百寺巡礼第56番 弘川寺
西行と役行者を結ぶ山
観心寺の河内長野から同じ路線の富田林で下車。富田林駅前からは、日に数本しかない金剛バス(路線バス)で終点の弘川寺前まで20分強で到着。乗客は2人で途中1人下車し、ほぼ貸し切り。ところが、帰りは3時間後にしか便がなく、約1キロ先の住宅地のバス停まで歩いて乗ることになる。この地区の路線バスの金剛自動車は、12月20日ですべての路線バスを廃止するという。
弘川寺は、西行法師の終焉の地になるという寺である。天智天皇4年(665)役小角によって創建されたと伝えられ、天武天皇5年(676)にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。平安時代の弘仁3年(812)に空海によって中興され文治4年(1188)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し、天皇は回復した。その功によって奥の院として善成寺を建て寺号の勅額を賜わった。翌、文治5年(1189)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。
寛正4年(1463)に、河内守護・畠山政長が当寺に本陣を置いて、畠山義就が立てこもる獄山城を攻めたところ、逆に本陣である当寺を攻撃されて善成寺もろとも伽藍は焼失した。その後復興し、江戸時代に入り寛延年間(1747~1750)に歌僧・似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。
参拝日 令和5年(2023)3月2日(木) 天候曇り
所在地 大阪府南河内郡河南町弘川43 山 号 竜池山 宗 派 真言宗醍醐派 寺 格 準別格本山 本 尊 薬師如来 創建年 伝・天智天皇4年(665) 開 山 伝・役小角 中 興 弘仁3年(812) 中 興 空海 札所等 西国薬師四十九霊場第13番ほか 文化財 木造空寂上人坐像、木造弘法大師坐像、木造扁額(大阪府指定重要文化財)
境内図。
バスの終点河内から弘川の小さな集落を少し歩けば、弘川寺の入り口に差し掛かる。
3月の初め、梅の花が真っ盛り。
参道を上る。平成元年(1989)には、西行法師800年遠忌を記念して弘川寺境内から続く山に約1000本の桜が植樹され、桜の名所となっている。
バス停から200mくらいで広川寺となる。
庫裡の前から参道を振り返る。
庫裡門。 本坊の入り口にあたる。
庫裡門の裏側を見る
本坊の堂宇。 庫裡にあたり当日改修工事中。
本坊の入り口。
本坊の庭。 本坊には立派な庭園があるが改修中で中に入れないので、弘川寺庭園は無し。
本坊と本坊の庭園は改装工事中により立ち入りができない状況で、西行記念館の見学もなし。
もみじ谷への通路。 もみじの林が見られる紅葉谷へ、通常は閉鎖。
本堂に向かう。
弘川寺の案内説明板。
正面から見る境内。
本堂。 本堂は畠山氏の兵戦で寛正4年(1463)に焼失。それから500年経った後に再建されたものだそうだが、いつ建てられたのかが資料が見つからない。
他の資料にこの本堂は、京都から移築とあった(?) 入母屋造で唐破風の付いた気品のある向拝。
三鈷の松(さんこのまつ)。 鳥居の右側の松は、高野山にあることでも有名な、三つに分かれた葉が特徴の「三鈷の松」が見られる。 三鈷の松といえば、唐に仏教を学びに行った弘法大師が、修業を終え日本に帰国する際に真言密教の道場を開く場所はどこが良いのかを、占うために三鈷杵(さんこしょ)という密教法具の一つを日本に向けて投げ、それが高野山に生える松の木に引っかかっているのを見つけたことから高野山に道場を開くことにしたという。
隅屋桜(すやざくら)。 楼堂と護摩堂の前にある枝垂れ桜。「河内鑑名所記」や「河内名所図会」に「すや桜」や「規桜(ぶんまわしざくら)」という名称が登場し、南朝の忠臣で弘川城主であった隅屋与市正高が弘川寺にて奮戦し、規桜の下で討死したという記述があるという。規桜は絶えてしまったが「隅屋桜」は今もここに生きている。
御影堂の左側にたつ石造りの鳥居。その奥に小さな社、鎮守堂が建つ。
本堂から左に御影堂。右に護摩堂を見る。
護摩堂。 鐘楼の右に建つ堂宇。
御影堂。 弘法大師像を祀っている。
鐘楼。
西行堂。 延享元年(1744)に広島の歌僧似雲法師が建立した堂宇。当日は屋根が破損したらしく青いシートが屋根を覆っていた。
西行法師の墓のある境内には本堂の横の細い道を5分ほど登る。
西行法師の墓のある境内。
西行法師の墓。 平安の末期、西行上人は私淑した座主の空寂上人を訪ねてこの寺に来られた。そしてこの寺に過ごし、文治6年(1190)2月16日に73歳をもって入寂(徳の高い僧侶が死ぬこと)された。
似雲法師の墓。 江戸中期、享保17年(1732)広島の歌僧・似雲法師は、西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の墓を尋ね当てた。その後、西行の墓の周りに1000本の桜を植え、そのなかに「花の庵」を建てて住み、西行堂を建て生涯を西行に捧げ、自らも81歳でここに没した。
西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。 金沢の歌人尾山篤二郎の揮毫による西行法師の『願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』が刻されている。 享保17年(1732)ここを訪れた似雲法師が、西行法師の墓を探し当て、西行を慰めるため、墓の周りに桜の木を1000本を植えたと伝えられる。
似雲法師の墓の近くにある安田章生の歌碑。『西行人のみたまつつむと春ごとに 花散りかゝる そのはかのうえ』
西行法師の墳墓の傍にある西行の歌碑で揮毫は佐々木信綱の筆。『仏には 桜の花を奉れ わが後の世を 人とぶらはば』
弘川寺のある弘川地区集落を見る。
案内図。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーこうした物語やロマンが生まれてくるのも、西行という人がずっと日本人のあこがれの的だったからにほかならない。それはなぜか、ということを考えたときに、やはり西行の歌が思い浮かぶ。西行が詠んだのは、まず花である。それも、圧倒的に春の桜の歌が多い。桜の花をこよなく愛する愛する日本人が西行の歌を好むのは、当然ともいえる。それだけでなく、西行は月を愛で、旅を愛した。花、月、旅と並べてみると、それは日本人が愛するものにすべて重なっている。日本人が西行を愛するのはそのためだという意見もあるが、言われてみれば、たしかにその通りだという気もしないではない。それ以外に、西行の「自由人」としての側面にこころ惹かれる人も多いにちがいない。俗っぽい言いかたをすれば、彼は若いころに家庭を捨て、妻と子をおいて飄然と旅立ってしまった。そして、それから先の人生は、あちこちに庵を結んで、好きなように暮らし、自然を愛で、歌を詠んだ。そうした拘束や制約のない生活は、じつは、あらゆる人間にとってのあこがれかもしれない。西行が勝って気ままに生きた自由人だという点にも、たぶん日本人は共感を抱いたのではあるまいか。
御朱印。
弘川寺 終了
(ブログ)大阪再発見、ちょっと気になる大阪発史跡旅