祝!昭和百年!200万PV達成!漫画史研究家・本間正幸監修【少年画報大全】(少年画報社・現在三刷)

【20世紀冒険活劇の少年世界】メトロポリス漫画総合研究所(since1997)から、昭和の映画、出版美術、音楽を!

汚れちまった悲しみと少年の夢と

2012-03-12 19:38:11 | 昭和末期・横浜鶴見のある不良少年の物語
大のネット嫌いでアナログ人間だった私が、2009年3月からブログを始めて丸三年。
その間、地上波からデジタルヘとテレビの電波放送が切り替わり、私も、それを機会に昨年の七月からスカパーe2に加入。
昭和の名作映画や、ドラマを見直すようになって八ヶ月が過ぎました。
昨年の昨日、

「3月11日(金)の東日本大震災」(涙)

の影響により、旅行業界と出版業界も大打撃を受け、家族のプライベートな事情も重なり、最近は、旅行会社の添乗員の仕事を休んでいます。

ネット上で、幸せなブログを更新している善意の人達からメッセージをいただくことがあれば、不幸せな日常の不平不満などを全て他人のせいにする、モラル・ハラスメントのメッセージを送りつけてくる哀れな奴らもいます。
努力して頑張れば報われる、夢を実現出来る昭和の時代は終わりを告げ、平成の世の現状に不満を抱く人達が増えている、そんな印象が日々強くなります。

「人を傷つけてまで欲しいものがあるのかい?」

昭和から平成の世となり、老いも若きも人々の心が汚れちまった悲しみの中で生きる毎日ですが、明日を信じて夢に向かって頑張る若者もいる!(涙)

今日だけは・・・、私の少年時代からの思いの根源

「少年の日の夢と約束」

について、語ってみたくなりました。


私の少年時代、京浜工業地帯の一郭である横浜鶴見の空は、工場が吐き出す煙で、いつもどんよりと灰色の空ばかり。

共働きの両親の下、鍵っ子だった私は、漫画やアニメ、特撮などテレビ好きの子供になります。

昭和50年代には既に、偏差値教育の弊害による学校の教育制度の崩壊は始まっており、校内暴力が全国の中学・高校で吹き荒れていたという事実は、【金八先生】の第二シリーズや、【スクール・ウォーズ】などのドラマを見ても判るはず。
丙馬の学年として横浜鶴見の公立の中学校に通っていた私の環境、それは・・・卒業式シーズンになると新設校である私の出身中学以外区内全ての中学校に私服若しくは制服の警察官が動員される異常状態が続いてました。
開校したばかりの新設校・上の宮中学校で三期生となる私は、徴収されたのに一度も行われなかった理科実験費の行方など教師達の使途不明金問題を、学年生徒大多数の署名を集めて、生徒総会で問い正したため教師達の眼の仇とされ、

「開校以来の不良少年」

扱い。
そんな私を見るにみかねて声をかけてくれた、レコード屋の息子のM君の二階の部屋で、いつも二人で井上陽水さんの曲「桜三月散歩道」を聴いていました。
M君は、希望していた電気系の学校への進学を、担任教師が保健室へ連れて行き無理矢理眼の検査をして

「お前は色弱だから理系の学校への進学は無理だ。」

と宣言され、自分の将来を悲観して絶望。
その日の夜に15歳の若さで・・・。(涙)
学校側は、「進路指導に何も問題はなかった」
として、担任教師や自分達の保身をはかります。
その後、M君の命日などに学校側からM君の家へ挨拶に来ることは二度とありませんでした。
教師としてだけでなく、一人の人間としても、信じることが出来ない浅ましい大人達。
テストの成績ではなく授業態度などの平常点?という不透明な評価基準により、テストで同じ点数を取っていた生徒より、数段階落ちる成績をつけられていた私の内申書は最悪の状態。
横浜市のテストでの偏差値は、英語を除く主要五科目で偏差値の平均が57~8位なのに、(英語だけは45前後でしたが、国語と日本史などはいつも60を軽く越えていました)進学をすすめられた公立の高校は、学区外の偏差値45前後の底辺校、白山高校でした。
朱に交われば赤くなる。
当時の公立高校普通科底辺校に通い、地元の暴走族など非行少年達と対立、近所に住んでいた在日朝鮮高校生のボスと親友となり、私は、日本人で唯一在日側の味方として喧嘩を繰り返し、停学を何度もくらいました。
私の成績は、常に優秀(笑)でしたが、ここでも不良少年のレッテルを貼られ退学寸前の有り様。
成績は8か9止まり。
今にして思えば、推薦入学の対象となる真面目な生徒の成績表に、私に付くはずの10が付けられていたのでは?
当時、学年で成績が一番の生徒を横浜国大、二番で神奈川大学、三番に関東学院大学や東海大学などの推薦を、文系、理系から選びます。

普段のテストで、私より点数の低い奴が、横浜国大や神奈川大学への推薦入学で合格。
私は、駿台予備校のテストを受け、昼私文のクラスに、576番で通います。
駿台の座席は、テストの点数による成績順。
中学入学以来初めて公明正大(笑)な成績を知ります。
また、学期毎にクラス編成や席順が変わり、私の席順は、576番から398番、そして297番へ。
受験科目国語と日本史の成績は、普通の偏差値に直すと63~70ぐらいなのですが、ここでも英語の成績だけは伸びずに、40台のままでした。
さて、ここでひとつ疑問があります。
私の出身高校の偏差値が45。
なのに、大学受験用の偏差値で63~70が出ることっていったい?(笑)
それでも白山高校で、私の成績表に10が付くことは殆どなかったのです。
さて、私は第一志望である早稲田大学の社会科学部に受かることはありませんでした。
受かったのは、明治学院大学社会学部社会学科の夜間のみ。
駿台で、常に同じような席順で成績が伸びた友人は、明治大学文学部へ進学し、カシオ電機に就職。
一浪した私は、旅行会社で添乗員として働きながら学びますが、奨学金の申請の際、最初の年必要とされるのは、高校時代の成績です。
5段階に換算した私の評定平均値は4.?。
進学校でなく、底辺校であっても、評定平均値が高ければ良かったのです。
また、残念ながら(笑)停学を記入する欄はありません。
当時の白山高校は、駅から学校までの通学距離が徒歩45分かかる坂道で、横浜市営バスが開通するはずだったのに、地元住民の強い反対があり、開通出来ませんでした。
私は、通学が面倒なので、雨の日は休みとしていましたが、二年生の秋、学校内でバス開通の為の委員会を設置する気運が高まり、臨時の委員会が発足。
前期、後期共に委員会活動に従事していなかった私が、クラス代表となり、最初の委員会において、あまりのみんなのやる気のなさに怒りを感じました。
当時、私の父親は、7月から病気で長期入院中であり、家の手伝いや、勉強のためにも、余分な時間を費やせる状態ではなかったのですが、父の病気のことは担任を始め、数少ない友人達にも秘密にしてたのです。
けれども、このことが後に私に幸運をもたらします。
私が、バス開通委員会委員長に就任し、学校内や鴨居駅前で署名運動を開始した途端、バス開通に長いこと反対していた地元住民の反対が突然解消。
そして、横浜市の交通局に集めた署名を提出すると、翌年の秋にはバスが開通します。
このことは、地元神奈川新聞の記事に私の名前入りで紹介され、奨学金申請の面接の際に、高い評価を受けます。
闘病中の父が亡くなるのは、その新聞記事が出る前だったので、父は私が委員会活動のため、見舞いに行く時間が随分減ってしまったこと、私の将来のことなどいろいろと心配していたようです。

小学校の給食のオバサン、調理員として働く母の負担が少なくなるよう夜間で学ぶことを自分で選び、奨学金を申請。
私は、父が私のために用意してくれていた学費以外は全て、奨学金と添乗員のアルバイトで稼いだお金で卒業。
昼間の生徒と夜間の生徒の授業内容は、ほぼ同じだったそうで、成績優秀だった私は、当時社会学部の学生に人気のあった大手旅行会社・日本旅行に就職出来ます。
大卒の総合職、2万数千人の中からの合格者は、300人。
明学の社会学部からは、昼間の社会福祉学科から須田君、夜間の社会学科から私だけが合格。
新宿支店に配属、カウンター業務の須田君と、修学旅行専門の横浜教育旅行支店に配属された私ですが、私は、修学旅行セールスで実績を上げ、僅か2年で異例の本社海外事業部販売促進部勤務へと栄転。
その後、私は少年時代からの希望である漫画史研究家の夢を叶え、現在に到る訳です。

さて、私の世代は、学生時代にバブル景気を迎え、就職の際も成績が優秀な者は、皆、有名企業へと就職出来たのですが、平成の若者達を取り巻く環境は、違うようです。
私が、大学受験した後も、年々大学受験者数は増加を続け、受験戦争は加熱。
私の世代の大学進学者数の割合は今よりも少なく、進学校で優秀な成績をおさめた者は、有名大学へ進学し有名企業へと就職出来ました。
けれども、私の世代以外は、有名大学からでさえ有名企業へと就職出来た者はごく僅かのようです。
中学・高校時代、横浜鶴見の不良少年と呼ばれ、学校の教師達の悪意による不当な扱いを受け続けた私は、

「何かがおかしい!絶対に間違っている!」

と、私を取り囲む周囲の環境や、境遇に対する怒りだけを全てのパワーの源として、

「どうせ元は不良少年、駄目で元々じゃないか!」

と考え、私なりに

「正しく幸せに生きる道」

を模索し歩んでみたのです。
全ての出来事は、因果応報であり、自業自得とする私の価値観は、全て私の実体験からの発言となるのですが、自分の人生に納得出来ない人達も多い様子。
けれども、それは、どこかで努力が足りなかったり、環境や境遇、他人のせいにしてはいませんか?

「努力を続けた時間だけは、決して人を裏切らないはず。」


善人で人一倍人情家として知られる東映の名プロデューサーの平山さんは、父が私に正幸と名付けた時、

「正しく幸せに生きていけるように」

という願いが込められていたと話をした時、私の父の思いを感じて涙を流されます。(涙)
「とても良い話だから」と、文章を書く勉強のためにと紹介していただけたのが脚本家の大御所、石森史郎先生であり、石森先生は、私の話を聞いた際、17歳の時に私を残して父が病気で亡くなったことについて、

「それで良かったんだ。そうでなければ今頃取り返しがつかないことになっていたはずだ。」

と、人生が好転する分岐点であったと云われました。

そう、父が一年近く病院に横たわり闘病を続ける姿は(涙)、横浜鶴見の不良少年だった私を心から改心させる原動力となり、その後、同じ高校の同級生の誰よりも

「何て人生は素晴らしいのだろう!」

と思えるキッカケになったのですから。

私の少年時代から就職するまでは、私の世代としては、既に珍しい古き良き日本の昭和時代、昭和30年代の匂いがする生きざまだったようです。
私が大学生の頃も、大学へ進学出来たのは、両親の学歴が高かったり、収入が多い家庭の子供の割合が多かったのです。
私の父の実家は、戦前までは山形県庄内地方のとても裕福な地主の一族であり、地元の名家として知られていましたが、戦後の農地改革でその殆どを失います。
八男である父は、世の中の矛盾や、豹変した教師の態度、偽善に対して学校嫌いとなり、たいした学歴はありませんでしたが、正直で働き者、家族思いの素晴らしい父親であったという思い出しか残っていません。
私の父は、例えて言うならば【巨人の星】の主人公・星飛雄馬の父・星一徹の厳しさ(笑)と、【サスケ】の父、大猿の優しさを足して2で割ったようなタイプでした。
茨城県の水郷地区出身の母も、学歴は高くなく、正直で働き者。
家庭において、マイナス要素はありませんが、強いてプラス要素があったとすれば、無理に勉強しろとは言われなかったこと。
蛙の子は蛙です。
親の学力が遺伝するのか?子供の学力は、さほど変わりません。
寧ろ、優秀な親の下で、少し出来の悪い子供がいるとプレッシャーから不幸な人生を歩むようになってしまいます。
運動神経が抜群であった父は、私の運動神経が鈍いことだけを嘆いていましたが、私は、父の運動神経の良さを、人一倍喧嘩だけが強いことに受け継いでしまいました。
人生には全てに意味があると思える半生です。
これからの人生において、

「明日は何が待っているのか?」

青空に微笑む(笑)今日この頃です。


「ご覧

どぶのなかの

かげろふだって

みんな

天をめざしている」(山本有三)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 汚れちまった悲しみに ・・・... | トップ | 誰か彼女に伝えてくれ。今夜... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

昭和末期・横浜鶴見のある不良少年の物語」カテゴリの最新記事