美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

文芸批評の復権のために  (美津島明)                        

2016年05月11日 13時58分25秒 | 文学
〔編集者記〕当方が、2011年に書いた文章です。ある短歌誌に載せていただきました。最近は、政治・経済や世界情勢に触れた文章がほとんどという状態ですが、実は人並み以上に文学に対する関心を抱き続けてきた者である、という思いがあります。その関心・こだわりの核心に存在し続けてきたのは、故・吉本隆明氏です。当拙論を書いた翌年11月にその吉本隆明氏が亡くなりました。でも、いまでも一日が終わった25時、心のどこかでぶつぶつと吉本氏と対話をしているような気分が抜け切れていません。心からの敬意を抱いていながらも、口を開けば文句ばかりたれて、あの世の氏をうんざりさせているにちがいありません。


吉本隆明氏

私は、日本の文芸批評の現状について、少なからず小首をかしげている者である。

まずは、そのきっかけについて。

二〇〇四年に発行された『日本近代文学評論選』(千葉俊二/坪内祐三編 岩波文庫上・下二冊)を早速購入して通読したときのことである。その丁寧な編集には一定の好感を持ったのだが、なにやら言い知れぬ違和感が残った。というのは、ページのどこをめくってみても、吉本隆明の文章はもとより彼に言及した一行もないからであった。本書は、一九五〇年代までの評論を載せている。だったら、せめて吉本の『転向論』(1958年)くらいは載せたっていいだろう、と思ったのである。ちなみに、吉本抜きに日本の近代文芸批評は語りえないというのは、誰がどう言おうと、いまのところ常識なのである。

それ以前に、私は『近代日本の批評 昭和篇上・下』(柄谷行人編 浅田彰・蓮見重彦・三浦雅史・野口武彦 福武書店一九九一年、後、講談社文芸文庫に)を読んで、日本のポスト・モダンの夜郎自大ぶりに目の前がかすむくらいに憤激していた。当然のことながら、吉本の扱いも雑になる。浅田の「ぼくは全然理解できない、なぜ吉本があんなに読まれたのか」などという本書中の能天気な発言は、その最たるものである。

別に自慢するほどのことではないのだけれど、私は、吉本思想に入れ込むことで半生を棒に振った者である。また、オウム事件以降における吉本の身の振り方に対して拭いがたい違和感を抱え続けている者でもある。お会いしたことはないのだが、好悪相半ばの感情を抱いていると言っていいのだろう。

だから、吉本思想を黙殺しようとしたり、その目分量を少なく見積もって相対的に自分たちの目方を実態より重く印象づけようとしたりする姑息な身振りには、身体が敏感に反応してしまう。

また、吉本思想について護教的なスタンスを保持し続ける動きに対しても、同様に反応してしまうのである。

ではどうするか、というので五年前に立ち上げたのが「日本近代思想研究会」だった。つまり、吉本思想に対する自分のアンビバレントな思いをあたうかぎり冷静に腑分けすることで、しかるべき場所に吉本思想を位置づける、というのが、当会を立ち上げた私の個人的なモチーフだったのである。

ところが、会の方向性がいつのまにかずれてきた。具体的に言えば、東京裁判問題に深入りするにしたがって、取り上げるテキストが文芸批評から遠ざかりはじめたのである。とはいうものの、そうなるにはそうなるだけの避けられない流れがあり、それを無理やり文学領域に引き戻すのははばかりがある。

そこで、同会とは別に今回「日本近代文芸批評を読む会」を立ち上げることにした。幸いなことに、「文芸批評なるものを根底からとらえなおしてみよう」という会の設立趣旨への賛同者を数名得ることがかなった。いわば同志である。

「読む会」として手始めに取り上げるのは、坪内逍遥の『小説神髄』である。サブ・テキストは『当世書生気質』。ごくオーソドックスな滑り出しということになるだろう。

本書を一読してみて率直に思うのは、今から一二六年前に書かれた本書における逍遥の近代認識は、私が想像していたよりも本格的である、ということだ。そのことについて二点触れておこう。

第一に、文体に関する基本思想について。逍遥は、文体論の冒頭で次のように述べている。

文は思想の機械(どうぐ)なり、また粧飾(かざり)なり。小説を編むには最も等閑(なおざり)にすべからざるものなり。脚色(しくみ)いかほどに巧妙なりとも、文をなさなければ情通ぜず。文字(もんじ)如意ならねば模写も如意にものしがたし。

その意を深く汲み取れば、小説の近代化はその文体の近代化を抜きにしては決して語りえないという基本思想の促しによって、逍遥は、本書で文体論を詳細に展開している、といえよう。その思想は、後の小林秀雄が、プロレタリア文学陣営の素材主義的な文学観を念頭に置きながら、文体の革新なくして思想の革新はありえない、文体こそが思想なのだと喝破したことの先駆けとしてとらえることができるだろう。

第二に、文体の分類について。逍遥は、文体を雅文体と俗文体と雅俗折衷文体とに大別する。さらに、雅俗折衷文体を稗史(よみほん)体と艸冊子(くさぞうし)体とに分ける。ここで、稗史体は「地の文を綴るには雅言七八分の雅俗折衷の文を用ひ、詞を綴るには雅言五六分の雅俗折衷文を用ふ」とされる。また、艸冊子体は「雅俗折衷文の一種にして、その稗史体と異なる所以(ゆえん)は、単に俗言を用ふることの多きと、漢語を用ふることの少なきとにあり」とされる。そのうえで、それぞれの文体の特色と強みと弱みとが豊富な文例を駆使して詳細に述べられるのである。

ここで、私がふと気づいたのは、「稗史体」と「艸冊子体」 とは、吉本が『言語にとって美とは何か』において日本近代文学を言語表出史として描くときにキー・ワードとして用いた「文学体」と「話体」とにおおむね相当するのではないか、ということである。

そう把握することによって、吉本の独創の産物であるかのように見えていたそれらの言葉が、実は日本文学の地下水脈に深く根ざしていることに私たちは気づく。このことは、思想を継承することの本質とか、真の独創性とはなにかとかいった議論と無縁ではないはずだ。先の小林秀雄についても同じことが言えるだろう。

古いからといってゆめゆめ軽く見てはならないのである。

これから、会でいろいろな文芸批評テキストを取り上げていくことになるのだろうが、気構えとしては、一度はあらゆる先入観をなるべくチャラにして、テキストを虚心に読み解くことで視えてきたものをひとつひとつ掴み取って行きたいと思っている。それを持続することが文芸批評の復権への細くて狭い道につながるのではないか、と信じたい。

最後になるが、これまでの小説中心の近代文学言説は、根のところから紡ぎ直されねばならないのではないか、という私なりの(身のほどを知らぬ大胆な)見通しがある。その場合、「短歌」が極めて魅力的なキー・ワードになるのは間違いないだろう。なぜなら、「短歌」という日本独特の文学ジャンルこそが、時枝誠記が『国語学言論』で展開した、「辞」が「詞」を包むという言語の本質をいわば身体性において自覚し、「こそあど」と格闘し続けてきた長い歴史を有するからである。近代批評は、ざっくりといってしまえば、その歴史の重みを軽く見すぎてきたのだ。そのツケを支払うべき主たる債務者はもちろん文芸批評の側なのだけれど、その不当性を歌壇の方々ももっと大声で訴えていただきたいものだ、と私は考えている。
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「協同組合」をその歴史から考えてみる(その2)(美津島明)

2016年05月04日 14時34分08秒 | 経済


はじめに、前回に述べたことを振り返っておこうと思います。

① 協同組合の定義は、国際協同組合同盟(ICA)によれば、「共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織」である。

② NPOとの共通点は、営利追求を目的とする組織ではないこと。相違点は、NPOが公益を実現し社会的な使命を達成するための組織であるのに対して、協同組合は、「組合員の生活向上」を目的とする組織であること。

③ 史上初の近代的協同組合「ロッチデール先駆者協同組合」は、イギリスで誕生した。産業革命をいち早く成功させた当時のイギリスには、産業資本主義の発達によって、資本家がますます富み栄え、他方、労働者・農民・中小事業者などの弱者がますます経済的に圧迫され窮乏化する、という時代状況があった。すなわち「階層分化の進展」や「階級対立の先鋭化」が生じた。それが、社会的経済的弱者による相互扶助組織としての協同組合の誕生を促した。

④ 製造業に従事する労働者たちは、劣悪な雇用環境と貧困にあえぐとともに、日常的に購入する食料や衣類などの生活必需品の品質の低下や価格高騰に悩まされていた。ひとりの消費者として微弱な存在でしかなかった労働者たちが、団結・連帯することによって、大手の小売業者の巨大なセリングパワーに対抗するバイイングパワーを獲得するために、協同組合を立ち上げた。それが、ロッチデール先駆者協同組合である。

では、次に移りましょう。

ドイツで生まれた信用組合
イギリスで誕生したロッチデール先駆者協同組合は、産業革命期の一八四四年に低賃金・長時間労働を余儀なくされた織物工二八名が、1人1ポンドを拠出して食料品や雑貨等を仕入れ、組合員に販売する活動をはじめることで誕生した、という出自からもうかがえるように生活協同組合の性格が色濃いものでした。

それに対して、金融機関の性格を持つ協同組合、すなわち信用組合は、十九世紀中ごろのドイツで生まれました。当時のドイツでは、イギリスより少し遅れて産業革命が起こりました。産業革命の成功は、生産力の飛躍的な向上をもたらし、資本主義経済が発展することになりました。

資本主義経済の浸透によって、生産設備を所有する資本家(ブルジョアジー)と自らの労働力を売ってそこで働く労働者(プロレタリアート)という階級区分が生じ、都市部では労働者や古くからの商工業者が、また農村部では農民が窮乏化し、貧富の差が拡大していきました。日本で昨年大いに話題になったピケティの言い方を借りれば、野放しにされた資本主義は格差の拡大をもたらす傾向がある、ということです。野放しにされた資本主義とは、法的政治的規制から解き放たれた資本主義、という意味です(そう考えると、規制緩和をまるで良いことであるかのように言い募る連中(構造改革論者)は、正気の沙汰ではありません)。

当時のドイツの銀行は富裕層である資本家のみを顧客としていたため、庶民は銀行取引から見放され、生活に必要な資金を得るには、高い利率で金銭を貸し付ける「高利貸し」に頼らざるを得ない状況に陥りました。その結果、彼らはさらに窮乏化することになりました。

このような悲惨な状況を打開するために、庶民の間で、銀行や「高利貸し」に替わる「自分たち」の金融機関を設立する気運が高まりました。それを受けとめる形で、都市部においてはヘルマン・シュルツェ・デーリチュが、農村部においてはフリードリッヒ・ウィルヘルム・ライファイゼンが、世界で初めての信用組合を設立しました。

それゆえ、シュルツェは「ドイツ市街地信用組合の父」ライファイゼンは「ドイツ農村信用組合の父」と呼ばれています。また、ライファイゼンは「三銃士」やラグビーの世界で使われていた「一人は万人のために、万人は一人のために」の標語を信用組合のモットーとして引用しています。これはいまに至るまで信用組合の精神として語り継がれています。

日本で1900年に誕生した「産業組合」のモデルはドイツの信用組合です。産業組合は、後の農業協同組合・信用金庫・生活協同組合の母体です。

ちなみに、ドイツの信用組合は、イギリスのロッチデール先駆者協同組合が定めた「ロッチデール原則」をもとに設立されています。ドイツの信用組合とイギリスのロッチデール先駆者協同組合とは、精神的に深いつながりがあるのです。同原則を以下に掲げておきましょう。なお同原則は、その後、ICAにおいて四度改定されました。

1.〔購買高による剰余金の分配〕剰余はそれを生み出したものに与えられるべきとの考え。
2.〔品質の純良〕諸物価が上がっても商品価格を上げられない場合、混ぜ物をいれたり重量をごまかしたりすることが多かった、という当時の社会状況を踏まえての規定。
3.〔取引は市価で行う〕適正な利益を得て剰余金を分配するための規定。
4.〔現金での販売制度〕当時の小売店での購買は掛け売りで行われており、多くの労働者は常に多額の負債を抱えていた。それゆえ、労働者を負債から解放するため、現金での取引を義務付けた。
5.〔組合管理での組合員の平等〕投票は、一人一票で委任不可という規定。
6.〔組合の政治的、宗教的な中立の原則〕
7.〔教育の推進〕

資本主義と協同組合
このように協同組合は、資本主義が発達し、商品経済や貨幣経済が社会のすみずみに浸透するなかで、社会的弱者である労働者・市民・農民・中小事業者が、自らの経済的地位の向上を図り、生活防衛をするために心と力を寄せて設立したものです。その思想や事業のあり方が多くの人々の共感を呼んで世界各地に普及していきました。

それゆえ協同組合と資本主義の発達とは切り離しえない関係にあるといえます。端的にいえば、資本主義の発達が協同組合という結社形態を生んだのです。

そこで気になるのは、資本主義とはいったい何なのか、その本質はいかなるものなのか、ということです。その議論抜きに協同組合を論じても、表層をなでるようなものにしかならないのではなかろうかという危惧が湧いてきます。

ということで、以下、資本主義の本質について論じます。一見迂遠なことをしているかのように感じられるかもしれませんが、上記のような思い・動機があることをご理解いただければ幸いです。

マルクス『資本論』の画期性と問題点
管見の限りでは、資本主義の本質について最も深いところに達した議論は、マルクスの『資本論』で展開されています。

念のために申し上げると、私はマルクス主義の立場に寄り添ってそう言っているわけではありません。私は、マルクス主義思想に寄り添うつもりはありませんし、ましてやマルクス主義者であったことなど一度もありません。つまり、イデオロギー抜きでそう言っているのです。

小暮太一氏は、『超入門 資本論』で次のように言っています。

「ぼくは大学で経済学を学び、実社会のルールを(なんとなく)感じ取りました。社会人になってからは、仕事の現場で、経済学の理論が当てはまっていることを確認できる場面がいくつもありました。そして、その経済学の中でも、今の日本経済の″ルール″を最も鋭く、かつ明快に示しているのが『資本論』だということに気づきました。(中略)『資本論』は、共産主義の経済学ではなく、資本主義経済の本質を研究している本です。『資本論』には、ぼくらが今生きている資本主義が、どんなルールで成り立っているかが書かれています。」

マルクスは、否定すべき対象である資本主義の本質を徹底的に究明しようとし、その試みに(ほかの誰よりもはるかに高い程度で)成功したのです。

といっても、いまだにマルクスの名を出すとアレルギー反応を示す人たちが少なくありません。それはとても残念なことではあるのですが、実は、その責任の一端はマルクス自身にあるのです。次に引くのは、資本主義経済の生成・発展・衰退のすじみちを展開した『資本論』第1章第7篇第24章第7節です。そこを引くことで、マルクスに対するアレルギーの惹起が避けえないことを説明しようと思います。

当節においてマルクスは、多数の直接的生産者が土地などの生産手段を収奪される本源的蓄積過程を経て、資本主義的生産様式が自律的に展開する段階に達した後、今度は、直接的生産者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家が収奪される(奪い取られる)段階を迎えることになる、と主張します。なるべく平易な言い方に変えて引きましょう。


「この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、すなわち、諸資本の集中によっておこなわれる。(中略)この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪の進展により、(中略)貧困・抑圧・隷属・堕落・搾取がますます増大するのと並行して、訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する。資本独占は、それとともに開花しそのもとで開花した生産手段の集中や社会化された労働の桎梏(足かせ)となる。生産手段の集中も労働の社会化も、資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘がなる。収奪者が収奪される。」


ここでマルクスは、資本主義の展開・発展は不可避的に社会主義革命による自らの終焉(しゅうえん)を招くと宣言しています。資本主義体制を擁護したい立場からは、どうにも呑みこみようのない議論が展開されているというよりほかはありません。

マルクスの『資本論』の画期性を十分に認めながらも、当節で展開された社会主義革命不可避論をいわば「勇み足」として退け、『資本論』から資本主義の原理を純化した形で取り出し、 『資本論』を万人のための知的宝庫・知的遺産として提示したのが、故・宇野弘蔵氏でした。次に宇野経済学に触れるべきですが、残念ながら紙面が尽きたようです。次回は、宇野経済学の目を通して浮かび上がるマルクスの議論の核心に触れましょう。(次に続く)

参考文献等
・ 信用組合の歴史 http://www.zenshinkumiren.jp/deai/deai_history.html 
・ Wikipedia「 ロッチデール先駆者協同組合」の項
・ 『協同組合理論の展開と今後の課題』(清水徹朗 農林金融2007.12)
・ 『超入門 資本論』(小暮太一 ダイアモンド社)
・ 「マルクス経済学における経済発展段階と政策」(太田仁樹)
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1736/1/r-kz-rn_051_04_005.pdf
・ 『資本論に学ぶ』(宇野弘蔵 ちくま学芸文庫)

(『SSK REPORT』2016年春号 所収)
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