徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:柚木麻子著、『伊藤くんA to E』(幻冬舎文庫)

2019年03月03日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

いつも利用しているオンライン書店で期間限定割引になってお勧めされていたので手に取ってみた『伊藤くんA to E』ですが、読みやすくてあっという間に読み終わってしまいました。柚木麻子という作家も今まで知らなかったのですが、他の者も読んでみようかと思うくらいには面白い作品でした。

『伊藤くんA to E』は伊藤誠二郎という千葉の地主の息子でイケメン・博識だけど30近くなってもシナリオライターを目指してバイト生活を続けている自意識過剰で幼稚で無神経、人生の決定的な局面から逃げ続ける喰えない男と不幸にも(?)関わり合いになってしまった女たち5人の心の動きを追う連作短編集です。

曖昧な関係が何年も続き、伊藤君をしっかりと自分のものにしようと躍起になる女。フリーターで伊藤君と職場がたまたま一緒になり、なぜか気に入られてストーカーされる女。大学のドラマ研究会の後輩で、ずっと伊藤先輩に憧れ、ついにお付き合いするみたいな感じになって浮かれる女。その恋する彼女を羨ましく思う一方、男を切らさないとはいえ大切にされたこともないと悩み、恋に浮かれる親友を疎ましく思い、伊藤君を誘惑して奪い取る女。そしてシナリオライターとして若くして一世を風靡し、今は落ちぶれ、弟子の伊藤君に逆襲される女。彼女たちはそれぞれに傷つき、もがき、見栄を張り、そして立ち直ろうと次の一歩を踏み出していきます。ただ、伊藤君だけが何もせずにただひたすら自分が傷つかないことをモットーに待ちの姿勢を維持することを高らかに宣言するのが対照的です。それはいっそすがすがしいくらいの反面教師ですね。こういうしょうもない、だけど顔のいい男というのは時として母性本能をくすぐるのかもしれません。彼の言うことを真に受けていれば「かっこいい」になるかも知れませんが、いずれ正体はばれます。「なんでこんな男が好きなんだ?」と自分でも疑問に思いつつ惹かれずにはいられないのが恋の妙味というものなのでしょう。

Eのシナリオライターの彼女が精神的に一番泥沼にはまってて、メッシーのごとき生活と、1年も仕事がないにもかかわらず事務所とライター志望の後輩・弟子たちとの勉強会を維持して見栄を張り続けるアンバランスさが何とも強烈でした。彼女にとって伊藤君はスポイルし続けてダメにした彼女の「作品」だったと言ってますが、お互いに「逃げ」の姿勢であることを確認し合うような特殊な精神的依存関係が見え隠れします。この関係(恋人のような関係ではない)が破綻を迎えることで彼女がゴミ部屋と化している事務所兼住居を片づけようと封鎖してあったバスタブを開けるきっかけになるのがまた興味深いですね。掃除しようにも掃除して居心地を良くしてしまった後のことを考えると怖くて結局ゴミ出し一つできないという心理は、個人的には理解できませんが、実に真に迫った描写でした。作者自身の経験が入っているのではないかと思ったくらいです。