古寺巡り 金戒光明寺
幕末に京都守護職の本陣が置かれ会津藩や新選組ゆかりの寺
知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つ。また京都四箇本山(他に知恩院など)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族や、公家の茶の湯に使われた「黒谷明星水」という名水がある。
承安5年(1175)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷に下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然はうたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が現れ、対面を果たした。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。なお、この地は元々藤原顕時の別荘があり、叡空に帰依した顕時が叡空に寄進して白河の禅房が建てられたのである。それを法然が貰い受け、次いで顕時の孫である信空が継ぐ形となった。慶長10年(1612)には豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されている。江戸時代初期に江戸幕府によって知恩院とともに城郭風構造に改修された。そのため文久2年(1862)には、京都守護職となった会津藩の本陣となっている。
京都守護職本陣。会津藩主松平容保が、幕末の真っただ中文久2年(1862)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐した。しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。慶応3年(1868)に大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩と長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。
参拝日 令和5年(2013)2月16日(木) 天候曇り
所在地 京都府京都市左京区黒谷町121
山 号 紫雲山
宗 派 浄土宗
寺 格 大本山
本 尊 阿弥陀如来
創建年 承安5年(1175)
開 山 法然
正式名 紫雲山金戒光明寺
別 称 くろ谷さん 白河禅坊
札所等 洛陽三十三所観音霊場第6番 ほか
文化財 三重塔「文殊塔」ほか(国重要文化財)山門、阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)
境内図 (金戒光明寺HPより)
高麗門。 入り口の門で、高さ約6.8m。2本柱に切妻屋根。この形式は城郭用で寺社門としては極めて珍しい造。徳川家康が京都に盤石の礎を 築くため幕府直轄地として二条城を作った際、黒谷と知恩院はいざという時の要塞になると「高麗門」を城構えに建て替えたもの。
よく見ると、寺門というよりも城門。
左側が小高い丘で金戒光明寺の境内であり、その下の参道を進む。
幕末には会津藩が駐屯をしており鳥羽伏見の戦いで戦死した士を弔っている。
大きな山門。
門2階への登り口。
西側横より山門を見る。
山門から京都市街地を見る。
境内から山門を見る。
門を潜って境内を見る。
勢至丸座像。 長承2年(1133)、法然は美作国久米南条の稲岡庄で生まれで、幼名を勢至丸としていた。
山門から御影堂方向。
約4万坪の広い寺域。 会津藩と新選組が駐屯していた幕末のころは、大小52の宿坊を備え、大方丈及び宿坊などに1000名以上の軍隊が寄宿していた。
今でも新選組の旗がひらめく。
鐘楼。
見晴らしの良い高台に建てられた鐘楼。
納骨堂。 元禄2年(1689)に経蔵として建立され、黄檗版一切経が納められていたが、現在は収蔵庫に保管されている。平成23年(2011)の法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理が行われ納骨堂として使用されるようになった。
阿弥陀堂。 慶長10年(1605)豊臣秀頼により再建され、当寺では一番古い建物。本尊は阿弥陀如来。
御影堂【国重要文化財】 大殿ともいう当寺の本堂。法然75歳児の肖像を安置。昭和9年(1934)火災により焼失。昭和19年(1944)に再建された。本尊の阿弥陀如来座像の他、中山文殊、吉備観音などを安置する。
正面の向拝。
向拝を横から見る。
吉備観音像【国重要文化財】。 奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができた。真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらう。この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼ぶ。元は吉田中山の吉田寺に奉安されていたが、江戸時代の寛文八年(1668)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移された。
御影堂の正面から境内を見る。
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した武将・熊谷直實(くまがいなおざね)が黒谷で出家の際、着けていた鎧をかけたと伝わる「鎧かけ松」。平成26年三代目が植樹された。
大方丈唐門 【国有形文化財】 方丈の門で昭和9年(1934)に方丈(国有形文化財) のに火災により、ともに焼失し昭和19年(1944)に再建された。なお、方丈は非公開。
方丈の唐門前から御影堂を見る。
方丈庭園。 (写真はいずれも植爾加藤造園HPより)
清和殿と接続して新清和殿。
新清和殿。
清和殿に繋がり社務所の入り口。
清和殿の正面。 清和殿は安永8年(1779)建立された。
五劫思惟阿弥陀仏。 通常の阿弥陀仏と違い頭髪がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴。石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われる。 「無量寿経」によると、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたもの。五劫とは時の長さで一劫が五つということ。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということ。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏。全国でも16体ほどしかみられないという。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきている。
(写真は金戒光明寺HPより)
案内図
御朱印
金戒光明寺 終了
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