めるつばうのおもうこと

めるつはミーム機械としてばうを目指します。

『秘密の知識』

2007-03-13 12:10:52 | art
ホックニー。
アーティストとしてのホックニーはよく知っているが、こんな本を著していたとは
まったくしらなかった。

アングル、フェルメール、ラファエロ。幾多の画家が鏡やレンズを使用して
対象をスケッチしていたという。
いくつもの検証。
パースペクティブのずれへの指摘。
たしかに、被写界深度を考えればこのずれや、ボケがでるのは当然だろう。
現在のカメラでもそうだが、かなりの光量を必要とする。スタジオでストロボを
たくのは当然のこと。しかし、現在なら光の回り加減を複数のストロボや
レフ版などで補正する。
それができない時代ではかなりの光を対象にあてなければならない。
したがって陰影の強い絵となる。
同時に背景はあとからかきたさなければならず、パースや光源のずれが生じる。

しかも、この鏡やレンズを使った手法はどこにも記述されていないという。
15世紀に広まったはずのこの手法は各々の画家たちの秘密の手法だったわけだ。

対比として扱われるウォーフォールの対象をスケッチする線の動きまで検証していく。

ひとつひとつがとても納得する。
ただ、文章やその装置が現存しないというところで”科学的”証明はなされない。
それでも、画家としてのホックニーがあればこそ信頼にたると思える。

職業画家としてはいうなれば肖像画は、写真と同じ。
量産しなくてはいけない。
この手法をとることを否定はしない。
この手の画家たちは素描をしないのでほとんど素描が現存しないという
符号もおもしろい。

ただ、私の個人的な好みからこの手の絵はきらい。
確かに精緻にかけているし、すばらしい。まねのできるものではない。
でもすきではないのはなぜか。
私は画家の視点が欲しいのだろう。目で見て描くことにより
情報の切捨て、拡大、何よりも心の動きが、その欲望や画家の内面が
見たいのだと思う。
もちろん、これらの絵にもそれはある。画題、構図、さまざまなものが
みえてくるはずだ。でもそれよりも精緻に描き表すことが優先されているから
どうしても霞んでしまうのだろう。
写真の登場によって絵画は精緻に写し取るという意味を失い現代のアートへと
遷移したというホックニーの考えには大いに共感する。
この本によって私の好きでない画家たちの理由がとても明白になった。
どこか感じていた違和感がすーーっと解決した。

そして、最近のコンピュータの出現まで言及していく。
イラレ、フォトショップに出現は今までどんなに練習してもできなかったことを
いとも簡単に現出させる。
そうなると、アートは純粋な思考になっていくのだろうか?


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2 コメント

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はじめまして (isi)
2007-03-19 16:06:00
ではないと思うのですが・・・いしです。めるつばうさん・・・ウチのblogでコメントをくださるめるつばうさん、ですか・・・?違っていたらごめんなさい。
偶然にここを発見しまして、思わず書き込みさせていただきました。

>アートは純粋な思考になっていくのだろうか

あとこの一文に惹かれて・・・
技術ではなく純粋な思考が問題になってくるフィールド。そのイメージは私にとって理想的なように思えます。
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いしさん、ようこそ (めるつばう)
2007-03-24 18:50:02
こんにちは。
めるつばうはめるつばうと同位体であることを確認しました。

いつもお邪魔しています。

このアートに対する現象はとても興味深いですね。
技術を修錬する必要はなくそれをコンピュータテクノロジ
がサポートする。
すなわち純粋思考がアートへ直結できる。
しかし、工学的に美しい真円よりも、人の筆が描く円に
心を動かされるようです。
そういったぶれ幅が人を人とたらしめている。
そこにある偶発性、それが発見や喜びや感情を動かすもののようです。

しかし、おそらくテクノロジはそれすらも乗り越えて
”めるつばう”が描くだろう線を実現してくと思います。

それでも、時間をかけて技術を覚えることは重要に思えます。
そこには、描こうとする執念がなければできないからです。

そして純粋思考の最高地として数学があげられるでしょう。
思考のみですべてを完結させることができる。

でも、私にとって重要なのはアーティストの追体験を
するということだろうと感じています。
残念ながらそれは数学ではないのです。
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