気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

拙作「MyHp」の終完

2016-12-29 10:11:26 | 故郷

 11年前に立ち上げた次の見出し画面(老生余話)のホームページ(HP)を、H28年末を以て閉じることにした。利用しているホームページビルダーなるアプリケーションソフトは便利ではあるのだが、ブログと異なり①記事更新上の決まりごとが多々あり、②更新には手間・暇がかかること。③加齢とともに面倒な更新が億劫になったことなどが、その理由だ。

日本海に面した我が故郷は、福井県三方郡美浜町の西に位置し、周囲約4kmの日向湖(三方郡内五つの湖中唯一の塩水湖・最深部水深約50m)の湖畔沿いに約250戸の集落が繋がる漁村である。小学6年~中2の頃は、夏ともなると悪餓鬼共と対岸まで泳ぎの競争をしたり、素潜りをして手製の銛で魚を突いたりして遊んだものだ。

今は太公望に人気の釣り堀に週末ともなると遠くからの釣り客で賑わうし、五湖と日本海を見渡せる梅丈岳はこの地方での観光ルートの拠点にもなっている。その展望所の一角には、美浜町出身の歌手:五木ひろしの持ち歌「ふるさと」の歌詞が刻まれた歌碑もある。

そんな思いが詰まった故郷のことや時評・人生訓・体験記など諸々の記事とスナップ写真に残した数々の思い出をしっかり胸に刻んで「老生余話」なる11年余のHPを閉じることにした。

 


ふるさとの長寿番付表に関して思うこと。

2016-09-25 19:53:18 | 故郷

義弟が先日「ふるさと美浜の長寿番付表」を送って呉れた。早速、老人施設で世話になっている今年96歳の義母の長寿番付は、如何に・・と表を観た。

小結の欄の最後の方にその名を見つけた。96歳なのに未だ「小結」のランクかと思った。時節柄、上には上があるものだと感心した。件の長寿番付には、該当者の名前と年齢それに格付けが印字されている。

その表を要約して略表にしたのが下図の表である。

88歳以上のご老人がこんなに多いのかと認識を新たにした。我々の子供の頃には、米寿過ぎの高齢者は殆どいなかった。

ところで、厚生労働省の統計(H28.7.1発表)によると、日本人の平均寿命は、男子80.79歳、女子87.05歳となっているから、僅か1万人足らずのふるさとの町に、米寿以上の長寿者が370人余もいても当然であろう。

思い起こせば、この方々は、戦後の困窮・混難な時代を生き抜き、今日の「ふるさと」創生に大変尽力された方々でもある。だから改めて長寿番付表に掲載されている長寿町民の皆さんに心から敬意と祝意を表したい。

この長寿番付表に関連して、深刻に考え、気付かされたことがある。それは、めでたい長寿の裏版に潜んでいて、静かに進行中の町民人口の減少化に関する問題だ。

結論から先に言えば、当方の試算によると、84年後には、町民人口は零になってしまう。つまり町が消えることになるからだ。その理由は簡明だ。

毎月ふるさと美浜町役場から送付されて来る「広報みはま」誌末記の「人口の動き」に関するデータによれば、町の人口は、この23年来、前月比平均で毎月10名前後の人口減が続いている。

近未来対策がなく、この傾向がこのまま続けば、25年後には町人口は現在の約3分の2、約6,900人に、50年後には約3分の13,900人に、そして、84年後には町民が誰もいない無人の町化することになるからだ。長寿を喜んでばかりではいられない先行き心配な近未来が半世紀後に迫っているのだ。

今、日本は主要都市部を除き、全国的に人口減少期に入っている。町の人口減化は国全体の人口減とリンクしているので、避けては通れない問題であり、先行き実に寂しい限りである。風光明美な「ふるさと美浜」から、人がいなくなる時代が、そんな近未来に来るのかと思うと寂寞たる思いがする。

そんな忌むべき事態にならないよう町当局は、県国の施策と連携し「ふるさと」の持続的創生に尽力されているようだ。だから、先行き寂しい話は無用な心配で消えて欲しい。

ふるさとの長寿番付表を観ながら、ふとそんなことも思い浮かんだ。滅多に帰らない「ふるさと」であっても、「ふるさと」は、「加齢と共に愛着が増す心の原点だ」。

だから、わが「ふるさと」は、尻すぼみの未来ではなく、人口減を抑えながら、若者にとっても住み易く、かつ今後も長寿者を温かく育める、生命力旺盛な「ふるさと」であり続けて貰いたいものである。

 


「主役退場」に関する二つの問題

2016-06-22 00:31:51 | 故郷

この約1ケ月の間、殆どのマスコミが、競って興味本位的な論調で報じ続けた「舛添問題」は、「食い逃げ」のような「主役の退場」という極めて後味の悪い形で終わってしまった。

「主役の退場」に関する第一の問題は、都議団の攻めが途中から「疑惑追及」よりも「知事追落し」を優先したが故に、諸々の疑惑・疑問の解明が出来ないまま茶番劇が幕引きとなったことだ。

真相解明と再発防止策をこよなく願っていた都民はじめ多くの国民の期待は、又しても裏切られた。

・都民はじめ国民が前記の事柄に関し、最も知るべきだったことは、何故古くて新しい「政治と金」「公私混同・公費無駄使い」に関する問題が又起きたのか、その背景事情や原因は何なのか。ということではなかったかと当方は思う。

・何故、知事就任前の政治資金の使途に関することが問題になったのか、その法的な規制や抜け道はどうなっているのか。そんなことに関するマスコミ報道は殆どなかった。

・「不適切だが違法ではない」などと云う屁理屈がまかり通るような政治資金の使い方を許している法律がある限り、「舛添知事追落し」は「蜥蜴の尻尾切り」と同じで、いずれ、又どこかで「第二・第三の舛添問題」は起きることになりはしないか、そんな危惧は残ったままだ。

・前知事を厳しく追及した都議会議員諸氏には、月額60万円、年額で720万円もの政務調査費と称する「公費」が無税で支給されている。この使途について、「自分は一点の曇りもない」と自信を以て答えられる議員は果たして何人いるのだろうか。突けばボロが出る議員がいるとすれば、己を省みて「舛添問題を他山の石」とすべきであろう。都議会議員諸氏の公費使用についても、今後厳しい監視の目が向けられることだろうから、今後も都民代表は、「庶民目線で都政に携わる公僕」であることを片時も忘れてはならない。

・この際、全ての議員諸氏や政治家は与野党を問わず、襟を正し、「舛添問題を機に政治資金規正のあり方をはじめとする政治と金の問題を基本に立ち返って見直そう」などという、意見提言があって然るべきだが、どこからもそんな動きが全く出て来ていない。実に情けないことである。

今回に限らず、国内では毎年の如く「政治と金をめぐる悪しき事例」が「茶の間の話題」になり続けているがこれは誠に残念なことだ。でもこれが現実だから、日本の政治は三流だと云われ続けるのだろう。

「主役の退場」に関する第二の問題は、この「主役」は、結果的には「才はあっても徳なき志士だった」が故に「自ら墓穴を掘った形」になったことだ

「せこいとか、ずるいとか」極めて低次元の表現で酷評されたように、この「主役」は、政治家としての常識的な資質が結果的に大きく欠落していた。そんな資質の政治家の本性を見抜けず、擁立擁護して来た与党の責任も又実に大きいし、騙された都民は不満の向け先に窮している。

序に云えば、都知事の取り巻き陣の自浄作用も十分に機能していなかったとすれば、取り巻き諸氏も猛省し、今後は知事に対しても是々非々主義を貫く勇気と姿勢を示して貰いたい。

いずれにしても、731日の選挙だけで約50億円、この4年間で3回目となる知事選には累計で120億の税金が又使われることになる。

次の都知事選では、国内外で真に認められる賢人が新都知事に選ばれることを切に願いたい。しかし、現状では参院選がらみの与野党間の駆け引きもあってか、党派を超えた賢人の知事候補が現れて来そうな情勢ではないから、これ又大変残念な成り行きである。


イチロー選手の偉業とその評価

2016-06-17 12:56:28 | 故郷

大リ-グ・マリナーズのイチロー選手が、6月15日のパドレス戦で元レッズの英雄ピート・ローズが持つ安打記録を超えて、日米通算4257安打(日1278、米2979)の記録を達成した。

野球が盛んな国々では賞賛の論評も多いのは当然だろうが、中には「日本のプロ野球のレベルはMLBと3Aの中間位だから、リンゴの数にオレンジの数を足して記録の比較をする訳にはいかぬ。イチローの安打には変なバントヒットのような「せこい安打」もあるから、ヒットの質の面でも一律に比較出来ない。王の868本塁打がホームランの世界記録として認められていないように・・云々」と冷めた評論が、特に米国内ではかなりあるように報じられてもいる。 

 確かにそんな観方もあるだろう。しかし、42歳の華奢な男(米国サイドから観て)が厳しい競争社会のMLBで、これ迄も年間100試合以上も守備につき、今年35分の打率を維持し、あと21安打でメジャー通算3000本安打記録を達成(過去30人)するところまで来ている。このこと一つを観ても如何に彼が「すごい野球人」であるかが理解出来る。

今回の記録達成を祝して国内朝刊各紙は特集記事を組んだり、号外を出したりしてイチローの偉業を称えた。斜に構えた評価もあろうしかし、国内外の普通のプロ野球人では到底この偉業は望んでも達成できない。イチローだから出来たのであろう。

意外なことに彼の視力は0.4だそうだが、・並々なら努力で優れた動体視力(眼筋を動かして「もの=ボール等」を追う瞬時のスピード、画面に映る一瞬の数字の読み取りをイチローは8桁数字まで正確に読めるとのこと)と強靭な体力・気力(大リーグ通算16年間で故障者リスト入りは僅か1回)の常時錬成・人の倍以上の努力を欠かさない自己試練に加え、天性にも恵まれ、そうしたことが今日の偉業に繋がったのであろう。

誠に慶賀な偉業だと率直に喜び、更なる記録に挑戦してもらいたい。                                           哲人のようなイチローの野球に関する語録も聊か哲学的である。その一部を列挙しておこう。

・しっかり準備していないのに、目標を語る資格はない。

・何かを長期間、成し遂げるためには考えや行動を一貫させる必要がある。

・自分の形を見付けておかないと、どん底まで突き落とされる。準備というのは、言い訳の材料となりう るものを排除していく。そのために考え得るすべてのことをこなしていく。

・こがれを持ちすぎて、自分の可能性をつぶしてしまう人はたくさんいます。自分の持っている能力を活かすことができれば、可能性が広がる。

・プレッシャーはかかる。どうしたってかかる。逃げられない。なら、いっそのこと(自分にプレッシャーを)かけよう。

野球に限らず、道を求めて進む人全ての者が以て銘すべき含蓄のある言葉であると思う。


古くて新しい「憲法関連問題」(4)

2015-02-22 17:22:41 | 故郷

現行憲法改正の是非論に関する最大の論点は、憲法第9条の規定内容とその解釈・適用についてのことであろうと当方は思う。第9条では、1項の「戦争放棄」と2項の「戦力不保持」「交戦権の否認」に分けて次のように規定されている。

1項:日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

2項:前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない。

確かに文言から受ける印象は、立派な戦争放棄宣言である。だが、1項の規定を素直に読めば「全ての戦争を放棄している訳ではない。」と解釈するのが自然である。

だから歴代政府は、この9条の解釈については、日本は、国家固有の権利として認められている自国自衛のための自衛権までも放棄した訳ではない。」故に「自衛のための必要最小限度の軍事力は、9条2項の戦力に該当しない。」永久に放棄したのは、国際紛争解決の手段として行う戦争と武力による威嚇又は武力の行使である」という解釈をして来ている。

しかし、この解釈は、「伏字を辿って繋ぐ読み取り解釈」のようなものであり、異なる9条観を生む理由にもなっている。これが問題の第1である。

2の問題は、「国際紛争解決の手段としてではない、自衛のための武力による威嚇又は武力の行使は、現憲法の下でも許される。」との解釈も、無理な解釈だ。何故なら、自衛目的で始まった自国周辺での武力行使と雖も、国際的に観れば地域における国際紛争であり、その紛争が長引いたり、武力行使の範囲や程度が拡大したりすれば、関係国が絡む国際的な紛争解決の手段としての戦争に発展する虞が多分にあるからだ。

かってのベトナム戦争がそうだったし、目下休戦中だが、ウクライナ内の紛争が代理戦争に至る恐れも指摘されているように、自国内又は隣国との紛争が、国際紛争に発展するとの観方もあることは確かである。

3の重大な問題は、9条2項の「戦力不保持」及び「交戦権の否認」に関する規定とその解釈についてである。「自衛のための必要最小限度の軍事力」の保持は可能。だからその範囲内で整備されているとされる「現在の自衛隊の軍事力」は「戦力」でない。との見方は常識的に解釈しても、「9条の拡大解釈」だと言わざるを得ない。

周知のとおり、現在の自衛隊は、世界第5位の防衛費(H26年度約4.9兆円)で維持され、最新の装備と質の高い陸海空自衛隊員(総数約23万人)を有している。現行自衛隊の編制・機能・国内外での活動と潜在戦力や諸外国からの評価等の現況を至当に評価すれば、「自衛隊は事実上の軍隊であると評価・認識すべきである

9条2項の規定と現在の自衛隊の実態が、如何に乖離・食い違っているか」多くの国民も基本的にはそう認識しているし、この認識は正直で正しい認識だと思う。

4の問題は、我国は、交戦権を否認した国だが自衛の為の「交戦=戦い」は許されると解釈されている点である。わが国の戦争放棄に似たイタリヤ憲法11条には「・・・、国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する・・。」との規定はあるが、同国憲法には、交戦権の否認についての規定はない。

なお、防衛省の防衛白書では、交戦権は自衛権は別個の概念で、この交戦権は「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であると説明されている。しかし、この解釈が9条2項の「交戦権」とどう繋がるのか、理解しにくい。

第5の問題、それは、日々訓練に励んでいる隊員諸氏が、自衛隊の憲法上の位置づけについて、一様に信じて疑わない定見を有しているか疑わしいと観られていることだ。その遠因は、9条の規定に由来しているからであろう。

この傾向は、自衛隊創立後61年の今日も全く変わっていないだろう。加えて、集団的自衛権の行使容認等を前提とする「安保法制」関連論議が進んでいる昨今の情勢の下で、「自衛隊の役割拡大」に伴う疑念は広がるばかりだろう。

政府は、国民に対し「自衛隊の役割拡大と憲法9条等との関係」についても、機会を捉えて認識啓蒙すべきだ。しかし、この問題は政府にとっても「痛し痒し」の問題のようで、さしたる努力は未だ為されていない。

自衛隊の任務は、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする(自衛隊法第3条)」と規定されている。

そのために、自衛隊は、年々整備強化されている。なお未だ防衛力は不備だと観ている軍事専門家諸氏の意見もあるが、しかし、現在の自衛隊の実態を市民目線で観れば、「自衛隊は立派な軍隊であり、自衛官は軍人である」との見方が多かろうと当方は思う。

6の問題は、国民各層に潜在している「軍隊・軍人は軍国主義に繋がる」との負の意識是正について、歴代政府による啓蒙努力が殆どなされず、むしろ避けて来ていることである。

こうした努力の欠如もあり、「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。(自民党の改憲草案)」と聞いただけで「自衛隊に対する負のイメージ」が増幅される風潮を生じたりしている。

諸外国では「自衛官は軍人として遇されている」ことを示す最近の具体例がある。それは、ソマリヤ沖周辺での多国籍軍による海賊対処部隊の司令官に、日本の海上自衛隊の海将補がその任に当たる(輪番制でH27.5末~7.23)と報道された(2月3日防衛省発表)」ことである。

海外では事実上軍人扱いになっているが故に、優秀な高級将官が限定的とは云え、多国籍軍の司令官に任命されたのだと当方は解釈した「自衛隊を軍隊、自衛官を軍人」に位置づけることに伴う諸々の法的対応努力は今後逐次推進されるだろうが、改憲の際は、誤解・疑念のない条文として明文化されて然るべきだ。

いずれにしても、国民の大多数が認めている自衛隊が、「政府の解釈改憲」上は「合憲」だとされていても、それは厳しく評すれば「政治的詭弁」であり、解釈上は「自衛隊を継子扱い」しているようなものだ。そう感じている国民も少なからずおられることを信じている。

おわりに、現行憲法9条の全文を読んで素直に、「確かに自衛隊は、存在及び期待されている役割の面でも条文上全く疑義なし」と確信をもって理解・認識出来る人は、相当練れた憲法解釈通か或いは理屈抜きの自衛隊支持者、乃至は「定見のないイエスマン」だと当方は思う。

以上のような諸疑問が近い将来改憲条文の中で解消されることをこの頑固爺は、心から期待している。次回は、「諸外国における国民の防衛義務」のことについて若干紹介したい。