前回迄のような「ややこしい話」は暫し止め、「人の死・自分の死」のことについて書き出していた矢先、今朝友人の訃報を受けた。
昨今知友人の不幸を知らされる機会がめっきり増えた。このことは、いずれ別稿で触れることにして、この稿では、愚生の「欲張りな長生き目標」のことについて書きたい。
人は一般に、若いうちは「生きていることが当たり前」だと思い、中年以降になると、これからも「生きていたい」と感じ、高齢になるに従い、これからは願うことなら、「元気で長生きしたい」という「生についての意識」を潜在的に有しているのだそうだ。
自分の人生を振り返ると確かにそう思う。この潜在意識はいずれの人にもあるのだろう。しかし、世の中には若い頃から、いろんな事情で厭世的意識から抜け出せず、悶々として日々を過ごす人もおられるだろう。中年の頃の一時期、当方にもそれに似た時期があった。
しかし、「傘寿」間もない今は、これからも、もっと元気で長生きしたいとの「願望」がむしろ増して来ている。生きることに対する執着心が強いのか、厚釜しいのかそのいずれかであろう。「人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老い朽ちる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。・・・(サミュエル・ウルマン「青春」の詩の一部)」ものらしい。
彼の詩は、中年以下の者向けに書かれているように思う。けれども、この詩の全文は、年代を問わず、人生における「気力(意志力)」の大切さを教えて呉れている名言が詰まっているので、愚生が最も好きな詩でもある。
とは言え、「生きる意思」がどんなに強くても、「天命」か「運命」かは知らないが、「命」には「限り」があり、いつか終焉の時を迎え、それが突然来る場合もある。その日が「明日」かも知れないのにそのことを感知する術を知らず、我々はこの世を生き、生かされている。
だからその面では、時に「運命の悪戯に翻弄される場合もある」が、生涯を通して観ると人は「有難い生き方」をしているのではないかと思う。
愚生は、当面の生存目標を少なくともあと6年、85歳迄。叶うことなら、次なる目標は更にその10年後の95歳迄だと勝手に設定している。
理由は以下のように至極単純なことだ。
・現在、軽い持病はあるが、大病に至る兆候はなく、至って元気で「未だなお生きられそうな、自信のようなものがある」こと。
・5年後の東京オリンピックを孫と会場で観戦し、世紀の臨場感を実感したいこと。(昭39年の東京オリンピック時は、代々木選手村の警備支援に関った経験もあり、2度目の東京オリンピックを今度は、じっくり観戦し、冥途土産の一つにしたい。)
・急逝した兄や94歳迄元気だった父の分も含め親族一の長寿者で終わりたいこと。
・「多死社会の到来」が昨今話題にもなっている中で、15年後の世の中がどう変化発展しているか、孫・子や親族がどう成長・変化しているかよく見納めたい思いも強いこと。
そのためにも、その時まで寝たきりにならず、足腰に多少の衰えはあっても、認識力が普通程度に残っていて元気であることが前提なので、その時迄日々相応の努力は今後も続けたい。・・・以下次稿