夜の純粋
夜の帷が降りてくる。それはわたしをすり抜けたことばがあったからで、ほんとうは体は夜を透明にすり抜けてしまう。だからあなたもわたしもいる。ねんねん夜が神秘的になり。
夜に染められるものは実は何もない。暗さという光に包まれているようなのだ。ぬばたまということばのおもたげな感触を、体なのか心なのか意識は、無意識の中で、しっかりとはかっていて、ゆめのなかにはひとと、こんぜんいったいとなった夜がねがえりをうっている。ぬばたまは小さな黒い実なのだそうだ。ぬばたまは言葉として学び、髪のような黒いものの枕詞だと教わったので、枕もすっかり重たくなってしまった。
駅から家までのまっすぐな道に、病院がアーチのようにまたがる。どういう経緯でそうなったのか歴史は知らないけれど、てんてんと道を挟んで棟が分かれ、棟と棟とを、2階部分にあたる渡り廊下がつなげている。時にまだそこが明るくて、振り返る人のその瞬間を切り取っている。
誰と話しているのかな。患者さん?先生?見舞いに来た家族?わたしも何度か行き来したその廊下の下をくぐって帰る。そのことを思う夜もあるし思わない夜もある。右側の棟のいかにも裏口きどった扉から夜、お父さんは出てきたのだった。あんなにおしゃべりだった人が、もう話すこともなくなって。
どうか夜が比喩ではありませんように。なわとびのように、すれ違う人と人、互いにタイミングをずらした視線を投げかけあって、この夜に収まっている。この(不思議な)じかんのかんじは現実で十分。ゆめのなかでじゅっぷん。わたしは歩く毎日。夜という透明な空気にかくまわれて。地下鉄の駅から階段をのぼり、人工的な光から地上に出ても夜。銀糸で縫ったような灯りの続く商店街の通りを、同じように銀糸をのぞかせる厚い空を見上げながら泳ぐように歩く。
いつか地上に生きるすべてのひとが夜を毛布のように感じられるときがくる。と思ってみる。もはや人工的に見えてしまうほどに美しい月がある。
でも闇のほうが自然で、明るいことが特別なのだとしたら?昼を住み処とする私たちだから、明るさを当然のように思ってしまう。けれど光は在ることによってあたえられる。在るものはいつか無くなる。無いことが自然なのだとすれば。闇が本来だとすれば。
神秘的だと感じるわたしはどこから生まれてきたのか。わたしは何に包まれているのか。繰り返される夜は、ねんねんしんしんと深まっていく。ねんねんしんしんと風に吹かれ、いつか消えていく二十億光年の彼方へ。
見えるものが少ないから見えてくるものもあって、昼間とはまた別の道も見えてくる。ほんとうの夜は軽く、明るい朝は重い。見えすぎてしまうからだ。見えすぎて見えなくなる。見えすぎない夜に映し出されるものは毛布にくるまれている。そう感じるのは、わたしが人工物の町の回路に埋め込まれているからだろうか。それとも、わたしの野生が月を見ているからだろうか。
おかえり。
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