嬉々是好日 L`Atelier de Megummy since2000

行く先々でMIX犬疑惑を掛けられているビーグルならぬ、ぴーくる姉妹との徒然や、常が旅の途中な日々を綴っている備忘録

あなたの意思で歩めばよいのだと思う コト。

2008-03-21 | megummy's
スッタニパーダ、蛇の章の犀の角はね。
わたし、とっても自分自身を肯定してくれるって思えて好きなのだけれども。

ただただ、「犀の角のようにただ独り歩め」が続く中で。
唯一。

「かれとともに歩め」っていう45番の意味の深さと解釈の難しさに、いっつも悩みます…。

そして、その後に続く46番。

「しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、例えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め」

「得られない」のじゃなく「得ない」というのは、あくまでもただ独り歩む者の意思に拠るところが大きいってことだよね…?

得ることと、得ないことって、どっちが難しいのだろぉ~なんて、フト思っちゃう私は、とっても下世話だけれど(笑)

それだけに。得るものって、すっごく崇高で。高い目的に向かって協同することは賞賛されるんだと思うのね。その目的とは、やっぱり「悟る」ってコトに尽きるのだとは思うのだけれども。

ハナカラ。ちゅぅ~か、あたしは無理。って思う私は、文章をそのまま平読みして、その繰り返しに、その時々の答えを求めたりしてます。

学生時代に実習で1ヶ月を泊り込みで過ごした施設はね、キリスト教で。チャペルもあったり、毎日の礼拝があったり。デデンとおっきなマリア像の横には、マタイの福音書11章28節の。

「疲れた人、重荷を背負った人は、私のところに来なさい。私がやすませてあげます」

って書いてあって。

実は、ココの施設、私がまだ2歳か3歳の頃だと思うのだけれども、訪れたコトがあってねぇ。このマリア像だけは、しっかり記憶に残ってたりする場所で。

きっと、言葉がその意味を為すのはさ。
信仰する心があるから故の、ひたすらに信じることの揺るぎなさに尽きるんだろぉ~なぁ…。なんて思ってました。

結局のところは。
何に拠って、自分の歩む確かな道を。確信して歩くかってコトなんだと思うのよねぇ(笑)

迷いながら歩き続ける過程で、方向を見誤ったとしても。犀の角のように、ひたすらに前を向いて歩くことで、自ずと方向は定まるのではないかしら?

「休ませてくれるわたし」が居ないのはキツくもあるけれど(笑)

やっぱり、わたしは。

音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩みたいと思うのよね。

そんな歩いてく先でさ。賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば。その先は2人で歩けば良いのでしょう。そりゃぁ、あらゆる危難にうち勝って。喜んで歩き続けるって思うよ^^