『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

53 真如堂

2023-11-05 | 京都府

百寺巡礼第25番 真如堂

物語の寺に念仏がはじまる

 

 

朝一番に銀閣寺、つぎに法然院、そして3番目の寺がこの真如堂である。哲学の道伝いの法然院の正面に見える小高い丘に真如堂がある。

永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まり。正暦3年(992)に、一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。しかし応仁元年(1467)に始まった応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失。その後何度かの移転や再建と焼失を繰り返し、現在の堂宇は元禄6年(1693)に東山天皇の勅によって、現在地に移転、再建し享保2年(1717)に本堂が完成。三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。浄土宗の重要な仏教行事のお十夜は、この寺が発祥地。近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月16日(木)天候曇り     

 

所在地    京都府京都市左京区浄土寺真如町82

山 号    鈴聲山

宗 派    天台宗

本 尊    阿弥陀如来(国重要文化財)

創建年    永観2年(984)

開 山    戒算

正式名    鈴聲山真正極楽寺

別 称    真如堂 頷きの阿弥陀

札所等    洛陽三十三所観音霊場第5番

文化財    法華経第6巻(国宝) 本堂(国重要文化財)ほか

 

 

境内地図。

 

 

 

真如堂入り口

 

 

総門。   元禄8年(1695)に完成。真如堂西側の神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないといわれる。通称「赤門」と呼ぶ。

 

 

黒々とした三重塔を右に見ながら、ゆるやかなのぼり坂になっている石畳の参道をあがると、青空をバックにした本堂がゆったりとその全容を見せてくる。私はこの風景が大好きだ。(五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰより)

 

 

三重塔。    高さ30mほど。宝暦年間(1751~1764)に建てられ、文化14年(1817)に再建された。江戸時代の建築様式をしっかり体現し、各層に擬宝珠勾欄を設けた。その姿は古塔の風格を感じさせる。

 

 

 

 

 

 

 

組物や垂木の小口が白く塗られているのが特徴である。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂。  総欅造りの桁行七間、梁行七間の大きさ。一重、入母屋造、正面向拝三間、背面向拝一間、本瓦葺。

 

 

 

 

 

度々の戦火で焼失し、享保2年(1717)に再建。本瓦葺の入母屋造でゆったりと構えている。

 

 

扁額「真如堂」。

 

 

 

 

 

向拝から総門方向(境内)を見る。

 

 

向拝。

 

 

外陣を横から見通す。

 

 

内陣は金箔の天蓋や瓔珞(ようらく)で厳かに飾られている。

 

阿弥陀如来(本尊)。 うなずきの弥陀と呼ばれる。阿弥陀如来は、平安時代の比叡山の高僧・慈覚大師円仁の作。一木造で、九品来迎印の阿弥陀如来立像の中では最も古いとされている。左に不動明王と右に千手観音を従えており、その御厨子は年に1日だけ開帳(一般公開)される。

最澄に師事していた慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木で阿弥陀如来像をつくり、比叡山修行僧の本尊として白毫(びゃくごう)を入れて完成させようとしたところ、如来は首を振って拒否した。「では京に出てすべての人々、特に女性をお救いください」と頼むと如来は三度うなずいたという伝説から、「うなずきの弥陀」と呼ばれている。(写真は真如堂HPより

 

 

本堂から書院への渡り廊下。

 

 

 

 

 

書院の玄関。

 

 

書院玄関の玄関の間。

 

 

書院の廊下伝いに涅槃の庭を拝観できる。

 

 

松の間。 前川文嶺の子息前川孝嶺の襖絵は松の絵。

 

 

 

 

床の間と床脇には天袋と違い棚が付く。

 

 

白梅が描かれた襖絵。

 

 

孔雀の間。    明治38年(1905)に日本画家前川文嶺が描いた襖絵。

 

 

 

 

 

二つの枯山水庭園と一つの路地庭を廊下から拝観できるのが、この寺の特徴でもある。

 

涅槃の庭。  枯山水の庭で、昭和63年(1988)に、曾根三郎氏によって作られた新しい庭。東山三十六峰を借景に、向かって左(北)を頭にしたお釈迦様が右脇を下にして横たわり、その周りを弟子たちが取り囲んで嘆き悲しんでいる様子が石によって表現されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

白砂はインドの大河・インダス川の流れを表している。

 

生垣は高さを揃えた前生垣と緩やかな波を持つ後生垣の二段構成で、借景の東山連峰との調和を考えた造りだといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

南庭。切石による延段と白砂と苔庭の組み合わせの「真」の庭は、涅槃の庭の延長になる。  なお、切石のみで構成した延べ段を「真」、自然石のみで構成したものを「草」、切石と自然石をミックスしたものを「行」と表現する。これは書道の「楷書(真書)」「草書」に倣うもの。

 

 

燈明寺燈籠。  鎌倉時代に作られ、現在の京都・木津川市の燈明寺(現在は廃寺)から寄進されたもの。

 

 

 

 

 

書院中庭。 この先は茶室に繋がる路地庭にしている。

 

 

書院「松の間」。    襖絵の作者は、明治から大正にかけて活躍した鈴木派の祖である鈴木百年の長男であり、上村松園の初めの師としても知られる鈴木松年の筆によるもの。

 

 

 

 

 

松の間から見る隋縁の庭。

 

隋縁の庭。  平成22年(2010)に作られた庭。モダンな庭園造りで知られる日本庭園史の研究家・重森三玲の孫にあたる重森千靑氏によって作庭された。三井家の家紋である四つ目の家紋がモチーフとした意匠。

 

 

 

 

 

 

四つ目の家紋と石を組み合わせた。白砂、黒砂、茶砂の三色を組み合わせている。

 

 

 

 

 

 

書院から渡り廊下を通り、本堂の外廊下をぐるりと回り建物の外に出る。

 

 

本堂の外廊下からは、境内に点在する小さな堂宇が目に入る。

 

 

 

 

 

帰りの本堂から見る三重塔。

 

 

帰りの総門を見下ろす。

 

 

真如堂からすぐ南側に建つ金戒光明寺に。

 

 

案内図

  2月15日 銀閣寺を拝観し、白砂山荘・橋本関雪記念館を見学し「哲学の道」を通り、法然院へ。その後、真如堂に参拝をして最後に金戒光明寺を巡る。ホテルで確認した歩数計は19860歩だった。

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー「往生」と言えば、世間では、死ぬこと、成仏すること、または極楽浄土に迎えられて再生すること、ととらえられているだろう。しかし、私はそれとは少し違ったうけとり方をしている。私は「往生」を「生きていく力があたえられること」「生きる喜びを感じさせること」また「悲しみや不安を抱えながらも、それに負けない真の安らぎを覚えること」というふうに考えてきた。法然は。その「往生」を必死で求める当時の人びとに説いた。「難しい学問や、苦しい修行はいらない。ただ一筋に仏を信じて、念仏を称えなさい。それだけでよい。そうすれば、必ずすくわれるのだから」。これは権利主義が強い当時の仏教界からみれば、相当にスキャンダラスな革命的な言動だ。やがて法然と親鸞は流罪に処せられるのだが、それでも「ただ念仏せよ」と、法然は語り続けた。<中略> では、法然はなんの確信があって、そういうことを人びとに語ったのだろうか。一筋に仏を信じて念仏すれば往生できる、という。しかし、それが本当だと客観的に証明するものはどこにもない。にもかかわらず、法然が確信をもってそれを説いたのには、理由があるはずだ。それは法然自身が「念仏」という「易行」によって、実際に救われた人間だったからだと、私は思う。

 

 

 

御朱印

 

 

 

真如堂 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 真如堂HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ・HP) 庭園ガイド

 

 

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