MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2202 発達障害の子供が増えている理由(その2)

2022年07月08日 | 教育

 発達障害は、広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害とされています。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどが苦手とされますが、他方で優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子(それは往々にして本人の「生き辛さ」として現れるのですが)が理解されにくいという特徴もあるようです。

 その行動や態度は「自分勝手」とか「変わった人」「困った人」と誤解され、敬遠されることも少なくないと言われています。物事へのこだわりが強かったり、人の気持ちに無頓着だったり、衝動的な行動を繰り返したり、そのほかにも不注意、多動、多弁などその行動を「うっとおしい」と感じる人は多いことでしょう。

 そんなとき、「彼は発達障害だから…」と誰かに聞けば、「それじゃしょうがないな」と確かに思うことでしょう。それで、彼に対して抱いていた「反感」のようなものが、きれいに消え去る人も多いかもしれません。

 しかし、その瞬間に芽生える「上から目線」というか、「諦め」というか「許し」というか、そうした感情が、それまでのお互いの(対等の)関係を崩すものであることは想像に難くありません。自分たちとは違った人、対等に話ができない可哀そうな人として保護される側に回った彼らは、(大げさに言えば)既に大切な人権の一部を奪われていると言ってよいかもしれません

 さて、そんな発達障害の子どもたちが一人の人間として人格を認められ、生き生きのびのびとその才能を発揮できるようにするにはどうしたらよいか。そこには、障害の実態をよく知る専門家と、開かれたな教育環境としての学校の存在が重要であることは言うまでもありません。

 現在、発達障害による学習や生活の困難の改善・克服を目的とした特別の指導である「通級指導」を受けている児童生徒数は、全国で約10万人に及ぶとされています。その数はこの16年ほどの間に約4倍にも増え、特別支援学級に在籍する児童生徒数もここ10年で2倍以上に増えているということです。

 (逆に言えば)これは、学校の(他の子どもと一緒の)授業だけでは学業についていけない子供や授業の妨げになる子供などが、それだけ急増しているということ。学校現場にとって、(彼らの存在が)教育上の深刻な問題(あるいは「差しさわり」)として受け止められていることの証左と見ることもできるでしょう。

 そうした中、深刻な問題としては、「発達障害」と診断された児童生徒の(こうした)増加に伴い、脳の中枢神経に作用する「抗精神薬」の(低年齢層への)投与が増えているという実態を懸念する声も大きくなっているようです。

 医療経済研究機構が2014年に発表した研究によれば、13歳~18歳の患者のうちADHD治療薬を処方された割合は、2002年~2004年と2008年~2010年を比較すると2.5倍にまで増加しており、ADHD薬ばかりでなく、抗うつ薬、抗精神病薬の投薬量についてもそれぞれ1.4倍に膨らんでいるということです。

 これらの薬剤の多くは脳の中枢神経に作用する抗精神病薬で、気持ちの高ぶりを(一時的に)抑えるといった効果を期待するもの。つまり、いずれも自閉症の根本的な治療薬ではないとされています。

 集団生活になじめなかったり、パニックを起こしやすかったりする子どもに対し、学校側が(こうした抗精神薬の)服用を勧めるケースなども多いと聞きます。しかし、眠気の誘因や意欲の減退などの副作用を伴う抗精神薬の(幼い頃からの)常用に関しては、その影響がよくわかっていない部分もあるようです。

 そもそも「発達障害」は病気ではなく「特性」であるため、「治る」とか「回復する」とかいった性格のものではありません。「ちょっと変わった人」である彼らを社会が受け入れるにはそれなりのハードルはあるとは思いますが、なぜここまでして子供を「障害」の枠にはめ、「治療」を行おうとするのか。

 一部には、子どもを「障害児」と見なすことで、子どもが「普通にできない」ことに苦しむ親たちが「自分の育て方のせいではない」(障害があるだから仕方がない)と気持ちを楽にさせることができるからだと指摘する声もあるようです。

 実際、子どもが「発達障害」と診断されたことで、「肩の荷が下りた」「穏やかに接することができるようになった」と話す親たちも多いという話をしばしば耳にします。

 勿論そこには親や学校ばかりでなく、現代の日本社会が、「普通」であることにそれだけの価値を置いているという現実があるのでしょう。発達障害と見なされる子どもたちが増えている背景にある、「普通でないものを認めようとしない」「普通でないものを排除する」力の存在を無視するわけにはいきません。

 さらに言えば、学校や社会において「普通」の範囲が狭まっているという現実もがあると考えられます。これまでは(「しょうがないな」とか「ああいう人だから」と」)大目に見られていた人や出来事を許容できない不寛容な時代、(「障害者」というエクスキューズでもなけれ)ば「ちょっと変わった人」が生き残れない容赦のない時代が、既に訪れているということなのかもしれません。

 



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