戦前は「国葬令」という法律があった。
しかし1947年限りで失効し、現状はその状態が続いている。
当たり前に考えれば、安倍元首相の国葬を行いたいのであれば法律を作るべきだ。
それが「法治国家」としての最低限の決め事だ。
法律を作ることが大変だという認識であれば、従来通りの内閣・自民党葬で行うべきだろう。
もし法律もなく強行するのであれば、ロシアのプーチンと何ら変わる所がない。
戦後、国葬がなされたのは1967年10月30日吉田茂元首相の葬儀だ。
葬儀副委員長の塚原俊郎総務長官(当時)は次のように述べた。
「根拠になる法律もなく苦労した」
異例ずくめの首相経験者の国葬はこれを最後に行われていない。
吉田茂元首相の場合、首相在任時より10年以上経過しており、戦後復興に力を尽くしたことは国民の大部分が容認するところであった。
それでも問題点は残ったのだ。
今回の場合、安倍元首相を取り巻く保守層が「国葬を」と望む気持ちは心情的に理解できる。
しかし根拠になる法律がないまま閣議だけで強引に行うことは、岸田政権にとって大きな禍根を残すことになる。
「悪法もまた法なり」という言葉がある。
ギリシアの哲人ソクラテスの言葉と言われている。
ソクラテスは、国家の神々を認めず若者を堕落させたという罪で告発され、裁判を受けて、死刑に処された。
友人たちは脱獄を勧めたのだが、ソクラテスは甘んじて毒杯を飲み干した。
「ある国家の下でその国家の法律に従って生き、その保護のもとにいた人間が、その法制度の下で下された決定を自分に納得いかなくても従わざるをえない」
悪法でも法だと認めるところから「法治主義」に裏付けられた「民主主義」が実現できる。
法に規定されていないことを実行することを何というべきか?
「暴政」の入り口に立っている危険な状態と指摘しておこう。