行雲流水の如くに

嘉納治五郎の目指したもの--柔術から柔道へ

嘉納治五郎は明治8年開成学校(東京大学の前身)に入学すると、粗暴で腕力自慢の悪ガキによくいじめられた。

非力のものでも大力に勝てる方法に柔術があると聞いて、修行に励むようになったという。

後年、次のように述べている。

「私はかって体も弱く、非常な癇癪もちですぐカッとなる性質であったが、柔術をやり始めて、体が丈夫になるにつれ精神も落ち着いてきて自制力がいちじるしく強くなったことに気付いた」

 

最近の教育に関する風潮は「脳力のあくなき追及」、それも記憶力偏重に偏っていないだろうか?

体を鍛えることによる知的レベルの向上を見落としているような気がする。

 

比較的暖かい日から急激に気温が低下すると樹氷が見られる。

枯れ木に花が咲いたような錯覚を覚える。

 

また次のようにも述べている。

「自分はこれ(柔術)をたんに技の優劣だけでなく心を修行する法にまでもち込みたいと考えた。なぜ相手に負け、なぜ相手に勝つことが出来たかを追求してその原理を発見し、原理よりして術に及ぼし、その原理の道を人生に生かしたいと願ったのである。

すなわち柔とは相手の力に抵抗せず、衝突の力を避け、敵の力の乗ずべきに乗じてこれを倒す術である。これを心の作用に応用するときは、例えば人と対論するのに相手が興奮し、いきり立ち、口角泡をとばしてくってかかってきた場合、こちらは静かにこれに対し、淳淳として道理を説けば、ついに相手を納得させ、説得できるというもので、これは勝利である。

そこで私は従来の柔術という名称を避け、私がやるのは柔道であると命名した」

 

実に明解である。この精神があまねく世界に広がればこの地球から争いごとはなくなるはずだ。

しかし残念なことではあるが、現実はますます争いごとが激化しているようだ。

だからと言ってあきらめてはいけないのだろう。

 

エゾユキウサギの足跡。

夜行性なので日中なかなか見かけることがない。足跡で活動状況を推測するしかない。


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