『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

62 観心寺

2023-12-04 | 大阪府

百寺巡礼第55番 観心寺

心惹かれる三人の足跡が残る寺

 

 

 

 

近鉄難波駅7時58分発の電車に乗り河内長野駅に8時31分。河内長野駅前から定期バスに乗って18分ほど観心寺の門前のバス停に到着。大阪の南東の端に位置する河内長野の山の中。9時10分に観心寺の門を潜る。今日も降雨の跡の曇り空。それでも3月初旬にしては寒くもなく、どことなく春をかんじる日。

観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、飛鳥時代の呪術者の役小角(えんのおずぬ)によって開かれた雲心寺という寺であった。その後、平安時代の初め大同三年(808)に弘法大師(空海)が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺とした。弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。

大楠公 楠木正成。 南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれている。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐に加わり、赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献した。後醍醐天皇の建武政権では記録所寄人、 河内、和泉両国の守護などをつとめた。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争うが、摂津の湊川の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬された。
楠木正成とその一族の、私利私欲よりも民や国を優先した生き方は、江戸時代に流行した太平記や日本外史に描かれて民衆に人気が広まった。江戸時代後期には日本で最も尊敬される人物となり、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などに影響を与え、明治維新の原動力となる。明治期には各地で神社が建てられ、皇居外苑には銅像が建てられている。

後醍醐天皇は当寺を厚く信任し、建武新政後(1334頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願。延元元年(1336)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。

 その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。

 

参拝日    令和5年(2023)3月 2日(木) 天候曇り

 

所在地    大阪府河内長野市寺元475                         山 号    檜尾山                                   宗 派    高野山真言宗                                寺 格    遺跡本山                                  本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    天長2年(825)または天長4年(827)                    開 基    伝・役小角                                 正式名    檜尾山観心寺                                別 称    檜尾山  河内観心寺  檜尾寺                       札所等    西国三十三箇所客番ほか                            文化財    金堂、木造如意輪観音坐像、観心寺縁起資財帳(国宝)  

 

 

 

境内図。

 

 

 

門前の前の梅の花。  関西花の寺第25番がこの観心寺。

 

 

史跡観心寺境内の石柱。

 

 

 

 

 

山門(大門)【大阪府指定有形文化財】    万治2年(1659)に再建。一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺き。

 

 

遺跡本山の扁額。  虹梁中備えは出三斗。木鼻は拳鼻。軒裏は一重まばら垂木。

 

 

門を潜り、受付け所から本堂方向を見る。

 

 

山門を振り返り背面を見る。

 

 

梅林も花盛り。

 

 

鎮守堂拝殿【大阪府指定有形文化財】    延享元年(1744)に再建。参道の右手に位置する。

 

 

堂宇は桁行6間・梁間2間。入母屋、本瓦葺。

 

 

参道右手に手水舎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訶梨帝母天堂(鎮守堂) 【国重要文化財】   天文18年(1549)に再建された。訶梨帝母(かりていぼ)は鬼子母神の別名。

 

 

母屋柱は丸柱。虹梁中備えは板蟇股。 間柱と丸柱の間、まぐさの上に彫刻模様が取り付けられている。かなり褪せているが木部及び造作物には色彩されていたと思われる。

 

 

向拝柱は角面取り。柱上の組物は連三斗と出三斗を左右に連結したような形状のもの。柱の側面には象鼻。巻斗が上に載り、持ち送り組み物にしている。

 

 

本堂に向かう。

 

 

本堂の前の境内。

 

 

本堂から山門方向を見る。

 

 

 

 

金堂【国宝】         南北朝時代、正平年間(1346~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓。

 

 

堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。

 

 

和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。

 

 

正面の向拝は3間。

 

 

堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。

 

 

 

 

 

内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く

 

 

 

 

建掛塔【国重要文化財】   文亀2年(1502)に再建。もともとあった堂は楠木正成が三重塔を建立しようと建築に着工したところ討死してしまい、一重目を造り終えたところで工事が中止され、仏堂に改築されたもの。焼失後、同じような形式で再建された。

 

 

 

 

たしかにここだけ見ると、三重塔のそのものの造りだ。木組みは、軸部は長押と頭貫で固定され、木鼻は使われてなく、純粋な和様の造りとなっている。組物は尾垂木三手先。中備えは間斗束。桁のあいだをふさぐ部材がないため、隙間から母屋の小屋組が見える。

 

 

 

 

星塚。     金堂をとりまく7つの星塚(北斗七星)があり、その一つの破軍星(午)。弘法大師が厄除けのために本尊と一緒に祀ったもの。この星塚を一巡することで、その年の厄払いになるといわれている。 ほかに、貪狼星(子)、巨門星(丑)、禄存星(寅亥)、文曲星(卯酉)、廉貞星(辰申)、武曲星(巳未)、があり、北斗七星如意輪曼荼羅となっている。

 

 

御影堂【大阪府指定有形文化財】 堂宇は江戸中期に再建されたもの。桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、桟瓦葺。

 

 

開山堂(本願堂) 【大阪府指定有形文化財】  正保3年(1646)に再建された。

 

 

開山堂の隣に楠木正成の首塚があるが、撮り忘れたようだ。

 

 

正面は3間。中央は2つ折れの桟唐戸、ほかの柱間は舞良戸。

 

 

阿弥陀堂。 弁天堂に東側に位置する。 桁行3間・梁間3間、宝形、本瓦葺。

 

 

鐘堂。  台形の石積みの上に乗り、その形状に合わせ下層が袴腰になっている。

 

 

辨天堂。

 

 

恩賜講堂への参道には白梅、紅梅が今が盛りと咲いていた。

 

 

 

 

 

恩賜講堂【国重要文化財】   昭和5年(1030)に移築・改造。昭和天皇即位大典のために京都御苑内に建てられた大饗宴場の一部を移築・改造したもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊宝館。   金堂に向かって左手の恩賜講堂への参道の手前に位置する。本尊の如意輪観音像の「お前立ち」としてつくられたとされる如意輪観音坐像(国重要文化財)をはじめ、地蔵菩薩、聖観音、十一面観音など仏像(いずれも国重要文化財)を拝観できる。ほかに三筆の一人の嵯峨天皇筆の「観心寺」の額など、観心寺は所有する数々の文化財が見られる。

 

 

 

内部。

 

 

 

重要文化財に指定された数々の仏像。

 

 

 

楠木正成公の鎧。

 

 

 

 

後村上天皇御旧跡。    後醍醐天皇の第9皇子であった後村上天皇(1326~1368)は、1359年南朝2代目の天皇としてこの地に約10か月滞在し政務を見ていた。ということは、観心寺は皇居あったといえる。後村上天皇は、ゆかりの深いこの寺の東側の山中に埋葬されたため、観心寺の境内には宮内庁が管理する御陵(後村上天皇檜尾陵)があるのだが、見ていなかった。

 

 

帰りの風景、山門側を見る。 楠木正成、後村上天皇にゆかりの歴史ある寺であるが、その関係する施設をよく見ることも無く帰ることになってしまった。・・・・バスの時刻に追われての寺巡りの結果かな。

 

 

楠木正成銅像。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーこうして[建掛堂」の前に建って眺めていると、楠木正成が実在の人物だったということが、急に胸に迫って感じられてくる。この寺で十五歳まで学問をした正成は、湊川の合戦で亡くなったときは四十三歳だったという。もしも、彼がなにかのきっかけで仏道に進もうと考え、そのまま観心寺で出家して僧侶になっていたら、日本の歴史はどう変わっていただろうか。小説家として、ついそんなことを想像してしまった。ふり返ってみると、この楠木正成ほど歴史のなかで評価がくるくる変わった人物はいないような気もする。南北朝の争乱ののちに足利氏が天下を取ると、正成は逆賊とされた。江戸時代になって再評価がはじまり、明治維新のときには、正成の思想が志士たちの精神的支柱となる。さらに日中戦争、太平洋戦争とつづく昭和の時代は、「天皇陛下のため、国のために身を捧げた」理想的な日本人として顕彰されることになる。正成のことを思い出してこの苦しい戦争を戦い抜こう、というわけだ。そして、終戦後は、打って変わって忘れられたようになっている。楠木正成本人の意志とはまったく関係なく、時代がイメージをつくっていったのである。そう考えると、人間の人生というものも、一編の”物語”にすぎないのだという気がしないでもない。

 

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

観心寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊) 観心寺HP フリー百科事典Wikipedia 

ブログ甲信寺社宝鑑