私の戦争体験「8月2日、富山は天まで焼けた」

2021-08-15 | 歴史、

父の転勤で昭和18年頃、私共一家(父母と妹と私4才)は長崎から広島市に転居しました。

その頃には戦争の影響が子供心にも分かるくらいに顕著になってきていました。

社宅の庭には防空壕があり、空襲警報がなると「お結び」を持って急いでそこに入ったことを憶えています。

幼稚園にも行けないまま、2年後の昭和20年5月頃、母が7月に出産を予定していたので、母と妹と私は

富山と高岡市の間にある小杉町の母の実家に疎開を兼ねて引っ越しました。数か月差で原爆を免れたのです。

7月10日には弟が二人も自宅出産で生まれて叔母達が慌ただしく立ち回っていたことを憶えています。

祖母の家には従妹達も疎開してきていて、多い時には20人位で賑やかでした。

一方食料不足で栄養失調状態になっていたせいか、ある朝、柱に縋りつかないと

立ち上がれなくなったことがありました。おやつは庭になっている柿だけでした。

そうして弟達が産まれて1か月も経たない8月1日の夜の12時頃、物凄い爆音と閃光で目が覚めました。

近くの富山市内でB29による爆撃が始まったのです。弟達は泣くしその怖さで身が縮まりました。

10年ほど前に機会があって「8月2日、天まで焼けた」(奥田史郎さん・中山伊佐男さん著)と

いう本に出会いました。そこには大空襲の時の富山市内の悲惨な出来事が書かれていました。

あの2時間余りの雷よりひどい地響きと爆音と閃光の下で富山市内が炎熱と火風で

八方ふさがりの地獄の様な状態であったのを知りました。米軍の記録によると、184機ものB29が

容赦なく落とした爆弾は2時間余で1465トン。1坪あたり1キロの爆弾が、10数万の市民の頭上に

降り注ぎ、一晩で市内全域が焼き尽くされ死者は3千人に迫っていたたそうです。

爆撃の方法が市内を囲むように外側の東西南北から始まったので郊外へ逃げるようとする

市民の多くは炎熱で行く手を阻まれる状態であったそうです。

12才だった奥田少年の(大宅壮一氏の昌夫人の甥で大宅瑛子さんの従兄弟)

お母様は3才半になる妹さんを背中におぶって少し先を歩いていらしたそうですが、

こともあろうに直撃弾が頭に当たってその場で倒れられてお亡くなりになられたのです。

享年38才、医師で県の衛生課の技師であられたお父様との間に7人のお子様を残されて。

一方お母様の背中に負ぶわれていた妹さんは頭一つの差で無事であったと記してあります。

この爆撃は意図的に人員殺傷を目指していたのではないかという意見もあるそうです。

それにつけても、1945年3月10日の東京大空襲がどれだけ恐ろしく酷かったのかが想像出来ます。

下町を焼き尽くしたこの空襲での死者は11万5千人以上、爆撃被災者は約310万人,

損害家屋は約85万戸と一般市民に多大なる犠牲と被害を及ぼしています。

軍は勝つと思って始めた戦争なのでしょうが、ここまで犠牲が出て敗色濃い中でも降伏

しなかったのは国民を道連れに「一億玉砕」するつもりだったのかといつも疑問に思っています。

イタリアは1943年に、ドイツも1945年の5月始めに降伏しているので、せめて時を同じくして

降伏することが決断出来ていれば、その後の悲惨な爆撃も原爆の被害もなかったのではと

思いながら今年も終戦記念日を迎えました。