久し振りに田舎から取り寄せた”へしこ”を昼食時に食べた。このおかずを食べる度に、これが副食のメインだった子供の頃の食卓風景を想い出す。
へしことは、端的に云えば「魚の漬物」である。鯖などを背開きにし、米糠と塩それに若干の調味料を加え、約1年重石をして漬け込んだ発酵食品のことである。へしこの名は、”圧魚”とも書く。若狭地方で重石をして漬け込むことを”へしこむ”というところからその名が付けられたようだが定説はない。元々は、厳しい冬場、漁も出来ない時期の保存食として、どこの家庭でも漬物樽で作られていた。子供の頃は、又「へしこ」なの?とお袋に愚痴る程副食としてよく食べさせられた。当時は、鯖の他に、ふぐ(河豚)、鯵、鰯、いか、たこなどもへしこ漬けにしていた。その中でも”ふぐ”のへしこは絶品で、これが出された時は流石に愚痴は云えぬ位、極上の味だった。
ところで、このへしこなる加工食品は、近年は加工対象の魚種も鯖に限定されているものの、世間のグルメ風潮の中で見直され、いつ頃からか故郷美浜は”へしこ”の町としてもネーミングされるに至っているし、各種の健康雑誌やTV・ラジオでこれ迄何度も紹介されている。今では、Lサイズもので、1本約1800円程もする高級?食品扱いになったが、初めて食した人の殆どは”美味だ”と評し、へしこファンになる人も実に多い。
軽く焼いてお茶づけやおにぎりの具にしたり、焼かずに軽くスライスして酒のつまみにして食するのが一般的な食べ方だ。とにかく、やみ付きになる味だ。故郷のこのへしこの味は、今でも老生にとっては忘れられない”おふくろ”の味でもあることに変わりはない。
愚生が若狭湾に繋がる福井・美浜町の日向湖に面した寂れた漁村で、雑貨屋を営む家の次男坊として生まれたのは1935年(昭和10年)6月だった。
父は、18歳で叔父さんを頼って米国に移民、約10年ロサンゼルスの日本人街で働き、28歳で帰国して雑貨屋を開業。29歳で旧朝鮮の京城(現在のソウル)病院で看護婦だった母と結婚。
その3年後に愚生は生まれた。故郷に住んだのは18歳迄である。
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子供の頃は、湖岸でよく黒鯛や鯵釣りをした。夏場、外海(日本海側)の海岸で素潜りをしてサザエや鮑取りをしたり、春秋には里山で多くの餓鬼共と木登りや杉鉄砲で遊んだり、椎の実を摂って食べたりした記憶は今も鮮明である。
近年その湖上には、養殖筏やハマチ・アイナメ・メバル等が釣れる人気の釣堀りで風景も変わって来ている。しかし、我が心の中の故郷は昔のまま変わってはいない。中学当時の在京の同級生はもう僅か3名になってしまった。元気の証に時に会食もするが、話題は今も故郷の今昔話しが多い。遠くにあっても故郷は実に有難い。暫し偲ぶだけで心が癒される想い出の泉なのだから。
父は、18歳で叔父さんを頼って米国に移民、約10年ロサンゼルスの日本人街で働き、28歳で帰国して雑貨屋を開業。29歳で旧朝鮮の京城(現在のソウル)病院で看護婦だった母と結婚。
その3年後に愚生は生まれた。故郷に住んだのは18歳迄である。
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子供の頃は、湖岸でよく黒鯛や鯵釣りをした。夏場、外海(日本海側)の海岸で素潜りをしてサザエや鮑取りをしたり、春秋には里山で多くの餓鬼共と木登りや杉鉄砲で遊んだり、椎の実を摂って食べたりした記憶は今も鮮明である。
近年その湖上には、養殖筏やハマチ・アイナメ・メバル等が釣れる人気の釣堀りで風景も変わって来ている。しかし、我が心の中の故郷は昔のまま変わってはいない。中学当時の在京の同級生はもう僅か3名になってしまった。元気の証に時に会食もするが、話題は今も故郷の今昔話しが多い。遠くにあっても故郷は実に有難い。暫し偲ぶだけで心が癒される想い出の泉なのだから。