前回の記事「渉成園」で次のように記した。
「当時、この辺りが…(中略)…源融の屋敷跡(六条河原院)とされていた…(中略)…実際の六条河原院庭園の池は…(中略)…渉成園北東角より北約500mほどの場所(現在の五条通富小路北側)ということがわかっている。なお、木屋町通五条下ル東側に『此附近源融河原院址』の石碑がある」
石碑の場所を確認する。あの弁慶と牛若丸の銅像のある河原町五条の広い交差点の南東。交差点から鴨川と高瀬川の間の道路を南に下り、すぐ左手にある。下の写真は、高瀬川にかかる橋の上から石碑を撮影したもの。
上の写真(立て看板)にある町名「塩竈町」「本塩竈町」は、五条通をはさんでそれぞれ北と南に現存する。本塩竈町には五条富小路の東角に佛性山本覚寺、同じ通りの西側少し下がったところに塩竃山上徳寺があり、両寺とも、河原院跡とされている(京都通百科事典)。
また、看板にある通りの敷地だったなら、現在の東本願寺境内地の四分の三程度、南辺が正面通までだったなら、同境内地よりも広かったことになる。
上徳寺(京都通百科事典):上徳寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)
本覚寺(京都通百科事典):本覚寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)
渉成園の場所は鴨川から250m程度の距離があり、「河原院」という名称は不似合いである。高瀬川沿いが河原院の東端なら、毎月三十石の海水を運んだという伝承(『顕註密勘』)も頷ける。鴨川からは10mほど、その水運を利用して海水を運び、池に水を引き入れることも可能だろう。あまりに贅沢ではあるが。ただし池跡は富小路五条(鴨川より約250m)に見つかっている。
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河原の左のおほいまうちぎみのみまかりて後 かの家にまかりてありけるに 塩釜といふ所のさまを造れりけるを見てよめる
君まさで𤇆たえにし塩かまの うらさびしくも見え渡かな
これハ河原大臣の六条河原にいみじき家建て池をほり水をたゝへてうしほ毎月に三十石まで入て海底の魚貝■をすましめたり
陸奥国のしほかまの浦をうつしてあまの塩屋に𤇆をたゝせてもてあそばれけるが 彼おとゝうせられて■塩かまの煙たえ■■をミて貫之のぬしよめる歌……
(国書データベース『顕註密勘』p187ー188:https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100097396/188?ln=ja)
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