198万PV達成!漫画史研究家・本間正幸監修【少年画報大全】(少年画報社・現在三刷)更新復活

【20世紀冒険活劇の少年世界】メトロポリス漫画総合研究所(since1997)から、昭和の映画、出版美術、音楽を!

昨日は、父の日なので【1月7日の記事の再録です】

2010-06-21 21:58:32 | 映画「銀河鉄道999・愛と誠・同棲時代」脚本家石森史郎の「新宿伝説」(論創社)
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今日の画像は
我が母校である明治学院大学出身の千葉県知事・森田健作先輩主演の青春ドラマ『おれは男だ!』のLPを持つ脚本界の大御所・石森史郎先生と、代表作『少年画報大全』を持つ、私、本間正幸が『石森史郎のシナリオ塾』が開かれている古石場文化センターの教室内で写した記念の一枚になります。

(『森田健作/おれは男だ!』~TVサン・トラ
構成 石森史郎
日本ビクター株式会社より)

「友達よ泣くんじゃない」


作詞/阿久 悠
作曲・編曲/鈴木邦彦




友達よ泣くんじゃない
今はつらいけど
友達よ泣くんじゃない
明日は晴れるから
君の胸の奥は いつも熱いあらし
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ泣くんじゃない
誰も今はそうさ
友達よ泣くんじゃない
話してあげるから




友達よ行くんじゃない
逃げてどうなるか
友達よ行くんじゃない
ここにも夢がある
恋に悩む時も 愛をさがす時も
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ行くんじゃない
みんな君の味方
友達よ行くんじゃない
見つめてあげるから


山形県庄内地方出身、中卒のため、学は無いけれども正直で働き者の父30歳と、茨城県出身で25歳の時に私を産んだちょっぴり若い母、そして3歳上の姉に囲まれて私は、生まれ育ちました。
家族4人、両親は共働きだったけれども、愛情に溢れた幸せな家庭で子供時代を過ごしました。
けれども私は、子供から少年へと成長した中学2年の秋には、諸般の事情により、いつの間にか地元でも少しは名の知れた不良少年となってしまいます。
にも関わらず、父が私に子供の頃と変わらぬ無償の愛で接してくれていたのは、私の父が10歳とまだ幼い時分に父を亡くし、戦地から復員してきた長兄が父親代わりとなり育てられたためだったのかも知れません。
私は、進学した学区外の普通以下の県立の公立高校でさえも暴走族などに属する非行少年たちとの度重なる喧嘩により、何度も停学をくらってしまい退学寸前の有り様でした。
そんな時、大好きだった父が病で入院することになり、病院のベットに横たわる闘病中の父の姿を見て、さすがの私も、心から改心し、いつも人一倍苦労をかけた父を少しは安心させ、喜ばすためにも大学進学を志たんですが・・・。
父が一年近くの闘病の後、癌で亡くなってしまった17歳の頃、私は子供の時から大好きだった青春ドラマ

『おれは男だ!』

の挿入歌である

「友達よ泣くんじゃない」
を何度も繰り返し聞きながら、独り過ごすことが多くなりました。

私が、尊敬し御指導をお願いしている心の師匠、平山亨のおやっさんは、元東映テレビ部のプロデューサーとして、仮面ライダーシリーズや、戦隊シリーズの生みの親としても、広く世間に知られており、数多くの正義の味方を子供たちのために世に送り出しています。
その平山亨のおやっさんが、数年前になぜか、私の生い立ちについて興味を持ち始めました。
ある機会に、埼玉県にある平山先生のご自宅近くの駅の喫茶店で私は、半生を語ることになります。
平山先生は、私の話しを聞くと、(先生は、マスコミの取材時などに良くこの喫茶店を使われていましたが、駅前の再開発に伴い、今は無くなってしまったと聞いています。先生も、最近転居されました。)私の父の思いに対し、涙を流してくれました。

私の父のために、泣いてくれたのです。

そして、「簡単なメモ書きでもいいから、出来るだけ詳しくその話しを書いてくれ。」

と言われました。

「当然、シナリオを書くなんてことは、専門に勉強しなきゃ書けやしないから、無理だと言うことぐらいは俺にだって良く分かっている。シナリオを書くのは、、文章の巧い専門家に頼むから、とにかくその話しを書いてくれ。」

と、言われたのです。
私は、つい最近まで、親しく付き合いのある人たち、そう、私の父とひとつ違いでお酒好き、アメリカ嫌いとどこかしら、私が父の姿をダブらして、普段あまりお酒を飲まない私が、一緒にお酒を飲むことを何よりも楽しみにしていたあの二上洋一先生にさえ、父については、話すことはありませんでした。
私は、父親に人一倍苦労や心配をかけてしまったという強い罪悪感があるためか、余程親しい友人などを除いて、父親の話をすることは、いままでありませんでした。
けれども、昨年の1月に二上洋一先生が亡くなり、それを機に、私が、いままで二上先生から受けていた無償の愛に対して、父親の愛情を思い出し、人前でも話をするようになったのです。

石森史郎先生については、『仮面ライダー』や『カゲスター』の脚本家として付き合いの長い平山先生が、私にシナリオの勉強をさせるために一昨年の夏にワザワザ御紹介していただけたのです。
ですが、いくら図々しい私でも、天下の石森史郎先生にシナリオの書き方の個人レッスンのお願いなど出来るはずもございません。

丁度、その年の無声映画鑑賞会年末恒例の忘年会に特別会員の石森史郎先生が出席され、A会員である私もその末席に座ることが出来ました。
その際、古石場文化センターの旧知の職員(昨年の春からは、所長に昇格)との間で、私が石森先生を良く知っているという話しになり、それならば、石森史郎先生に古石場文化センターでシナリオ塾を講師として講義してもらうことは出来ないだろうかという話しになり、石森先生の紹介をお願いされ、ダメもとで話しをしてみたのです。
石森先生に対して私は、
「古石場で開講したあかつきには、先生!是非、私にも先生のシナリオの書き方を学ばせて下さい」
と懇願したのです。

実のところ、石森先生には既に、私の生い立ちなどの半生を話したことがあり、シナリオとして書き上げたあかつきには、是非、一度読んで欲しい旨は伝えてありましたので、石森先生は古石場文化センターでの講義も、快諾していただけたのだと思います。

私は、文筆業といっても、漫画家や絵物語作家、少年小説の作家の研究という特殊な分野であり、文章や論文を書く専門の教育は大学でのゼミ以来今まで受けたことがありません。
大学受験時の受験科目である小論文や、国語、日本史の偏差値については、駿台予備校に通う浪人時代に、当時の駿台全国模試で東大法学部にも充分入学可能な上位100番ぐらいの偏差値を出してはいましたが、それ以降は、文学部ではないのでこれといった専門の教育は、受けてはいないのです。(なんと私の英語力は、中学生レベルの学力しかありません。筆記体はいまだに読めませんし、勿論書けないままです。なのに海外旅行の添乗員の資格だけは難関とされている運輸大臣認定試験を学生時代に一発で合格しているのだから、とても悪運が強いといえるでしょう。)
小学校の給食のオバサンとして、私が幼稚園の時から働いている母に、負担をかけるのが嫌だった私は、旅行会社の添乗員のアルバイトとして働きながら、明治学院大学社会学部社会学科の夜学で学ぶ道を選びました。
その際、昼間の生徒と併せても4年間トップクラスの成績を通し、奨学金を貰い続けることが出来たのは、今思うと、とても幸運なことだったのかも知れません。
大学への入学金や、授業料は、父が私のために進学資金を用意してくれていたおかげで、私は、学校までの通学の定期代や、教科書代、食費などの生活費を用意するだけで良かったのです。
自宅も横浜鶴見にあるため、白金高輪にある明学までの交通費は、比較的安く済んだのですから、他の働きながら明学の夜学に通う同級生に較べると随分恵まれた環境だったといえます。

私の風貌や、体格から、一般の明学生とは明らかに異なるため、仲の良かった公式野球部や空手部などの体育会の連中から、

「本間さんは、何部のスポーツ推薦で明学に入学されたんですか?」

と、真顔で尋ねられたのには、閉口しましたし、学内ですれちがうと応援団員までもが、挨拶してくるのにも正直まいったものです。
当時の社会学部の学生達の間での人気企業、日本旅行の就職試験になんとか合格することに成功しましたが、(その年の大卒総合職の受験者は、二万数千人おり、採用された同期の数は、三百人弱でした。)本来は旅行業界と文筆業の世界とでは、まるで分野が違うのです。
一口に文筆業といっても、いろいろな種類があります。
歌手に例えてみたら、ロックや、歌謡曲、演歌などそれぞれ専門ジャンルが異なることぐらいは皆さんもわかっていますよね。
文筆業でも話しは同じで、小説家やシナリオ作家、評論家やエッセイスト、絵本作家では、それぞれ書く文体が変わってくるのです。
私の文章は、素人の人からは、良く下手だと言われますが、プロの編集者からは、『少年画報大全』発表以来、直されたことはほとんどありません。
(但し、私が実質プロとしてのメジャーデビューとなる『少年画報大全』の担当編集者である添田善雄編集長は、とても厳しい人で、私が書いた全ての文章について平均3回くらいずつ書き直しを命じてきたのには、正直閉口しましたし、今でも手を抜いた文章を発表すると直ぐに見破られてしまいます。編集者として『湘南爆走族』でブレイクする前の吉田聡先生や、『ゴーマニズム宣言』でブレイクする前の小林よしのり先生を担当したことでも、出版界では知る人ぞ知る存在であり、私にとっても大恩人であり、今でも頭が上がりません。)
学校の国語教師達は皆、上手な文章を書けるけれども、プロの文筆業に成れる人は滅多にいないのが現実です。
プロの世界は、どこもとても厳しいのです。
漫画について、評論する人や、ライターはたくさんいますし、マンガ学会という組織まで出来て、漫画を研究する研究者は、今や何百人といますが、社団法人 日本漫画家協会に正会員として入会が認められた評論家や研究者は、日本で10人足らずしかいないのです。

さて、そんな訳で私が今、石森史郎先生のシナリオ塾に通ったり、父親の話しをブログで書いたりするのは、平山先生との約束を守るためであったことを今日は話してみました。

子供の頃から、その作品に親しんで来た脚本界の大御所・石森史郎先生に学び、数多くの憧れのヒーロー達を生み出してきた元東映の平山亨プロデューサーが私の書くシナリオを楽しみに待っていてくれるなんて、まるで夢のような話しです。
今年は、是非とも私の半生を書いたシナリオを書きあげるつもりです。
(季節柄、初夢の話しではありませんので念のため。)

もはや私も、写真のようなオジサンになってしまいましたが、これからも、皆さんよろしくね!


社団法人 日本漫画家協会正会員

漫画史研究家

本間正幸
コメント
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