前回に引き続き、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」に掲載されていた、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事の内容を追っていきたいと思います。
若者たちがしばしば口にするようになった「親ガチャ」なる言葉。その本質的な意味に関し、同記事は、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事の今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介しています。
子供たちが成長の過程でその心身に刻む「体験」の量や質の違い。そうした体験の格差が、子供たちの将来にも大きな影響を与える時代が訪れていると今井氏はこの著書で指摘しています。
ここでいう「体験」とは、ピアノや水泳、サッカーなどの習い事だけでなく、旅行に行ったり、自治体の活動に参加したりすることも含むもの。恐ろしいことに、資金力の差によって生じる「経験値の差」は、学力にも影響しかねないというのが氏の認識です。
世帯年収別にスポーツ系と文化系のそれぞれについての参加率を見ると、どの年収でもスポーツ系のほうが文化系よりも高い参加率となっている由。また、スポーツ系でも文化系でも、世帯年収が高いほど参加率が高くなっていると氏は指摘しています。
具体的には、まずスポーツ系では、年収300万円未満の家庭で36.5%の参加率であるのに対し、600万円以上の家庭では59.8%と1.6倍を超える格差となっているとのこと。同様に文化系でも、300万円未満の家庭では17.6%の参加率である一方で、600万円以上の家庭で31.4%と、1.8倍近くの格差となっているという話です。
文化系の「体験」では、音楽の参加率が最も高く、それに習字・書道が続く形となっているとのこと。世帯年収間での参加率の格差についても、音楽の方が習字・書道よりも大きくなっているということであり、様々な費用が掛かる音楽にその差が現れやすいようです。
確かに明治の昔から、「ピアノを弾ける」というのは「お嬢さん」だったことの証のようなもの。貧乏人の倅がそろばん塾や習字の先生に通う一方で、良家の子女や深窓の令嬢は、教養のひとつとしてピアノやバイオリンくらいは嗜んでいるのが「あたりまえ」なのでしょう。
いずれにしても、現状、スポーツ系であれ文化系であれ、「放課後」の体験の機会を一つ以上得ている割合は、世帯年収600万円以上の家庭であれば7割を超えているのに対し、300万円未満の家庭では半数に満たないと氏はしています。
さらに、体験の格差は「習い事」ばかりで生まれるものではない。旅行やスポーツ、ボランティアなどの経験も、その後の階層形成に大きな影響を与えると氏は話しています。
五感を伴う記憶は長期にわたって残りやすい。氏によれば、例えば旅行は学びの入り口の宝庫だということです。そして、知的好奇心を刺激された子どもは学ぶこと自体に前向きになるケースが多い。旅行一つとっても、子どもたちの学力格差を助長しかねないというのが氏の懸念するところです。
さらに同書によれば、こうした体験数の差が、経済力とも連動しているという指摘もあるようです。富裕層は豊富な資金で望む限りの体験をさせる余裕があり、子どもの能力が伸びやすい。彼らは推薦入試に強く、就職においてもよい結果を残すことが予想されるとのこと。
そして、様々な体験をした(そうした)子供たちが新たな富裕層へとなり替わっていくことになる。つまりそれは、体験活動を通して社会階層が再生産されているということだと氏は説明しています。
一方で、貧困層は資金に乏しく、習い事や旅行をする(させる)余裕がない。子どもの体験活動自体に興味がないから、調べようとも思わない。すると、子どもの知的好奇心の成長は個々人の才覚に依存してしまい、一部の才能ある子ども以外は負のループから抜け出せないということです。
さて、お金のない家の子供には、興味の切っ掛けや能力開花のチャンスすら与えられないというのは、それはそれで(なんとも)希望のない残念な話。確かに私自身、子供のころからピアノやスキーをやったり、海外旅行に連れて行ってもらったりしていたら、この人生もどんなに豊かなものになっていただろうと思わないではありません。
一方、我が身を振り返れば(例えば耐え忍ぶことのできる根性だったり、人に共感できる優しさであったり)貧乏な家庭や、田舎暮らしの体験の中で身に着けられる貴重な感覚というものがあるのもまた事実。
子どもたちには是非、それぞれの未来が開けるような様々な体験を(偏ることなく)積んでほしいものだと、記事を読んで改めて感じた次第です。
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