MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯966 ポスト・グローバリズムの行方(2)

2018年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム


 引き続き、11月1日の総合情報誌「GQ」に寄せられた、神戸女学院大学名誉教授の内田樹(うちだ・たつる)氏による「ポスト・グローバリズム時代の構造的危機」と題する論評を追っていきます。

 内田氏はこの論評において、流行の「なんとかファースト」という言い回しは、社会の中にある共同体的な世界観を「分断」する際に用いられる典型的な表現だと説明しています。

 「なんとかファースト」という考えを整理すれば、資源を無計画にばらまかず、効果的に傾斜配分すべしという「選択と集中」に収斂すると内田氏は言います。なので、集中させる先が狭ければ狭いほどその効果は大きくなり、(突き詰めれば)ひたすら縮減する方向に作用するということです。

 つまり、一度「なんとかファースト」と言い出した後は、資源分配先が広がるということは絶対に起こらない。不可逆的に同質性を求めた細分化が進み、「みんなで分け合って」リスクをヘッジしようという方向には決して戻らないという指摘です。

 一方、今日、世界に国家主義的な言説が広まっているのは、実は国家という存在が崩れかけているからではないかと内田氏は考えています。

 国民国家に対する信認や期待に揺るぎがない時には、別に「お国のために」働くことを人に強要したりする必要はない。「国のため」「国益のため」ということがうるさく言い立てられ、政府が私権私益の抑制を求めてくるのは、人々が「国」という公共を信じないようになったからだというのが、氏の認識です。

 本来なら公共の場に差し出してみんなで共同管理すべき資源を、(それぞれが)自分の懐に抱え込んで占有しようとするようになった。氏はその理由を、人々の間で公共に対する信頼が失われつつあるところに見ています。

 政治家や官僚たちが公共のためよりも私利私欲や私的なイデオロギーの実現に夢中になっているせいで、公共への信用供与を国民が控えるようになってきた。政府も市民も、どちらもが「公共を信頼し、公共に資源を託すこと」を嫌がり始めたことが、ポスト・グローバリズムの時代の構造的危機のひとつの形だと内田氏はしています。

 さて、(氏が言うように)世界がこうした「分裂の時代」を迎えているとすれば、日本はどのような姿で生き残っていけばよいのでしょうか。

 内田氏によれば、幕末時点で国内には、「藩」と名のつく行政単位が276あったということです。

 これらが統廃合されて明治4年に1使3府302県に再編され、そのわずか2カ月後に、今度は1使3府72県に縮減された。さらにそれでも多いというので37府県にまで減らされて、明治23年にだいたい今のかたちに落ち着いたということです。

 その間わずかに20年余。府県数が短期間にこれだけ増減したという事実からは、明治政府が地域をどう区分するかについて明確な「哲学」を持っていなかったことがわかると内田氏は説明しています。

 一方、江戸時代かそれ以前から続いた「藩」を中心とした枠組みは、百万石の大藩もあるし五千石の小藩もあるものの(それぞれ)同格の「国」であり、そこには領主がいて家老がいて、武芸指南役がいて藩校があって能や茶の宗匠がいた。全国に「一国の統治者」という意識を持って政治に携わっていた人(大名)が300人近くいて、重臣たちとともに藩の統治や活性化に(まさに)命を懸けていたということです。

 こうして250年以上続いた「藩」は、人材育成システムとしても、リスクヘッジ・システムとしてもきわめて優れたものだったと内田氏はこの論評で説明しています。また、そうであればこそ、日本は明治維新の後、短期間に近代化することができたということです。

 一方、今の日本には、こうした藩のようなしっかりした自治単位がなく、権限は中央政府に集中していると内田氏は言います。だからこそ、中央でどれほど失政が続いても「代わる人がいない」という理由で30%の国民が内閣を支持している。

 でも、(ちょっと考えればわかるように)統治システムの安定をまず配慮するなら、「代わる人」が次々出てきて困らないように統治システムは設計されるべきであることは言うまでもありません。つまり、「代わる人がいない」という現状が意味しているのは、制度設計自体が間違っているということにほかならないと氏はしています。

 一方、アメリカの50の州政府は連邦政府に対して強い独立性を持っていると氏は指摘しています。州ごとに法律が違い、税制が違い、教育制度が違う。なので、先般、カリフォルニア州ではトランプ政権に反対して独立しようとか、カナダと合併したらどうかという議論がなされるほど、国家というものに対しても柔軟な対応が可能となるということです。

 (翻って)次の時代を考えれば、本邦の地方自治体も中央政府に対してさらに強い独立性を持つべきだと内田氏は考えています。そうした仕組みを持つこと自体が国の多様性を担保し、国を活性化することに繋がることになる。

 しかし、何よりその最大のメリットは、構成員の「公共に対する信認」を育てることだというのが内田氏の認識です。

 周りの人たちを「同胞」と感じることができる社会のくくりは、独立した一定の権限と責任が与えられた「運命共同体」の中からしか生まれない。人々の分断を避けるには、お互いのリソースを投げ打ってでも協働して守らなければならない(共通の)ものが必要だということでしょう。

 その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることができるのか。この問いが今ほど切実になったことはないと結ばれたこの論評における内田氏の指摘を、(この分断の時代に)私も大変興味深く読んだところです。



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