職場の近くにあるセブンイレブンに好きなおばさん(店員さん)がいる。朝、そこでときどきコーヒーを買う。「いらっしゃいませー」「ありがとうございまーす」というおばさんの声が聞こえるとうれしくなる。厚みがあって、低いところで裏返るような感じの声。そのおばさんの声がわたしはとても好き。なにがどう、と言えないのだけれど、声を聞くとうれしくなる。心地良い楽器の音色を楽しんでいるみたいに。お店に入って、レジに並んで、おばさんの姿が見えたり、声が聞こえたりすると、あ、いる、とほくほくする。おばさんに呼ばれるのを待っている。
先日はお弁当を持って行かなかったので、お昼用にサンドイッチとパンを選んでレジに並んだ。今日もいるいるおばさんが。肩にかからないくらいの長さの髪で、右側は耳の後ろに小さめのバレッタでとめているのが、かわいい。笑顔は見たことがない。でもいつも一生懸命働いている感じ。だから無愛想だと感じたことはない。
おばさんがこちらにどうぞの合図に手を挙げた。いそいそとレジへ。わたしはその朝ほんの少し惨めな気持ちだった。それを奮い立たせよう、とわずかにがんばっていた。おばさんの真向かいに立つ。「いつもありがとうございまーす」と言ってくれた。あ、わたしのこと覚えてくれているんだと思ってうれしくなっておばさんの顔を見た(たぶんいつも見てる見てしまってる)。目が合う。「今度この近くに姉妹店ができます。このチラシをお持ち頂ければピーナツチョコをお配りします。よろしければどうぞ」おばさんの声をたくさん聞けた。わたしは「はい」と大きな声では出さずとも、うんうんと一生懸命うなずいた。するとお釣りを渡すとき、おばさんが下から手を添えてわたしの手を挟むようにして渡してくれた。
ところで、わたしはレジで店員さん(若い子に多い気がする)が手を握るようにしてお釣りを渡してくれる、あれが実は大嫌い!ひとと体が触れ合うのが嫌いなわけではない、うれしいときもたくさんある。潔癖症でもない。手はよく洗ってしまうけど、ひとが素手で握ったおにぎりを食べるのも平気。でも、この、なんというか、マニュアルなのか、好意なのか、好意の見せつけなのか、よくわからない、そして決して拒否できない(気づいたときには握られているのだもの、ふり払うわけにもいかないし)行為が、されたあとに「またやられたっ!」と地団駄踏みたくなるほど(でもないか)嫌いなのだ!
なのに、このときのおばさんの行為にはわたしはうれしくて涙がちょちょぎれそうになった。なぜいつもは嫌いなことが、このときにはうれしかったのか。これまでおばさんに対して、手を握りやがって、と思った記憶がない以上、たぶんこれまではもっとさらっとお釣りを渡してくれていたと思うのだ。しかし、上記のやりとりのなかできっと今回はなにか、こうしたほうがいい、ととっさに感じるところがあった、おばさんとわたしとの間に発展した関係性があったゆえの行為だった、からなのではないか(もちろんこのおばさんが好き、ということがまずあるのだけれど)。なんて。そう考えると、いつも、店員さんお釣り渡すSpecialみたいな行為が嫌いな理由も自分で少し理解できるような気がする。なんの関係性もない中で、相手がどういう人間かもわからずに、「わたしがこうすること、もちろんうれしいでしょう」という気持ちの押しつけのようなものを感じるから、なのではないか。それでいてどういう意図でそれをするのかの意味がわからない。ぬくもりではなく、気持ちの悪いぬるさのようなものがべちょっとまとわりつく感じがして、急いで体から引き剥がして捨てたくなる(なぜかとても暴力的に思ってしまう……)。その店員さん自身がとてもぬくもりを求めていて、思わずお客さんの手を握ってしまう、ということなら、たぶんぜんぜん嫌じゃないと思うのだけれど。
と、書いてきて、話がずれていたことに気が付いた。わたしは今回ただ、よく行く、でもないか、ときどき行くセブンイレブンのおばさんのことを書きたかったのだった。おばさんの声を聞きたいから、今日もセブンイレブンに寄っていこう、と思うわけでもないし、お店に入ってから、あ、おばさん、と思い出すくらいの、ほんとにわずかなものなのだけれど、道端に咲いているかわいい花を見つけたときのようなわたしの楽しみなのであった。
こんなふうに、風景のようにちょっとすれ違うだけのひとにもひとは、ちょっとしたうれしさみたいなものをもらえるんだな、それも特別大きなものではなくてほんとにちいさなもの、ということがほんわりとろうそくの一本。
なんてことを思うのは、自分に向かって自作自演の小芝居をしているようなものかしら?
そしてこういう文章を、体にまとわりつく嫌な感じだと思って拭って捨てたくなるひともいるかしら?
そうだとしたらごめんなさいです……。
まな板の上に咲く花
マグカップの中の土星
きになる鬼瓦
先日はお弁当を持って行かなかったので、お昼用にサンドイッチとパンを選んでレジに並んだ。今日もいるいるおばさんが。肩にかからないくらいの長さの髪で、右側は耳の後ろに小さめのバレッタでとめているのが、かわいい。笑顔は見たことがない。でもいつも一生懸命働いている感じ。だから無愛想だと感じたことはない。
おばさんがこちらにどうぞの合図に手を挙げた。いそいそとレジへ。わたしはその朝ほんの少し惨めな気持ちだった。それを奮い立たせよう、とわずかにがんばっていた。おばさんの真向かいに立つ。「いつもありがとうございまーす」と言ってくれた。あ、わたしのこと覚えてくれているんだと思ってうれしくなっておばさんの顔を見た(たぶんいつも見てる見てしまってる)。目が合う。「今度この近くに姉妹店ができます。このチラシをお持ち頂ければピーナツチョコをお配りします。よろしければどうぞ」おばさんの声をたくさん聞けた。わたしは「はい」と大きな声では出さずとも、うんうんと一生懸命うなずいた。するとお釣りを渡すとき、おばさんが下から手を添えてわたしの手を挟むようにして渡してくれた。
ところで、わたしはレジで店員さん(若い子に多い気がする)が手を握るようにしてお釣りを渡してくれる、あれが実は大嫌い!ひとと体が触れ合うのが嫌いなわけではない、うれしいときもたくさんある。潔癖症でもない。手はよく洗ってしまうけど、ひとが素手で握ったおにぎりを食べるのも平気。でも、この、なんというか、マニュアルなのか、好意なのか、好意の見せつけなのか、よくわからない、そして決して拒否できない(気づいたときには握られているのだもの、ふり払うわけにもいかないし)行為が、されたあとに「またやられたっ!」と地団駄踏みたくなるほど(でもないか)嫌いなのだ!
なのに、このときのおばさんの行為にはわたしはうれしくて涙がちょちょぎれそうになった。なぜいつもは嫌いなことが、このときにはうれしかったのか。これまでおばさんに対して、手を握りやがって、と思った記憶がない以上、たぶんこれまではもっとさらっとお釣りを渡してくれていたと思うのだ。しかし、上記のやりとりのなかできっと今回はなにか、こうしたほうがいい、ととっさに感じるところがあった、おばさんとわたしとの間に発展した関係性があったゆえの行為だった、からなのではないか(もちろんこのおばさんが好き、ということがまずあるのだけれど)。なんて。そう考えると、いつも、店員さんお釣り渡すSpecialみたいな行為が嫌いな理由も自分で少し理解できるような気がする。なんの関係性もない中で、相手がどういう人間かもわからずに、「わたしがこうすること、もちろんうれしいでしょう」という気持ちの押しつけのようなものを感じるから、なのではないか。それでいてどういう意図でそれをするのかの意味がわからない。ぬくもりではなく、気持ちの悪いぬるさのようなものがべちょっとまとわりつく感じがして、急いで体から引き剥がして捨てたくなる(なぜかとても暴力的に思ってしまう……)。その店員さん自身がとてもぬくもりを求めていて、思わずお客さんの手を握ってしまう、ということなら、たぶんぜんぜん嫌じゃないと思うのだけれど。
と、書いてきて、話がずれていたことに気が付いた。わたしは今回ただ、よく行く、でもないか、ときどき行くセブンイレブンのおばさんのことを書きたかったのだった。おばさんの声を聞きたいから、今日もセブンイレブンに寄っていこう、と思うわけでもないし、お店に入ってから、あ、おばさん、と思い出すくらいの、ほんとにわずかなものなのだけれど、道端に咲いているかわいい花を見つけたときのようなわたしの楽しみなのであった。
こんなふうに、風景のようにちょっとすれ違うだけのひとにもひとは、ちょっとしたうれしさみたいなものをもらえるんだな、それも特別大きなものではなくてほんとにちいさなもの、ということがほんわりとろうそくの一本。
なんてことを思うのは、自分に向かって自作自演の小芝居をしているようなものかしら?
そしてこういう文章を、体にまとわりつく嫌な感じだと思って拭って捨てたくなるひともいるかしら?
そうだとしたらごめんなさいです……。
まな板の上に咲く花
マグカップの中の土星
きになる鬼瓦
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