2月18日の日経新聞(コラム「経済教室」)に寄せられた、慶応義塾大学教授の小林慶一郎氏による「求められる可謬性(かびゅうせい)の哲学」と題する論考を引き続き追っていきます。
小林氏はこの論考において、人工知能(AI)の進歩が、(すでに行き詰まりを見せてい観のある)無謬性(むびゅうせい)によって(「間違いない」と)規定されている現在の社会を、「可謬性」即ち「間違える可能性がある」ものに変えていく可能性があると指摘しています。
小林氏はここで、実はそのような(可謬性を前提とした)社会の仕組みは目新しいものではなく、20世紀を代表する経済学者フリードリヒ・ハイエクが思い描いた「市場システム」こそ、可謬性に立脚した社会システムの原型であると説明しています。
ハイエクは1945年の論文「社会における知識の利用」で、特定の時と場所にのみ存在する無数の暗黙の知識を集計することは、市場の価格調整メカニズムを通じてしかできないと説いた。そして、市場を無視した(無謬性のもとで考えられた)中央計画当局や独裁者個人による市場統制の社会(設計主義)は、いずれ必ず失敗すると予言したということです。
ハイエクが注目した「市場システム」は、多様な存在者が共存し彼らの自由が最大限に優先される社会だと小林氏はこの論考で説明しています。
市場システムで自由が最優先されなければならない理由も、可謬性から導かれる。無謬の「真理」を誰も知らない社会では、愚行(試行錯誤)をする権利すなわち自由を保障することが、特定の時間と場所に散らばった情報を集計するための最も道理に合った方法となるということです。
それ以外の統制的なルール(例えばAIによる市場の制御)でも、市場の情報を集計することで効率的な社会を作れると思われるかもしれない。しかし可謬性の前提に立てばそのルール自体が間違っている可能性があり、おのおのの自由を保障する方がより良い結果が得られる(はずだ)と小林氏は考えています。
こうして、AI社会における人類は、定向進化で袋小路に入り込むなど淘汰のリスクを予想し、生物多様性や人類の多様性を残存させようとする。
そして、そのような経済社会を実現するために、AIによって増強された人類も(そうでない人類も)、固有の存在価値を認め尊重する新しい自由主義の政治哲学を生み出す必要があるというのが小林氏の見解です。
一方、AIなどの新しいテクノロジーの下で自由主義の社会を維持することは、今まで通りの民主主義を維持することとは異なるかもしれないと、氏はこの論考に記しています。
ハイエクは固有の価値と情報を持つ多数の人々が行き交う市場システムの意義を説き、自由主義の文化を守り育てることに人生をかけた。そのためには政治の改革が必要だとして、晩年には議会改革論を詳しく論じたということです。
ハイエクには、万人が従うべき正義のルールである「ノモス」は、人々の知恵の集積として市場で発見されるべきものだという信念があったと小林氏はしています。
それを発見するのが立法府の本来の役割であり、公共事業の配分など資源配分のための指令「テシス」を作ることは、ノモスの発見とは全く異なる仕事である。ハイエクは、ノモスとテシスを混同し実定法上の秩序や制度であるテシスに主眼を置いていることこそが、現代の議会政治の機能不全をもたらしていると喝破したということです。
自由を守るためには、ポピュリズムに流れがちな民主主義を(ノモスを実現する方向に)補正しなければならないというハイエクの指摘には、概して重いものがあると小林氏は述べています。
市場システムに代表されるノモスの有する可謬的な価値観が、独立した個人や自由な社会を担保する力の根源だということでしょう。
これまでの生物進化や人間社会の進化のように、「淘汰の原理」が今後も続くということは必然ではないというのが、この論考における小林氏の主張の要諦です
そして、人類が進化の袋小路に陥らないためにも、民主主義を適切なかたちに補正することとともに、新しい「可謬性の政治哲学」の発見が求められているのではないかと氏はこの論考を結んでいます。
AI時代の到来とともに、強いものが弱いものを淘汰し勝ち残るというだけの無謬性の時代は終わりを告げようとしている。
市場システムのような可謬性を前提とした社会こそが、これからの人類に新たな可能性をもたらすと考えるこの論考における小林氏の指摘を、私も新鮮に、かつ興味深く読んだところです。
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