百寺巡礼第58番 大念仏寺
衆生のもとに歩みよる本尊
日本最初の念仏道場である。比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により開創した。当時の摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主の平野殿・坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所である修楽寺別院が前身。
第6世・良鎮が寿永元年(1182)に亡くなると、寺勢は振るわなくなった。元享元年(1321)に、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、現在でも行われている法要行事「万部おねり」を始める。元和元年(1615)に、平野庄の代官・末吉孫左衛門より寺地を寄進され堂宇を構え現在に至る。元禄16年(1703)大念仏宗の名称を融通念仏宗に改めた。以後、大念仏寺は融通念仏宗の本山となった。境内地は約7300坪(2300㎡)に30余りの堂宇があり、本堂は大阪府下最大の木造建築物である。
参拝日 令和元年(2019)5月17日(金) 天候晴れ
所在地 大阪府大阪市平野区平野上町1-7 山 号 大源山 院 号 諸仏護念院 宗 派 融通念仏宗 寺 格 本山 本 尊 十一尊天得如来 創建年 大治2年(1127) 開 山 良忍 開 基 鳥羽上皇(勅願) 正式名 諸仏護念院大源山大念仏寺 札所等 河内西国霊場特別客番 文化財 毛詩鄭箋残巻 1巻(国宝)
大阪ミナミのターミナルJR天王寺駅から関西本線の電車で東に5分くらいで平野駅に着く。平野駅のある平野区は大阪市の東南部に位置し、人口は市内で第1位、区域面積は市内で第3位になる。比較的新しい町並みの中に農地や遺跡が存在し、中央部の平野地域は古い家々と多数の神社・仏閣が存在する町並みである。大念仏寺のある平野区平野にある「平野中央通商店街」周辺は、今もなお昔ながらの町並みを残している。その特性を活かした活動の一環として「平野・町ぐるみ博物館」がある。
こちらは昔ながらの建物や寺社など町並み全体を博物館としており、平野区の歴史や文化に触れることができる。博物館は全部で15箇所ある。
JR平野駅。
平野駅前の様子。
平野駅から徒歩で5~6分。境内の周りは築地塀。
大念仏寺の入り口。
短い参道にある句碑『春風や 巡礼どもが 練供養』。寛政7年(1795)3月27日に、この寺に参拝した小林一茶の句。練供養とは万部法会のことだという。
境内図。
山門の前から参道を見る。
山門。 宝永3年(1706)、第四十六世法主大通上人の建立による。棟行二間(3.6m)、梁行九尺(2.7m)、両脇に七尺(2.1m)の壁落ち屋根を付けている。平成15年(2003)に大修理を施した。門、扁額、棟札の三点が大阪市の有形文化財に指定されている。
「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆による。
潜った門を振り返る。大通上人はこの門を融通無碍門と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築き上げていくという融通念仏の功徳を称揚した。
菊の御紋がある木製の門扉。
手水舎。
金剛六角灯籠 頂部に火焔型の宝珠をつけ重厚な灯籠。
本堂【大阪市指定有形文化財】 本堂は寛文7年(1667)に創建されたが、明治31年に焼失。しばらくして昭和13年(1938)に竣工した総欅造り銅板葺。棟行39.1m、梁行49.8mの大阪府下最大の木造建築である。
扁額は「諸仏護念院」と書かれ院号である。
向拝を見る。
白で塗られた木組みの小口。
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。 本堂の回廊に設けられた撫で仏。我が身の悪い所と同じ所を触ることで、悪い所を治すことが出来ると信じられている仏。
外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治36年に再製したもので、約1200顆(か)の欅材からできており、一つ一つの珠に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている、百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。
堂内には正面宮殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来を安置。その両脇に岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之介作の多聞天王、八幡大士の極彩色の木造が立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人の椅像と、建立願主舜空上人の木造を安置している。
回廊から山門と境内を見る。
本堂を横から見る。 整然と並んだ束柱は回廊を支える。
銅板葺きの屋根が素晴らしい。
妻側。
境内を見る。
円通殿(観音堂) 伝教大師作と伝えられる聖観音立像を祀り、左右には大通上人が募った日月祠堂位牌を安置。平成元年改修復元。
扁額「円通殿」は大通上人直筆。
伝教大師作と伝えられる聖観音立像。
地蔵堂 弘化元年(1844)、第子十二世教彌上人が再建した。本尊は蓮台に乗る等身大の木造である。
経堂 第46世の大通上人の創建で、元禄年間の建築。白壁の外観で、堂の中心には回転させる構造の経箱が置かれている。
鐘楼。 平成30年(2018)に改修された入母屋造りの屋根を付けた優美な建物。
鐘は文化3年(1806)に改鋳された名鐘。従一位右大臣藤原家孝公の銘文がある。
霊明殿の隣に位置する龍王殿。前にはお百度石が建ち、廻りは石畳で囲む。
百度石。
霊明殿。 正門、回廊、奉安所、修法堂からなる。創建は保元元年(1156)、第三世明應上人のときと伝える。良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。
その後、寛永年中(1624~1643)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降ここを「権現さま」「お宮」と称した。
今日まで修理を繰り返し正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年頃火災で焼失し、その後昭和5年に旧形のまま建て替えられた。
客殿 瑞祥閣 大念仏寺の塔頭で、葬式や法要などが可能な百畳敷きの書院がある。
玄関。
南門。元古河藩陣屋門で、明治の廃藩後、平野小学校表門として昭和2年まで使用。昭和37年移築したもの。
境内から見た山門。
本堂前の境内全景。
万部おねり 「二十五菩薩聖衆来迎阿弥陀経万部法要」とよばれる大念仏寺の最大の法要行事で毎年5月1日から5日までおこなわれる。
これは、極楽浄土からの来迎の場面を再現したもので、本堂外側に設けられた橋の上を、二十五の菩薩に扮した人々や、本尊の十一尊天得如来の絵軸などが渡っていく。浄土とされる本堂の中では、雅楽が演奏され、菩薩が喧嘩する。この日は門前に様々な出店が並び、大勢の見物客が集まって賑わうらしい。(五木寛之著「百時巡礼」第六巻関西より)
写真はYouTubeより
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー融通念仏宗の大きな特徴といえるのが、「御回在」というユニークな儀式である。総本山と末寺、さらに総本山と末寺の檀信徒とが直接結びついている儀式というのは、他の宗派ではめったに見られないめずらしいものだろう。ふつうは寺のほうから檀信徒に対して、「お参りしてください」という呼びかけをする。そして、檀信徒が寺へ足を運んで本尊を参拝する。ところが、この御回在というのは、総本山の方から本尊を持って、それぞれの檀信徒の家へ出かけていくのである。”中略” 御回在は、「出向いていく」というところに大きな特徴がある。蓮如も、つねに念仏をもって庶民のなかへはいっていくことを教えた人だった。また、阿弥陀如来の「如来」というのは、「真如より来れる人」のことである。すなわち、「如来」には「真理の世界から衆生救済のために来た人」という意味もある。つまり、檀信徒が出かけて行って本尊の前にひれ伏すのではなく、本尊のほうから出向いて行き、衆生に働きかける。向こうから訪れてきて、肩に手をかけて呼びかける。そういう大乗、仏教の精神のようなものが、この融通念仏のなかに流れているのだろう。さらに、御回在では先祖の御威光を願い、その家の願いが成就するように祈る。庶民が願う現世利益というものに、ためらうことなく応えてる。その点でやはり、融通念仏宗は日本独自の市井の宗務であり、庶民の生活と密着した信仰であるといえそうだ。
御朱印
大念仏寺 終了
(参考文献) 大念仏寺HP フリー百科事典Wikipedia 五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊)
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