今年も人夫々、諸々の感慨を秘めながら行く年を送り、新しい年を迎えようとしている。何人かの知友人が又去って逝った。だが当方は、有難いことに70代最後の年の瀬を迎え、来年傘寿世代の仲間入りをする。今日迄生かされて来たことに感謝し、来年以降も平凡だが普通の老人でありたいと願っている。
この寒さの中、ベランダ横の公園の桜達は、今は唯じっと寒冷に耐えている。春になれば、若葉をつけ、開花程なく満開の姿を見せて呉れる。そんな桜達をベランダから観る度に、桜達の逞しさ・強さ・可憐さに共感するものがある。反面、残りは限られ、白頭老化が進む老生だが、先を憐れむこと勿れ、傘寿を迎えても、心迄もが萎えること勿れである。ベランダ横の桜達は、そんなことを行く年来る年の自分に教えて呉れているようだ。
初唐時代の詩人、劉 廷 芝(:651年-- 679年)の「代悲白頭翁 (白頭を悲しむ翁に代わる)」と題する漢詩の中に次のような一節がある。
古人無復洛城東 古人また洛城の東に無く
今人還對落花風 今人還って対す 落花の風
年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり
歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず
寄言全盛紅顔子 言(げん)を寄す全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐 この翁白頭真に憐れむべし
伊昔紅顔美少年 これ昔紅顔の美少年
前記のうち当方は、「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同・・」の件(くだり)が大好きだ。毎年花は同じように咲くが、この花を見る人々は毎年移り変わり、昔紅顔の少年も、今はすっかりくたびれた白髪老人になっている・・との部分である。花と人の生涯を端的に詠んでいて、心に響く余韻を感ずるからだ。