MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯301 放射能恐怖というおばけ

2015年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム


 東京電力福島第一原発の事故を踏まえ、福島県では震災以来、県内に暮らす子供たちに対して放射線の被曝(ひばく)による甲状腺への影響を継続的に調査しています。

 事故当時18歳以下だった県民を対象に行われていた個別検査が一巡したことから、昨年8月、調査結果が県から(暫定的に)公表されました。

 今回の調査では、昨年6月までに受診した約30万人のうちの104人(約0.035%)に甲状腺がんやその疑いが指摘されたところです。しかし、この数字を巡っては、(事故の影響があるのかないのかという点について)どう判断すべきなのか、現在でも専門家や関係団体など間で様々な議論が交わされ続けているということです。

 従来の医学的知見では、小児の甲状腺がんの発生率は(平常時で)100万人当たり1~3人(0.01~0.03%)とされています。しかし、こうした一般的な発症率はあくまで通常生活の中で見つかったケースを積み上げたものであり、今回のような悉皆的な調査から得られた知見ではありません。

 環境省が主催する「専門家会議」がこの12月にまとめた中間報告では、そうした要素に加えがんを発症した年齢層がチェルノブイリ原発事故とは異なることなどから、「今回の調査結果を見る限り、現時点で事故の影響があるとは認められない」との判断がなされています。

 しかし、このような専門家グループの見解に対しても、データ公表に伴いWeb上を中心に様々な立場からの指摘が行われ、その中には調査の真偽を疑い専門家会議や行政の姿勢を批判する厳しい意見も少なからず見られるところです。

 現在、原発事故により漏出した放射性物質の健康への影響に関する見解は、放射線の低線量被曝による人体への影響に関する知見の少なさや、政府や県、東電への不信感なども相まって、評価者自身の事故に対する政治的なスタンスにより大きく割れていると言っても過言ではありません。

 日本におけるこのような状況に関し、ユニバーシティカレッジロンドンの上席主任研究員で医師の小野昌弘(おの・まさひろ)氏は、1月3日の(そしてそれに続く)自身のブログに、「今の日本には白昼堂々『放射能恐怖』というおばけが歩き回っている」とする興味深い論評を掲載しています。

 この「おばけ」が日本に暮らす人々に恐怖を吹き込み、恐怖は毒となって社会の全身を巡り放射線問題の解決を困難にするばかりか、民主政治を麻痺させているのではないか…。これが、日本の現状に対する小野氏の基本的な立場です。

 昨年は、漫画で福島での鼻血が描かれたというだけのことで、閣僚から地方自治体までがうろたえて声明を出す事態に至った。事故から4年近い時間が経過した今日でも、ツイッターやFacebookのタイムラインには、 しばしば事故直後の放射能汚染地図があたかも現状を示すもののように描かれている。

 その中には緊急時の情報と現況とが混同されているものも多く、素朴な間違いがある一方で、恐らくは意図的な混同があることも想像に難くないと小野氏は考えています。

 ここで確実に言えることは、放射線問題が既に「政治問題化」していることだと小野氏は説明しています。つまりこの問題に向き合う立場によって、その影響への解答が自ずと異なり得るということです。

 現実がこれほど混迷していて、また(行政が提供する)科学的知見が唯一の解答を与える存在としての信認を得ていない以上、関係する人たちが集まって広く様々な科学者の助けを借りながら議論をし、幅広い合意をつくる喫緊の必要があるというのが、日本の現状に対する小野氏の認識です。

 氏の見解は、今回の放射性物質の拡散のような、大規模で多額の国民の税金と多くの労働力を投入して何十年という時間をかけて解決しなければならない問題は、科学的な問題でありながらも、科学を超えた政治上の重大課題として扱われるべきだとする指摘に集約されています。

 一方、Web上を見れば、現在でも「どんなに少ない放射線でも人体に影響がある」「内部被曝は少ない量でもやがて白血病・がん・先天奇形を引き起こす」「東京の汚染は伝えられる以上に深刻である」といった主張が様々に拡散し、ググる読者の不安を煽っているものまた事実です。

 科学的知識が十分でないままこの考えに取り憑かれたら、大抵のひとは低線量放射線および内部被曝に対する無限の恐怖心を植え付けられてしまうだろうと小野氏はこの論評で懸念しています。

 少し冷静に考えれば、ほとんどの人に影響を与えないレベルで決められた法的上限値より小さな放射線被曝量で、人体に過酷な障害が多発することはおよそ考えにくいと小野氏は説明しています。

 放射線による生体効果に閾値(しきいち)はないと考えても、放射線の影響が物理的作用である以上、基本的には少ない量ならば多い量に比べればより安全であることは言うまでもありません。であれば、年齢や妊娠による感受性の違いを考慮しても、現状は過剰なまでに恐怖を煽るような状態ではないことは明かだと、小野氏は考えています。

 しかし、「目に見えない」という特性を持つことで人を不安に陥れるこの「おばけ」は、人を驚かすだけの良性なものではない。国民が正当に参加するべき(冷静な)政治プロセスから恐怖の力で人々を追い出し、また人々のあいだの理性的な合意を妨害するだけの影響力を与え続けていると小野氏は指摘しています。

 全く奇妙なことに、この「おばけ」のせいで放射性物質による汚染問題はかえって混乱し、解決が遠のいている可能性がある。だから私はこの放射能恐怖の思念を「おばけ」と呼んでいるのだと小野氏はここで述べています。

 東日本一帯にこのように広く放射性物質が撒き散らされてしまった以上、これら汚染による影響がないかを注意して観察し、影響を問題ないレベルまで低下させるための対策を物理的に講じる必要があることは言うまでもありません。

 一方で、日本という環境の中でこれからも暮らしていかなければならない私たちにとって、あらゆる放射線を過剰に恐怖し現実的に求め得ない被曝の無い「完璧に清浄な世界」だけを求めてそれ以外の方法を拒絶するという立場は、「おばけ」を恐れるあまりに現実的な解決策を見失う可能性があるとする小野氏の見解にも、十分な理由があるように感じられます。

 小野氏は、「福島原発事故は起きてしまった。 原子炉は破損してしまった。福島第一原発施設内は高度に汚染されてしまった。一部の周辺地域で避難や除染が必要な汚染が必要になるほど放射性物質は撒き散らされてしまった。これらはどんな政治的立場であっても認めざるを得ない、否定することのできない事実である。」と事故の実態を受け入れています。

 その上で我々が考えるべきことは、現在の問題に対する最適解をいかにして見つけるかだということだと小野氏は論評しています。

 予算や技術、人的資源にも限界はあるのだから、どういう作業手順でどのようにして問題を片付けるかを、数字に基づいた政治的交渉で理性的に「決めて」いかなければならない。そして、この作業を進めるためには、社会における関係者がなるべく幅広く話し合いに参加して合意事項を作っていかなければならない。

 小野氏は、こうして人々が助け合って新しい公共の仕組みを作り上げるべき時に、被曝恐怖という「おばけ」が再び現れることのないよう、これらを入念に排除していくことの必要性を繰り返し説いています。

 この「おばけ」は見えないものに対する恐怖をかきたて、人々を(隙あらば)こうした政治的なプロセスから脱落する方へと追いやろうとしている。そして行政や・科学者、医師らの意見を聞くことを拒絶させ、市井の人々と、 原発の技術者・労働者とのあいだに明らかな溝を作ろうとしている。

 氏も指摘するように、残念ながら、福島原発事故とその後の対応は、メディアや行政、政治家、大学、医療といった日本の重要な権威への信頼をいくつも毀損してきました。そうした中、これからの日本人は、一体何を頼りにしてこの「おばけ」に打ち勝ち、足並みをそろえて対策を積み重ねていけばよいのか。

 この論評において小野氏は、「科学の力」への信頼をその解決策として示唆しています。

 科学は「人類の力」となるものだと小野氏は言います。「科学」という、世代を超えて社会に力を与え続けるシステムを手にしたからこそ、人類はここまで発展してこられた。この重たい事実を私たちは今あらためて認識すべきだと小野氏は言います。

 科学の力によってのみ、人類は自然に対する無用な恐怖を克服できたのであり、獰猛な自然や様々な「おばけ」を飼いならしてきたことは確かに歴史が証明しているところです。だとすれば、今回の「おばけ」がもともと非科学的な存在である以上、科学の力で戦い抜くのが人間の常道ということになるのでしょうか。

 そういう意味で言えば、鉄腕アトムを見て育った日本人はある意味やはり「科学の子」であり、科学や技術の力を信じる土壌は十分にあるような気がします。

 一般に、ヒステリー(Hysterie)とは、興奮・激情により感情が易変し、コントロールが出来なくなる様子のことを指す言葉ですが、社会集団に極度の緊張状態が続くと、通常の状態では論理的・倫理的に説明のつかないような行動をとる「集団ヒステリー(パニック)」の状態がみられることはよく知られています。

 放射性物質は人体にとって確かに危険な存在です。しかし、細心の注意を払えば管理できないものでもありません。

 放射性物質への恐怖心という「おばけ」に脅かされ集団ヒステリー状態に陥ることのないよう、(ある意味政治の問題として)衆人環視のもと科学的な視点から冷静に対処していくべきとする小野氏の見解を、放射能問題の次の一手を読み解くための必要な視点として、私も改めて受け止めたところです。


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