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日本の青年は「内向き」で海外に出たがらない…こう指摘されるようになってずいぶんと久しいような気がします。
経済協力開発機構(OECD)などの統計によると、日本の大学・大学院生約290万人のうち、海外の大学などへ留学する日本人は年間5万5千人前後で、留学経験者の割合は2%程度と(他の先進国と比べて)非常に少ないということです。
世界で見れば、毎年500万人程度が海外の大学などに留学するということですが、この中で日本人はわずか1%程度に過ぎません。青年海外協力隊の派遣者数も2009年をピークに減少傾向にあり、男性に限ればもっと前から頭打ちが続いているとされています。
私の知る限りでも、1980年代くらいまでは大学を休学するなどしてバックパッカーとして年単位で海外を放浪する日本の若者がしばしばメディアで紹介されていました。しかし、最近ではそうした若者の姿も、日本国内を楽しげに巡っている外国人でしか出会うことはありません。
もちろん、こうした状況に政府も一定の危機感を持っているようです。少子高齢化に伴う人口減少時代に突入する中、再び経済成長を遂げるため語学力やコミュニケーション能力、主体性を兼ね備える「グローバル人材」の育成を政策に掲げるようになっています。
しかし、政府のそうした努力も実を結ぶことは少なく、若者が自らや社会の将来に大きな希望を抱き、未知の世界に果敢に挑戦する姿を目にすることはなかなかできなません。
米国から招かれ、1876年(明治9年)に札幌農学校に赴任したウィリアム・スミス・クラーク博士は「青年よ、大志を抱け」といった言葉で知られていますが、果たして(大志を持った)日本の「青年」はどこへ行ってしまったのか。
「青年」と言えば、我々昭和の世代のイメージとして、(小説「坂の上の雲」や「青春の門」のように)「青雲の志」を抱いて上京し現実の中でもまれ大人になっていく(明治期以降の)インテリを思い浮かべる向きも多いかもしれません。
Wikipediaによれば、厳密には「青年」と「若者」は別の概念であり、青年は1887年から1888年にかけてメディアを通して広がった言葉だとされています。
人類社会において人間の発達段階に「青年期」がもたらされたのは、近代社会の成立と大きな関係があるということです。
近代社会以前の社会では青年期という位置づけが明瞭ではなく、大人への移行も突然に行われていた。原始社会では(例えばライオンなどの獲物を狩ったり、高い木から飛び降りたりするなどの)ある種のイニシエーションを経ることで、子どもから大人への移行が行われたと言います。
日本でも、江戸時代以前の武家社会でも、元服し、前髪を剃り落とせばその瞬間から「一人前の大人」として扱われ、家督を相続したり、結婚することなどもできた。そういう意味で(いわゆる)「青年期」の存在は、人類に普遍的なものというよりも、むしろ近代社会の所産であるということができるのかもしれません。
さて、現代日本におけるそんな「青年」の姿について、2月14日付の総合情報誌「GQ」に神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が「なぜ日本社会では出る釘は打たれるのか?」と題する興味深い一文を掲載しています。
内田氏はこの論考において、日本における「青年」という社会階層は、明治40年頃に時代の要請に応えて創り出された(あくまでも)「歴史的な形成物」だと説明しています。
明治維新から後、日本人は近代化のために必死で西欧の真似をしてきた。なんとか日露戦争勝利で世界の強国の仲間入りができそうになったものの、日本の手持ちのものは全部が西欧の「物まね」でオリジナルなものがない。(そこで)そうした時代的要請に応えて「発明」されたのが「青年」という社会層だということです。
(時代は既に明治40年代ですから)西欧文明には生まれた時からなじんでいる。横文字も読めるし、西欧の新思潮にも通じている。それと同時に、維新の世代が弊履のごとく捨てた前近代の日本文化にも親しみを感じている。
こうして、近代と前近代、西欧と日本の「汽水域」みたいなところに棲息している人間、それが青年だった。彼らなら「近代的であり、かつ日本的である」ものを創り出せるんじゃないか、(明治の文化人たちは)そう考えたと氏は説明しています。
夏目漱石の『三四郎』と森鷗外の『青年』はこの頃(ほぼ同時期に)書かれたもので、いずれも青年とはどういうものかが文学的虚構を通じて造型されたものだと氏は言います。
清潔で、初々しく、理想主義的だけれど、自分の意思を実現できる程度の社会的実力はある。少年と大人の「なかほど」にいるこの青年が近代日本を牽引することになる、漱石と鷗外はそう予測して、そのためのロールモデルを造型してみせたというのが内田氏の見解です。
そして、その意は通じ、この時代から後、日本の文学や映画の主人公はほとんど青年たちによって占められるようになったと氏は指摘しています。
しかし、その「青年の時代」が終わるのが、1960年代の東京オリンピックの頃だということです。
当時の映画で石原裕次郎や加山雄三が演じた若者が「最後の青年」だった。歴史的使命を終えて「青年」がいなくなると同時に(「青年」と対峙する存在としての分別を持った)「大人」もいなくなった。
そのことは、男性にとっての成熟のための自己造型のロールモデルがなくなったということを意味していると氏はこの論考に記しています。
例えば、60年安保と70年安保を見比べると、学生の相貌が違うことが分かる。60年安保闘争を担ったのは「青年」たち。一方、70年安保は「少年」たちの政治闘争だったと内田氏は言います。
年齢は同じでも、一方は青年たちで、他方は少年たちだった。青年たちは、この社会システムを壊したあとに、どんな社会を作るのかについて(夢想的ではあれ)一応の考えは持っていた。しかし、僕ら(70年安保の)の世代は何の展望も持っていなかった。壊すことには熱心だけれど、それに代替すべき統治機構の設計なんか考えていなかったということです。
それ以後、「日本は理想主義的で、行動力のある青年」がいなくなり、責任と胆力を備えた大人もいない国になってしまった。少年が青年を経て、壮年、老年へと段階的に成熟してゆくことがなくなり、「子ども」が「青年」を飛ばしていきなり「おじさん」になる時代が訪れたと氏は説明しています。
果たして、かつて青年たちが目指していた「坂の上の雲」や、抱くべき「青雲の志」はどこへ行ってしまったのか。
「次の時代」を自らの手で作り上げていくことへの想像力を失った若者たち。
だからこそ、今の「おじさん」や「おじいさん」たちは、そのほとんどが中身は「子ども」なのだとこの論考を結ぶ内田氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。
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