百寺巡礼第32番 石山寺
母の思いと物語に救われる寺
石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(石山寺珪灰石)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。
「蜻蛉日記」「更級日記」「枕草子」などの文学作品に登場し、「源氏物語」の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
石山寺の歴史 「石山寺縁起」によれば、聖武天皇の初願により、天平19年(747)に、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王が現われ、こう告げた。「金峯山の金は、弥勒菩薩がこの世に現われた時に、地を黄金で覆うために用いるものである。現在の琵琶湖の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがってその地、石山の地を訪れた良弁は、比良明の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。その後、天平宝字5年(761)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。石山寺の造営は国家的事業として進められていた。石山寺の中興の祖は、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供である。内供とは、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。「石山内供」・「普賢院内供」とも呼ばれている。
東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃には、だいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。戦国時代の元亀4年(1573)に三井寺光浄院の暹慶が室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をし織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、柴田勝家の攻撃を受けて降伏。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。信長によって寺領5,000石が没収され、信長の死後には豊臣秀吉によって文禄5年(1596)にいくつかの寺領が返還されている。慶長年間(1596~1615)淀君によって石山寺の復興が行われ、慶長7年(1602)には本堂の合の間と礼堂が改築された。
石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している
参拝日 令和5年(2023)6月23日(金) 天候曇り
所在地 滋賀県大津市石山寺1-1-1 山 号 石光山 宗 派 東寺真言宗 寺 格 大本山 本 尊 如意輪観音 創建年 天平19年(747) 開 山 良弁 開 基 聖武天皇(勅願) 正式名 石光山石山寺 札所等 西国三十三所観音霊場第13番ほか 文化財 本堂、多宝塔ほか8件(国宝)東大門、鐘楼ほか(国重要文化財)
境内地図
東大門(仁王門)【国重要文化財】 伝では源頼朝によって建久元年(1190)に建立されたとされる。細部の様式などから本堂の礼堂が建立されたのと同時期の慶長年間(1596~- 1615)に、淀殿によって新築に近い大幅な修理がなされたと考えられる。
三間一戸(桁行三間で、中央の一間が開口)の八脚門(本柱の前後に4本ずつ控え柱が建つ)で、両脇に仁王像を置く。屋根は入母屋造で瓦葺き。
金剛力士像・吽形像。 門の両脇の仁王像で、鎌倉時代の仏師運慶、湛慶の作と伝えられている。
金剛力士像・阿形像。
門から参道を見る。
門を潜ると真っ直ぐな参道が続く。 両側には桜の並木が続く。
石の灯籠。
潜り岩。 参道の右手にある横穴と小さな池。 穴を潜ると願いが叶うというパワースポット。
手水舎の龍の口。
参道が続き、神木となる杉の大木の脇の石段を上ると本堂はじめ堂宇が建っている。
石段を上る。
石段は幾つあったか? 上り切ると正面に多宝塔。
階段を上りきれば、平坦な境内で正面に、凹凸のある奇怪な形状をした巨岩に驚く。正面に多宝塔が見え、左手に本堂が建つ。
石山寺硅灰石(国の天然記念物) 石山寺の名の由来となった岩。石灰岩が変成してできた珪灰石。日本の地質百選に選ばれている。
小高い境内にでて思わず息をのんだ。目の前にそびえる巨岩怪石。まるで頭上にのしかかってくるようだ。これが「石山」という寺の名前の由来となった岩である。(五木寛之著「百寺巡礼」より)
毘沙門堂【滋賀県指定有形文化財】 安永2年(1773)の建立。屋根は宝形で瓦葺。右の建物が観音堂。
建物は方三間であるが、外部からは桁行三間、梁間二間に見え、内部に入ると堂奥より4分の1ほどに柱が4本建つ特異な平面である。堂奥側が須弥壇になっているが、手前の柱に渡された虹梁や組物に特徴がある。
御影堂【国重要文化財】 石山寺開創の祖師、弘法大使、良弁僧正、淳祐内供を祀。元は三昧堂もしくは法華堂と呼ばれ法華三昧の道場であったが、淳祐の住居であった普賢院が倒壊した際に御影を移し、御影堂としたもの。
屋根は宝形の檜皮葺きで頂部に宝珠が載る。
蓮如堂【国重要文化財】 三十八所権現社本殿の南側に位置する懸造の蓮如像などを祀る堂。現存するものは慶長7年(1602)に淀殿により再建されたものと考えられる。平面は桁行五間、梁間四間で、北面一間が広縁となっており三十八所権現社本殿と向かいあっている。堂の入口は東面の妻入であり、東側一間が吹さらしとなっている。屋根は入母屋造で文化8年(1811)に桟瓦葺になっている。
硅灰岩の前から本堂に進む。
本堂の前の境内を見る。
本堂へ。
本堂【国宝】 正堂と礼堂を合の間で繋いだ複合建築である。。現存する本堂は三代目で、奈良時代の草創期に建てられたものは桁行五丈、梁間二丈であったが、天平宝字5年(761)から翌天平宝字6年に、桁行七丈、梁間四丈に改築された。この建物が承暦2年(1078)で焼失し、永長元年(1096)に再建され、慶長7年(1602)に淀殿の寄進で合の間と礼堂が改築され、現在の形式となる。正堂は永長元年(1096年)の再建の姿を良く残し滋賀県下最古の建築である。
本堂の全体像が撮れないためわかりにくいが、本堂の構造は桁行五間、梁間二間の身舎(もや)に一間の庇を廻し、全体で正面七間、奥行四間である。身舎が内陣となっており、慶長年間(1596~1615)に新設された宮殿が設けられている。宮殿内部に如意輪観音を祀るが、隆起した硅灰石が本尊の台座となっている。
入り口側広縁。
本堂の正面は南面であるが、南面は懸造となっているため参拝者は東面の階段を登り礼堂の縁を回って礼堂に入るようになる。 奈良の長谷寺と同じ造り。
礼堂を見る。
合の間として、正堂と礼堂を繋ぐ部屋で天皇や貴族、高僧の参詣時の接待のための部屋があった。その部屋で紫式部が源氏物語を起筆したことにちなむ「源氏の間」とした。本堂の建物は戦国時代末期の再建のため、当時のものではないが、朝廷御用の御所人形司・伊藤久重作の紫式部の人形が置かれ、往時を偲ぶことができる。優美な火灯窓は「源氏窓」と呼ばれている。(写真はネットより)
本堂には外側に欄干のある広縁を廻す。
堂内から広縁を通し外の景色を見る。 うっそうと茂る樹木に囲まれている。
本堂は南側の傾斜地に南向きに建てられており、礼堂部分が懸造となっている。
懸造の寺は、京都の清水寺、奈良の長谷寺など観音菩薩を祀る寺に見られる。
三十八所権現社【国重要文化財】 本堂のすぐ東側にある鎮守社。現存する文献などから慶長7年(1602)に淀殿により再建されたものと考えられる。
建物は大きな一間社流造で全体的に装飾の少ない意匠である。全体に彩色が施されていたが、現在はほぼ剥落してしまっている。屋根は檜皮葺き。
経蔵【国重要文化財】 本堂北東にある小規模な校倉造で、石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた建物。建立時期は伝わっていないが、意匠などから16世紀後期と考えられる。校木を桁行と梁行で高さをずらさずに組み上げている。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっている。
階段を上がると見えた多宝塔。
多宝塔【国宝】 寺伝では源頼朝が、平治の乱の後に石山寺が兄の源義平を平清盛から匿ってくれたことへのお礼で寄進したと伝わる。墨書より建久5年(1194)の建立とわかる。年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。
下層は方三間で、内部の四天柱内に須弥壇を据え、快慶作の大日如来像(重要文化財)を安置する。また、柱や長押に仏画や彩色が施されている。
上層は12本の円柱に四手先組物が載り、深い軒を受ける。屋根は檜皮葺き。
鐘楼【国重要文化財】 寺伝では源頼朝の寄進と伝わるが、細部様式などから鎌倉時代後期と考えられる。
二階建てで平面は上下層とも桁行三間、梁間二間で、上層には縁がまわされる。下層は白漆喰塗りの袴腰、上層は東西中央に扉があり、それ以外は連子窓である。内部には銘が無いが、平安時代のものとみられる梵鐘(重要文化財)が吊られている。下層から撞木を引いて撞く珍しい作りである。屋根は入母屋造で檜皮葺き。
境内は山の斜面にあり、硅灰石を上部から見る。石山寺の名のとおり大きな石がゴロゴロしている。
芭蕉亭。 茶室。
月見亭 石山寺の尾根の東の突端部にある亭。瀬田川や琵琶湖を望む景勝地にあり、ここから見る月は「近江八景 石山の秋月」の図で有名である。
寺伝では保元年間(1156~1158)に後白河天皇が行幸した際に建立されたのがそもそもの始まりと伝わる。現存するものは貞享4年(1687)の再建。建物は桁行一間、梁間一間であるが、東西方向にやや長い平面である。東寄りの正方形の方一間部分は床を上げて舞台状にしている。建具などは無く吹さらし。懸造となっているが、袴腰があるため明確ではない。屋根は寄棟造で、上部は茅葺、下部は杮葺きであったが、平成29年(2017)に茅葺は板葺に葺き替えられた。
月見亭付近から見た瀬田川の風景。
心経堂。 平成2年(1990)に建立。花山法王西国三十三所復興一千年記念で建てられた。
光堂。 平成20年(2008)に石山を発祥の地とする東レ株式会社によって寄進された。。
懸造が特徴の堂宇。
無憂園。 境内の西側の平地に広がる庭園。
東大門の前の様子。
案内図。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー前述したように、平安時代から現在に至るまで、文学者や作家や歌人などたくさんの物書きが石山寺を訪れている。穿ちすぎかもしれないが、その背景には、ものを書く人間が抱えている罪の意識があるような気がする。文章を書くとか物語をつくる仕事は、いわゆる実業ではない。田畑を耕して農作物をつくる、あるいは職人としていろいろなものをつくる、といった生産的な仕事とは違う。非生産的な仕事であり、虚業なのだ。鎌倉時代になると「源氏物語」のように人間の愛欲を描いた小説は罪悪だ、ということになる。そして、紫式部の伝説は、フィクションを書いて人びとを惑わせた罪で地獄に堕ちた式部を石山寺の観音が救済した、という物語に発展していった。小説、フィクションを書くということは、ある意味で非常に業の深い、罪深い事である。そうした畏れのようなものが、ものを書く人間のこころの奥底にひそんでいる。私自身にも、やはりそれはある。自分のようにフィクションを書いて人を惑わす者でも、石山寺の観音はきっと救済してくれる。そんな思いが、かってここを訪れた文人たちの胸にあったのではあるまいか。美しい風景、すべてをあたたかく包んでくれる観音への信仰、蓮如の生母への思い、紫式部にまつわる伝説。こうしたものがすべて重なり合って、石山寺の魅力になっているのであろう。
御朱印。
石山寺 終了
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