1、当方が、人生の「老後」を自分自身の「老後」として、痛切に意識したのは、65歳で再々就職をするようになったのに、未だ終の棲家さえ決まっていなかった頃のことである。
今のところ当方は、至って元気なので、今年83歳の人生峠は無難に越えられるだろうと思ってはいる。先のことは解らないから、余計なことはせず、余生をただ閑居して静かに生きるのも老後における生き方のひとつかも知れない。しかし、当方はそんな生き方はしたくはない。
2、最近、渡部昇一著の「知的余生の方法」(新)潮新書を読んで改めてそう確信した。「老いを生きる」者は、須らく常に自分に知的及び身体的刺激を与えながら生きた方が、充実感もあるし、忍び寄る認知症の予防上も望ましいと信じているからである。
そんな思いもあって、最近は未更新状態がかなり続いたが、そのmyblogや有志Netへのメール投稿、更にはもう15年余も続いている日誌の継続、NHKラジオ講座(以前は「まいにち中国語」、最近は、遠山顕の英会話楽習)の受講等を細々と続けている。
3、こうした努力の習慣化により、義務感よりも充実感が得られるので、「学び知ることは、結構楽しいこと」に通じている。
当方は、「心は丸く腹立てず、口慎めば“いのち”長かれ」という人生訓( 京都・大徳寺大仙院の尾関宗園 住職の名言)が好きだ。老いてからの「怒り」は、一利もなく、百害あるのみだ。
どうせ先は短いのだから、余計なことは避けて無難に生きられればそれで由とする人生はつまらないと思う。
4、江戸中期の俳人,滝瓢水(ひょうすい)は、「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」との秀句を残しているそうだ。引用されている前記の書には、その解説は記されてはいない。しかし、プラス志向で生きるべしとの趣旨で述べられている箇所での引用なので、当方は、この句の意味は、濱に着いて海に入る 迄の間には、時雨で濡れるのだから、態々蓑を着け濡れないようにして行かなくよい筈なのに・・と観る人は思うだろう。
しかし、そんなことは海女たちも十分承知のうえで、彼女たちには、雨に濡れて浜に向かう見にくい姿を、人には見せたくないという純粋で前向きな気持ちがあったのだろう。滝瓢水は海女のそんな気持ちを察して詠んだのだろうと当方は解釈した。
5、最近は、特に時の移り変わりの早さを実感している。短期日のうちに黄泉の国入りする同僚・同輩が年々増えているのもその一因だろう。
「どうせ・・」お迎えが近い「年だから・・」「・・しても」「・・だけ」で、「・・だ」と云うような退嬰的な語句もよく耳にするようになった。日常生活の中で、そんな言葉や気持ちが先行するようでは、とても前向きな生き方は出来ないだろう。
6、年々老いて、「冥途の使者のシルエット」が見え隠れするように感じられるようになっても、「お迎えは未だ早い、行く準備は、終活の一環として既に始めているので、頃合いを見て出直して来るように・・・」と願っている。
当面は、「2020」年を通過点として余裕をもってクリアし、願わくば「卒寿」の坂を越える頃迄は、是非そうありたいものである。