「写真ごころ」の入り口
小連載『極意で学ぶ 写真ごころ』についての解説(『アサヒカメラ』2008年3月号)
現在『アサヒカメラ』で連載している「極意で学ぶ写真ごころ」は、日本文化の「極意論」と絡めて、「写真ごころ」とは何かを考えるエッセイを冒頭に、「基本」でありながら、「極意」である実技を伝授する講座です。
写真ごころとは、写真における表現をめざす態度であり、現実の先に永遠なるものを視ようとする思いのことですが、今月号(3月号)では、「不射の射」を考えてみました。
「不射の射」といえば、「射らずして射る」という、まさに神業の世界です。
大正時代の弓道の大家・阿波研造師は、線香で照らしただけの暗闇の中で二本の弓矢を放ち、一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の筈に当たり、一本目を引き裂いていた、という逸話があります。師は「それ(仏)が射た」と語りました(ドイツの哲学者のオイゲン・ヘリゲルの著作『弓と禅(日本の弓術)』より)が、「仏が射る」とはすなわち、仏と呼ぼうが神と呼ぼうが、宇宙本体の大本の力による業、という意味になるでしょうか。武道では、古来より中国の神仙術のごとき、こうした離れ技を伝えています。
もとより、達人の世界は、常人の想像を絶する世界ですが、芸術の創造行為も、どこかこうした人智を越えた力の助けを得ています。いわゆる芸術のインスピレーションの源がどこかと考えると、それは自然の生命力だったり、さらに現実の時空の先に広がる次元(無意識)からの働きかけによるものです。
詩人が万物から「声なき声」を聴くように、画家は見える世界を通して、その先にある「見えない世界」を視ようとします。
私にとっては、絵も写真とは、自分の意識をそうしたより大きな世界に結びつける「こころの窓」の役割を果たしています。
「不射の射」とは、写真においては、「撮らずして撮ること」「視ずして視ること」と『アサヒカメラ』誌に書きましたが、それを追体験することが難しいようでしたら、一心に何かに打ち込んでいる自分を想像してみてください。
「無我夢中」という喩えのとおり、音楽を演奏するとき、絵を描くとき、詩を綴るとき、踊りを舞うとき、スポーツで記録に挑んでいるとき…でも、何でもいいのです。その時に、我を忘れることで、音楽そのもの、絵そのもの、詩そのもののエネルギーに自分を投げ入れ、どこか「永遠なるもの」に繋がっていく感覚が得られれば、それが「絵こごろ」であり「写真ごころ」「詩ごころ」の入り口となるのです。
『アサヒカメラ』の小連載では、極意論を語りながら、技に託された精神性を、また写真ごころについて考えながら、こうした芸術の中に宿された永遠性を語っていきたいと思います。
毎回、哲学的な話を短い文章の中で語らなければならず、言葉足らずになってしまいますので、今回は少々「難しい」というご感想をいただきましたので、連載の解説をこの場で試みてみました。
どうか連載の方もご愛読ください。
伊藤美露
2008年3月1日
(ブログの図版は『アサヒカメラ』3月号のp.176-177の見本です(最終稿ではありません)。(c) text and photo by Miro Ito for Asahi Camera/Asahi Shimbun Co., Ltd.)
☆☆☆☆☆☆☆☆ 好評連載中 by 伊藤美露 ☆☆☆☆☆☆☆☆
「極意で学ぶ 写真ごころ」(『アサヒカメラ』朝日新聞社)
2008年の3月号のテーマは「写真の『不射の射』とは何か」」p.176~179
☆☆☆☆☆☆☆☆ 日本図書館協会選定図書 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『魅せる写真術 発想とテーマを生かす撮影スタイル』
著:伊藤美露 定価 : 2,079円 B5判/160P/オールカラー
ISBN 978-4-8443-5921-0
発行:株式会社エムディエヌコーポレーション
小連載『極意で学ぶ 写真ごころ』についての解説(『アサヒカメラ』2008年3月号)
現在『アサヒカメラ』で連載している「極意で学ぶ写真ごころ」は、日本文化の「極意論」と絡めて、「写真ごころ」とは何かを考えるエッセイを冒頭に、「基本」でありながら、「極意」である実技を伝授する講座です。
写真ごころとは、写真における表現をめざす態度であり、現実の先に永遠なるものを視ようとする思いのことですが、今月号(3月号)では、「不射の射」を考えてみました。
「不射の射」といえば、「射らずして射る」という、まさに神業の世界です。
大正時代の弓道の大家・阿波研造師は、線香で照らしただけの暗闇の中で二本の弓矢を放ち、一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の筈に当たり、一本目を引き裂いていた、という逸話があります。師は「それ(仏)が射た」と語りました(ドイツの哲学者のオイゲン・ヘリゲルの著作『弓と禅(日本の弓術)』より)が、「仏が射る」とはすなわち、仏と呼ぼうが神と呼ぼうが、宇宙本体の大本の力による業、という意味になるでしょうか。武道では、古来より中国の神仙術のごとき、こうした離れ技を伝えています。
もとより、達人の世界は、常人の想像を絶する世界ですが、芸術の創造行為も、どこかこうした人智を越えた力の助けを得ています。いわゆる芸術のインスピレーションの源がどこかと考えると、それは自然の生命力だったり、さらに現実の時空の先に広がる次元(無意識)からの働きかけによるものです。
詩人が万物から「声なき声」を聴くように、画家は見える世界を通して、その先にある「見えない世界」を視ようとします。
私にとっては、絵も写真とは、自分の意識をそうしたより大きな世界に結びつける「こころの窓」の役割を果たしています。
「不射の射」とは、写真においては、「撮らずして撮ること」「視ずして視ること」と『アサヒカメラ』誌に書きましたが、それを追体験することが難しいようでしたら、一心に何かに打ち込んでいる自分を想像してみてください。
「無我夢中」という喩えのとおり、音楽を演奏するとき、絵を描くとき、詩を綴るとき、踊りを舞うとき、スポーツで記録に挑んでいるとき…でも、何でもいいのです。その時に、我を忘れることで、音楽そのもの、絵そのもの、詩そのもののエネルギーに自分を投げ入れ、どこか「永遠なるもの」に繋がっていく感覚が得られれば、それが「絵こごろ」であり「写真ごころ」「詩ごころ」の入り口となるのです。
『アサヒカメラ』の小連載では、極意論を語りながら、技に託された精神性を、また写真ごころについて考えながら、こうした芸術の中に宿された永遠性を語っていきたいと思います。
毎回、哲学的な話を短い文章の中で語らなければならず、言葉足らずになってしまいますので、今回は少々「難しい」というご感想をいただきましたので、連載の解説をこの場で試みてみました。
どうか連載の方もご愛読ください。
伊藤美露
2008年3月1日
(ブログの図版は『アサヒカメラ』3月号のp.176-177の見本です(最終稿ではありません)。(c) text and photo by Miro Ito for Asahi Camera/Asahi Shimbun Co., Ltd.)
☆☆☆☆☆☆☆☆ 好評連載中 by 伊藤美露 ☆☆☆☆☆☆☆☆
「極意で学ぶ 写真ごころ」(『アサヒカメラ』朝日新聞社)
2008年の3月号のテーマは「写真の『不射の射』とは何か」」p.176~179
☆☆☆☆☆☆☆☆ 日本図書館協会選定図書 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『魅せる写真術 発想とテーマを生かす撮影スタイル』
著:伊藤美露 定価 : 2,079円 B5判/160P/オールカラー
ISBN 978-4-8443-5921-0
発行:株式会社エムディエヌコーポレーション
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