MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯302 放射能恐怖への立ち向かい方

2015年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム


 イギリス在住の免疫学者で、ユニバーシティカレッジロンドン上席主任研究員の小野昌弘(おの・まさひろ)氏のブログ(2015.2.14)から、もう少しだけ、福島第一原発事故に伴う放射性物質の漏出に対して混乱が続く日本社会の動きに関する意見を引いてみたいと思います。

 先日、このサイトで紹介したように(←2015.2.13「放射能恐怖というおばけ」)、小野氏は日本人の心を捉えて離さない放射能への恐怖心(「放射能おばけ」)が、我が国における放射線問題の解決を困難にするばかりか、日本の民主政治自体を麻痺させているのではないかと指摘しています。

 放射性物質が周囲に放出された場合、一定以上の汚染が見られる(明らかに危険な)地域から人々が後退しなければならないことは言うまでもありません。一方、もともとの放射線量と同じ程度しか検出されない地域に住むことには問題がない。つまり論争が生じるのは、両者の間に生じるある意味「曖昧」な領域をどう捉えるかというところにあると小野氏は考えています。

 氏は、「おばけ」というものは、基本的に何も見えない真っ暗闇でも明るい太陽の光の下でもなく、茫漠とした暗がりに現れるものだと言います。そして「放射能おばけ」もその例に漏れず、確実に安全だという部分と確実に危険だという部分のあいだにある、こうした(ほの暗い)場所に生まれ得る存在だとしています。

 低線量放射線の影響はずいぶん分かってきたといえ、未だ「灰色」の領域が存在しているというのが小野氏の認識です。しかし、(冷静に目を凝らせば)この「灰色」の領域は、決しておばけに満ちた恐怖の世界ではないと氏は断じています。

 この領域には、既に数十年の間、広島・長崎の重い経験をもとに社会と科学の力で光が当てられ続けてきた。そして、そうした人類を挙げた努力の結果として、例えて言えば湖の波打ち際のようにいつも揺らいで見えても、風景全体から見ればごく小さく静かな揺らぎに過ぎないという(安定した)状況にある。
 
 だから、人々のあいだに理性的な対話が成り立ちさえすれば、民主主義的手続きで低線量放射線の対応策をつくるのに(それほどの)大きな困難はなかったはずだというのが小野氏の認識です。

 しかし、現実には「放射能おばけ」が様々な不安を抱える人の目の前に現れ、問題を複雑化している。そして、福島の人々と県外の人々、被災地とその他の地域、専門家と非専門家、原発労働者とそれ以外の人々を分断しているということです。

 小野氏は、放射線の危険性をめぐる議論の幅は、科学が唯一の回答を与えるわけではないからこそ生まれる幅であり、社会の知性が問われる幅であるとしています。

 放射線問題についてどこかで境界線を引かなければならない以上、(民主主義社会のもとでは)この線引きは誰かが一人で行うのではなく、社会の責任で決めなければならない事柄であるのは自明だと小野氏は考えています。だからこそ、人々のあいだの対話と理性的な議論に基づく妥協と合意形成が何よりも重要となるということです。

 もともと民主主義の手続きには、忍耐が伴うものだと氏は指摘しています。誰しも自分が正義だと思っている中で、罵声ではなく議論を重ね幅広い社会的合意を目指さなければならないのだから、社会の理性的な合意事項として境界線を引くことが簡単であるはずはない。

 特に、行き先の見えない巨大な困難を目の前にすると、人々は自ら問題に向き合う意志を失い、強いもの(そして大きな声)に依存してしまいがちとなる。問題が大きくなればなるほど、民主主義社会を継続するためには強い意志が求められると小野氏はここで述べています。

 小野氏は、科学が唯一の回答を与える存在ではない以上、実は境界線をどこに置くかというのは絶対的な(正解があるというような)問題ではない。むしろ社会の中での幅広い「合意事項」としての境界線を設定できるかどうかの方が重要だと、この論評を結論付けています。

 どこで「線引き」をするかを決めるのは、最終的には科学を超えた人間の「英知」である。それゆえに民主主義的な問題解決のためには、武器としての科学的知見を最大限に生かしつつ、幅広い人々の理性的な合意を目指すという強い「意志」が必要だと小野氏は言います

 戦後70年、日本の民主主義がどこまで成熟しているのかが今、試されている。小野氏の論評を読んで、私もそうした思いを強くしたところです。




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