老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

逮捕にも在り方

2007年05月19日 | Weblog

愛知立てこもり男逮捕、ここに書くまでもなく、知らない人がいない事件だがこれをテレビで見て思った事も人それぞれ違うだろうが、私は警察責任者のこの度の行動には実に情けなく感じている。犯人は1人武器を使用している、犠牲者まで出してしまった。

人質の元妻が脱出してからでも6時間もの時間が流れている。テロ特殊部隊(SAT)まで出動してのことだ、立てこもりから29時間、投降した、説得できたと満足なんだろうか?、出てきた容疑者、無抵抗と見極めて前からぞろぞろと20人のヘルメットをかぶり盾を持った警察官が容疑者に近づき、腕をひねりあげたり、肩を掴んだりして取り押さえたとしている。

テレビの映像でも大勢の警察官が容疑者の上に重なり合っている、訓練された警察官のはず、2人ぐらいで飛び込み手に持っているものをたたき落とし逮捕となる映像ぐらいは見たかった。手に拳銃は持っていなかったと言うが、液体の入ったペットボトルと袋物、これが爆発物だったとしたら、自爆テロをたくらんでいたとしたら、そんな行程で普段の訓練が必要だろう。

なぜあの時容疑者の後に何人か回らない、前から進む者は容疑者の行動を監視、どんな行動に出ても対処出来る体制で進み、後ろから逮捕、今回の事件はそれを体験と出来た事件だと思う。適切な捜査だった、最善の体制を尽くした、と繰り返しているが、上に立つ者、訓練事項を常に研究、勉強して頂きたい、なんと言っても今回、犠牲者を出したことだ、若い勇気ある人の命そしてその家族、なんとも悔やまれてならない。

   

 


父親の存在

2007年05月18日 | Weblog

私の内孫は女の子一人、小学3年生になりますが、毎日母親が送り迎えしています。学校から帰ると私の仕事場に少しの時間いて帰ります。私がパソコンの所に口が退屈なので飴をおいていますが、気にいれば食べながら帰る、昨日も一個食べながら出て行ったのですが、すぐ後戻りしてきてママの分もちょうだいと言って一コとって行きました。

何を持っていてもママが買ってくれた。としか考えれない子供。どうにもぶつぶつとたぎる不満が年来ある。毎年(母の日)が華々しいのをねたむのではないが、世間では子供達が成長するにつれて、真っ先に母親えの恩を口にするのが当然のような風潮がある。子供を持つ父親としては、その度に気持ちがしおれてしまう。

それは 女性がお腹を痛めて命を世に送り出し、ご飯を食べさせ、世話をする時間の多いのは事実だ。しかし男性の言い分も聞いて欲しい。(男は玄関を出れば7人の敵がいる)。こんな男の大変さを表現した言葉もあるほど。 外で仕事をして生活を維持するのは苦労の絶えない事なのだ。家に帰り、妻や子供に苦労話の愚痴を並べ立てるわけにも行かず、ひたすら我慢を繰り返し砂を噛むような毎日を送っている。

これも、子供達の成長を夢見て、日々、のしかかる重い荷物をなんとか振り落として生きている。男の一生というものは、かくも単純で、そしてこれからもこんな人生を続けるのだろう。父親が脚光を浴びることはなくても、せめてその存在に感謝の念を頂きたいものだ。世のお父さん方の思いはいかがなものだろう。   自分で良いと感じた事を次え伝えるブログです。

 


童話.船頭さん

2007年05月18日 | Weblog

童話 村の渡しの船頭さんは
         今年六十のおじいさん
           年はとってもお船を漕ぐ時は
                     元気一ばい 櫓がしなる
                         ソレ ギッチラ ギッチラ
                                ギッチラコ
団塊世代、が注目されている。六十歳を迎え、第二の人生を歩んでいる人達、この童話がほとんど聞かれなくなった。今年六十のおじいさん...納得今の六十、バイタリティー、体力は実に若々しいからである。

カモメの水兵さん、などの武内俊子さんが、出生地の広島県三原市沼田川の渡しの、船頭宇佐さんをモデルに、太平洋戦争に突入した、昭和十六年1941年に書いた詩だが、当時の六十は今で言えば八十、いやそれ以上と言ったところだろう?

戦中の作品と言う事もあって、二番では、あれは戦地え行くお馬、三番では
村のご用やお国のご用、とされていたが、戦後になりそれらの歌調は改作された。戦地から男達が帰還し、そしてベビーブームが訪れた。その時の赤ちゃん達こそが、今、団塊の世代を迎えた人達。


1978年(戊午生まれ)の持つ性格

2007年05月16日 | Weblog

この星 生まれの人、四方に臨む恩恵の火と解す、天地にその光明を恵む状態を示す。 

 活発な行動派の人が多い、一時は人気を博するが、わがままな振る舞いが多くて見放されがち。

又独善的な考え方を固執して目上に逆らい、その為に運気に障りが生ずる事もあり。

 短気や傲慢心を謹んで努力精進すれば、必ず大成する星周りの人です。

   


我が炊きし仏飯母の日の母に

2007年05月15日 | Weblog

仏飯は仏前に供える米飯である。母の日は五月の第二日曜日だ。はじまりは教会へ行き母の霊に感謝を捧げる風習から来ている。掲出句は仏教とキリスト教の習合といえよう、現代人にとって母の日は儀軌や信仰に基づいてやっているのではなかろう。

母を亡くした人は白いカーネーションを霊前に供えるが、楬出句は自ら炊いた白いご飯を母の仏前に供える。


体力ダウン

2007年05月12日 | Weblog

ブログをしばらく休んでしまいました。体力的にパソコンに向かうことが無理なようですが、仕事上パソコンは必要ですし、ブログも続けたい。目の神経が疲れ白内症治療中、ブログはとても続けられないと思い、しばらくパソコンも開けなかったのですが、体調も少しは良くなり昨日ブログを開いてみると毎日沢山の方が私の所にご訪問くださっていたことを知り、何もしなかった自分なのに有り難く心より感謝しています。この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございます。これからも無理のない程度に続けたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。                         

   


思い出一話

2007年05月12日 | Weblog

パソコンに向かうのが怖くて、しばらく無視していましたが、やはりパソコンがなければ不便だし、ブログは楽しみの一つですし。皆さんのブログを少しの時間ずつ見せてもらいながら、目を慣らしていましたが、今日は何か書いてみようとパソコンの前に付いています。

どれだけの時間で書き入れられるかも解りませんし、何を書くかも無計画のまま椅子にかけています?// 先ほど皆さんのブログをめくっていたとき電車をテェマーにした大阪環状線京橋駅が写されており、何度も何度もこの写真を見せて頂いたのですが、昔の面影は何処にもありませんでした。

ただ一つ変わっていないものに、京橋駅と言う三つの文字です。懐かしいです。今は立派な駅に変身しているようですが、私が見るこの三文字の駅は木造で三角に補強の出来た屋根、木の椅子、広告が貼られたホームこれが私の心に残る京橋駅。


思い出二話

2007年05月12日 | Weblog

2月10日と記されている、外は寒い、15歳の春弟子入りしてから8年22歳の2月新聞の片隅に大阪の放出、東洋軽金属株式会社従業員募集とある。葉書を出すと、採用の通知が来る、何処の企業も若者がほしかった時代だったのだろう、ずっと後で知った事、すぐ此の家を出ることを決意主人に告げる。

ここ1年程いやで反抗ばかりしていた自分、主人、出るのならお前には箸1本やらないとの言葉。そんな事どうでも良かった、出られることで満足。2月10日とあるのは2月9日に給料日と言われる日であったのだろう、記憶にはないが、くれるお金は1ヶ月1500円、当時この金額は、安物のジャンバーが一枚買えた金額。

前の日に持ち物の中から良い下着を探せば 5枚ほど、これを風呂敷に包み、後は処分、10日の朝6時、皆んと一緒に起床、他の者は工場え仕事に出る、朝食は何時も6時30分頃、ご飯を食べてゆくようにとの声はあったが断って家を出る。外はまだ薄暗い。


思い出三話

2007年05月12日 | Weblog

船の出航時間は昼の11時30分と夜の11時30分の二回、小松島港を出ると神戸港により大阪天保山え、6時間となっていたが実際乗り込んで降りるまでなら、日によっては、7時間たっぷりかかっていました。家を出ると乗船場は近くでしたので開けっ放しの待合室では、隅の椅子で寒さをしのぎ、時間を稼ぐ、

採用通知の葉書には、天保山から環状線で、京橋駅で降りて電話をすれば迎えに行くと書かれている。しかし、もし迎えがなければ? 其処に付いた頃には日は暮れている。夜が明ければ何処かで仕事は探せる。

泊まる所、当時小さな旅館を探せば、夜遅く入り食事は取らないで泊まるだけ、朝食はご飯味噌汁卵と味付けのり一枚と食事が付いて400円これは知っていたので、これだけのお金は使ってはいけないと、1500円の中から別の所に入れる。9時を過ぎかけると待合所の辺りでも人通りが多くなる。お腹も空いてくる。