆円超
(読売新聞 8月4日(火)10時32分配信 )

【シアトル=越前谷知子】米自治領プエルトリコは3日、債務の一部を支払わなかったと発表し、デフォルト(債務不履行)に陥った。

債務総額は700億ドル(約8兆6800億円)超で、米国の自治体では2013年に財政破綻したデトロイト市(債務総額180億ドル超)を大幅に上回る財政破綻となる。

プエルトリコは3日までに期限を迎えた5800万ドル(約72億円)の債務のうち、62万8000ドルしか支払わなかった。米格付け大手ムーディーズ・インベスターズ・サービスのエミリー・レイムズ副社長は声明で「ムーディーズはこれをデフォルトとみなす」と表明した。

プエルトリコは高金利の「プエルトリコ債」を発行しており、米国の投資信託などが多く保有している。デフォルトに陥ったことにより、これらが償還されなくなる恐れがあり、金融市場への影響も予想される。


この記事を読んでみて、読み手に伝わるのは、プエルトリコが9兆円弱の債務不履行に陥ったこと、その規模は2013年のデトロイトを大幅に上回ること、米格付け大手ムーディーズ・インベスターズ・サービスがこれを問題視していること、金融市場への影響が懸念されること、などである。

読み手は、当然のごとく、先日までマスコミがしきりに取り上げたギリシャの財政問題に連想が働く。そうして結局は「財政破綻」という不穏なマジック・ワードだけが頭に残るという仕掛けになっている。財務省としては、さらなる消費増税の実施にとってプラス要因となるわけだ。

そこで、次の動画を観ていただきたい。ほんの数分間なので、気楽に観ていただけるのではないか。

【国家主権】通貨発行権の返上と自由貿易の例外、プエルトリコとTPPで見えたもの[桜H27/8/5]


三橋貴明氏の明快なコメントによって、事の真相がやっと明らかになる。すなわち、プエルトリコとギリシャとをつなぐキーワードは、通貨発行権の不在である。両国ともに通貨発行権を持たないがゆえに、債務不履行問題に直面しているのである。だから、通貨発行権を持つ日本にとって、両国の「財政破綻」問題は対岸の火事にすぎない。両国の「財政破綻」と日本の財政事情をつなぐ共通項はまったくと言っていいほどにないのである。プエルトリコの通貨発行権を握っているのはアメリカである。だから、プエルトリコでは、正真正銘の米国ドルが流通しているのである。これらの事実をしっかりと述べたうえで報道しないと、なにがなんだか分からなくなり、不安だけがあおられる。

読売新聞の例に見るごとく、確固たる経済観のない経済記事は、根拠のない悲観的ムードを醸成するだけなので、一般国民にとって、百害あって一利なしである。

次に、TPP交渉の現状について。自民党議員から、政府は「譲歩しすぎ」という不満が続出している。議員たちは、おもにコメと豚肉などの農業産品の関税をめぐっての不満を述べていて、それはそれで妥当なものであるとは思うが、政府が「譲歩しすぎ」なのは、農産品の関税だけではない。

政府は実は、医療保険、著作権の非親告罪化、訴訟などの裁判制度見直し(ISD条項)などですでにアメリカ側に譲歩しているようなのである。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7375.html

(アメリカ以外の)交渉参加国には、交渉内容の秘密厳守が義務づけられているので、その詳細は分からないが、安倍首相が「とにかく妥結することを最優先する」という基本方針なのだから、譲歩の実態が、目も当てられないほどにひどいものであることは容易に想像できる。

そういう情けないことになってしまうと思っていたので、私は、かねてよりTPP参加には断固反対の立場でありつづけてきた。が、日本政府はこれからまだ交渉に臨む気でいるという現実を踏まえるならば、三橋氏が言うごとく、「これ以上の譲歩はしない。これ以上の譲歩を強いられたならば、交渉離脱をする」という国会決議なり閣議決定なりをしたうえで、これからの交渉に臨むべきであるというのは、建設的な意見であると考える。しないとは思うけれど。

また、ニュージーランド側の農産品に関する関税の完全撤廃の主張について、甘利経産相が「過大な要求」などと苦言を呈しているが、その主張は、自由貿易の本義に即したものなので、苦言の根拠が薄弱である、という三橋氏のシニックな指摘は、むべなるかなというよりほかはない。

しかしそれにしても、安倍首相は、一方では愛国者面をしておいて、他方では、グローバル企業に国を売るようなマネを平気でしている、という現実は残る。その点、彼が尊敬する小泉元首相とそっくりである。安保関連法案とのからみでの、媚中・反日勢力の対安倍ネガキャンとの対抗上、同政権を擁護せざるをえないのではあるが、こんなふざけたマネをされてしまうと、とてもつらい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私」という意識のはじまりの物語  (美津島明)

2015年08月03日 00時36分30秒 | 文学
「私」という意識のはじまりの物語  (美津島明)



自分を他と明瞭に区別された「私」と認識しはじめたのはいつのことなのだろうか。そのきっかけはなんだったのだろうか。過ぎ去った時の静まりかえった薄暗がりをできるだけ川上までさかのぼってみよう。

そこにだけやわらかい光が当たっているかのようなひとつの鮮やかな情景が浮かんでくる。

三歳のころと思われる。当時のわが家は、長崎県佐世保市の、国鉄の踏み切りの近くの家の一角を間借りして住んでいた。生垣と汲み上げ式の手押しポンプの付いた深い井戸のある家だったと記憶している。そのころのことである。

午後のことだったと思う。私はそのとき家の中で母の帰りを待ちながらひとりでぽつんと遊んでいた。そうこうするうち、子ども心に結構長い時間が過ぎたような気がしはじめてきた。そういう気分に伴ってこころもとなさがどこからともなくしのびよってくる。

やがて、陽が傾き、すりガラスの窓の外が薄暗くなってきたように感じられた。すると、しのびよってきていたこころもとなさが急にふくらんで、渦巻くような不安に変貌しはじめた。母がいつ帰ってくるのか皆目見当がつかなくなって、自分を取り巻く世界がまったく未知のもののように感じられるのだった。箪笥の上に飾ってあったこけしまでもがこちらを冷たく見つめているような気がする。私は、母のいない世界にひとりぼっちでおいてけぼりにされたような気がしてきたのだ。

それでついふらふらと外へ迷いでることになった。すると、見慣れていたはずの踏み切りが、いつもよりうず高く感じられ、そこを渡って向こう側に行ってしまったらもう二度とこちら側、つまり母のいる世界に戻って来られなくなってしまうような感覚に襲われた。いいかえれば、こちら側が踏切の向こう側の世界から理不尽にも追い込まれてしまったように感じたのだ。

私は怖くなって一目散に家に逃げ帰り、部屋の隅で子犬のように震えていた。そんなふうにして自分なりに耐え忍び、しびれを切らしかかったところで、やっと母が帰ってきたのだった。私は母の姿を目にするとほどなく、こらえていたものがどっと噴き出してきて、涙があとからあとからどんどんあふれてきた。そうして、いかに自分が長い時間にわたって不当にも孤独に耐えることを余儀なくされたか、どうにもうまく言葉にできないまま、母にむしゃぶりつくように抗議しながら訴えるのだった。母は事態を直感的に察知したらしく、めずらしくしきりに「ゴメンね」を繰り返した。

そこから少しだけ時の流れを下ってみる。すると、ふたつめの情景が、群青色のトーンに染め上げられて浮かび上がってくる。

小学校一年生のときのことである。そのころ私は、玄界灘に浮かぶ対馬(つしま)の竹敷村という寒村に住んでいた。当時はいまと違って電力事情が悪く、しょっちゅう停電があった。その日は、夕方から停電になったと記憶している。いつものように、母が火をつけたろうそくを持ってきた。急に激しい雨が降りはじめ、雷が怒り狂ったように鳴り出した。母といっしょにしんみりとろうそくのゆれる炎をみつめているうちに、それまで一度も考えてみたことのない思いが湧いてきた。それを胸のうちにしまっておくことがどうにもできなくて、私はたどたどしい言葉で、それを母に伝えようとするのだった。

ゆらめくろうそくの炎の向こう側にいる母の姿は、いつの日かこの世から確実に消える。まだ仕事から帰ってこない父の姿も同じ運命にあり、隣の村に住んでいる「勝(まさる)じいさん」(母方の祖父)も同様である。つまり、自分は自分を思ってくれる人々を見送った後たったひとりでこの世に取り残される運命にある。それは到底受け入れがたいことであるが、どうやら逃れがたい絶対の真実でもあるようだ。そのどうしようもなさを、私はどうすればいいのだろうか。

そういう内容のことを子どもなりにぽつりぽつりと物語るうちになんだか無性に悲しくなってきた。そうして、次から次に涙があふれてきてどめどがなくなった。それを見るに見かねて、母がなんとか事態を収拾しようとするのではあるが、私はそれを振り払うかのように自分が感じたものに固執する物言いをするのだった。思えば、その前の年に、私をかわいがってくれた「お伝ばあちゃん」(母方の祖母)が亡くなっていて、子どもながらにそれをえらく切ながったことが、そのときの振る舞いに影を落としていたような気がする。

「私」意識のはじまりはいつのことだったのかと自問してみると、そういうふたつの情景がおのずと浮びあがってくる。それをふまえたうえで、「私」という意識にまつわって、次のようなことがどうやら言えそうである。

いずれの情景にも、「母の喪失」という事態がおおきく関わっているのである。

母の存在によって、世界は秩序を与えられ生きたコスモスを形成している。そこには、はっきりとした生の意味が満ち溢れているのである。ところが、「母の喪失」という抜き差しならない事態の観念が生じると、世界から生きた秩序が見る間に消滅し、それは一転してうそ寒くてよそよそしいものになり、むき出しのカオスが渦を巻いて生意識の根底をおびやかしはじめるのである。

そういう、世界の変貌が抜き差しならないものとしてわが身に迫ってきたとき、やむをえず、「私」という、世界に対する反射的な構えが生じることになったのではないだろうか。いいかえれば、「私」という意識の構え方は、母のあたたかいまなざしの届かないうすら寒いところで、孤独にふるえ、涙をにじませながら芽吹くことになったのではないかと思われる。

死の影の、唐突で圧倒的な押し寄せにかろうじて対峙しようとする身体性のただ中において、「私」は誕生したのではあるまいか。少なくとも、わが身を虚心にふりかえるならば、そういう基調において「私」があるというよりほかはあるまい。またそこに、死はいつも不条理な姿で到来するよりほかはない、という死をめぐる普遍性な契機がいささかながらでも織り込まれていることを認めていただけるとするならば、わが身に引き寄せた「私」意識の誕生の物語は、ほかのひとびとにとっても、いかほどかの意味がある、といいうるのかもしれない。

「私」は、生の秩序感覚をおびやかす死のイメージの押し寄せのただなかから、それに対する抵抗・違和の表出のプロセスにおいて生まれたのではあるが、生まれた姿のままで不可避的に死に向かい、やがてあらがう余地もなくそれに呑みこまれる。それと結局は同じことであるが、私は、「私」意識の誕生の瞬間に向かってゆるやかに成熟していく。あるいは、衰退してゆく。そういうふうに考えてみると、生の営みとはなんといじらしいことであるか、という感慨を私は禁じえない。私は実は、一生水槽のなかを泳いでいる金魚となんら変わるところがないのではなかろうか、とも思えてくる。

思えば、先に述べたふたつ目の情景から今日まで、四十年あまりの歳月が流れたことになる。そのときに第二の産声をあげた「私」に、四十年という歳月は何を新たに付け加えたのであろうか。あるいは、付け加えられたものなどなにもなかったのだろうか。その自問には、絶句という名の沈黙をもって答えとするよりほかにすべがないようにも思う。しかし、あえてその沈黙を言葉にするのならば、私は、次の詩句よりほかに思い浮かべうるものがない。

「ああおまえは何をして来たのだと・・・・
吹き来る風が私に云ふ」

             (中原中也『帰郷』より)


(初出『SSK REPORT』2006年12月号 今回改稿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TPPをめぐる、日本の政治や言論界の絶望的な状況――フェイス・ブックより (美津島明)

2015年08月02日 00時38分34秒 | 経済

TPPをめぐる、日本の政治や言論界の絶望的な状況――フェイス・ブックより (美津島明)



●五月十四日(木)「TPP問題について~アメリカの議員とロビイストは中身を見れるのに、日本の国会議員は誰も見れない不思議な条約~」(高木克俊・ASREAD)
http://asread.info/archives/1805

当論考によれば、TPP交渉の中身について、日本は守秘義務を負っているので、国会議員も関連業界団体もその中身を知りません。しかるに、米国の国会議員や関連業界団体は、その中身を当然のごとくに知っている、というのです。当論考が言うごとく、〈ポーカーで例えれば、自分は自分の側の手札も見られないのに、相手は相手自身の手札とこちらの側の手札を全て見られるような状況で勝負するようなもの。こんなルールでゲームに勝つなどまず不可能〉です。中身の分からない条約を、国会はどうやって承認すればいいのでしょうかね。また、TPP賛成論者は、中身の分からない条約にどうして賛成するのでしょうか。中身が分からないから賛成しようがないのでとりあえず反対する、というのが常識的な対応ではないのでしょうか。TPP賛成の識者たちよ、特に、プラグマティックなリアリストを自称する中道保守派よ、目の前の不条理な事態に対して知らんぷりをせずに、この疑問にちゃんと答えよ。

●五月二九日(金)「日本が報道しないTPP条項で米国議会が紛糾」(MAG2・NEWS)
http://www.mag2.com/p/news/16645

日本では、マスコミの執拗な翼賛報道によって「TPP参加は既定路線」というムードが支配的です。しかし、アメリカではいまTPPをめぐって激しい賛否論の応酬が繰り広げられています。アメリカは決して一枚岩ではないのです。賛成派は日本のそれと同じで、「自由貿易は素晴らしいこと。TPPは自由貿易を推進するもの」という論調が支配的です。反対派はこれまた日本のそれと同じく「TPPの本質は、自由貿易などではない。その主役は、知的財産であり、ISDS条項である」というもの。知的財産の保護は消費者主権を脅かし、ISDS条項は、企業による国家に対する訴訟が多発して国家主権を脅かす、と反対派は言います。私は反対論に与する者ですが、それ以前に、日本における、TPPをめぐる言論の無風状態が異様に映ります。

●七月十四日(火) TPP交渉「離脱も覚悟を」=党支持層にアピール―クリントン氏(時事通信) - Yahoo!ニュース 情報ソース【ワシントン時事】米民主党のヒラリー・クリントン前国務長官の発言(13日) *記事はすでに削除されている。

ヒラリーいはく、「(TPPの協定内容が)雇用を創出し、賃金を上げ、安全保障を増進するものなら支持すべきだが、そうでないなら(交渉から)抜けることも覚悟すべき」。日本の政治家で責任ある立場の人が、TPPの参加離脱に関してこのようにはっきりと、国民経済にとってプラスになるかどうかを基準として掲げたのを見たことがない。聞こえてくるのは「自由貿易はいいことだ」「規制緩和の起爆剤」「TPPは、日米同盟にプラス」「TPPは、中国包囲網」という空疎で根拠薄弱な声ばかりである。中身がはっきりしない毒まんじゅうの可能性が高いものを食べる理由などない、というのが常識的な考え方なのではなかろうか。

●七月十四日(火)TPP交渉、米国がカナダ抜きでの妥結も検討=関係筋 (ロイター)
http://jp.reuters.com/article/2015/07/10/usa-trade-canada-idJPKCN0PK2JA20150710

アメリカの、他国の食糧安全保障を無視した、はじめに合意ありき、の強硬姿勢が気にかかる。日本は、秘密交渉において、アメリカの強硬姿勢をなし崩し的に甘受し、自国の食糧安全保障体制をずたずたにしてしまっているのではないかと危惧する。

●七月二六日(日)<TPP>著作権、非親告罪化 社会や文化の萎縮懸念(毎日新聞 7月25日配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150725-00000071-mai-bus_all

ACTA問題として、ヨーロッパでは数年前から問題にされていたこと。ヨーロッパは、この問題に関しては、はっきりと拒否の姿勢を示している。日本のマスコミはこの問題を取り上げようとしてこなかったのだが、大筋合意の瀬戸際になってやっと申し訳ていどの触れ方をすることになった。むろんTPPの危険性は、これだけにとどまらない。要は、グローバル企業の利益追求のために、国家主権がおびやかされるという点にこそ、TPPの危険性の核心がある。交渉過程が秘密にされているので、それさえもいまだに明らかにされていない(アメリカの国会議員はその中身をすべて知っているのだが)。この、中身のはっきりしない毒まんじゅうを食べるべきだと主張するメディア、政治家、評論家はすべて無責任で愚劣である。TPPに参加すべき理由が、私にはいまだにさっぱり分からない。不参加にすべき理由なら、枚挙にいとまがないけれど。

●八月一日(土)「クリントン氏 TPP『国益を優先すべき』」(日テレNEWS24)
http://www.news24.jp/articles/2015/07/31/10305762.html

クリントン氏が優先すべきであるとする「国益」とは、「労働者の保護・賃金引き上げ・経済的な機会や安全保障上の国益増大」のことである。つまり、あくまでも一般国民や国家主権の立場からの「国益」なのである。これは、現在進行中のTPPが、あくまでもグローバル企業の利益を最優先させていることに対する批判なのである。

メディアは、TPP交渉に苦慮する甘利経産相の白髪頭ばかりを放映しているが、クリントンのTPP批判を掘り下げた報道を、私は寡聞にして知らない。端的に言えば、こんな馬鹿げた交渉など決裂してしまえと思っている。TPPは、日本の一般国民のためにも、国民経済のためにもならないのだ。TPPに参加して喜ぶのは、日本では、経団連くらいである。ここでひとつ、確実に当たる予言をしておこう。TPPに参加してから数年間で、消費税は10%を余裕で突破することになるだろう。なぜなら、内外のグローバル企業の圧力で、日本政府は、法人税をさらに下げざるをえなくなるものと思われるからである。

消費増税議論はなぜやまないのか。それは、財務省のコバンザメたちがのたまうように日本政府の財政が危機的状況にあるからなのではなくて、内外のグローバル企業の法人税引き下げの要求に、政府が抗しきれないからである。グローバル企業に対する減税分を、一般国民への増税で補う。それも、国民ひとりひとりの首根っこをつかまえた形で着実にいただく。それが消費税の正体なのである。むろん、異次元緩和を断行しているいまの日本に、財政問題なんてものはない。しかし、財政破綻論は、主婦の財布感覚の連想が働くから、国民を納得させやすいので捨てがたい。だから、マスコミを総動員して、このフィクションというか端的に言えばウソをまことしやかに年中行事のように垂れ流し続けるのである。

●八月一日(土)「TPP交渉大詰め 厳しい状況続く」(日テレNEWS24)
http://www.news24.jp/articles/2015/07/31/06305754.html

報道によれば、日本側に「攻め」の展開はまったくなくて、防戦一方である。こんなみじめな展開になっても、安倍首相の、TPP交渉にあたっての「とにもかくにも交渉の妥結を最優先せよ」という方針はどうやら生きているようである。国益をずたずたにされても、TPPの妥結がとにもかくにも大事であるということは、要するに〈TPPでアメリカの要求を呑まなければ、日本が中国の覇権主義の犠牲になっても、アメリカは知らんぞ〉というアメリカの脅しに屈していると解さなければ、とうてい理解できない。なんということか。これが、安保関連法案の裏側の事実なのである。

●八月一日(土)「TPP、合意見送り 新薬・乳製品の対立解けず」(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS01H16_R00C15A8MM0000/

大筋合意見送りを祝す。TPPという、グローバル企業に対する片務条約の交渉が決裂することを、私は天に祈りたい心境である。日経新聞の残念そうな論調が片腹痛い。

☆オバマ政権下でのTPP交渉の、これ以上の進展は、どうやらなさそうである。とりあえず、胸をなでおろす思いである。しかし、アメリカ・ウォール街の「日本獲り」の策謀はこれで終わりを告げるはずもなく、また、グローバル企業による国家主権の封じ込めの試みがこれで止むはずもない。これらの強欲資本主義勢力は、アメリカの国家機構を駆使してこれから第二、第三のネオTPPを執拗に仕掛けてくるはずである。また、TPPを俟たずとも、日本国内において規制緩和の波は次から次に押し寄せている。本来ならば、それに対する防波堤となるべき日本のマスコミや政党や識者たちの頼りなさはごらんのとおりである。ほっとしている暇はないのである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする