『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

65 百済寺

2023-12-09 | 滋賀県

百寺巡礼第35番 百済寺

生きものの命が輝く古刹

 

 

 

朝から降っていた雨は止み石塔寺の次は、琵琶湖の東、鈴鹿山脈の中腹に建つ、百済寺、西明寺、金剛輪寺の湖東三山への参拝である。先ずは、百済寺へ。

寺伝によれば、推古天皇14年(606)に、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりである。百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。

平安時代から中世にかけて、北谷・東谷・西谷・南谷に1,000近い坊を持つなどかなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498)の火災で本堂とその近辺が焼け、その数年後には、近江守護・六角氏と守護代・伊庭氏との争いに巻き込まれてほとんど焼失した。これらの火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。それでも寺勢はやがて回復したといわれる。元亀4年(1573)に信長による焼き討ちに遭い、またも全焼した。ただ、本尊の植木観音は約8㎞離れた場所にある奥の院に避難させて無事であった。

天正12年(1584)に戦国大名・堀秀政によって仮本堂が建立される。慶長7年(1602)には寺領146石5斗を安堵され、次いで元和3年(1617)には徳川二代将軍秀忠より寺領100石を安堵される。寛永11年(1634)に、天海大僧正の弟子・亮算が入山して塔頭の千手坊の名を喜見院に変更し、当地は彦根藩の飛び地でもあったために彦根藩からの支援も得て復興が行われ、慶安3年(1650)に本堂・仁王門・赤門が完成した。よって本堂をはじめ現在の建物はすべて近世以降の再建である。

喜見院は今とは別の場所にあったが、元文元年(1736)に焼失し、翌年に仁王門下の左方に移転し、昭和15年(1940)に現在地に移転して本坊となった。参道両側には石垣で出来た僧坊跡である百坊跡・二百坊跡・七百坊跡がある。

 

参拝日     令和5年(2023) 6月22日(木) 天候雨のち雲り

 

所在地     滋賀県東近江市百濟町323                          山 号     釈迦山                                  宗 派     天台宗                                  本 尊     十一面観音(植木観音 秘仏)(国重要文化財)               創建年     伝・推古天皇14年(606)                         開 基     伝・聖徳太子                               札所等     近江西国三十三観音霊場第16番 ほか                    文化財     本堂、絹本著色日吉山王曼荼羅図、黒漆蒔絵箱1合ほか(国重要文化財)

 

 

 

境内図

 

 

百済寺の案内板。  駐車場の通用門側に。

 

赤門(総門)。    朱塗りのために通称「赤門」と呼ぶ、本堂と同じ慶安3年(1650)に建立された。過去、江戸後期・幕末明治初期・昭和三十年代の修理があり、平成30年(2018)に「平成の改修」として4回目の改修を行った。

 

 

<小野道風>おののみちかぜ/とうふう筆と伝えられる下乘石。

 

表参道。 赤門から本堂まで石段の長い道を進む。 湖東三山の寺では最も長い参道。参道の両側には老杉が林立し、支院跡の名残を残す苔むした石垣が続く。参道の途中には、極楽橋や矢杉、阿弥陀堂などがあるが、写真を撮っていなかったので画像、説明はなし。

 

 

 

 

 

林の中の石段をしばらく上ると仁王門が見える。

 

仁王門。   長い参道を上りきり本堂近くに立つ門。本堂と同じ年代に建立され、三間二間で一対の阿形像、吽形像の金剛力士像が向きあっている。二つの像は、日中に仕事を終え夜間は草鞋を仁王門脇に脱いで立ちながら休むという。

 

正面につり下げられた一対の大草鞋。昔は仁王像の大きさに応じて50cm程度だったが、江戸時代中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり、触れると、身体健康・無病長寿のご利益があると言い伝えられ、草鞋が大きいほどに利益も大きいと、今では3mほどになった。
地元の方々が、約10年毎に新調する。

 

 

金剛力士像。 吽形像。

 

 

 

仁王門を振り返る。

 

 

観音杉。樹齢430年と推定される境内最大の樹木。 

 

本堂【国重要文化財】  室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失など幾度も火災に遭う。その後天正12年(1584)に、堀秀政により仮本堂が建立された。のち天海大僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工。かつての本堂は現在より少し山手の広大な台地に、金堂と五重の塔があった。

 

本堂は、一重、五間六間、入母屋造。正面中央に軒唐破風が付せられている。湖東三山の金剛輪寺・西明寺の本堂よりもひとまわり小さい堂であるが、天台形式の構造をもった均整のとれた建造物となっている。なお、外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂 慶安5年壬辰3月吉日」の刻銘があり、そのときにすべて完成したことが分かる。

 

 

正面の入り口。 当時、右半分が改修工事中で仮設物で覆われていた。

 

 

正面の軒唐破風の天井の様子。 頭貫と敷桁の間に本蟇股。 軒唐破風の骨垂木の様子がよくわかる。

 

 

内部の外陣と内陣との間に引違格子戸があり、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(奈良時代)を安置。

 

 

屋根の入母屋の様子。

 

 

妻飾りを見る。

 

 

 

 

 

本堂の脇に、三所権現社。  一間社流造で、本堂と同時期の建立で熊野三社の主祭神を祀る。

 

千年菩提樹。     樹齢は推定約千年。この菩提樹は山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えてあったが、信長の焼き討ちに遇う。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っている。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当している。 

 

 

鐘楼。    現在の梵鐘は3代目で昭和30年(1955)の鋳造。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、2代目(江戸時代に鋳造)は先の大戦で供出した。

 

 

本堂から石段の無いなだらかな坂を戻る。

 

 

坂の途中に展望台があり、湖東平野を一望できる。

 

 

この山の名は判らないが、展望台から望遠に写った山。

 

 

少し下ると弥勒菩薩半跏石像に遇う。

 

弥勒菩薩半石像。  境内に建つ「弥勒菩薩半跏思惟像」。座高1.75m・全高3.3mの石像で、当山寺宝、金銅製弥勒像(像高27cm)は秘仏であり、平素のお参りとして拡大したもの。2000年(平成12年)のミレニアムを記念して建立した最近の仏。

 

 

石段を下る。

 

本坊まで降りてくる。 この寺は山の中腹に建てられ、境内はかなり広く、赤門から本堂まではかなりの高低差があり、この本坊は下の平らなところに作られている。

 

 

表門。   本坊の入り口の門。

 

 

本坊・喜見院の堂宇。

 

 

本坊の玄関。  本坊は喜見院という堂宇で、阿弥陀如来を祀る。昭和15年(1940)に仁王門南側から現在の位置に移築された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の脇にある千年菩提樹の子孫の菩提樹。

 

 

ここから入園料を払い庭園の見学。

 

 

不動堂。    庭園入口にある堂宇。百済寺奥の院(大萩西ヶ峯)の不動堂を明治時代に本坊隣に移築したもの。木造不動明王二童子像を祀る。

 

 

 

 

 

 

不動堂の右側が庭園の入り口。

 

 

 

 

 

本坊・喜見院に池を挟み正面に作務所を見る。この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した池泉廻遊式庭園となっている。

 

 

 

 

 

聖徳太子の願文に「一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る」とあり、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石を配している。

 

 

喜見院の書院【国重要文化財】。 

 

 

 

 

 

 

 

観賞式の庭園であり、純穴(どんけつ)流の造園作法で作庭されている。鈍穴流の作庭は、幕末にころ、この寺からほど近い近江・五個荘で、遠州流の茶人。勝元宗益が創業した同園会社の作庭手法。なお同園会社は「花文」といい、近江商人のお屋敷を幾つも作庭している。

 

 

 

 

 

 

 

本坊庭園は別名「天下遠望の名園」と称され、西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望めたという。



 

 

 

これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭された。また、庭内には中世の石造品の残欠も多く見らる。

 

 

 

 

 

 

 

南庭。    通用門から表門にかけて広がる庭。 

 

 

 

通用門。  こちらが駐車場となるため、車での参拝は、この門から入る。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー私も静に湖東平野を一望して見た。すると、近江という土地の重要性が実感できる。日本最大の湖である琵琶湖が中心にあるため、滋賀県の平地は湖の周囲にわずかにあるだけの印象がある。しかし実際には琵琶湖は県全体の面積の六分の一しか占めていない。しかもその琵琶湖をとりまく土地はたいへん肥沃で、住民の暮らしは豊かだったのである。さらに、地理的に見てもここは非常に重要な場所だとわかる。西日本と東日本の接点に位置しているため、近江は古くから交通の要衝だった。主要な道としては東海道、東山道、北陸道の三つがここを通っている。かっての都、奈良や京都からも近い。北陸と畿内とを結ぶ琵琶湖の水上交通も、重要な役割を果たしていた。いわば近江は東西および南北の物流の鍵をにぎる場所だったのである。歴史のうえでは常に「近江を制するものは天下を制する」と言われてきた。天下統一をめざした信長は、近江の重要性を十分すぎるほど知っていたのだろう。そのため、叡山焼き討ちという荒っぽいやりかたで、近江の支配権をにぎろうとしたわけだ。その結果、近江は戦乱の舞台となり、多くの寺や仏像が兵火に失われた。日本でもっとも人口当たりの寺院数が多いのが滋賀県だ。その「仏の国」であった近江が、地理的な重要性から戦国時代に修羅の巷になったというのは、何とも皮肉である。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

百済寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 百済寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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