『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

68 三井寺

2023-12-14 | 滋賀県

百寺巡礼第31番 三井寺

戦いの果てに鐘は鳴り響く

 

 

 

6月の下旬、近江八幡、湖東三山、大津と安土、五個荘をそれぞれ一日掛け、3泊4日の琵琶湖の旅。近江八幡に泊り、朝一番で三井寺に参る。4日間琵琶湖に滞在したが、まざまざと琵琶湖を眺めることも無い4日間だった。

滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地に寺。正式には園城寺(おんじょうじ)である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。一般には三井寺(みいでら)として知られる。この寺には多くの文化財が残されている。 それはただ単に量的に多いというわけではなく、 国宝10件(64点) ・重要文化財42件(720点) の国指定文化財が示すように、質の高さはり全国でも屈指のもの。

平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。

寺の歴史   当寺は7世紀の近江の氏族大友氏の氏寺として草創された。9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦4年(993)には、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分された。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。

 

参拝日    令和5年(2023)3月23日(金) 天候曇り

 

所在地    滋賀県大津市園城寺町246                          山 号    長等山                                   宗 派    天台寺門宗                                   寺 格    総本山                                   本 尊    弥勒菩薩                                  創建年    7世紀                                   開 基    大友与多王                                 中興年    貞観元年(859)                              中 興    智証大師円珍                                正式名    長等山園城寺                                別 称    三井寺                                   札所等    西国三十三箇所第14番ほか                          文化財    本堂、勧学院など11件(国宝)    (国重要文化財)    

 

 

 

境内案内図。

 

 

 

 

門前からの風景。

 

 

 

 

 

大門(仁王門)【国重要文化財】    室町時代の宝徳4年(1452)に建立。 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺き。張間2間、八脚楼門形式。

 

もともとは近江の国、天台宗の古刹常楽寺(現在の滋賀県湖南市)に室町時代の宝徳4年(1452)に建てられた仁王門である。それを、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていた。慶長6年(1601)に、それを徳川家康が当寺に寄進したもの。外壁は真壁造り板張り着色、上層部高欄付き、下層部左右仁王像安置。

 

 

 

 

 

金剛力士像(吽形像)。   大門の両脇には運慶作と伝えられる仁王像が安置されている。 文化財に指定のない運慶作の像ってあったっけ? 製作は康正3年(1457)といわれる。

 

 

金剛力士像(阿形像)。

 

 

組物などに群青、緑などの彩色があり、蟇股や木鼻などの彫刻文様、枓栱など組物には室町中期の特色がある。

 

 

 

蟇股。

 

 

 

 

 

 

 

仁王門から参道を見る。

 

 

 

境内側から仁王門を見る。



釈迦堂(食堂)【国重要文化財】     大門を入って金堂に至る道の右側にある。桁行七間、梁間四間、入母屋造、桧皮葺の簡素な構造である。天正年間(1573~1593)に造営した京都御所の清涼殿を下賜されて、元和7年(1621)に移築したものと伝えられる。

 

 

 

 

文政年間(1818~1831)に唐破風の向拝が増築されている。随所に古い手法を残す室町時代の建築で、中世の食堂の形式をよく伝えている。

 

 

とにかく境内が広く、緑が多い。

 

 

手水舎。     本堂に上がる階段の手前左手に位置。

 

 

本堂を階段の下から見上げた。

 

 

本堂【国宝】    現在の金堂は、園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599)に寄進したものである。

 

 

七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。建物全体は和様で統一され、木割太く、全体に低めで軒の出深く、重厚さの中に柔らかさを持つ、典型的な桃山形式の仏堂である。

 

この寺全体の、そして中院の中心となる堂宇。三井寺(園城寺)は文禄4年(1595)に豊臣秀吉によって闕所(けっしょ:追放・財産没収などに本来の所有者・権利者を欠く状態)とされ、堂塔が破却された。金堂は織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山延暦寺の復興の一助として延暦寺西塔に移築され、釈迦堂(転法輪堂)とされた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の西側に閼伽井堂の小さな堂宇。

 

 

 

向拝から境内を見る。遥か前方まで当寺の境内となる。

 

 

向拝を横から見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内陣を見る。     本尊は弥勒菩薩。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、園城寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられているものである。

 

 

堂内は外陣、内陣、後陣に区切られ、内陣の中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにした天台宗本堂の古式を伝えている。

 

 

 

本堂の前の境内。

 

 

鐘楼【国重要文化財】      金堂の左手前にあり、慶長7年(1602)に再建されたもの。近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる梵鐘(滋賀県指定有形文化財)を吊る。

 

 

日本の音風景100選に選ばれNo.58「三井の晩鐘」として登録されている。また、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘の一つとなっている。

 

 

慶長7年(1602)に長吏准三宮道澄が弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして鋳造したもの、乳(鐘上部に付けられる突起)が合計百八個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古とされる。実際に鐘楼を目の前にしてみると、予想以上に大きい。音色は荘厳で美しいといわれる。

 

閼伽井屋【国重要文化財】       閼伽(あか:仏前に供える水)を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」という。金堂の西に接して建つ小堂。格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出している。この泉は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それがもととなって当寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになった。現在の建物は、この霊泉の履屋として慶長5年(1600)、金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。

 

 

随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物である。また、正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある。

 

 

左甚五郎作、龍の彫刻。

 

 

斜め格子の欄間。

 

 

境内の芭蕉の句碑。  奥の細道の長旅を終えた松尾芭蕉は、元禄2年(1689)12月からの2年間を、ここ大津で暮らした。『三井寺の門たたかばやけふの月』。

 

 

 

境内はかなり広い。堂宇は石垣や竹塀に囲まれ雰囲気がある。

 

 

 

階段を上って一切経堂へ。

 

 

一切経蔵【国重要文化財】     室町初期の禅宗様経堂。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602)に、現在の山口県山口市の国清寺(現・洞春寺)の経蔵を移築したもの。

 

 

一間四方だが裳腰付きのため三間四方二層に見える宝形造、桧皮葺。

 

 

 

内部中央には、高麗版の一切経を納める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっている。

 

 

内部の装飾は、色が褪せている者の極彩色だったと思われる。

 

 

三井寺で一般の参拝客が拝観ができるのは大きく三つのゾーンがある。本堂がある中院、大きな塀に囲まれ参道より一段高い唐院、そして大津の市街が見渡せる北院である。

 

参道より一段高く塀に囲まれた一郭が唐院であり、東を正面として一直線上に四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂などが立ち並ぶ。豊臣秀吉による破却後の再興に当たり、慶長3年(1598年)と最も早く再建された。唐院という名称は、智証大師円珍が唐より帰国後の天安2年(858)に持ち帰った経典や法具類を納めるために、清和天皇より仁寿殿を下賜され、伝法灌頂の道場堂としたのに由来する。現在は、円珍の尊像を祀った大師堂を御廟とし、園城寺で最も神聖な浄域とされている。

 

 

四脚門【国重要文化財】        唐院の正門。寛永元年(1624)に再建されたもの。唐院は長らく現在護法善神堂がある場所にあったが、慶長の再興期に現在地に移設された。     

 

 

四脚門を内側から見る。

 

灌頂堂【国重要文化財】      仁寿殿を下賜されたものと伝えられており、五間四方、入母屋造、桧皮葺の住宅風建築で、大師堂の拝殿としての役割を備えている。内部は前後二室に分かれ、伝法灌頂などの密教の儀式が執り行われる。

 

 

手前が灌頂堂で左側に長日護摩堂。

 

長日護摩堂【滋賀県指定有形文化財】   寛文6年(1666)に後水尾上皇の寄進で再建された。三間四方、一重、宝形造、本瓦葺。本尊は不動明王で、長日護摩供を行う道場である。

 

三重塔【国重要文化財】      鎌倉時代から室町時代初期の建築。奈良県の比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を慶長2年(1597)に豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601)に、徳川家康が当寺に寄進したもの。1層目の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されている。軒深く、三重の釣合いよく、相輪の水煙など中世仏塔の特徴をよく表している。

 

 

 

 

 

中院と唐院ゾーンの参拝をすませ、北院ゾーンぬ向かう境内の道。

 

 

 

衆宝観音像。  途中にはこのような石仏も。

 

 

途中の案内板。

 

 

 

微妙寺。  正暦5年(994)に創建。現在は、三井寺の別院。

 

 

毘沙門堂【国重要文化財】    江戸時代の元和2年(1616)に建立。正面一間 側面二間 一重 宝形造 桧皮葺。 

 

もともと三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和2年(1616) に建立され、明治以降に三尾社の下に移築、戦後の修理に際して現在地に再移設。内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいる。

 

 

 

 

昭和62年(1987)に建てられた柳田暹暎の歌碑。『限りなく刻へし如くたまゆらのことのごとしもいま定を出づ』

 

 

観音堂【滋賀県指定文化財】      寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置する南院の一区画である札所伽藍の中心堂宇。正堂、合の間、礼堂からなっている。 江戸時代の貞享3年(1686)に火災にあい、元禄2年(1689)に再建された。 礼堂:正面九間 側面五間 二重 入母屋造 本瓦葺、正堂:正面三間 側面二間 一重 入母屋造 桧皮葺。桁行9間、梁間5間の重層入母屋造、本瓦葺。

 

西国三十三所観音霊場第14番札所として知られる。後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に西方の山上、華ノ谷に創建された。当初は聖願寺や正法寺という名前であったが、文明13年(1481)に現在地に移された。貞享3年(1686)に焼失する。現在の観音堂は元禄2年(1689)に再建されたもの。。

 

 

本尊は智証大師作と伝えられる如意輪観音(国重要文化財)で、33年に一度しか開帳されない秘仏である。内部には多くの絵馬が奉納されている。 その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されている。

 

 

 

堂内には本尊の脇侍である愛染明王像(国重要文化財)、毘沙門天像が安置されている。

 

 

手水舎。

 

百体堂【滋賀県県指定有形文化財】 江戸時代の宝暦3年(1753)の建立。正面三間 側面二間 宝形造。堂内には、正面中央に本尊の如意輪観音像を安置し、左右には西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所のそれぞれの札所の本尊を模した計百体の観音像を祀る。入口の横には大津絵「鬼の寒念仏」が掛けられている。

 

 

 

鐘楼【滋賀県指定有形文化財】      文化11年(1814)に再建。

 

 

元々は「童子因縁の鐘」が下がっていたが、太平洋戦争中の金属類改修令によって供出された。現在は重要文化財の朝鮮鐘を模した鐘が吊るされている。

 

 

観月舞台【滋賀県指定有形文化財】     嘉永2年(1849)に建立された。琵琶湖疏水、大津市街、琵琶湖の景観を眺望できる。

 

 

脚下に足代を組んだ懸造の舞台。

 

 

懸造。

 

 

この札所伽藍区域は、三井寺の中で一番の高台にあり、大津の市街がよく見渡せる。創建当時は、木々も低く、ビルも当然ないので琵琶湖がよく見渡せたのだろう。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー三井寺の歴史をたどっていくとき、延暦寺との複雑な関係と抗争、興亡を無視するわけにはいかない。聞くところでは、三井寺は繰り返し延暦寺に焼き討ちされ、あるいは戦国武将の抗争にも巻き込まれて、これまで大小五十数回もの火災に遭っているという。堂宇を幾度も失っては、そのたびに再建されて甦ってきた三井寺。あたかも不死鳥のようなそのエネルギーは、いったいどこから来ているのだろうか。大門(仁王門)をくぐって、私は金堂の前に立った。ずっと以前から三井寺の名前はよく知っていた。しかし、これだけ威風堂々たる寺だとは、うかつにも想像さえしていなかった。大門、金堂、三重塔、諸堂それぞれが壮大な美しさを見せてたたずんでいる。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

三井寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 三井寺HP フリー百科事典Wikipedia

 

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